第11話 休日
時は少しだけ進み、所は酒場。他の客は皆出て行き、いつもほどの喧騒はない。
「へぇ。そんな面白い護衛の騎士さんがいるんだ」
料理も食べ終え、今は完全なる談笑の時間。果汁を混ぜ合わせた飲み物を滑剤に話は弾み、サルビアの話、学校の話、ザクロの話を経て、ベロニカの話へと辿り着いていた。
「ああ。とても良い人間だ。まぁまぁ強いしな」
「まぁまぁって。会ってみたいわね。お迎えに来たりしない?」
一時間以上も話せば、初対面でもそれなりには打ち解けるというもの。サルビア自身が驚く程、彼の口は滑らかだった。
「残念ながら、ベロニカさんは今日は用事らしいわ。本当に面白い人なんだけど」
「真面目でね?からかうとすごく可愛いの。いじめたくなっちゃうというか」
マリーと話しているのは、サルビアだけではない。片付けを終えて暇を持て余し、机に肘をついている給仕2人も一緒だ。彼女らに比べてマリーは相当歳下のはずなのだが、なぜだか会話は弾んでいる。
「ザクロは遊び相手だけど、ベロニカさんはおもちゃって感じかしら?」
「その言い方は酷いわよマリー」
「間違いではないけれど……あら、お客様だわ」
とはいえ楽しい談笑も、客が来たら一旦中止。2人はマリーとサルビアにごめんと手を合わせ、客を迎える為に席を立つ。
「「いらっしゃいま」」
「まだ見つかってないのか!あれだけの数に依頼したというのに、全くもって使えない奴らだ!」
「「……」」
入って来た客に頭を下げた看板娘は、大きな声に固まった。何事かとサルビアとマリーが視線を向けた先には、先程酒場に乗り込んできた騎士達の姿が。
「下がれ給仕。近寄らなくてもいい。もしもお嬢様を捕まえたのなら、ここに運んでくるように言ってあるのでな。その為に来ただけだ」
注文する気はないと言外に告げた女騎士に、給仕2人は営業スマイルを向けて指示通りに離れていく。さすがは酒場の看板娘。伊達に馬鹿男どもの接客を何年もこなしていない。
「てっきりなんか盗んだ犯罪者かと思ったら、違ったのね」
「お嬢様……?あの容姿は……」
「綺麗だったわよねぇ……あれ?もしや同じ貴族ってことは知り合い?」
一方、サルビアとマリーは騎士の態度を不快に思いながらも表には出さず、言葉から情報をすくい取り、繋ぎ合わせる。髪と眼の色に引っかかったサルビアに、視線を向けるマリー。しかし、会話はそこで一度途切れてしまう。
「貴様らはサボりか?サボっているなら金は出さんぞ」
暇なのだろうか。店内をジロリと見渡した騎士が、サルビアとマリーに難癖を付けてきたのだ。彼女の脳内には、依頼を受けないという選択肢がないらしい。
「依頼は受けていない」
「そういうことよ騎士様」
「腰抜けが」
サルビアは金に困っておらず、マリーは仕事を選んだだけ。だというのに騎士は鼻を大きく鳴らし、大声で2人を嘲った。護衛対象のお嬢様に逃げられたという大失態でイラついての態度だったのだろうが、そんなことサルビア達が知る由も無い。
「……」
「何あれ?あんな高慢ちきが騎士なの?さっき話に聞いたベロニカさんと全然違うんだけど」
サルビアは無言で腕を組んだのみだが、女達はそれだけに止まらない。マリーのひそひそ声が、態度の悪い騎士を思いっきり罵る。
「アレなんかとベロニカさんを一緒にしないでよ」
「そうよ。可愛いのよ?良いとこ見せようって、たくさん料理頼んだりするところとか、みんなに奢ったりするところとか。何も頼まないケチ騎士とは違うわ」
「……」
戻ってきたサザンカとダチュラも一緒に、そりゃもう良客であるベロニカと比べてボロクソに。初めて知った筆頭騎士の休日の過ごし方と女の容赦の無さに、サルビアは若干気まずかったが。
「あの人癖のある野菜系が苦手らしくさ。入ってるって知らずに頼んで食べて、すっごい顔になってたの!」
「でも、カッコつけちゃって。美味しいです美味しいですって必死にごまかして。バレバレなんだけどね」
「ま、あの人絶対残さないんだよね。ほんと、昨日の馬鹿どもに見習わせたいというかなんというか」
最初こそ小声での陰口だったものの、しばらくしたら彼女達も飽きたのか。普通の会話に戻り、店内に笑い声が響き始める。
「いい男じゃない。ポーカーフェイスはできないみたいだけど」
「?」
「ぽーかーふぇいす?」
「あー、またやっちゃったわね。えーと、意味は」
「うるさい!料理も静かに食えんのか!」
そのかしましい笑い声が騎士の不興を買ったようで、鋭い声と共にこちらを指差してきた。サルビア達は顔を見合わせ、目線で対応を相談。結果、面倒ごとを避ける為、静かにしておくことに。
