第22話 せいではなくおかげ
「中でお待ちです。ご案内いたします」
老練な執事に案内され、二人はゆっくりと広大な庭を歩く。蒼い花の門を潜り抜け、噴水の水が跳ね返す陽光を見て、池の中を泳ぐ綺麗な魚に目を奪われ。
「……大貴族ってすごいな。クロッカスの城より豪華なんじゃねえか?」
「そうか?」
そしてその先。動龍骨のくすんだ白とは違う純白の、庶民が思い描く王宮のような。豪邸ですら言葉足りぬグラジオラス邸にザクロは目を剥き、サルビアの顔を見る。しかし、更に豪華な屋敷に住んでいるカランコエ家の後継にとっては大したことではなく、首を傾げている。
「いくらなんでも、広すぎるぞ」
とはいえまぁ一般人のザクロはもう驚き、呆れることしかできない。屋敷に行くまでに時間がかかるのではというのが、彼の正直な感想であった。
「着きました。では、こちらです」
15分近く歩いて、ようやくたどり着いた目的地。重々しい音を立て、ゆっくりとこれまた豪華な扉が開いていく。
「ザクロ様!サルビア様!」
「お嬢様!?」
石の扉が開ききるよりも早く、小さな影が飛び出してきた。彼女は周囲の制止を振り切り、二人の名を呼び、一目散に広い廊下を駆け抜けて跳躍。
「おっと」
飛び込んできたアイリスを、ザクロは抱擁しなかった。胸の中に入られるより早く脇の下にさっと手を入れ、くるりと回って回転を殺し、「ととっ」と優しく着地させる。
「あっ……わ、私……その、嬉しくて、申し訳なくて……!」
「心配をおかけして、申し訳ありませんでした。アイリス様」
地に足が着いたことで、ようやく気持ちも落ち着いたのだろう。自分が何をしたのか思い出し、赤面して俯いて言い訳を述べるアイリス。そんな彼女に対してザクロは膝を折り、予め用意しておいた敬語で応える。
「そ、そんな!?貴方は何も悪くはありませんわ!」
「そう?女の子を待たせて心配させて泣かせるのって、悪いことだと思うけど?」
「マリー」
両手を胸の前で振るアイリスに、茶々を入れたのはマリー。悠々と屋敷の中から出て来た彼女に、ザクロとサルビアは驚いて。
「一時的に護衛として雇ってもらったの。まぁそんなことより、貴方達が無事で良かったわ」
「本当です。マリーさんったら、無事と聞いた時にすっごく喜んで……」
「それは貴女でしょう!?」
おまけに、完全に女友達ともいえる距離感にまでなっていれば。この数日間、マリーはつきっきりで心身共に護衛を務めていたらしい。
「あ……はしたなくはしゃいでしまい、申し訳ありません。そんなことより私は、先に謝らなくてはいけませんのに」
アイリスは二人へと向き直り、表情を曇らせる。無事だったことは本当に嬉しく、元気な姿を見て舞い上がってしまったのだろう。しかし、なぜ無事が嬉しいのか。元気な姿に舞い上がるのか。そもそもの原因を思い返せば、誰が悪いのか。
「別にいい」
「可愛かったしな」
「可愛っ……!?」
元凶の自分が無事を喜ぶなどと、その前に頭を地に擦り付けるべきだと思ったアイリスだったが、彼らはそんなことを気にしてなどいなかった。サルビアはぶっきらぼうに、ザクロは本音でからかいつつ、謝罪の受け取りを拒否する。
「でも、私が護衛を頼んだせいでお二人は動龍骨と戦うことになって、怪我をなさって、命を危険に晒しましたわ!なら、その責任は私に」
「あれはアイリス様のせいじゃない。いずれにしろ、戦うことにはなったはずだ」
サルビアの拒否の理由は二つ。動龍骨が村に来るなど、あの時点で予想できるわけもないというのが一つ目。仮にサルビア達が村に行かなかったとしても、あの怪物ならいずれ街に到達しただろうという確かな予想が二つ目。
「そもそも命の危機がない護衛なんてない。というより俺達は、アイリス様に助けられてる」
