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幻想現実世界の勇者  作者: ペサ
幻想現実世界の勇者
200/266

もう一度、彼女を



 ロロが密かに抱え、本編では仁達に気を遣わせないように隠していた弱音というか、悩みのお話です。


 永遠の夜を寄り添いて、無力なる彼は愛する者の心を守り続けた。人知れず、歴史にも残らず、永遠に続いた彼の戦いは、ある日突然敗北に終わった。積み重ねた何千勝は、たった一つの敗北にて覆された。






 それは、仁とシオンが塔へ旅立つと挨拶回りをしていた日の夜のこと。一部屋では道具の展開に足りない。そう告げた夫婦が『政府』から借りた一軒家の戸の前に、白髪の青年が立っていた。


「やぁ。私達は明後日に備えて魔道具の準備があるんだけどねぇ」


「ふん。そんなこと、もう終わっているのではないか?」


 開けた戸から顔を出した片眼鏡に、彼は鼻を鳴らして嘘を吐くなと訴える。永年生きて英雄を記録し続けてきた男の勘が、そう告げていたのだ。


「––––」


「我が妻から「鋭いね」だとさ。どうして分かったんだい?」


「イヌマキが貴殿ら夫婦のことを、「いずれ自分を超える可能性」と言っていた。そんな化け物が旅に使う刻印の準備に数時間もかかるとは、とてもじゃないが思わんよ」


 イヌマキを超える。それはおそらく、人類の歴史の中でも最高の魔法使いになると言っても過言ではない。それにルピナスは魔法陣の研究の最先端を駆ける者だ。刻印のストックなど腐る程あるに違いない。故にロロは、今頃夫婦は暇を持て余しているだろうと思い、訪ねたのだ。


「見事だねぇ。ご明察だ。で、何がお望みだい?『記録者』さん」


「飲みに行こう」


「……はい?」


「––––?」


 普段何を話しているか分からないルピナスでさえ、間違いなく「はい?」と言った。それくらいロロの誘いは唐突にして空気が読めなくて、盲点だった。


「世界が違えば酒もツマミも違う。日本酒というものがあってね。自分は焼酎がお気に入りだ。良い店を知っているんだが、そこで一杯どうだ?」


「それは実に興味があるねぇ!」


「––––!」


 しかし、プラタナスとルピナスは酒に目がなかった。異世界のお酒という心躍る誘惑に釣られ、異世界人三人は街に繰り出した。その後ろを追う影に、夫婦だけが気づいていながら。









 それは戦場の真っ只中にありながら、とある悪魔の防衛と少女の防衛によってほぼ無傷で生き延びたとある食堂。さすがに長女は接客に出てこないし、他の姉妹も時折辛そうな顔を見せているが、それでも。少ないとはいえ死者が出た、こんな時だからこそとのれんを出す。そんな明るい店、軍人御用達だった五つ子亭である。


「お邪魔するよ」


「やゃ!これはロロさん!いらっしゃいませー!もしや今夜『ロロ劇場』を!?いやー!内乱で途切れちゃうてて、気になってるんですよ!」


「ロロ劇場?」


 扉を開けた途端に出迎えられた元気いっぱい小娘に、飛び上がって影に隠れた妻の人形に微笑みつつ、プラタナスは初めて聞いた単語を繰り返して尋ねた。


「ああ。てっきり軍が代金を支払ってくれるだろうと思っていてな。初来店した時に食い逃げ騒動にはなりかけて」


「蘭姉さんをガチ切れさせてなんやかんやあって、気付いたら週四くらい、ここで語り部してくれてたんですよ!面白くて好評ですし、その日はお客さんも多くなるんです!」


 歴史とは時に、とてもドラマチックな面を見せることがある。『記録者』としてそれを網羅する彼の映像付きの語りはさぞかし、迫力があることだろう。軍で魔法の講義を開く以外にすることもないロロが、暇な時間をどう過ごしていたか。ようやく判明した。


「そしてすまんな五つ子の末っ子よ。それは明日で今日は飲みだ」


「やったー!明日やってくれるんですね!一葉も楽しみにしてるんですよ!早く『首輪の王冠、勇者の偽剣』の続きが聞きたいです!あの友情の絡みがたまらない……」


 ロロが明後日に旅立つことは、五つ子亭のしまいにはもう伝わっているはずだ。だというのに、明日が最終回と気づかず楽しみと喜ぶ菜花に真実を教えぬまま、『記録者』は微笑む。


