第19話 痛みと熱さ
「痛い」
痛い。狂いそうなほどに痛い。気を失えたらどれだけ楽だろうか。でもダメだ。仁が生かされているのは、まだ遊び甲斐があるから。
ゴブリンたちは仁の苦痛を楽しんでいる。気を失った用済みのおもちゃは、きっと壊されてしまう。
おそらく僕が痛覚を半分、いやもっと多くの痛みを肩代わりしてくれているはすだ。そのおかげで仁はまだ、気を失わずに済んでいる。
「ああぁ!アあぁあアぁあァ!?」
脳と胸だけを腕で矢から庇い、即死は避けた。しかし矢の雨自体を避けることはできず、頰、肩、脇腹、腕、腕、腕、太もも、膝、足首へと突き刺さった。
「あああああああああああああああああああああああああ!」
余りの痛みに転げ回る。ある矢は折れ、ある矢はさらに深く肉へと侵入し、痛みは増してまた転げまわるの繰り返し。
「やめろよ……死んじまえ!なんで、俺なんだよっ……やめっ……」
これで終わりではなかった。小鬼たちはもっと苦痛を与えようとしたのだ。仲間を殺され続けたシオンへの復讐のつもりか、あるいは苦痛を与える事自体を楽しんでいるのか。
まずは手足の骨を一本ずつ棍棒でへし折られた。
右手「やめろ!があァああぁ!」
折れる度に、
左足。「はぁ……はぁ……ぎゃあああああああああああああああああああああああ!」
何かが砕ける音がする度に、
右足。「くそっ!ちきしょう!てめぇぐっがぁぁぁ!」
焼き尽くさんばかりの白い光が視界に溢れ、痛みを訴えてくる。
最後に左手。「……っつっっっ!?うううう!」
仁はその訴えに、悲鳴で答えることしかできなかった。
「っ–––––!」
錆びた剣で木と腕を縫い付けられ、吊るされた。肉を冷たい鉄がぶつりと断ち、そこに居座る感覚が気持ち悪かった。
もう痛いのか痛くないのか、どこが傷でどこが傷でないのか、血のない場所はどこなのかも分からない。全身をハサミで断ち切られ、あらゆるところに針が突き刺さっているような、もうどうしようもない痛み。
「あっ……?あああああああああああああああああ!」
脚の皮をゴブリンたちに齧られた。一気に噛み切るのではなく、ゆっくりゆっくり、一枚ずつ綺麗にはがすように食べられた。そうした方が痛いから。傷に傷を重ねた方が痛いから。
足首までの皮を齧られ続け、真っ赤な肉が露出する。空気に触れるだけで痛い。ただそこにあるだけで、生きているだけで痛む脚。
「ううっ……」
もはや、呻き声を上げることしかできなかった。
血を流しすぎたのか。痛みが限界を超えたのか。肉体を損傷しすぎたか。いや、この場合全てだろう。意識が朦朧として、世界が歪んでいく。
こんな奴らに殺されるのか。ファンタジーでは定番の雑魚に。シオンだったら鼻歌を歌いながらでも、片手ででも片付けられそうなゴブリンに。
「俺が……弱いのか……」
いや、彼らが特段強いわけではない。ただ、仁がひたすらに弱かっただけなのだ。
特殊な力も無く。
魔法もろくに使えず。
剣術も未熟。
恐怖で本来の力も出せなかった。
なんて、弱い。
「強く、なりたかったなぁ…」
やっと強くなれる糸口を見つけたのだ。擬似的とはいえ魔法が使えるようになり、僅かだが剣術も覚えた。毎日シオンにボロボロにされながらも、少しずつ前に進んでいるのを、自分が強くなれたのを感じていた。
あの日憧れた黒髪の少女の剣に、いつか追いつきたかった。
なのに。
もう、目を開けていることさえ辛い。ゆっくりと瞼を閉じると、たくさんの光景が暗闇に走る。
黒髪の少女と一緒に強くなっていく明るい未来と、過ぎ去った黒髪の少年少女との輝かしくも暗く悲しい、己が手で殺した過去。
脳裏に閃光のように描かれた未来と過去が、今の仁を突き動かした。
「死にたくない……」
目を見開いた。齧られていた脚をジタバタと動かして、ゴブリンの顔へ軽く蹴りを入れる。それは到底蹴りと呼べた代物ではなく、小鬼にはなんらダメージは入っていない。露出した肉が当たり、仁の神経を痛みが暴れまわっただけ。
哀れな抵抗をゴブリンたちが嗤う。ゲラゲラ、ギャギャギャと聴くだけで耳障りな音だ。