「何のことですか?私、特に何も」
ザクロの理由は三つ。護衛の騎士は、命を張って当たり前だというのが一つ目。そして二つ目は、アイリスがいなければ死んでいたからということ。
「魔法陣、くれたろ?敵の骨がすっごい硬くて、魔力全然足りなくて。正直、貰った分がなかったら、俺とサルビアはきっとここにはいない」
「ほ、本当なのですか?私が渡した、たった数枚だけで?」
「ああ。その数枚だけで」
「事実だ」
捏造なのではないかと疑う少女に、剣士二人は深く頷く。彼女が与えたのはたった数枚。だが、されど数枚なのだ。たった一枚の魔法陣が生死を分けることだって、世の中にはあることなのだ。
「それに、そもそも『せい』じゃない。『おかげ』なんだ。アイリス様」
「おかげ……?ザクロ様はあの動龍骨と、戦いたかったのですか?」
「間違ってもないんだけど、なんというかな」
最後の三つ目。それは、前提からの否定。彼女の護衛となったことで、動龍骨と遭遇したのは確かではある。だが、
「俺達が護衛であの村に行く行かないに関係なく、動龍骨は村を襲ったはずだ」
「ええ……あっ」
「そうだ。護衛であの村に向かったから、俺達は村人を守れたんだ。だから、ありがとうございます。アイリス様」
動龍骨の襲撃は、アイリスの思惑とは全くの無関係。そして、ちょうどその時にザクロとサルビアがいたことで、村を守ることができた。どう考えても、彼女が護衛を頼まなかった未来の方が酷い結末を迎えていた。むしろ、こちらから頭を下げたいくらいなのだ。
「そ、そんなのただの偶然で、貴方達を危険に晒して、私の意思なんて何も関係な」
「それでも、俺は貴女に感謝したい」
「俺もザクロ先輩も五体満足だ。何も問題はない」
意図せぬ結果であろうとも、結果は結果で彼女のおかげ。確かに、サルビアとザクロは命の危険に晒されたけれども、それ以上に得たものがあり、助けられた人がいたのだ。
「それと、これ」
「これは」
「手紙だ。村の人から預かった」
サルビアが虚空庫から取り出した感謝の手紙こそ、その証左。村のみんなが、彼女に感謝していた。それも、ただサルビアとザクロを連れてきたことだけに対してではない。
「避難を呼びかけてくれてたこと、みんな見てたんだ」
アイリスは非力なりに声を張り上げ、助けようとした。その行為は決して偶然などではなく、誰かを救いたいという確固たる意志によるもの。
「俺もサルビアも無事だった。村のみんなも助かった。こんな最高の万々歳の結果なのに、自分を責めるなんてやめてほしいって、俺は思う」
その意思は実り、得た結果はこの上なく最良であった。ならば彼女は喜ぶべきで、むしろ傲岸不遜に胸を張っていばり散らしてもいいくらいなのだ。
「ありがとう……ござい、ます……!本当に、皆さんご無事で……」
しかしまぁ、アイリスという少女は優し過ぎる上に自信がなくて。サルビアとザクロが無事であった事実と、感謝されたことの嬉しさに泣きだしてしまった。
「ああ。みんな無事だったんだ。最高で最良なんだ」
虚空庫から一番綺麗なハンカチを取り出し、それをアイリスに手渡しながら、ザクロは小さく呟いた。
「あとたった一つが、足りないだけなんだ」
まるで、確かめるように。彼が自らに言い聞かせるように。
涙が止まらなくなったアイリスは女騎士に連れられ、自室へと戻っていった。防犯上の理由でも、一旦落ち着く為でもあるのだろう。
「アイリス様をまた泣かせたわね?ほんと、悪い男」
「今度のは悪い涙じゃないだろう?」
「ええそうね。でも、貴方はやっぱり悪い男よ」
残ったマリーが下した一連のやりとりの評価に、ザクロは反論。しかしそういう意味ではないと、彼女は額を指でつまんで呆れ返る。
