墓参りと空酒
寒い冬が終わった。元に戻ってまだ少しの世界には、厳しすぎる冬だった。暖房も電気ストーブなんてあるわけないし、毛布も布団も限られた。人々は焚き火を起こしたり、寄り添いあったり、暖かい物を食べることで、雪と冷たさを従える冬に立ち向かった。
そして多くの者が傷つき、負けた。風邪をひき、こじらせて肺炎になる者。凍傷になる者。生きていれば幸運な方だ。中には、命を落とす者だっていたのだから。
でも、そんな冬もようやく終わったのだ。暦は3月。まだ少し寒さは残っているが、凍えるほどではない。もう、春の兆しが見えている。外出する者も増えた。
「おはよう。末」
とはいっても、彼女は冬の間も毎日欠かさず、ここに来ていたけれど。霜が降りた日は、土をザクザク踏みしめて。雪が降った日には、真新しい白の世界に足跡を描いて、ここに。彼のお墓に。
だが、ここは壁の上ではない。世界が分離されたあの日、壁は向こうの世界に持っていかれた。その上にあった現実世界の物資の墓や遺骨を、地面に落下させて消えてしまった。
そのせいで、この二代目の墓地に柊の遺骨はない。でも、墓はここなのだ。ここに彼は眠っている、ということになっているのだ。
「やっぱり、やられたか」
その場所を前に、紅は歯を噛みしめる。予想はできていた。真面目なことに、凍えそうな冬の時でも、少ないとはいえあったのだから。暖かくなれば増えることなんて、分かりきっていた。
「飽きたりしないんだね」
その墓の名前は、見えない。泥などで汚れているからだ。何か硬い物で殴ったのだろうか。上の角が欠けている。昨日供えた花は、無惨にも踏み荒らされていた。以前お酒を供えた時には飲み干され、翌日には粉々の瓶だけが転がっていたこともある。
生前に多くの恨みを生み出した彼は、死後の安らぎさえ許されなかった。
「またリフォームすることになるのかな」
かけられた土を払い、欠けた角の具合を見ながら、紅は涙を堪え呟く。彼を憎しみ、恨む者たちによって墓は幾度となく汚され、世界分離とは別に二度の建て直しを余儀なくされていた。今日はまだ大丈夫だが、三度目はそう遠くないだろう。
「死んだらもう、良いことも悪いこともできないのにね」
彼はこの世にいない。もう何もできない。誰も殺さないし、傷つけない。だというのに、恨みは終わらない。一体どれだけ、彼は恨まれていたのだろう。
「……悪いことたくさんしてたの、私も分かってる」
例え守る為とはいえ、多くを斬り捨て、多くを殺したのは事実だ。その結果街が救われたのだとしても、遺族や被害者の想いは消えない。決して、消えることはないのだ。
「でも、その想いが消えないのは、末が守った街があるからで……!」
だが、消えないのは誰のおかげだろうか。死者は恨みを抱けない。生きているからこそ、人は恨みを抱ける。もしも柊が街を守れなかったら、非道に手を染めなかったのなら、彼に恨みを抱く者達は果たして、生きていたのだろうか。
なんともまぁ、皮肉な世の中だった。守りきったからこそ、彼は恨みを抱かれる。実は助けられていたことなんて、生きていることが当たり前の彼らは知らないし、気づかなくて、柊を恨み続ける。
「ねぇ末はさ、最後に笑ってたけど」
ただの石に、紅は問う。彼の最後は細部までよく覚えている。彼が最後に浮かべた、満足そうな表情も全て記憶している。
「これで良かったの?満足だったの?」
でも、彼はこの死後の結末をどう思っているのか。それは紅には分からないのだ。死んでいるから別にと、いつもの無表情で言うのだろうか。
「分かるよ。分かってる。頭ではずっと、分かってる」
許されないのは分かっている。被害者や遺族から見れば、殺しても殺したりないような人間であることは承知している。
「でも、私は悲しいし、悔しいよ……」