抵抗もこれで終わり。どれだけ力を込めようとしても、口以外の部分は動きそうにない。
血に汚れたこの身は、助かることさえ許されないのだろうか。虫が良すぎると、仲間たちは仁を責めるだろうか。いや、きっと責めるだろう。
「助け、て」
けれど、祈らずにはいられない。言わずにはいられない。
「生き、たい……死にたく、ない」
身勝手なクズの願いが、不思議と世界に響いたのを感じた。いや、違う。この声以外の雑音、ゴブリンの鳴き声が消えていた。
「ど……うした?」
目線を微かに上げて、ゴブリンたちの顔を見る。一様に驚きの表情で、仁など見向きもしていない。その驚愕の理由を追って、ゴブリンの目線を追って、
「あっ……」
そこに剣を抜き、佇む少女を見て。
「安心して。私が助けるから」
その少女の激情に彩られた静かな声に安心して。瞼を閉じ、無理矢理繋ぎ止めていた意識を切り離した。
「仁っ!?」
糸が切れるように崩れた血塗れの少年を見て、シオンは悲痛な声で彼の名を呼ぶ。最悪の事態かと思ったが、身体が微かに上下している。まだ、息がある。
「よかった……生きてる」
一先ずは安堵。しかし傷は深く、流れた血は恐ろしく多い。このまま放置しておけば命に関わる。可及的速やかに脅威を排除し、治癒魔法をかけなければ。
「私か」
小鬼が仁を襲った理由を考えて、自分への報復に思い至る。シオンは近くの村の為に魔物を狩り続けてきた。その復讐として、シオンの初めての大切である仁を選んだ。すぐに殺さずにいたぶり続けたのが、その証拠だろう。
「……私を恨むなら、私にかかってきなさい。雑魚が」
普段の彼女からは考えられない、凍てつくような言葉が風に溶け、ゴブリンの耳へと届く前。一陣の血の風が吹き荒れた。
仁へと向かう一直線の道、その上にいる全ての小鬼の首を斬り取りながらシオンが進んだその跡だ。
「さすがに、許せない」
道にいなかった小鬼の脚を、地面から噴出させた土の槍で貫き止める。脚の裏から膝まで貫通させれば、動くことなんてできやしない。
ただ一匹、予想外の早さで範囲外へと逃れたホブゴブリンを除いて。
「逃がすわけないでしょ?あれだけのことをしたんでしょ?自分がやられても文句は言えないでしょ?」
頰から血を垂れ流す少女は、逃げることを許さなかった。
「惨たらしく死んで」
土魔法で剣を創成し、投擲。放たれた矢よりも速く。進む刃はホフコブリンの身体の中心へと突き刺さり、
「ばいばい」
シオンが発動させたのは、体内の剣から土の槍を創成する魔法。穂先は内側から肉を食い破り、筋肉を裂いて皮膚を貫き、ハリネズミのように各所から突き出した。
「……はあっ……やめて。思い、出さないで」
そして、シオンは力なく倒れて、膝をついた。
荒い息を吐き、脂汗をかき、明らかに彼女は普通の様子ではない。頬の傷を抑え、治癒魔法を自らにかけ始める。その表情は怯えで塗り潰され、全身の古傷が赤く浮かび上がり、震えていた。
「……仁、必ず助けるから」
頬の傷を塞ぎ、元に戻ったシオンは気絶した仁に誓う。
家の中にいつも通りのお姫様抱っこで、いつもよりとても慎重に、なおかつ素早く運び込み、全力で治療を開始した。
また、夢だ。
死にかけた時や辛いことがあった時に見る、仲間の終わりと友殺しの瞬間。そして自分が死にかけた瞬間がごちゃ混ぜになった夢。
今日は、シオンの家の前で自分が吊るされているのを仲間たちが見ているというシチュエーション。
「……嫌な夢だ」
今日も自分が夢の中にいると分かった。だってもう、みんな死んでいるんだから。
「ごほっ。げぼっ……」
夢の中でも血を吐き、血を流し、血を垂らし、血の池を作る。ぽたりぽたりと赤い雫が零れ、溢れ続ける。
いつしかそれは頭に胸に腹に、穴を開けられた友の血とどろどろに混ざり合い、首を腕を足を斬られた仲間の血とぐちゃぐちゃと溶け合っていく。
「あうっ……夢だろここ?」
血が混ざり溶け合う度に、仁の肉体が局所的に痛み、呻き声が漏れる。夢の中なのに痛いとは、この世界は本当に残酷だ。
確かに仁がしたことを考えれば、この程度の罰を受けても仕方がない。
自身の作戦で何人の仲間を殺した?