「で、秘策は?この本邸の中でさえ襲撃が一度あったくらいなのよ」
指が離れたその瞬間、マリーの顔は研ぎ澄まされた刃のように真剣となった。一番安全と言っていいはずの場所でさえ命を狙われるほど、状況は緊迫しているのだ。
「もちろん。その為にここに来た」
問いに対し、ザクロも真剣に頷く。それが分かっているからこそ、最速でここに来たのだ。こんな馬鹿げた状況を終わらせようと思って、決めたのだ。
「ぜひド派手にかましてほしいけど、その前にここの当主様がお呼びよ。直接お礼を言いたいんですって」
「……娘を差し出しといて、お礼ねぇ?」
だがその前に、アイリスの父親が二人を呼んでいるらしい。権力に屈して娘を売り渡した父親という印象しかないザクロは、露骨に顔を嫌悪に歪ませるも、
「百聞は一見にしかずってね。とりあえず会ってみたら?」
「俺も前に会ったことがあるが、そう悪い人には見えなかった」
「……分かってる」
今後の為にも秘策の為にも、会わないというわけにはいかず。どこか含み笑いのマリーと、軽くとはいえ知っているサルビアに、彼はぶっきらぼうに頷いた。
「私はアイリス様の護衛に戻るから、ここで一旦お別れね」
いつまでも嫌そうなザクロに苦笑しつつ、マリーは護衛の任に戻ろうと背を向ける。この瞬間も、アイリスは狙われているのだ。故に、長い間離れるわけにはいかないのだろう。
「ああ。分かった」
「悪いが、頼んだ」
「まっかせなさいな!……あー、それと……」
歳下ではあるが、彼女の実力はサルビアもザクロも理解している。故に彼らは任せ、任せられた彼女は胸をドン!と叩いた後、どこか照れ臭そうに斜め上を見つめて金の髪を揺らし、
「私からもお礼を言わせて。アイリス様と貴方達のおかげで、私の村は救われたわ。本当に感謝してる」
覚悟を決めたのか。じっとサルビアとザクロの眼を見て、礼を述べる。
「ありがとう。そしてわがままだけど、どうかあの子を助けてあげて。とても、いい子だから」
その顔は満面の笑みに彩られ、言葉は感謝と願いに満ち溢れていた。
「努力する」
「ああ。助けるよ。必ず」
本当にいい子なのだ。出会って数日のマリーが入れ込み、大して人間に興味がなかったはずのサルビアでさえ救おうとするほどの。故に、マリーの願いに二人は誓う。
「じゃ、また後で。村のみんなの様子とかも聞かせてね」
「了解……さ、俺らも行きますか」
まだ小さな背中を見送り、再度執事に案内された二人の少年が向かうのは、この屋敷の主人の部屋。
「……つい、甘えてしまうな」
「だよなぁ。歳下のはずなんだけど、全然そんな気がしないっていうか」
少女と化け物の描かれた絵画や、複雑な模様が施された壺などの美術品が飾られた道中、二人はマリーについて話し合う。
「むしろ歳上感というか」
「分かる。どこかベロニカのような感じする」
「あー、確かに分からんでもないなぁ」
彼らからすれば、本当に不思議な少女なのだ。歳下ながら強大な系統外と確かな実力、そして大人びた雰囲気と包容力と礼儀正しさに所作を持ち、容姿もまさに神が作った彫刻のように整っている。おまけに、時折よく分からない単語も口走るともなれば。
「年齢偽ってるって訳でもねえだろうし」
「異界人とかか?」
伝説やおとぎ話に存在する異なる世界の住人か、はたまた単なる年齢詐称か。分からないなりに捻り出した結論に、二人はないかと首を振る。
「こちらです」
「ありがとうございました」
ちょうどその時、扉の前で止まった執事が、振り向いてお辞儀を。こちらも頭を下げ、彼の手によって開かれたその先を見る。
客人に威光を示す為か。これまた、豪華な部屋だった。上品な金色のシャンデリアは、それ自体が輝いているようで。ザクロもサルビアも絵のことは分からないが、それでも飾られている壁に囲まれた都市の絵画を綺麗だと思った。