「た、隊長!お嬢様が!」
しばらくつまらない沈黙が続き、ザクロも帰ってこない。今日はもう帰って修行でもしようかと、サルビアが思い始めた時だった。酒場の扉が音を立てて開き、若い騎士が顔を覗かせたのは。
「ど、どうした!?まさか、お嬢様が暗殺されたとかではないだろうな!」
「いえ!その逆です!保護されました!どうぞこちらへ!」
「ああ、よかった……これで首が飛ばずに済んだ……」
報告を聞いた女騎士は椅子を蹴飛ばし、青い顔で立ち上がる。しかし、続きを聞き、若い騎士の後ろに控えていた美しい蒼い髪の少女を見たならば、へなへなと元どおりに腰掛けて。
「皆様、お騒がせして申し訳ありま」
「お嬢様!なぜいきなりあのような事をなさったのですか!聡明な貴女らしくもない!」
そして再び立ち上がり、アイリスへと近づいて大声で叱りつける。激昂している大人に年端もいかぬ少女という、女騎士にあまり良い印象を抱かない絵面だが、彼女の言うことは決して間違いではない。
「……申し訳、ありません」
心が押し潰され、仕方なかった面はあれど、アイリスにも罪はある。分かっているから、アイリスは頭を下げる。騎士達は本気で心配していたのだ。なにせ貴族のお嬢様。逃してしまった先で暗殺でもされようものなら、自分達の首が飛ぶ。
アイリス本人への心配が少ないことを、薄情者と罵るか。いやいや、自分の命がまず大事だろう。勝手に逃げ出したアイリスに対して怒りや苛立ちの感情を抱くことは決して不自然なことではない。
「「「あ」」」
「え?どうかしたの?」
事の成り行きを見守っていたサルビア、サザンカ、ダチュラの声が重なる。1人だけ分からなかったマリーは彼らの視線を追い、店に入ってきたオレンジ色の髪の男を見た。
「えーと、その、いいですかね?」
「なんだこいつは」
「アイリス様を保護してくださった、ザクロ様とガジュマル様です」
「なんと……それは感謝する。して、なにかね?」
そう、ザクロだ。騎士にとっては首の皮を繋いでくれた恩人でもあり、その言葉とあらば邪険にはできなかったのだろう。怒り心頭から心変わりし、尊大ながらも殊勝な態度でザクロに尋ね、
「アイリス様、たまには羽根を伸ばしたいみたいなんです。休日ってことで、今日1日くらい遊ばせてあげるのダメですかね?」
「は?」
許可された彼はそれはもうストレートに、率直に簡潔に事情と願いを述べた。余りにも率直過ぎて、騎士の頭が受け入れないほどに。
「もしも親御さんへの説明に困るようでしたら、
上に立つ者は下々の者の生活を知らねばならない的な」
「ふ、ふざけているのか馬鹿者!何を言っている!」
邪険にはできないと先程述べたが、訂正だ。いくら命の恩人とはいえ、命が危険に晒されるような発言は邪険にせざるを得ない。
「ザクロ先輩。それは本当に、彼女が望むことなんだな?」
だが、もしも大貴族の後継であるサルビアが権力を振りかざしたのならば、どうなるのだろうか。
「げっ!サル……お前は出てこなくていい。色々と面倒になるだろ!」
許される可能性は大いにある。その一方で、こじれる可能性もあるのだ。だからこそ、サザンカもダチュラも失礼な女騎士に対してサルビアの権力に頼らなかったし、ザクロも頼らないつもりだった。
「いい。どうせ祖父がなんとかしてくれる」
「いや、それはそれで問題じゃん!?お前が怒られるやつじゃん!」
「先程からなんの話をして……んん?んんんんん?」
「サルビア・カランコエだ。知っているだろう」
しかしサルビアは女騎士の前に立ちはだかり、そんな気遣い知ったことかと、堂々と名乗りを上げた。
「や、やはり!?」
「あ、貴方様が?」
近付いた時に薄々感づいていたのだろう。女騎士は驚きこそしたものの嘘とは思わず、アイリスは口元を抑えている。
「カランコエ家の後継のサルビア様が、なぜこのような店に……!」
「ここは俺のお気に入りの店だ。それより、彼と彼女の要求を聞いて欲しい」
「どうして、ですか?」
好きな場所を見下されたサルビアは僅かに怒気を漂わせつつ、権力を行使。それを聞いた騎士は地面に目を泳がせ、アイリスは信じられないといった顔で彼を見る。
「どうして、助けていただけるのですか?」
「……あの世界は息が詰まるだろう」
目線を逸らすサルビアの脳裏に浮かぶは、幼い頃に見た祖母の姿。なぜかは分からない。でも、アイリスと祖母の姿が重なったのだ。たまに耐えきれなくなることはあれど、それでも必死に孫や息子の前では涙を隠していた彼女と。
「で、ですがサルビア様。万が一がありましたら!」
「俺とザクロ先輩が護衛につく。それでも万が一が起こったのなら、その時は全ての責任を俺が取る」