生きるために少女をこの手でどうした?
自身の行いに反吐が出る。いや実際出たのは血反吐だった。
「……しょうがないだろ…あいつらが、強かったんだから……裏切ったんだから……」
どこまでも自己保身。自己のことしか考えられない人間なのだ。
そう今この瞬間でさえ。
「死ぬのは怖い……怖いなぁ……」
死を怖がっている。本当に仁という人間は、どこまでも救いようがないクズだ。
死んだら閻魔大王に、真っ先に地獄行きを告げられることだろう。仁は死んだ先に地獄があるとは信じていないが。
「それ以前に、俺は生きてるのか?」
ふと湧き出したのは、疑問。気を失う前までの仁の姿は良く言って満身創痍、悪く言って瀕死だ。果たしてあの姿から治癒魔法をかけて、命は繋がるのだろうか。
もしやここは、実在した死後の地獄か?
「俺を待ってたのか?」
となれば、この光景にも納得がいく。彼が殺した仲間たちが、一足先に地獄で復讐するために待っていたというのなら。
「あが……おい……何を、しやがった」
死後の世界の可能性について考えた瞬間、腹に激しい痛みが、まるで中にあるものを引き抜くかのような恐ろしい痛みだ。
でも、その痛みはなぜか暖かい。そして、左手も同じく暖かい。
痛みと熱をきっかけに、世界が消えていく。仲間だった死者の残像が掠れて消えていく。
「……い、きてる?」
崩壊した世界の代わりに目に飛び込んできたのは、何度も見上げた天井だった。起きたことだけ、理解できた。
「うっ……」
夢から目覚めたのに吐き気が治らず、身体がガタガタと震え続けている。いや、夢から覚めたからだろうか。二度目に近づいてきた死が怖くて、怖くて身体が生きていることに驚き、喜んでいるのだろうかり
「こ、こ……は?」
何日も使っていなかった喉が、声の出し方を忘れてしまっていた。身体中のいたるところに張ったような痛みがあって、仁は体を上手く動かせない。
「……っ?」
しかし、感覚だけはしっかりと機能していた。でこに乗せられた湿った布。全身にかけられた柔らかい布団。自分の左手を握る暖かい感触と、さらっと肘辺りにかかる黒髪。すぅ、とかわいらしい寝息を立て、ベッドに寄りかかっている少女。
「っ〜〜〜〜〜〜!?」
そこまで認識した瞬間、全身を覆っていた恐怖が吹き飛び、訳の分からない何かが沸点を軽く飛び越えた。身体がもし動いたならば、大きく後ずさっていただろう。
なぜシオンが手を握っているのか。なぜこんなところにこんな無防備な、
「ああ……そうか。ずっと……看病してくれてたのか」
気を失うまでの記憶を辿り、今の状況を推測。疑問が氷解する。おそらく治癒魔法だけで治しきれず、看病や世話などしてくれていた、というところか。
「治癒魔法も、万能じゃない、か」
治癒魔法には、いくつか欠点があるとシオンから教わった。一つ目は深すぎる傷の場合、完治するまで非常に時間がかかること。負った傷を考えれば、これに該当したのだろう。
「くらくらする……」
もう一つ当てはまる欠点は、失った血は戻らない、というものか。さすがに出血多量で死ぬほどではないが、相当な量の血を失っていたはずだ。
窓を見ればもう朝方だ。仁の容態が急変した時の対処のために、シオンが夜通し看病してくれていたことは容易に想像できる。しかし、
「すっかり、眠っているな……文句というわけじゃないだけど、今俺の容態が急変したら危なかったんじゃ」
「きっと峠を越えて安心したとかじゃない?まさか峠越えてないのに寝る人なんて……シオンならあり得る」
色々と常識をどこかに置いてきた少女だ。天然、というより無知さには信頼がある。
「……ずっと心配してくれてて疲れたんだろな」
そして優しさだけを拾ってきた、いや嫌われたくなくて優しくなった少女の性格なら、きっとそうだろう。見ず知らずの人間を拾ってタダ飯あげて、訓練して守ってやるほどの度を越した甘ちゃんの少女だ。そんな彼女が、今回のことで心配しないとは思えない。