部屋の中央の白を基調とした机と椅子は、装飾からしてどちらも一級品。そして、椅子に腰掛け待っているのは、目を閉じた蒼髪の男性だった。
「これはこれは。お久しぶりです。サルビア様。そして、ザクロ殿もよくいらしてくれました。どうぞ、おかけください」
「はい」
「……あ、はい」
二人が部屋に入るやいなや、彼は椅子に座るように勧めてきた。既に何度か会ったことがあるサルビアは滑らかに、初対面のザクロはぎこちなく、心地よさに吸い込まれるような椅子へと体を預ける。
「一応、自己紹介を。私がグラジオラス家の現当主、ロワンでございます」
机を挟んで対面した彼は、儚かった。見たところ中年に差し掛かる頃であろう歳なのに、中年太りとはまるで縁のない体型。髪は男だというのに細くさらさらで、差し込む日光に輝いている。
だが、決して気弱や卑屈という印象はなく、アイリスと同じ蒼の瞳には、強い意志が秘められているようだった。見た目だけで人を判断するのは誤りではあるものの、娘を売った人物とは思えないほどに。
「サルビア・カランコエです。お久しぶりです」
「お初にお目にかかります。ザクロ・ガルバドルです」
「そんなにかしこまらなくても構いません。サルビア様はまだ後継とはいえカランコエ家であられるし、あなた方は娘の恩人だ」
恭しく自己紹介を返した少年らに、ロワンは刻まれたしわを柔らかく動かした。理由としては最もであるが、貴族にしては腰の低い対応だった。そう。この時点でも既に。
「まずはお礼を言わせてください。娘を助けていただき、誠にありがとうございます」
ましてや机に頭をつけて、まるで土下座のような格好で礼を述べるなど。ザクロもサルビアも、面喰らわずにはいられなかった。
「い、いえ。その、騎士見習いとして当然のことをしたまでというか!」
斜め下にある蒼い頭に、考えていたセリフなど全て吹っ飛んだザクロは慌てて顔を上げるように促す。動けただけ彼はまだマシだ。サルビアは声すら出せず、ただじっと直視し続けている。
彼がようやく元の姿勢に戻ったのは、たっぷり五秒は経ってからだった。
「助ける為とはいえ貴族の娘を攫い、たまたま村に襲来した動骨の変異体を討伐がですか?」
向き合ったロワンから放たれた言葉が、鋭くザクロの発言に斬り込んだ。確かに彼の言う通り、今までの行動はいささか騎士としての当然から外れている。
「……困っている誰かを助けている点では、何も変わらないと思います。少なくとも、俺の憧れた騎士像や英雄なら、そうします。後者はその、女の子限定ですけど」
だが、ザクロの口は勝手に否定へと動いていた。緊張や動揺など己の信念を前に忘れ、堂々と。行動は逸脱していようとも、その根底にあるものは変わらないはずだと。
「『色王伝』ですか。ふぅむ。困りました」
「なにがですか?」
「別に、一夫多妻を否定するつもりはないのですがね。さすがにあれだけの数を娶られるとなると」
ザクロの憧れの英雄の名を知ったロワンは、髭ひとつない顎に手を当てる。なぜかとサルビアが問うたのならば、彼は困ったように微笑んで、まるでアイリスの結婚相手がザクロであるかのような言葉を発した。
「い、いや別に。俺にそんな気は」
「やはりですか」
「えっ?」
額面通りに受け取ったザクロが必死になって否定する中、サルビアは全く別の意味で解釈し、一人で納得し始める。置いていかれた少年の視線は後輩とロワンの顔を何度も行き来するも、自らでは答えに辿り着けず。無理もない。ザクロはロワンに対し、否定的な先入観を抱いているのだから。
「先輩。ロワン様は最初から、アイリス様を素直に渡すつもりはなかったんだ」