「よりによって、語るのがそれかねぇ?」


「何がだ?」


「……まぁいい。『記録者』も知らない真実があると分かって安心だよ」


 しかしロロが知る歴史とは、忌み子を殺し続けてきた世界の歴史である。自らを虐殺しようとする者達の歴史を面白がってみるとは、かなりいい味の皮肉ではなかろうか。そうプラタナスは思ったが、ロロも菜花も気づかないのか首を傾げている。


「お連れさんは……」


「ああ、すまない。私はこう見えて政府に雇われ」


 プラタナス達がこの街に来てまだ一日しか経っていない。この街をよく知らない彼は、こんな食事処にまで容姿や事情が伝わっているとも思えず、騎士でも敵でもないと手を振ったのだが、


「すっごい綺麗な髪と目の色ですね!?うひゃー!真緑って初めて見ました!んん!ということは異世界人……?そちらのお人形さんは魔法で操ってるんですか!?そうなんですか!?」


「……ああ、ありがとう」


 言葉の途中で菜花のマシンガントークに飲み込まれ、とりあえず褒められた眼と髪に対処する。まさか宮廷筆頭魔導師たるプラタナスが一瞬とはいえ動揺させられるとは、この街の店員は恐ろしい。


「それと一つ訂正を。この人形は魔法で動いてはいるが、動かしているのは我が妻でねぇ。この人形は、私の妻なんだ」


 すすっと、ルピナスがプラタナスの背に隠れてしまう。人形が妻?そのことを聞いた人間のほとんどは皆、引いて距離を取った。庇うように前に立った夫は我が道を行くタイプなのでそこまで気にしないが、ルピナスは一回一回気落ちしてしまう。そして気落ちした彼女を見て、プラタナスも泣くのだ。


「奥さんなんですか!?ひゃー!可愛らしい人ですね!夫婦というのは羨ましいです!あ、ではでは。当店は初めてとのことですので……」


「あ、それに関していい。自分が説明する」


「了解しました!ぶっちゃけ忙しい時間帯なんで助かります!では、注文が決まりましたらお呼びください!ごゆっくり!」


 初見さんに対する説明を、もはや常連のロロがバッサリカット。菜花は気を悪くする事もなく、むしろ大喜びで他のテーブルへと駆けて行く。その後ろ姿を、プラタナスとルピナスは呆然と見つめていた。


「あんな反応をされたのは初めてだねぇ……新鮮だ」


 空いていたテーブルに座り、ロロと夫婦は向かい合う。まず初めに話題に上がったのは注文の内容ではなく、店員菜花の接客というか素の部分について。


「この街みんながそうと思わん方がいい。世界が変わってもその辺は変わらん。あのちみっこが特例だ」


 ようやくマリーが街に馴染んだ頃なのだ。ポッと出の異世界人である夫婦は行く先々で疑われ、好奇や嫌悪の視線を向けられた。それはつい先日の襲撃を考えれば仕方のない事だし、プラタナスは特に気にしてもいないが、それでも菜花の反応は本当に意外だった。


「だろうねぇ。でも、聞いたかいルピナス?彼女は警戒もせずに、私の眼と髪を褒めてくれたよ。そして君の事を、可愛らしい人だと言った」


「––––。」


 ルピナスの事を打ち明けた今までの者達は、驚き、恐れ、引き、怖がり、不気味がり、哀れんだ。それも仕方のない事だ。人形を愛しているなど、一般人からすれば理解されるわけもない。妻を殺されかけ、その魂を人形に封じ込めたのだ。優しい人間なら哀れんで当然。しかし、菜花は可愛らしい人と言って、目を輝かせた。


「君も嬉しいんだねぇ。彼女は君の事を人と言ったんだ……やはり馬鹿は本当に理解できないが故に、侮れない」


 なぜか。まぁそれはプラタナスが言った通り、彼女が馬鹿だからだろう。細かい事を気にしないと豪語する彼女は、よくよく何かを見落としがちだ。だが、時に彼女は、本当に大切なものを見つけているのかもしれない。