最も、汚い仁はそこに付け込もうとしているのだが。
「あれ、なんでだろ……震えが」
いつからだろうか。身体の震えが止まっていた。あれだけ怖かったのに、今はなぜか怖くない。
「……しばらくこのまま横に甘えよう」
(うんうん。起こさないように静かにだね)
どこか知った顔の生暖かい声が頭に響く。最後に隣の少女のあどけない寝顔を、僕に気づかれないようにちらりと見て、左手の暖かさを感じながら、しばし起きたまま怠惰に沈むのであった。
今寝たら、またあの夢を見そうで怖かった。
仁が起きてから30分ほど経ったろうか。ベッドに寄りかかっていた少女が身じろぎしたかと思うと、黒い瞳を開いた。
「……ん……あっ!私寝てて……仁!?」
自分が寝ていたことに気づき、飛び起きた。それから目を擦って仁の容態を確かめようとして、
「お、おはよう」
ばっちり目があった。シオンのお目覚めのシーンを、これまたばっちり見た仁は気まずそうに笑う。
「仁っ〜〜〜〜〜〜〜〜〜!」
「ちょっ……俺怪我人……やめてシオン!痛い痛い痛い痛い!」
(代わりたいけど代わりたくないなぁ。あ、こら!痛覚だけ投げつけるとか、本当にやめてくれよ!その美味しい思いは痛みと表裏一体じゃないか!?)
シオンに抱きしめられ、もとい飛びかかられ、羞恥と痛みが限界突破する。どうやら無意識の内に身体強化を発動させているようで、仁の身体を絞め上げている力は尋常ではない。
「あがっ!?俺は大丈夫だから!ストップ!」
「俺君ストップ通じない!」
「そうだったああちくしょう!頼むから止まってくれ!」
「できたら抱きついてるのはそのまま、力だけ緩めてくれたら……」
せっかく治りかけていた肉体がメキメキと嫌な音を立てており、これはやばいとシオンの肩を何回も叩く。
「あ……」
自分のしたこと、そしてその影響に気が付いた彼女は頬を赤く染めて、仁から離れる。互いに惜しいと思い、また安心していたいたりと複雑だ。
「ごめん……」
「また治癒魔法のお世話になるところだった」
「嬉しいけどね」
気にするなと言いたいところだが、もう一度同じ力で抱きしめられたなら本当に洒落にならない。ここは受け取っておくべきだろう。
「……」
お互いに気を遣っているのか、どこか気まずい沈黙が二人の間に漂う。
おそらくシオンは、自分のせいだと責めていることだろう。たがこの場合、いくら気にするなと言ったところで相手は気にし続けるもの。
元気さをアピールしてシオンの負担を減らす。しかし元気とは程遠い健康状態のため、これもボツ。
悲しいかな。仁にはどの言葉が正解なのか分からない。どれも逆効果な気がしてならないのだ。
「死んじゃうかと、思った……」
仁二人があれこれ悩んでる間に、シオンの声が少しくぐもったものへと変わる。少女の顔を覗き込めば、目に涙が溜まっていた。
「……あ、いや、その、泣かなくても」
仁だったら、他人のために泣けるだろうか。きっと泣けないだろう。そんなモノは捨ててしまったのだから。だから、こんな自分のために、 泣いてくれた少女がとても眩しく見えて。その分、自分が醜く見えて。
「……ありがとう。本当に、助かった」
どう言うのが正解なのか、そんなことも忘れて、ただ普通に心に浮かんだ文字を伝えた。
「あのままだと間違いなく死んでた。だから、本当に助かった」
「僕からもお礼言わせておくれよ。ありがとさ!」
仁は頭を撫でたり、そういう気の利いたことはできない。なぜか?簡潔だ。手が痛くて動かせない。だから、死の淵から救い出してくれた少女に、感謝を言葉で伝えることにした。
なにはともあれ、五体満足である。痛くて動かせない箇所はあるが、完全に動かせない場所はどうやらない。もしもの時は僕に痛みを投げればいいのだ。