だが、紅の心はどうしても、泣いていた。傷つき、涙を現実に反映し、膝を地面に付けて、手で顔を覆う。
冬と春の境目の朝は、まだ少しだけ肌寒い。そんな気温の中、瞳から溢れたその液体は、一際熱さを主張していた。
時間が経って涙も乾き、心も落ち着いたなら、彼女は彼女の戦いを始める。今までに何度も繰り返してきた戦いだ。墓を汚すことが恨みを抱く者の戦いであるならば、墓を清めることが、末を愛する紅の戦いだった。
この墓地の管理者もいるにはいるが、全てに手が回るわけではない。復興の為に人手不足が常の中、遺族が悲しむ以外の害はない墓荒らしの為に、これ以上人手を割くわけにもいかない。だから、自分達でするしかないのだ。
欠けた部分は手の施しようがないが、泥などの汚れは、根気よく続ければどうにかなる。両手のバケツとその中の水、ブラシと雑巾2枚が、その為の武装だ。水道の復旧なんてまだまだ絵空事で、近くの川から汲んでくるしかない。最初の頃は大変だったが、今はもう慣れてしまった。
まずはバケツの水にブラシを浸し、泥を擦って落としていく。何度も何度も、落ちるまで丁寧に。腕が疲れても、ずっと。
大体綺麗になったなら、次は雑巾だ。冷たい水を1枚目の雑巾に吸わせ、軽く絞る。あかぎれが酷く痛むが、我慢。残り僅かな泥や汚れを、冷たさに軋む掌の雑巾で殴っていく。
最後は、2枚目の乾いた雑巾の出番だ。水の模様を拭き取れば、建てたての頃とまではいかないが、それでも見れるくらいには綺麗になった。
「こんなもの、かな。ごめんね。いつも汚くて。今日に限っては花もお酒もないし」
限界まで綺麗にして、それでも届かないことに謝る紅。昨日供えたからと、花やお酒を持ってこなかった。そのせいで、今日の柊の墓は供え物のない、何とも寂しいものになってしまったのだ。
「いやいや、紅が謝ることじゃないでしょ」
「え?」
「やぁ。奇遇だね」
背後からの声に慌てて振り向けば、そこには優男が立っていた。手をかざして挨拶するのは、桃田。奇遇だねということはおそらく、彼も墓参りに来たのだろう。
「ずっと見てたの?相変わらず趣味が悪い」
「趣味は悪くないよ。来たのはさっきだ。もっと早くに来ていたのなら、掃除を手伝っていたさ。紅が良ければだけどね」
直前の行動を言い当てられはしたものの、彼の性格上、今来たのは本当のようだ。以前何度か、墓の掃除を見られている。バケツやブラシもあることから、紅が何をしていたのかは丸分かりなのだろう。
「それに、今日の司令の墓にお供え物がないわけでもない。いいかな?」
「あ、ありがたいけど、いいの?それは」
「楓の分はもちろん残す。でも、全部残すのは彼女が怒るだろうから」
「……そう。じゃあ、いただくわ。末も喜ぶ」
彼から手渡された菊の花を、墓に供える。本来の量ほどではなくて、まだ寂しさは拭いきれないけれど、それでも少しだけ賑やかにはなった。
2人で共に手を合わせ、やがて立ち上がる。今日の戦いは、これで終わりだ。
「本当、人間が嫌になるね」
「でも、仕方ないわ。軍がしたことを思えばね」
柊の墓が汚されたことに対し、桃田は憤りを覚えていた。彼もまた、柊の全てを知る1人。紅にも、その気持ちは痛いほど分かる。でも、自らに言い聞かせるように。
「末のだけじゃない。みんなのだって」
「……楓のも、一度だけね」
柊が一番酷いが、他の軍人のお墓も汚されないわけではない。軍というだけで、彼らは憎悪の対象になってしまう。蓮も酔馬も、あの聖人君子のようだった楓さえも、みんな。
「腹立たしくて、しようがないよ」
「やり返したりしないでよ?」
「しないさ。螺旋はもうこりごりだ」
怒りに震える桃田もまた、戦う1人だ。毎日欠かさず墓参りにきて、汚されていないか、壊されていないかを確認して、祈りを捧げている。もしも知っている誰かの墓が汚されていたのなら、綺麗にして帰っている。でも、知らない名前の墓までは、さすがにカバーしきれなかった。綺麗にするよりは汚す方がずっと簡単で時間がかからなくて、時間には限りがあるから。