「––––!」


「い、痛いよルピナス!ちょっと待ってくれ!この場合の馬鹿は褒め言葉だ!」


「いや、知るか馬鹿者。明らかに馬鹿にしてたではないか。一葉が聞いたら怒るぞ」


 しかし、馬鹿はないだろう。人間扱いされて嬉しかったルピナスは菜花に暴言を吐いた夫を叩き、ロロも彼の反論にそれはないとジト目を向ける。


「一葉?」


「さっきのちみっこの良い人だ。凄い体格差だが、不思議と見ていてお似合いとなる二人でな……ああそうだ聞いてくれ!ここの五姉妹の下四人と、強面の四兄弟の話だ!」


 聞きなれない名前に反応したプラタナスに、ロロは目を輝かせる。永い歴史を見てきた彼でも、五姉妹の下四姉妹と四兄弟のカップルは珍しいものだったらしい。


「––––」


「話が長くなりそうだから、先に注文しようと我が妻からの提案さ」


「それもそうだな。よし、ではここは自分のおまかせでよいか?食料が対価だが、どうせあるだろう?」


「虚空庫に一生分の貯蓄があるし、料理はお任せするが、酒に関しては少し注文してもよいかねぇ?私はあっさり目、妻はキツイのが好みだ」


「ふむ。任せておけ。こう見えてもここにかなりの頻度で通っていてな!酒はあらかた味見済みだ!期待に見事応えてみせよう!というよりたくさん頼んで飲み比べしよう!」


 色々と察したルピナスが出した助け舟に乗っかり、一同は注文について考え始めた。プラタナスもルピナスも特に好き嫌いはないが、釣り餌だった酒に関してだけはこだわりを見せる。


「それでは、店員を呼ぶとし––」


「あら。楽しそうな飲み会してるじゃない。私も誘いなさいよ」


 夫婦の好みの酒とそれに合うツマミを選んだロロが店員を呼ぼうとした時、空いていたロロの隣に一人の女性が滑り込んだ。


「やぁマリー。監視から報告を聞いて、大急ぎで駆け付けたのかねぇ?化粧が乱れてるよ?」


「監視を見抜かれていたことより、貴方が化粧を見分けられたことに私は驚いているわ。てっきり、すっぴんとの違いも分からないんじゃないかと」


 四人目の飲み会参加者は『勇者』マリー。プラタナスの指摘通り、ロロと夫婦が接触したと聞いて慌てて飛んできたのだ。


 政府はプラタナスとルピナスを受け入れてはいるが、マリーは彼らを完全に信用したわけではない。万が一に備え、個人的に見張りをお願いしていたのだ。もちろん気付かれているだろうが、それでも牽制する為に。


 塔の鍵を持ち、扉を開けられる『記録者』ロロを夫婦に拉致されれば、仁達は旅立つ意味を失ってしまう。そして、この夫婦は目的の為なら手段を選ばない。彼らが求めるものを考えれば、ロロはそれの手がかりになり得るのだから。攫う可能性は十分にあった。


「––––?」


「我が妻から、「化粧室に行ってもいいよ。注文はしとくから」だそうだ」


「ありがとう。でも、遠慮しとくわ。別に私すっぴんでも綺麗だし。私はビールでお願い」


 今のところ杞憂だが、油断は出来ず目も離せない。完全な善意でお色直しを勧めてくれたルピナスを落ち込ませて申し訳ないが、ここて席を立つわけにはいかなかった。


「おやおや。監視の癖に飲むのかい?」


「悪い?一応懐かしい面子との再開なんだから、少しくらいいいでしょう」


「––––!」


「やれやれだねぇ。妻にも「意地悪しない!」と怒られてしまった。安心したまえ。別に『記録者』を攫うつもりはないよ」


 ロロが店員を呼ぶ傍ら、妻に小突かれた彼は両手を挙げ、敵意が無いことを示す。「どうだか」とお冷やを煽ったマリーだが、彼女も半信半疑の状態なのだ。だから、多少気を緩めて飲みに付き合いながら監視する。