しかし、騎士は首を縦に振らなかった。彼女が渋るのは、アイリスが暗殺されて自分達の首が飛ぶ可能性を怖がってのこと。だからサルビアはその点を埋め、騎士へと詰め寄った。
「俺の強さは知っているだろう?ザクロ先輩も俺に近い強さだ。どうだ?これでも不満か?」
この街でも屈指の強者2人が護衛につくのだ。はっきり言って、騎士達よりもよっぽど強固な守りである。仮にその強固な守りが破られたとしても、カランコエ家が責任を取るというのならば、
「い、いえ!貴方様がそこまでおっしゃるならば!いい予行演習にもなりましょう!」
「……予行?まぁ、必ず守ると約束しよう」
騎士に、断ることなどできなかった。正直、もう少し粘るかとサルビアは思い、先程の無礼をネタに強請ろうと考えていたのだが。
「ただしアイリス様。今日の晩餐会には間に合うように、6時までに領主邸へお越しくださいませ。多少警備の兵を街に巡回させますが、お許しください」
「分かりました。私にはそれでも過ぎたくらいですから。本当に、ごめんなさい」
とはいえ、制限なしのお出かけとはいかない。完全な一般人を満喫することは叶わなかったが、それでもアイリスには十分過ぎた。カランコエの権力に屈してとはいえ、わがままを聞いてくれた女騎士へと彼女は再度、深く頭を下げる。
「どうかお気をつけて」
騎士は様々な思いを込めた礼にて、それに応えた。死なれては困るから本物の「気をつけて」であり、その一方、危険なわがままには苛立ちを募らせている。そんな複雑な敬だった。
「悪いサルビア。巻き込んじまった」
「いい。何も問題を起こさず、時間まで護衛すればいい話だ。依頼で一度、経験はある」
「本当に助かったし、本当にすまねぇ」
その裏、アイリスに聞こえないように、ザクロは小声で謝罪を。カランコエ家の力は強大だが、無尽蔵に使えるわけでも代償がないわけでもない。この出来事は必ずサルビアの両親と祖父の耳に入り、彼は何らかの言葉をいただくことになるだろう。
「くどいぞ先輩。あれだ。礼だ」
「礼?」
そのことが分かっていながら権力を行使した理由を、先程はアイリスが祖母と重なったからと述べた。だが、実はそれだけではない。
サルビアの学校生活はとても充実している。強敵と訓練できて、タメになる授業も受けられて。それはひとえに、どこぞのお節介な先輩が色々と教えてくれたおかげなのだ。それくらい、彼にだって理解できる。
「察しろ。これで貸し借りはなしだ」
「お前もしや、照れてんのか?」
「……」
ただ、それをそのまま伝えるのは、彼にはなぜか難しかった。露骨に荒い口調になって、その理由とこの心に湧いた親しみのない感情を言い当てられて、サルビアは口をつぐむ。
「そうかそうか!あははははははははは!」
「…………」
店内に響いた大声に、店中がザクロを見た。笑われた本人も例外ではなく、殺意を込めて彼を見ている。しかし彼は他者の視線など全く気にもせず、笑い続ける。でも、その笑みは単なる嬉しさだけではない何かが潜んでいるようで。
「友情を感じる場面で悪いが、俺はやめとくよ。荷が重いし、街中駆け回ってる奴らに通達しに行かねえとなんねぇ」
その笑い方は、ガジュマルが同行を辞退するまで続いた。彼が辞退した理由は、大貴族2人を相手に気楽に振る舞えないのが一つ。そして、金欲しさに依頼を受けた者達に結果を教えに行くのが二つ。早急に二つ目を行わないと、アイリスに街を案内している最中に彼らが襲いかかってきてしまう。
「兄貴。損な役割押し付けちまって、本当に申し訳ない」
「いいっての。ガキは大人に甘えとけ」
「せめてだけど、騎士さん。アイリス様を見つけてきた俺の分の報酬、全部ガジュマルの兄貴に渡してくれないか?」
「べ、別にそれくらいは構わないが」
面倒な事後処理を引き受けてくれたガジュマルに、ザクロは出来る限りの礼を尽くす。
「これだけじゃない。また今度、何かあった時に力になる」
「そん時ゃ頼むか。ま、色々と頑張れよ」
たかが一度の謝礼金だけでは、感謝の大きさには釣り合わない。一足先に店を出た彼の頼れる大きな背中に、彼は更なるお返しを誓う。
「移動も含めれば、時間はあと3、4時間くらいしかねぇな。ささ、早めに行動を」
「ねぇねぇ。それ、私もついていっていいかしら?村から出たのは初めてで、色々と案内してほしいの」
時間を確認し、急いで店から出ようとしたその時、ザクロの肩が叩かれる。振り返れば、同行を求めるマリーが。この街での知り合いがサルビアと2人の給仕しかいない彼女にとって、これは願ってもない機会だったのだろう。