生きていれば、終わりではない。
「とりあえず元気じゃないかもだけど、ギリセーフで俺は生きてる。だから大丈夫だ」
根拠のよく分からない、しかし仁の中では最も自信のある理論を振りかざす。生きてさえいれば、何とかなる。生きていることが最も重要だと。
「セーフってなに?」
「えーと……なんだろ?大丈夫みたいな意味かな」
「なんか違う気がするよ」
鼻をぐすんと鳴らしながらの質問に、少しだけ的外れな答えを返す。正直、仁自身もそこまで考えたことがない。
「ほら、生きてればセーフ!俺の怪我を気にするより、シオンは助けたことを誇ってくれ」
「……とても珍しく、ごく稀にいいこと言ったね俺君」
「余計なものの割合のが多いんだけど」
仁は生きている。今は、それで良いのではないかと思うのだ。死ねば、終わりなのだから。
「……うん。ありがと。仁」
だから、自分が寝ている布団を涙やら鼻水やらで濡らしていく少女に心から感謝する。
いつしか仁の少女を見る目がいくらか柔らかくなり、そして淀んでいたことに、僕だけが気づきながら。
「いででで……不自由だな……」
ギリギリ五体満足ではあるが、彼は怪我が治るまで自力で立つことさえできなかった。
「ごめんなさい。治しきれなくて」
余りにも傷が多く、命に関わる傷だけしか治癒しきれなかったそうだ。日をおけばまた治癒魔法が効くらしく、完治には一週間かからないだろうとのこと。
当然その間、訓練も取りやめとなり、空いた時間は魔法に関する簡単な授業を受けることになった。知識は知るだけでも強みとなり、生きる力となる。
さて、問題は怪我がもたらす他の影響である。身体を動かせる様になるまでの一週間、仁はろくに立つことさえできず、腕を上げるのも一苦労だ。
「……シオン。ちょっとこれはさすがに止めよう。頼むから」
「大丈夫私。本に書いてある通りにすれば……!」
食事やトイレ、お風呂に移動その他etcに誰かの介護が必要ということになる。そして、その仁以外の誰かは一人しかいない。
「え、遠慮しないで、いいいわよ。手、まともに動かせないんでしょ!ほ、ほら口開けて!あ、あ、あ……」
ゆでだこと見間違わんばかりに、耳どころか全身真っ赤になっているシオンが、胃に優しい特製のお粥をスプーンに載せて輸送している。手元がぶるぶると震えており、今にも飛び散りそうで危険だ。
「あっつ!?シオン飛び散ってる!後これはさすがに恥ずかしいからもうやめて……」
「もう何こいつら弾け飛んで死ねばいいのに面倒くさくてうざったい」
胃に優しいが、精神的には優しくないお粥を食べるのはもう一匹のゆでだこだ。顔を真っ赤にイヤイヤと首を振って、動かない身体で必死に逃げようとしている。仁の精神にこのプレイはキツすぎる。
なにより、助けられた時からなんだか変だった。
「何嫌がってるフリしてるのさ。とっととパクッ!といきなよパクッと」
「ふ、フリじゃねえ!うるさいから黙ってろ!こういうのは恋人同士がするもんで……」
「こ、恋人?」
「君達の恋愛価値観はいつのだい!?ただお粥食べるだけだよ?なんでお粥食べないの?ねえ?本当は嫌じゃないんでしょ?ねえ?」
口に入れようと躊躇うシオンと、それに食いつかず逃げ回る俺の人格。当の本人以外からすれば、うざくてたまらない光景だろう。
「その、熱いのは本当にダメだ!」
「あああああああああもおおおおおおおおおおおおお!じれったい!」
「猫舌なんだ!お前も知っているだろ!?」
外野、というより頭の中の声が非常に騒がしい。元は同じ人間だったはずなのに、なぜここまでヘタレと肉食系と差が出るのか。
「そうだったそうだった。俺君猫舌だったね」
そして俺は気付くべきだった。苦しげな言い訳の時に僕が浮かべた微笑に。
「……や、やっぱり嫌?」