娘をハイドランジアに渡さないよう必死に画策していたなどと、思い至るわけもない。
「いや、でもお前の祖父の権力に屈し……あ、失礼しました!」
「別に大丈夫ですよ。事実ですから。どちらも」
けれどもと、素直に色々と口走り過ぎてしまったザクロを責めることなく、ロワンは優しい笑みを浮かべる。先と違うのは、その笑みに凄みがあることだろう。
「我がグラジオラス家は、それなりに力のある家系です。しかしご存知の通り、カランコエ家には遠く及ばない。いえ、突き放された」
政においては代々優れた名家であり、かつ国内でも二番目に精強な騎士団と広大な領土を有している。そんなグラジオラス家ですら、ハイドランジアには敵わなかった。
「ですが、従うわけにはいきませんでした。彼に反感を持つ者を集め、なんとか戦ってきました」
それでも抗い続けたのは、この国を彼の色一色にしない為。もしもグラジオラスが屈服したのなら、最早権力で止められる者はいなくなる。そうなれば彼はクーデターを引き起こし、新たな王としてこの国に君臨することだろう。
「元から限界は近かったのです。秩序を守る為の騎士団も、法律の番人である法廷も、流れ行く商人も、忌まわしい刃の暗殺者も皆、彼についたのですから」
だが、彼は余りにも強大だった。ありとあらゆる権力と力を駆使し、カランコエに従わない者を潰し始めたのだ。本丸であるグラジオラス家を直接攻めるのではなく、まさに外堀を埋めるように。
ある者はあらぬ罪で裁かれ、ある者は守ることを放棄され、ある者は領内の経済が滞り、ある者は暗殺された。
「これ以上は耐えきれない。私がそう判断した頃、彼はアイリスを娶りたいと言ってきました。ここらが潮時だろうとも」
そんな中、かけられたのは婚姻による友好関係の締結の誘い。これを受けるのならば、今までの対立を全て水に流し、暖かく迎え入れると。カランコエとグラジオラスの血が交わるならば安泰で、それは貴様も望むことだろうと。
「私も貴族です。家族や結婚を道具として用いることを、理解できないわけではない。しかし、家族を愛していないわけでもない」
ハイドランジアは家族を道具としか見ておらず、また、他の貴族もそうだろうと勘違いしている。ロワンは理性の面でそのことを理解してはいても、感情の面で割り切れるほど冷酷ではなかった。
「そこで、この世で最強の剣士という条件をつけたんですね」
「はい。外聞の為というのを建前に」
故に、グラジオラス側からもある提案をもちかけた。齢六十を超えるハイドランジアと、十四歳のアイリスの婚姻はさすがに外聞が悪い。ならば、剣の大会で優勝した者という条件をつけようと。
最近では控えているが、ハイドランジアは剣の大会を荒らすのが趣味だった。彼が参加することは何の不自然もない。たまたま出た大会で、たまたま優勝賞品がアイリスだったということにしようと、ロワンは言ったのだ。
「よく分からないです。結局、結婚することは変わらないんじゃ」
「面倒ですが、貴族社会においてはこういう建前や言い訳が大事なのです」
なぜその条件をハイドランジアが飲んだか分からないと、ザクロは首を傾げる。まだ若く世間を知らぬ彼に、ロワンは力無い笑みで説明を施してくれた。
「それに、祖父はその条件に意味はないと考えている」
「その通りです。彼は自分が勝つことを、微塵も疑っていないでしょう。そしてそれは、私も同じです」
そもそも世界最強の剣士という代名詞に、ハイドランジアは己が当てはまると思っている。剣の大会に出て他の参加者を蹂躙する快楽の手間くらい、彼は喜んでかけるだろう。
「彼に勝てる者がいるとは、到底考えにくい。だからこの条件の主な目的は、時間稼ぎでした」