「まぁまぁ戦えるから、護衛扱いでどう?もちろん、お代はいらないわ。それに男女のバラ……比率的にも、私もいた方がちょうどいいじゃない?」
「……この美人さんはどなた?」
マリーの必死な売り込みは、決して間違いではない。問題なのは彼女の身元だ。万が一暗殺者などであれば、連れて行くわけにも行かない。
「あらやだお上手。私の名前はマリー・ベルモット。サシュルの村からのおのぼりさんよ」
「本当?あれだサルビア。サシュルって腕利きの鍛治師がいる村だ。けど、こんな子いたっけ?」
自己紹介を聞いたザクロの目が見開かれる。まさか、それなりに親交がある村の出身だとは夢にも思わなかった。なにせこんな美少女、一度見たら忘れるわけがない。そして見たら忘れるわけがないというのに、知らないのだ。
「マネッチアおじさんね。この剣も彼からプレゼント……いただいたわ」
「ちょっと見せてくれ。うーむ。マネッチアの爺さんが痛めている場所は?」
「腰」
「こりゃ本物だ。疑って悪かった。返すよ」
とはいえ情報は極めて正確で、剣も本物。たまたま会わなかっただけか、それとも最近越してきたかのどちらかだろう。少なくとも、身元に関しては信じていいとザクロは判断。
「俺は構わない」
「私も大丈夫ですわ」
そしてマリーの言う通り、男2人に女1人のバランスは余りよろしくない。女性がもう1人いた方が、アイリスもなにかと気が楽になるだろう。
もしも彼女が何か変なことをしようとしたなら、その瞬間に叩っ斬ればいいだけの話だ。
「よーし、決まりだ!さ、まずは市場通りにでも行こうか。あそこは色々と珍しいや楽しいがある。サルビアも知らないようなのがな」
メンバーも固まったところで、ザクロは庶民が休日に練り歩きそうな場所を選択。ついでに言うなら、彼お決まりのデートコースだ。
「それでよろしいですか?アイリス様にマリー様」
「はい。私は無知ですので、お任せいたしますわ」
「ちゃんとエスコ……案内お願いね。騎士様」
しかしまぁ、今日はデートではなくエスコートである。うやうやしいお辞儀と共に差し出された少年の両手を、それぞれ世間知らずな2人が掴む。
「もちろんです。お任せください。サルビア様はどうする?おぶろうか」
「馬鹿を言うな先輩。それに、俺の両手はすでに剣で埋まっている」
右には可憐な蒼い花。左には美しき金の花。両手に花のザクロはおどけて、彼らは街へと繰り出した。
飛び交う客寄せの声に主婦の値切りの声。並ぶ商品は武器から食品、果ては民族工芸品から得体の知れないものまで。数多にして多種な品揃えは、飽きる方が難しい。
「で、まぁここが市場通りです」
「名前だけは知っていましたが……!」
「賑やかだな」
「いっぱい店があるわ……すごい」
そして人。波に流されるか、逆らうかしないと進めないほどの人混み。これこそが、この街で最も活気のある、昼間の市場通りだ。
「ささ!まずは何から……決まりだな」
「えっ!?」
店も多すぎて、どこから案内すればいいのやら。抱えていたその悩みは、アイリスの目線の先の料理にて解決する。
「あれでいい?」
「あ……はい!お願いいたします!」
昼食がまだで、お腹が空いていたのだろう。彼女が見ていたのは、日に焼けたいかつい親父が油と格闘し、売り子の女性が木の皿を渡している屋台。若い子や男性に人気の、ガラ芋のカリッと揚げである。
「すいませーん!これ4つください!」
「あいよ!熱いから気をつけてな!」
屋台へと走ったザクロが少し並び、虚空庫から代金を取り出してお支払い。代わりに木魔法で作られた皿を4つを受け取って、3人の元へと帰還する。
「あ、ありがとうございます。では、お代を」
「いいっていいって!甲斐性甲斐性!」
アイリスは代金を支払おうとするが、ザクロはそれを拒否。いくら金持ちの貴族とはいえ、ここは男が払う場面だとかっこをつける。
「ダメですわ。私が払いたいのです。払わせてください」
「んー、分かった。じゃ、銅貨4枚ね」
だが、意外なことに食い下がられ、代金を押し付けられてしまった。どうやら彼女にとって、自分でお金を払って買うことにはとても意味があるらしい。
「マリーさんは護衛代、サルビアはさっきのお礼ってことでここは俺が」
「俺も払う。貸し借りはなしだと言った」
「お、おう。分かった分かった」
ザクロはサルビアの分も払おうとしたのだが、謎の対抗心を燃やした彼に銅貨を押し付けられてしまう。一ヶ月の付き合いで、この後輩の頑固さは充分に理解している。故にザクロは説得は諦め、受け取った銅貨を虚空庫の中へ。