恥ずかしさで首を振っていたのを本気で嫌がっていると思ったのか、シオンがお粥を下げようとする。やはりこの天然ぼっち培養娘は上辺や建前、男心を全く分かっていない。
「い、嫌じゃない」
落ち込んだシオンを見た俺は慌てて否定し、その後にまた顔を真っ赤にして目を逸らした。しかしこれはもう、覚悟を決めるべきなのだろうか。
「あー、テステス」
俺の覚悟が決まりかけたその時だった。心理世界のスポットライトのあたる場所、いわば仁のコントロールルームを僕が素早く占拠したのだ。俺が止めるもギリギリで間に合わず、
「熱くて食べれないから、ふぅふぅして」
「きっ、きっ……貴様ああああああああああああああ!?」
わざわざ口調を俺に寄せて、さらなる爆弾をゆでだこ2匹に投下した。
「わ、わかったわ。頑張るわ!」
「おい、シオンも本気にするんじゃない!僕の悪ふざけだっ!もうそのままでいい!アツアツでいいから!」
恥ずかしさがいろんな部分を通り越し、目がぐるぐるマークとなっているシオンを全力で引き止める。色々とおかしな止め方だろうが、どちらもいっぱいいっぱいの必死である。
「そ、そう……じゃあ、ほら」
「……頼むから何も言わずに食べさせてくれ」
「わ、分かったわ。私もそっちのが落ち着けそう」
そうだ。誰もあーんという行為をするときに、わざわざ「あーん」と言う必要はないのだ。
だがしかし、あーんという行為自体そのものは変わらず。
「く、口開けて!」
「……ん」
幾分か恥ずかしさは減ったものの、恥ずかしいことには変わらず。顔を真っ赤にしながら、お粥を口に運び、運ばれるのであった。
(辛い。死ねばいいのにこいつら。なんでこんな純粋というか奥手な子に育っちゃったんだろ。やっぱり人と接さなかったからこうなるのかなぁあああヤダヤダ)
目の前で存分にイチャイチャとしている2人を見て僕は頭を振ってイライラを表現する。
「ほんとアツアツで胃もたれしそうな料理だよ。僕はもうお腹いっぱい。ごちそうさま」
「うるさいっ!うるさいっ!うるさいっ!」
「お、お粗末様でした?」
ニヤニヤと盛大に皮肉ったのであった。
「ま、こんな焼け付くように甘いランデブーも、死んでたら無理だったしね」
「いい風に纏めてるが死ね。おまえの喉が焼けつけ」
「あ、ちょっと待って痛覚投げないでそのお粥冷ましてな……あっつううううううううううううう!」
その日の夜。あーんだのトイレだのお風呂だの、疲れることが満載ですぐに眠ることができた。しかし、何も楽しいことばかりではない。
「ああああああああああああああああああああああ!?はぁ……はぁ……」
寝ても、あの悪夢を見て飛び起きてしまう。呼吸もひどく荒く、傷が疼き、汗は服が濡れるほどに止まらない。
「トラウマとか笑えない……早く寝て治さなきゃいけないのに」
悪態を吐き、目を閉じるもまた同じ夢を。それを幾度と繰り返しただろうか。」
ある声を境に悪夢が消えた。悪夢の途中で夢が不思議と終わったのだ。
「……大丈夫だから、ね」
荒い呼吸から安心したような寝息へと変わったのを、黒髪の少女が手を握りながら見ていた。
このことを仁はまだ知らない。
『ホフゴブリン』
ゴブリンの変異種。普通のゴブリンは一度に数匹出産するが、大きさの関係もあるのか、ホフゴブリンが産まれる時は一匹のみである。通常個体の群れを率いている姿がよく見受けられる。
身長は1m70cm〜2m50cmほど。肌の色はゴブリンよりもより深みのある緑である。知能が極めて高く、永き時を生きた個体の中には人語を解する者も。
武器を用い、作戦を立て、考えて戦うその戦闘力は、通常のゴブリンなどとは比べ物にならない。しかしながら、経験の蓄積からか個体ごとに大きな差がある。数多の戦場を駆け抜け、生き残った個体の強さはオーガを凌ぐことも。