もしこのまま条件通りに大会を行ったのならば、ほぼ確実にハイドランジアが優勝する。だったら大会を行うまでの間に、彼を権力から引きずり下ろせばいい。
「でも、例え権力を失ったとしても、大会に祖父が出たなら」
「出れません。彼から権力を引き剥がせば、いくらでも罪を告発できる。死ぬまで監獄暮らしとなるのは間違いないでしょうから」
カランコエの権力をグラジオラスが上回れば、全てが終わる。ハイドランジアはそんなことはあり得ないと笑って斬って捨て、ロワンは水面下にて本気で目指した。
「孫の貴方には、申し訳ないですが」
 
「構わない。祖父はそれだけのことをしているし、アイリス様の境遇に思うところがないわけではない」
ロワンは目の前で祖父の打倒を目指していることを告げ、彼の孫へと謝る。しかし、サルビアは特に表情を変えることはなく、祖父の味方をしないと言った。
「ははは……それはありがたい。しかし、彼も私の企みくらい気付いているでしょうし、そもそも叶いそうにはありません」
「グラジオラス家の力を総動員すれば、埃くらいは」
「彼は狡猾です。裏に彼がいることが間違いない犯罪はいくつもあれど、その全てに証拠がない。そしてそれを探そうにも、総動員できないのです」
それを聞いたロワンは嬉しそうな表情を一瞬だけ垣間見せるも、すぐに弱った笑みに変えてしまう。そして彼は詰め寄るサルビアを手で制し、ゆっくりと語り始めた。
「私の見通しが甘かったのです。敵にばかり目を向け、足元を疎かにしてしまいました」
ハイドランジアの権力の城を崩せるような確固たる証拠を必死に探り始めたその時、アイリスが家出した。時を同じくして、グラジオラス騎士団内及び、何人かの貴族に不穏な動きがあるという情報も、飛び込んできた。
「時間稼ぎの為とはいえ、私の選択は要求を呑んでしまったと同然。それ故に、娘は狙われた」
狙う理由は婚姻の不成立による、カランコエとグラジオラスの断裂。狙う者はカランコエ家に恨みを持つ者や、これ以上カランコエ家の権力が増すのを止めたい者達。身内だけの犯行でもない。正しく言うなら、身内と外の犯行だった。
「いくらグラジオラス家が力を持っているとはいえ、彼と暗殺者の捜査を同時に行うことは難しい」
結果として、彼らは大いにロワンの脚を引っ張った。まず、アイリスが家出をした時点で、大半の人員を割いた。保護した後も、暗殺者からの防衛及び黒幕の捜査に人手を割かねばならない。そして元より、ハイドランジアは片手間で勝てる相手ではない。
「……あなた方の仰る通り、私は娘を守ろうとしました。しかし、私の失態で状況は極めて厳しい。私が差し出したようなものなのです」
そう締めくくった彼は椅子に深く沈み、指を組んで俯く。守ろうとした選択が、裏目に出てしまった。彼はそのことで自分を責めているのだ。
「あの、暗殺者からアイリス様の身を守るお話なんですけど」
「ええ」
「カランコエ家から人手、出せませんか?」
そんな彼に声をかけ、サルビアに問うたのは、ザクロだった。
「「え?」」
余りにも突拍子ないその意見に、困惑した声が二つ重なる。だが、しかし。
「いや、サルビアの爺ちゃ……お祖父様もアイリス様が暗殺されるのは避けたいだろうし、協力できるんじゃないかなって思うんですけど」
標的に助力を乞う。文字にすればおかしなこと極まりないが、今回ばかりは筋が通っている。グラジオラス家はもちろん、ハイドランジアも権力と麗しき花嫁を手に入れる為、アイリスを守りたいのだ。
「もう外にも内にも敵だらけってのは分かります。でも、カランコエ家の中でカランコエ家に仇なそうって人は少ないんじゃないかとも、思います」
アイリスの守護はカランコエ家の為になる。ならば、カランコエ家内部からの暗殺の確率は極めて低いのではないだろうか。それが、ザクロの推測だった。