「男の顔を立てる意味合いも込めて、私には甲斐性を見せてもらおうかしら?」
「歳の割に強かだねぇ。了解!」
流れを読んだのか、はたまた逆らったのか。金銭的に余裕がある貴族2人とは違い、マリーはザクロの好意に甘えることに。
「あ!ちょっと待った!息吹きかけて冷ましてからのがいい。火傷しちまう」
「先に言ってくれ。危なかった」
全員に行き渡り、早速サルビアが口に入れようとしたその時、ザクロは慌てて待ったをかけた。屋台のおいちゃんの言う通り、揚げたてのそれはとても熱い。外側も熱いが、中はもっと熱い。しっかり冷ましてから食すのが鉄則だ。
「ふぅふぅ」
「あ、あの、これはどのくらいふぅふぅすれば、よろしいのでしょうか?」
「難しいよな。冷えすぎると美味さの絶頂を逃すし、かといって熱すぎると口が焼ける。で、ここで食べ方その2だ」
しかし、どれくらいがちょうどいいかなんて、初心者には分からないもの。この街に何年もいて何回も食べてるザクロでさえ、未だに見極めは難しい。
「いただきます……多分まだ熱いだろうなって思っても、こうやって」
故に、お手本を見せる。まずは感謝を忘れずに手を合わせ、小さな黄金色を口の中へと放り込む。噛んで顔を出した中身の熱さにはふはふなるが、即座にその部分を歯で掴む。あとは少し空気で冷やしてから、もう一度咀嚼に戻ればいい。
「アツアツのたこ焼きの食べ方みたいね」
「たほやき?」
「焼きは分かるが、たこってなんだ?」
「この辺りにはいないのかしら……あとザクロさん、食べることに集中なさい」
マリーの例えは日本勢にはダイレクトに伝わっただろうが、この世界だとそうもいかない。
「足が8本あって、海に住んでるの。骨が無くてぐにゃぐにゃうねうねしてるわ」
「……知らないな。近い魔物ならいるかもしれんが」
「そんな生き物、私も見たことがありませんわ」
「むむ……あ、話逸らしちゃったわね。ごめんなさいな」
というより、タコがいない。特徴を伝えるが、サルビアもアイリスも首を振るばかりだ。ちょうどマリーが謝った頃、ザクロの口がようやく自由になり、
「と、あんまり綺麗な食べ方じゃないけど、庶民はこうやる。完全に隠したいなら、手で口を覆うといいよ」
「分かりましたわ。いただきます」
「……はふはふ……いただき、はふ」
彼は隠し方までしっかりとフォロー。観察していた貴族2人は意を決し、ガラ芋を口の中へ。小柄なクズ芋だ。一口でぱくりと食べられる。
「はふ……!美味しいです」
皮はからり、中はほくほく。熱さを追い出そうとするはふはふの最中、芋本来のほのかな甘みと多めにつけられた塩味が交互に、時には同時に顔を出す。
「これは美味……アツ!」
感想を言葉にしようとしたしたサルビアが、思いっきりむせ返る。どうやら彼はまだ、たこ焼き食いが上手くできないらしい。
「フライドポテトに似てると思ったけど、結構違うわね」
「マリーさんは食べるのがとてもお上手ですね。品がありますわ」
「本物の貴族様に品があると言われるなんて光栄ね。でも、私は慣れてるだけよ。貴女もすぐに上手くなるわ」
その点、マリーの食べ方は実に完璧だった。歯を上手く使って熱さに触れず、程よく冷えた頃合いでゆっくり咀嚼。無論、口の中など見せるわけがない。
「やはり経験でしょうか……私も揚げた芋などはそれなりに食べるのですが、このような食べ方は初めでして」
「そうよねぇ。はふはふだとか、素手で摘んでとか。少しお行儀悪いものね。仕方ないわ」
「はっふ!?」
「サルビア、この1ヶ月お前を見てきて思うんだが、戦闘以外の才能ない感じか?」
とはいえ、貴族組が苦戦するのも仕方がない。彼らにとって食べることとは、適度な温度に丁寧なマナーの机の上にあるものなのだから。
「確かに、お行儀は良くないかもしれませんわ。でも、これはすごく美味しいです」
「分かるわぁ。高級な料理も美味しいんだけど、こういうジャンク……庶民向けなのも違った美味しさがあるのよねぇ」
高い素材をふんだんに使わなくとも、美味しいなんてことは。こんな食べ方が、正しいなんてことは。綺麗に飾らずとも、揚げたクズ芋に塩を振るだけでもいいなんてことは。今まで貴族の食生活を送ってきた彼女にとって、衝撃だったのだ。
「言っとくけど、これはほんの一例にして序の口。さぁ、お腹が膨れるまでどんどん行こっか!」
「遠慮しないで。欲しいものや興味深いものがあったらすぐに言ってね?」
「はい!」
そしてその衝撃達は、アイリスにとって面白いものだった。まだまだ終わりがないと聞いた彼女は目を輝かせ、マリーの言葉に従って市場通りを謳歌する。
「あ、あの!あそこの綺麗な飲み物はなんでしょうか!」