「まぁ、懐かしさを感じる面子ではあるし、悪くはないか。サルビアもプリムラも死んでしまったし、愛しの彼もいないけどもねぇ」


「ぶっ!?あんた何十年前の若気の至りよそれっ!?というか、誰にも言ったことがない墓場まで持っていくつもりの記憶なんだけど!?」


 監視していたことに対する腹いせだろうか。プラタナスがぽいっと投げた学生時代以前の爆弾は見事マリーに直撃し、彼女は水を噴き出してしまう。当然、真正面にいた爆弾魔はこれまたいい笑顔で、魔法にて水をガード。相変わらず隙がない。


「ほぅ!?それは極めて興味深い!ぜひ聞かせ」


「黙りなさい覗き魔!」


「いだっ!それこそいつの話だっ!?」


 注文していた間も、歴史を聞いてきた耳はこちらを向いていたらしい。これは脅しにも使えるし面白そうだと目を輝かせたロロの頭を凹ませ、マリーは敢えて周囲に聞こえるように罵倒する。


「はっはっはっ!別に私は人の心が分からない訳ではなくてねぇ?視線、表情、動作から内心を推測することは極めて容易いものだ」


「じゃあなんで、あんたはそんなに無神経なのよ」


 分かりやすかったよと高笑いするプラタナスに、口には出したことがなかった淡い記憶を掘り起こされ、唇を尖らせるマリー。無神経の部分に関しては彼の妻も多少は理解しているようで、言われてもしょうがないとため息を吐いている。


「簡単なことだねぇ。私は他人の内心を理解した上で、全く気も神経も遣っていないだけさ。いやぁ、あの頃の君は実に健気だったよ」


「知ってるドクズ?私、あの時点であんたより年上だったからね?」


「さっき若気の至りだとか言ってなかったかい?」


「なに?いいの?あんただってルピナスが学生の時、貴方達が保健室の寝台で何をしていたかを全部ばら」


「–––––––!?」


 マリーの反撃に巻き込まれたルピナスが飛び上がり、抗議とばかりにぽかぽかと殴り付ける。沈黙と反応は時に、肯定だと雄弁に語るものだ。ああ、だがしかし悲しいかな。


「えっ。ちょっとあんた、マジで?え?プラタナス!あんたの奥さんの方が私より分かりやすいわよ!」


「––––!?」


「……ルピナス。これはマリーのカマかけだ……今朝の二人とは違って、証拠隠滅は完璧だったからねぇ」


「––––––––!?!?」


「ほぅ!保健室の寝台で一体何をしたのか詳し……がはっ!?おいやめろ!これ本当に常人なら死ぬ力ではないか!」


 自爆した。そう悟ったルピナスが頬を抱えてうずくまり、興味深いだのと言って羽ペンを取り出したロロを、プラタナスが笑顔で微動だにしないまま魔法で縛り上げてそして、


「お待たせしました!ツマミの枝豆と注文のお酒でっひゃあ!?い、犬!」


「うんうん。いいじゃねえのこの緑の豆の塩茹で。俺の秘蔵の酒と実に合う。あ、驚かしてすまねえ。邪魔するぜ。お代はロロにつけといてくれ」


「なぜ自分なのだ!?」


「お前、俺に借金あったろ。今返せ返済しろ。千年越えの利子は負けてやる。いやぁ俺様太っ腹」


「貴様もいつの話だ!虚空庫の中の酒で払わんか!なんなら自分達の分もな!」


 運ばれてきた酒とツマミ、いつの間にやら湧いて出てきた木彫りの犬イヌマキにて役者は揃い、異世界大人組の飲み会が幕を開けた。







 とりあえず代表的な酒を頼みまくり、どれが合うか試し飲みと相成って。


「ううむ。このビールというのかねぇ?喉を通っていくのが実にたまらない」


「くぅ……!もっと早くにこの味を知っておけばよかったんだがなぁ。ちくしょうめ」


「ううむ。不思議な光景だな。その格好で飲めるとは」


 マリーおすすめのビールをチョイスしたプラタナスとイヌマキが、まるでサラリーマンのオヤジのように枝豆と一緒に煽っていた。木の犬の口にごくりごくりとビールが吸い込まれていく様は、どうにも違和感がありまくる。