「まぁ、俺らだけじゃないし」
「そうね」
思えば、少しだけ拳の力が緩まること。それは、戦っているのは紅と桃田だけではないということ。
「蓮って本当にモテてたね。毎日女の子が数人来てるみたい」
「あの風貌でね。びっくりだよ。まぁびっくりといえば、酔馬さんもなかなか」
「死んでからモテるの、彼らしいわ」
「大半は野郎だけどね」
蓮の墓は色街の女性やかつて助けた者達によって。酔馬の墓は彼が開いていた教室の参加者や、彼を慕い、救われた者達によって。イヌマキの墓も、彼を知る者によって守られていた。彼らもまた、何度墓が汚されようと戦い続けていた。
「それに、うちの奥さんも捨てたもんじゃない」
「あら、惚気?それとも嫉妬の愚痴?」
「どっちもプラス感謝に惚れ直しかな」
楓の墓だって同じだ。彼女の今までの行いを知る者達がいた。彼女が人を助けようとしたことが間違いでなかったことを証明するかのように、時折新しい花が供えられ、掃除された跡がある。
「……堅や環菜も、たまにね」
何度か出くわしたのだろう。あの2人もまた、この墓場に多くの関係者を持つ者達だ。軍内部だけではない。柊の次に汚されることの多い、ある女騎士の墓に彼らはよく訪れている。
「そうだ。紅からも言ってくれない?仁君に無理はするなって」
「あの子、やっぱり通ってるの?」
そして、仁も。氷の左腕以外の四肢を失い、右眼の視力を失くし、身体を魔法に蝕まれても、彼は墓参りに来ているようだった。車椅子や義足、義手に杖を用いて、かなりの頻度で。
「来るのは止めないから、せめて無理に掃除するのだけはやめてくれって」
彼はそれだけ、背負っているのだろう。たった一本しかない腕で、必死に掃除しようとしているのを見た時、桃田は腰を抜かしかけた。控えるようにとは言ったものの、未だに仁をよく見かける。
「言って聞く子じゃないかもしれないけど、言っとく」
「頼むよ。ついでにもう1人、注意して欲しいんだけどさ」
「他にもいるの?」
一応と紅が了承したその時、桃田は思い出したかのように手を叩く。仁ほど無茶をする人が他にいただろうかと、紅は考えを巡らせるが答えは見つからない。
「元司令の墓に毎日通う女性なんだけどさ」
「……私?」
「そう、私」
それもそうだろう。だって、その人物は他ならぬ紅本人なのだから。無茶をしている人間は、案外自分を客観視できないものである。
「で、でも、私は好きでやっていることだし、無理なんて」
「危ないって話だよ。考えてもみて」
毎日という頻度も問題ではあるが、そこではない。柊の墓を綺麗にする女性というのが、問題なのだ。
恨みで墓を汚した者からすれば、その度に綺麗にする紅は邪魔な存在だろう。もしも鉢合わせになった場合、どうなるか。最悪、殺されるだけでは済まないかもしれない。
「……考えたこともなかった」
「だよねぇ。というわけで、今度から誰か護衛とかつけなよ」
「だけど、そしたらその護衛の人に迷惑がかかるじゃない?朝早いし、危ないし」
自分は危ないことをしていたのだと、紅はようやく思い知った。でも、護衛の人のことを思えば、勧められた案には賛成できなかった。
あの四兄弟は元気に働いているし、何より妹達の大切な人だ。巻き込むわけにはいかない。同じ理由で、仲の良い者も全て候補から外れる。人手が足りないというのに、政府に護衛を依頼なんて以ての外。
「いいわ。私、1人でも。そっちのが気楽だしね」
頼める相手なんて、誰もいないのだ。だから自分だけでいいと、もしもの時も自分だけでいいと、紅は笑う。
「いや、だめでしょ。司令が天国で本気で泣くよ?」
「……」