「泡が出てるしソー……炭酸かしら?こっちにもあるのね」
アイリスが二つ目に指差したのは、ストローで吸い上げられている青い液体。マリーはそれを、日本にもあったソーダだと推測するが、
「炭酸スライムだな。炭酸水を餌に育てたスライムを炭酸に漬け込んだものだ」
「はぁ!?す、スライムって食べれるの!?」
惜しい。が、遥か上だった。まさかスライムを食べるなんて。ましてや炭酸水で育てて漬け込んで、ゼリーのようにしているだなんて、想像できるわけもない。
「これ以外の食べ方はあんまり知らないな。炭酸水じゃなくて、果汁だったりする時はあるけど」
「前酒場で食べたが、しゅわしゅわぷるぷるで美味しかった」
「美味しそうです!あ、私、皆さんの分も買ってきますわ!」
「おう!頑張れ!分からなかったら俺呼んで!」
スカートの裾を摘み、ぱたぱたと駆けていって少し並んで、店のお姉さんに注文するアイリス。味を聞かれたのだろうか。慌てふためいて、振り返ってみんなを呼んで。
身体は一応店へと引き寄せられ、好きな味を反射で答えたものの、マリーの意識は未だ衝撃から帰ってこない。
「……」
世界が変われば常識なんて変わるもの。その原則を知っていても、時折すぐには受け入れられないこともある。まさに今回がそれだ。当たり前のように進む会話、そして手渡された瓶の中のぷるりとした液体に、マリーは言葉も出ない。
「甘くてしゅわしゅわぷるぷるしていますわ!」
「そういや、サルビアも前が初飲みって言ってたよな?貴族って炭酸スライム飲んじゃダメなの?」
とはいえ、驚いているのはマリーだけではなく、アイリスとザクロも同じだ。アイリスは口の中の感覚に、ザクロは貴族が炭酸スライムを知らないことに、それぞれ衝撃を受けている。
「なぜだか知らんが、俺の家では炭酸スライムは身体を溶かす飲み物として飲ませてくれんかった」
「わ、私もですわ……でも、皆さんも飲んでいるのですから、溶けたりは……しませんよね?」
「その迷信、こっちの世界でもあるんだ」
飲ましてもらえなかった理由を聞き、マリーは力無く、懐かしそうに笑った。世界が変わって常識が変わろうとも、揚げて塩を振ったクズ芋は美味いのように、変わらないものもある。
「やはり、迷信なのですか?」
「ごめん。スライム関わってくると何も言えない。ただ、炭酸水だけなら大丈夫なはず」
「スライムは肉も骨も溶かすぞ?さすがに死んでたら大丈夫だが」
しかしまぁ今回の件に関しては、ちょっと微妙なところだ。サルビアの言う通り、スライムの食事方法は溶かして取り込むなのだから。
「あり?マリーさん食べないの?」
「た、食べるわ。ええ。ゼリーみたいなものだもの……」
抵抗があったものの、ザクロに急かされ、一思いに吸い上げるマリー。目を瞑って尖る感触の中、最初に去来した感想は。
「お、美味しいじゃない……!」
「だろ?」
スライムは美味しい、というものだった。
「私も驚きましたけど、とても美味しいですわ」
一見というより一噛み目、相当弾力があると感じたが、すぐに訂正する。スライムの外皮と思われる硬い部分と、中身らしき柔らかい部分が混ざっているのだ。二つの食感の中、程よく刺激する甘味のあるしゅわしゅわ感。正体を知らなければ、そういうゼリーだと思えなくもない。
「世界って広いのね……」
しかしいくら美味しかろうと、スライムを食した事実は変わらず。中で暴れたりしないかしらと、マリーは若干の心配を抱いて腹部を撫でる。
「ああ広い!つーわけで次だ!」
それからも市場巡りは続いた。魔物の腹の中に肉や卵を詰める調理法に、丸い毛玉やスライムのペットショップ。駆け出し鍛治師の武器や金物売り場に、かなり怪しい魔道具露店。
「お?ザクロ。まーた違う女の子連れてやがるな?ウチ寄ってくか?」
「寄ってくわけねえだろ!客の評判下げる客引きなんざ聞いたことねえぞ!」
「あーらいけない人。浮気性な男はダメよね?アイリス様?」
「え……その、確かに私個人として……ですけど、妾や第二夫人がいるのは普通ではないのでしょうか?」
「そうだった……ここ、日本じゃないんだった……」
通りがかった汁物の屋台で、ザクロが日頃の行いによる爆発魔法を食らったり。ついでに再度、マリーがワールドギャップを味わったり。
「これはなんだ?」
「銃だ。お客さん、聞いたことない?火薬の爆発の圧力で金属の弾丸を押し出す武器。魔法も魔力も一切使わなくても、人の肉くらいなら貫通できるよ」