「だが、それはカランコエとグラジオラス家の癒着とみなされないか?」
良い点ばかり見過ぎていると、サルビアは口を挟む。確かに、カランコエ家はアイリスを守ろうとするだろう。しかしその結果、両家の距離は一気に近づく。
「最悪、戦争になるぞ。しかも、祖父は美味しいところだけを持っていく」
アイリスを暗殺しようとしたグラジオラス家と、守ろうとしたカランコエ家が衝突。そんな事態に陥れば、戦争の糸口を手に入れたとハイドランジアは嬉々として斬り込んでくるはずだ。
運命に翻弄された令嬢を、老騎士が救う。そんな美談に仕立て上げるだけではない。当主のロワンに責任を取らせてアイリスに後を継がせ、両家の権力を完全に彼が掌握するところまでは、容易に想像がつく。
「いえ、そうなる確率は低いかと。最初から事を構えるつもりなら、私の娘より本陣を狙っているでしょう」
とはいえそれは、あくまでアイリスの殺害を企てた連中が、カランコエ家と戦争しようとした場合の話。か弱い無実の乙女を先に狙ったことから、彼らにそこまでの根性はなく、また、死ぬ気でもないと、顎に手を当てたロワンは考えた。
「自分達は死にたくないけど、アイリス様は殺そうってか」
「ええ。保身に長けた腑抜けです。しかし、故に手強い」
覚悟もなく、リスクも背負おうとしない黒幕の態度に、ザクロの拳は怒りに震え、ロワンの蒼き眼は炎に燃える。
「守るという面に関して、妙案だと思います。両家の距離が近づこうが、あまり関係ありません。どちらにしろ、暗殺者は山ほどやってくるでしょうから」
長い瞬きの後、炎を抑えた彼は提案に賛同する。デメリットはあるものの、メリットはそれを上回るからだ。
「強いて言うなら、彼に娘を守らせなくてはならないことだけが不満ですかね」
後継を守ることすらできない無能の烙印を、ロワンは押されることだろう。だが、受けない理由にはならない。己の力不足を認めなかったせいで娘が死ぬなど、愚か過ぎて話にもならないのだから。
「カランコエ家としても、おそらく問題はない。人選も可能な限りまともな者を選ばせてもらう」
「さっすがぁ!」
「感謝します。後ほど、こちらからも正式な書状を送らせていただきます」
サルビアとしても、アイリスを守る為なら喜んで引き受ける案件だ。幸か不幸か。ハイドランジアによる勢力拡大で、人手はいくらでも余っている。要人の護衛くらい、簡単に捻出できるだろう。
「ああ、いけない。報酬の話を忘れるところでした」
仮契約は結ばれ、話も一段落ついた。沈黙が場を支配する直前、ロワンは思い出したと手を叩く。そうだ。『色王伝』から話が大幅にずれていたのだ。
「俺は別に……」
労働には報酬を。当然の考え方ではある。しかし、そもそも騒動の原因が祖父であり、実家に金が掃いて捨てるほどあるサルビアは辞退を申し出て。
「途中でぶっ倒れて護衛放棄とかしてますけど、正直、経費だけもらえるならもらいたいです」
「無欲な人達ですね。しかし、さすがに経費だけとなると、当家の顔が立ちません」
「あー、それなら」
いくら守る為とはいえ、途中から護衛を離脱してしまったのは大きなマイナス。とはいえ、ありったけの魔法陣と剣という経費がかかっているのもまた確か。故に、ザクロは金銭は控えめに、
「ちょっとお力と例の剣術大会の参加。その結果による一時的なアイリス様との婚約の許可を、いただけますか?」
「当家の出来る範囲ならなんなり……なんですって?」
金に換えられないもっと大切なものを、ロワンへと要求した。
「あなたの策の真の目的を、希望を果たす為に」
それはザクロが考えていた秘策にして、ロワンが仕掛け、諦めた真の策。