だが、桃田がそれを許さなかった。だが、彼の言葉が、紅の笑顔と言葉を奪った。その理由にだけは、彼女も弱い。
「分かったなら、もっと周りに頼む!いいね?」
「……考えとく」
先延ばしにしたり、うやむやにしたりする為の返事ではなく、本当の意味で紅は考えると告げる。リスクを考えれば避けたいが、でも、彼女だって死にたくはないし、彼を悲しませたくはなかった。
「そろそろ戻るわ。店もあるから」
「じゃ、一緒に行こうか。持つよ」
用は済んだし、店の開店時間もある。もう帰ろうと立ち上がり、バケツに手をかけたところで、その手を止められる。
「護衛第1号さ。嫌かい?」
「嫌ね。貴方の奥さんに嫉妬されそう」
相変わらずの見た目通りの気障っぷりと、見た目にそぐわぬ優しさに、紅は楓の心労を思う。生前もきっと、いつ他の女性に取られないか心配だったのではないだろうか。
「楓の心の広さはすごいよ?むしろここで護衛しなかった方が、俺は叱られる」
「あらあら。惚気ちゃって。じゃ、お願いするわ」
「仰せのままに」
だが、それは大いなる読み違いだったらしい。楓のことを自慢気に話す桃田に、ならばと紅は護衛を依頼する。
「あ、店に行く時に言おうと思ってたんだけど……」
「なに?」
いざ帰ろうとした直前、桃田が紅に声をかける。なにかと隣の金髪を仰ぎ見れば、彼はニコリと笑って、
「お花見があります」
元軍人達が参加する、春の催しの開催を告げた。
いくら食糧が足りなくなったとはいえ、さすがに桜の木を切り倒すことは、日本人の血が躊躇ったらしい。無論、全てが残ったわけではないが、各地に一本から数本程度くらいは、綺麗な花を咲かせていた。
旧軍の敷地内もその内の一つ。残った桜の数は、柊の指導もあって、この街でも最多の9本。本当はもっとあったのだが、内乱の際に焼失してしまったのだ。
そして今日。時は四月の天候は晴れ。今ここに、元軍人達お花見が始まろうとしていた。
「いやぁ、みんな来てますねぇ!やっほー!」
「ここでいいっすか?」
「もうちょい右の方かしら?」
「了解しました!」
「うん!ちょーどそこでいいと思うゾ!ぐっじょぶ!」
場所取り係の一葉と、彼に肩車された菜花が、みんなを見つけて声をかけ。蘭と茉莉の指示の下、準備係の双葉と三葉がブルーシートを地面に敷く。一葉と菜花が朝早くから場所取りを頑張った甲斐もあり、場所はなんと、桜の真下の特等席だ。
「では」
「ん」
四方に重しの石を、中央に持参した包みを広げるのは四葉と牡丹。ずっしりと重みのある重箱の中身は、お察しの通り五つ子亭特製のお弁当である。
「さぁ!今日はぱあっと飲むわよ!ぶれいこーぶれいこー!」
「いつもぱあっとしているし、無礼講の意味おかしいだろう。まぁ、今日はいいと思うが」
堅がコップにお茶を、もしくはグラスに酒を注ぎらそれを環菜がみんなに配って回している。どちらもそれなりの貴重品ではあるが、今日に限っては盛大に解禁だ。
「医者がいるからって、急性アル中になんないでよ?」
「その医者の貴女も、飲み過ぎてアル中なんてことにはならないでくだ……ああダメ!それはパパの!」
釘を刺す梨崎の手の中のグラスを見て、家族連れで来た石蕗が釘を刺す。しかしその途中、父親のグラスの中身に興味を持った娘に意識が移動。代わりにお茶を飲ませる家族の光景は、なんとも微笑ましいもので。
「あ、仁さんだ!おーい!」
「「「「兄貴ぃ!」」」」
「あ、ありがとうございます」
肩車続行中だった菜花が真っ先に発見したのは、杖をついて歩く隻眼の少年。すぐさま双葉と三葉が駆けつけて担ぎ上げ、超特急で青い陣地の上へお連れする。
「すいません。遅れました。手伝えなくて、申し訳ありません」
「いえいえ、ギリギリセーフです!今からスタートです!」
「別に準備のことなんて気にしないでくだせぇ!」