その間、一同から少し離れたサルビアは、茣蓙の上に並ばれた数本の細長い金属……銃に興味を示していた。銃とはこの世界において決してメジャーではなく、それどころかどマイナーな存在である。その専門店が道の脇で営業しているなど、非常に珍しいことだった。
「金貨50枚。ぼったくりとは言わねえでくれ?手間暇かけた上に、ご先祖様の思いと俺の人生が銃身に詰まってる」
その上、二十歳そこらの店主がまた、悪い意味で人目をひく風貌だった。眼は鷹のような金色だが髪は黒く、おまけに両肘から先がないのだ。
しかし黒いのが髪だけならば、彼は忌み子ではない。であれば、サルビアにとってそれらの特異な容姿は、特に気にするほどの事でもない。
「買った」
店主が提示した価格は、ここ一ヶ月の依頼で稼いだ数倍だったが、そこは貴族のお小遣いでカバー。サルビアは、この武器にそれだけの価値があると思ったのだ。
「本気か?正気か?この店始まって以来のお客様だぜ?ぶっちゃけるが、槍でも投げた方が強いぜ?」
「欲しいと思っただけだ……ちなみに聞くが、ここはいつ開店だ?」
「既に一週間。大赤字もいいところさ」
「売り上げが目的ではない癖に、よく言う」
木の義手を創成した店主は、売る前の最終確認を。そのどれもが慣れた手つきであり、サルビアにとっては目新しいものであり、退屈などとは口が裂けても言えない時間であった。
「よしっと。とにもかくにも毎度あり。弾はおまけでタダにしとくよ」
「助かる。ありがとう」
代金を木の掌に落とし、銃と弾を受け取り虚空庫へ。最後にサルビアは傷だらけの店主に別れを告げ、また何かを食べていた一同に合流を果たした。
「すごい包丁さばきですわ!」
「あれくらい、俺もザクロ先輩も出来る」
「なんですぐに張り合うのよ」
「そうだぞ。料理と剣術って別物……いや、確かに魚捌くのは剣に似てるか?」
お次は羽根の生えた巨大魚の解体ショー。その鮮やかにアイリスが目を輝かせたり、すっすっと迷いなく進む太刀筋に、サルビアは若干の敵対心を見せたり。
「……これはよさげね」
「マリーさん、その歳で腰痛持ちなの?」
「ち、違うわよ!ま、マネッチアおじさんへのお土産よ!」
「マリーさんはとてもお優しいのですね……」
前世からの癖で健康グッズを眺めていたマリーが、後ろからかけられたザクロの声に冷や汗を流し、マリーの尊敬の目に罪悪感を覚えたり。
「わぁ!わぁ!こ、ここ!なんでしょう!可愛い子がいっぱいですわ!」
「ここか?ここは、この街で一番癒される場所だ……」
天幕の中で、大量のもふもふの小動物に囲まれたり。結構お高い値段だが、それ以上の価値と癒しがあると評判な「もふり屋」である。子犬や比較的大人しい魔物の幼体など、様々な可愛らしい存在と存分に触れ合えるお店なのだ。実に抗い難い。
「最っ高じゃない。ここ天国じゃない。私ここに住む!にゃー!」
「…………ふふっ…………」
ザクロは膝の上でツノウサギの子供を撫で、アイリスはシルシフクロウに餌をあげ。マリーは猫じゃらしで雪虎の子と遊び、やたら犬に好かれるサルビアに至っては、既に毛の海の中に満足そうに埋まっていた。
「あのもふもふな空間最高だったわ。常連になりそう」
「お得な回数券があると聞いた」
「ええ。とても楽しく、癒されましたわ」
「さて、残り1時間くらいか。どこに行く?」
楽しい時間ほど、過ぎ去るのは早いもの。もふり屋を出た時点で、約束の時まで1時間と少しまで近付いていた。
「アイリス様!こんなところに!」
「あれ?領主邸の約束じゃ」
「少し時間が早まりまして、お迎えに来たのです」
否、近付くどころではなかった。貴族という責務は、よほどせっかちだったらしい。本来の時間より早く、騎士が迎えに来てしまった。
「彼女の部下か?女騎士さんに会わせてほしい」
「すいません。皆で手分けして探しておりまして、すぐにお会いすることは。それに、私達騎士風情にどうこうできる話でもありません」
迎えに来たのは、鎧を着込んだ低い声の騎士。一番偉い騎士と話をさせろとザクロは頼み込むが、兜の奥の眼は冷たい拒絶の眼を崩さなかった。
「でも!」
「迎えに来てくださり、ありがとうございます」
それでも諦めようとしなかった少年を、アイリス本人が騎士への礼にて遮る。何事にも優先順位とはあるものだ。遊びが理由で大事な舞踏会に遅れるなんて、許されることではない。
「お別れをしてもいいしょうか?すぐ終わりますから」
「……まぁ。それくらいなら」
「感謝します」
彼女に許されるのは、たった数分のお別れ程度。それでも、アイリスにとっては貴重で大切な数分だった。
「今日は街を案内していただき、ありがとうございました。食べ物はどれもその、高級ではありませんでしたが美味しくて。見る物は全部、珍しくて新鮮で、楽しかったです」