「ふぅん。そんな普通の飲み方なの?通じゃないわね」


「通も何もあるのかい?私達は初めて飲んだと言うのに」


「そんなに言うんだったら、その通の飲み方っての一つご教授願いたいもんだ」


「ほぉれ。やってみるがいい。記録の準備は万端だ」


「いいわよぉ?このマリーさんが目にもの見せてあげるわ」


 どこか勝ち誇った笑みで見下す元日本人に、いいからもっと美味しい飲み方を教えろとプラタナスとイヌマキとロロの二人と一匹がグラスを片手に詰め寄る。それを見たマリーは満足気ににっこり笑うと、


「日本でビールは……こう飲むのよ!」


「「ふぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉおおおおおお!?」」


「これは実に興味深いねぇ」


 氷魔法でジョッキ周辺の温度を一気に下げ、ビールをキンキンにしてみせた。


 そうなのだ。世界融合により安定した電力供給も冬も無くなった現在、氷を作るのは簡単ではない。僅かな電力で稼働させた製氷機から作られる氷は全て食料庫もしくは飲食店の冷凍庫行き。氷の数は少なく、食料を腐らすわけにもいかず。とてもじゃないが、ビールに回す余裕なんてなかった。つまり、現在この世界において、ビールは冷えていないのである。


 もちろん、店だって努力した。出来る限り冷たい場所に置いたり、少しでも冷凍庫に隙間が空けばそこにビールを突っ込んだりした。だがしかし、それでも大半のビールはキンキンではない。例に漏れず、プラタナスとイヌマキが今飲んでいるビールも多少冷えてはいるが、キンキンではないのだ。


 だが、だかしかし。魔法ならば冷やすことが出来る。氷なんていくらでも作れる。なんだって冷やせる。マリーもシオンも、魔力が余っている時は軍に氷を差し入れていた。それは食料の保存用だったが、今は違う。


「ほら、飲んでみなさい!仕事終わりに天国に連れてってくれる、仏が喉を通っていくような美味しさよ!」


 ビールとはかくあるもの。それを証明するが為に、彼女は氷魔法でキンキンに冷やしたのだ。魔法が使える者の特権を乱用した結果の四ジョッキを、ロロ、イヌマキ、プラタナス、ルピナスは一気に飲み干して、


「「「「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!?」」」」


 ダンッ!とジョッキがテーブルに着地した音四つ。そして四人の感動の、声にならない悲鳴が重なった。世界を越えようが、やはりキンキンに冷えたビールは最高なのだ。


 ドヤ顔のマリー、悔しそうなプラタナスに幸せそうな飲兵衛ども。ツマミと合わせた美味しさに二度目の撃沈を味わい、宴は更に進む。


「––––––♫」


「お前の嫁さん、大概な飲兵衛だな」


「前と変わらない飲みっぷりに驚くしかないわ」


 ヤケクソとばかりに日本酒を一升瓶で開けたルピナスに、周囲は戦慄するばかり。イヌマキもルピナスもただの人形ではなく、味を感じる機能も酔う機能もしっかり存在しているのだ。ちなみに、人形になる以前からもルピナスは酒豪であり、その容量は今も昔も変わっていない。


「ふっふっふっ……私の妻はすごいだろう。飲み比べで一度も勝ったことがないくらいだ」


「へぇ……なら、いっちょやるか?俺も酔う事を知らねぇ男と呼ばれるくらいにざるだぜ?」


「––––!」


「「負けません!」だそうだ。私はいつも応援しているからね。ルピナス」


 旦那に背中を押されて張り切った人形と、永年積み上げたプライドで負けられねえと意気込む犬が勝負をし始める。髪の色が違うテーブルというだけで目立っていたのに、始まった異形二人の飲み比べ+ありえないくらいのハイペースにギャラリーが注目し始める。店の酒をこれ以上飲むのは流石にと、イヌマキ秘蔵のお酒ががんがん消費されていく。