まず頭を下げた仁に対し、菜花と一葉がすぐさまフォロー。義足義手のその身体では、移動が遅いことも手伝えないことも仕方がない。でも、少年はやはり生真面目過ぎて、笑いはしたものの傷だらけの顔は未だ暗くて。
「石蕗さん、お願いしても?」
「ええ、私でよろしければ。ささっ、皆さん、始めますよ!」
こうなったらもう、騒ぎを始めて忘れさせる他にないだろうと、紅はこの場で最も偉い石蕗へと音頭を頼む。彼はまず、よく通る声でみんなに呼びかけ注目を集め、
「本日はお日柄もよく、天候にも恵まれました。絶好の花見日和で、絶景の桜です。こんな日に皆さんと集まれたこと、嬉しく思います」
まずは恒例の前置きを述べ、咲き誇る桜の花を手で示して微笑む。本当に、天候にも時期にもみんなの体調にもスケジュールにも恵まれた。
「未だ傷跡も悲しみも癒えないでしょうが、それでも、生きていることに感謝を。今日は桜を見れたことを、祝いましょう」
待ちきれない環菜や菜花もいるので、挨拶は手短に一分ほどに。
「それでは皆さん。他の花見客もいらっしゃるので、くれぐれもマナーを守って。乾杯!」
「「乾杯!」」
グラスを掲げた石蕗に続き、全員で乾杯。こうして、花見が始まった。
環菜から一発芸をしろと無茶振りをされた堅が、困り果てた上に滑り倒す。けしかけた環菜と見た梨崎、一葉、菜花が、その酷さに腹を抱えて笑い転げている。
茉莉に無理矢理あーんされた三葉が顔を真っ赤にしていて、それを見た蘭と双葉がからかって。反撃にやってみろと言われるも、2人は難なくこなして格の違いを見せつけて。
石蕗夫妻の娘を不器用ながらにあやしているのは、牡丹と四葉だ。どうやら彼らを気に入ったらしく、実の父親に呼ばれても2人から離れようとしない。そのことにショックを受けた石蕗の顔はもう、それはそれはこの世の終わりのような。
そしてそれらを眺めて、仁は笑ってお茶を飲んでいた。その笑みにまだ陰があるのはきっと、彼の半身と大切な人がいればと、想像しているからだろうか。
どんちゃん騒ぎ、とまではいかないものの、それなりに騒がしい。綺麗な桜と美味しいお弁当を肴に酒を飲み、親しい者とお喋りすれば、こうなるのも当然か。
「教えた本人が来ないとはね。ま、予想はできてたけど」
だが、この場に桃田はいない。堅と環菜が来ると菜花に聞いた時から、薄々そんな予感はしていた。彼らの間にあった出来事を思えば、それは仕方のないことなのだ。
「綺麗なのに、もったいない」
とは言っても、いないのは桃田だけではなく。黒髪で傷だらけの少女も、綺麗な金髪の『勇者』も、白髪の『記録者』も。そして、がははと笑う熊も、堅と一緒にいじられるはずのいじられの貴公子も、優し過ぎた桃田の婚約者も、あの小さな木彫りの犬も、少年のもう一つの人格も、たまにしか笑わない紅の大切な人も、いないのだ。
「右奥の桜の木の陰を見てみろ。ちゃんといるぞ」
「あら。ほんとだ」
愚痴をこぼして日本酒をちびりと飲む紅の耳に、声がした。言われるがままにそちらを向けば、金髪の青年が見つかっちゃったと言わんばかりに、肩をすくめていた。
「なーんだ。来てるんじゃ……え?」
笑い返して、乾杯とばかりに杯を捧げて、また飲んで。そしてようやく、紅は聞こえた声を思い出した。正確には、誰の声であったかを。
「絶景だな」
慌てて振り返って、そこにあぐらをかき、酒を煽る男を見て、紅は声を失う。いるはずがない、人だったから。
「守った甲斐があった」
彼は満足そうに、桜と人を見て笑っていた。本当に、幸せそうに、目を細めて。
「うん。そうだね」
だから、紅も頷いた。彼が笑うなら、幸せだったなら、それでいいと。
風に吹かれ、桜の花びらが舞い上がる。瞬きをした紅の視界にもう、彼はいなかった。
ただ、桜の花が舞っていた。
例え今の数秒が幻だったしても、それでも紅は。