夕陽に照らされた通りの外れ。人気の少ない道の上で、今日を思い出して少女は笑う。貴族の彼女にとって、逆に手が届かない安くて美味しい料理が食べれたと。選ばれたものしかない屋敷では、到底見れないものばかりを見れたと。
「お代も初めて自分で払って、それもまたなんというか、嬉しくて」
心底嬉しそうに、とても寂しそうに。初めて尽くしで楽しい尽くしの一日だったと、彼女は語る。
「今日はとても、楽しい一日でしたわ。見ず知らずの私のわがままに付き合っていただき、本当に感謝しています」
そして、アイリスはそのお礼に頭を下げる。大貴族だとか平民だとか、そんなもの関係なく。ずっと前からの夢を叶えてもらったことの、感謝だった。
「こちらこそ楽しかった。堅苦しい貴族同士、お互い頑張ろう」
「……ええ。頑張りますわ。サルビア様もどうか、頑張ってください」
貴族同士色々と分かるサルビアからのエールには、少し曇りながらも頷き、送り返し、
「私も楽しかったわ。女の子のお友達、できちゃったもの」
「と、友達?」
「嫌かしら?私じゃ足りない?」
「い、いえ!とても!マリーさんは素敵な女性で、お友達ですわ!」
マリーの差し伸べた手と友達認定を、アイリスは嬉しそうに握って肯定し、
「……」
「ザクロ様?」
暗い顔で黙っていたザクロの顔を覗き込み、名を呼んだ。
「楽しんでもらえたなら、よかったよ」
「はい!今日のことは絶対に忘れません」
はっとして笑顔になったザクロの言葉に、少女も同じ笑顔で返す。お互いに本心からの言葉だ。でも、その笑顔の純度は果たしてどこまでか。
「では、またいつか」
偽物の笑顔と分かっていても追求なんかせず、互いに手を振った。騎士に連れられ、遠ざかっていく彼女はずっと手を振っていたし、それはザクロ達も同じだった。
「きっとまた会える。俺の護衛として今度、舞踏会でにでも行けばいい」
「さすが大貴族ねぇ。私もお願いしても?」
「もちろんだ」
これが今生の別れではない。カランコエともなれば国中どこの貴族の集まりだろうが引っ張りだこだし、サルビアが命じれば2人の同行くらい余裕だ。
「でも、アイリス様は貴族のままだ」
だが、今日みたいにはならない。彼女の願いは叶わない。アイリスはずっと、彼女が嫌がる貴族の生活を続けなくてはならない。プラタナスの言った通り、根本的な解決にはなっていないのだ。
「世の中どうにもならないことなんて、いくらでもあるものよ」
そしてそれは、事前に納得していたはずのことで、どうにもできないことだった。いくらカランコエ家とはいえ、他家の後継を易々と変える力はない。平民のザクロにマリーなど言わずもがな。
「……っ!」
現実とはそういうものだ。どれだけ頑張ったって願ったって、助けを求めても変わらないことは腐る程ある。でも、ザクロはそれが許せなくて、何も考えずに走って彼女を追いかけた。
「目と手を絶対離すな、か」
その時脳裏をよぎるのは、プラタナスが残した言葉。今となってはあの言葉の意味が、理解できなかった。結局、最後には離してしまったからだ。離さなければならなかったからだ。言葉に従うなら、彼女を誘拐でもしなければならなかった。あれは、そういう意味だったのだろうか。
「さすがに、そこまでの度胸はねぇや」
好きなおとぎ話の女好きの英雄ならば。彼ならば迷う事なく、アイリスをさらったのだろう。しかし、ザクロは彼ではない。その先を考えてしまう。さらったその先での苦しみを想像し、周囲への迷惑を慮り、実行に移せない。
なら、ザクロにできるのは。
駆け出して、背後の声が遠ざかる。道行く人が驚いた。無力さに拳に力が入った。自然と脚は早くなり、騎士と共に俯いて歩くアイリスにはすぐ近付けた。彼女達が消えようとしている曲がり角まで、あと数秒。
「アイリス!」
不敬かどうかなんて考えず、名を呼んだ。代わりに考えたのは、かける言葉。そうだ。ザクロは、声をかけるくらいしかできないのだ。
「変えようぜ!貴族様でも普通に街を歩けるような!そんな制度とか行事、作るんだ!」
馬鹿な男だ。無責任にも程がある言葉だ。でも、その言葉に従わない限り、彼女が望む未来は訪れない。だからザクロは、残酷な励ましを。いつも自分にかけ続けた言葉を、彼女に届けようとした。
「諦めたら終わるけど、諦めなかったら終わらないから!」
先に曲がった背中を追って、角を右に。名を呼ばれて立ち止まっているであろう彼女にぶつからないよう配慮して、世界を90度変えて、
「え?」
その先で、今にも剣で斬られそうなアイリスを見た。