「あらぁ……いい酒持ってるじゃないプラタナス……」


「飛龍すら酔わせるという「獄炎酒」だ。妻の好きな酒だねぇ。少しにしときたまえ。じゃなきゃ中毒で死ぬ」


「なんだと!?あの飛龍渓谷でしか造られていない、時折自然発火する名酒ではないか!味を記録させろ!どうせ自分とマリーは死んでも大丈夫だ!」


 勝負の空き瓶でテーブルが埋まりそうだと、カウンター席に移動した三人は強いお酒をちびちびじっくりと楽しむ。異世界産の酒は、日本や世界にだって負けていない。


「さてさて。本題に入る前に……少しマリーに聞いておきたいことがあるんだが、いいかねぇ?」


「なぁに?このどんちゃん騒ぎに本題なんてあったのかって、すっごく驚いてるけどいいわよぉ?」


 異形さなんてどうでもよくなるくらい、背後の対決は白熱していた。その喧騒の陰に隠れて静かに、グラスをカウンターに置いたプラタナスはマリーに話しかける。いつになく、真剣な声だった。


「君は、私と妻をどう思っている?恨んではいないかねぇ?」


 許可を得て問われた質問は、今までの良い雰囲気を全て水に流してしまった。


「今は少なくとも共闘関係なんだから、それで良いと思うけれど……聞いてどうするの?なんで知りたいのかしら?」


 グラスを揺らして、燃えるような赤い酒の中に違う何かを見るように見つめて、マリーは質問の意味を問う。それはある種、答えでもあった。


「私達は一度裏切られている。二度目がないように徹底したいだけさ」


 もっともな理由だ。プラタナスとルピナスの強さは折り紙付き。しかし、仮に戦場の混戦の中、マリーに裏切られたのなら。もしくは安心しきった日常の中で、彼女に不意打ちされたのなら。その不安があるだけで、プラタナスとルピナスはまともに休むことすらできない。


 なぜ、プラタナスが自分達が恨まれていると思ったのか。再会した戦友ではないのか。ああだが、これにはちゃんと理由がある。


「先の襲撃で使われた、例の魔法陣か」


 ロロの声に発明者はその通りと頷いて、マリーは唇を噛み千切った。僅かに残っていた酒が傷口に染みて熱を持っていたけれど、彼女はそのことにすら気付いていないようだった。それほどまでに、あの襲撃はマリーの心に傷を残していた。


「あの魔法陣を開発し、君の系統外を封じる為と知りながらサルビアとイザベラに渡したのは、私だ」


 そしてその心の傷の大部分を占めるのは、イザベラとの戦闘で守れなかった多くの一般人。彼らを殺したのは、プラタナスとルピナスが開発した魔法陣だ。


「最悪だわ。あの魔法陣があったせいで、私達は苦しめられた。もっと早くに、もっと少ない犠牲で終わったかもしれなかったのに」


 アレさえなければ。そう思ったことは一度や二度ではない。サルビアもイザベラも、あれだけ暴れる前に無力化できた。その自信があった。なのに、魔法陣のせいで無効化されて長引いた。


「思うわよ。よくもまぁ無神経に、ここでこんな風に明るく酒を飲めるもんだってね」


 振るったのはイザベラだ。使ったのはサルビアだ。だが、日本人が多く死ぬと分かっていながら渡したのは、プラタナスとルピナスなのだ。そんな二人がどうして、日本人の店で日本の酒と料理を楽しんでいるのか。店員や客とよく触れ合えるものだ。そう、マリーは内心では思っていた。


「多少の申し訳なさはあるが、悪いが私達はそこまで気にしていない。そういう人間だからねぇ」


 元から、彼らに良心の呵責など期待するだけ無駄だ。何かを成す為に平気で人を蹴落とす人種なのだ。


「とはいえ、君たちにとっては不快だろう?出来る限り、外出も外部との接触も断つつもりだったんだがねぇ。ついつい、誘惑に負けてしまった。ああ、勘違いしないでくれたまえ。関係がこじれる可能性を危惧しただけで、私は遺族に笑顔できちんとお悔やみ申しあげられる」


 とはいえ、心がなくても読めないわけではない。故に夫婦は協力こそすれど、街とは関わらないようにしようと決めていた。だが、『記録者』と外に出ればマリーが飛んできて、しかも居酒屋ならは一緒に飲めるかもと考えた。ロロが隠している本題も気になって、天秤が傾いてしまった。夫婦は日本人と接してしまった。


「……だが、何も感じなかったわけではないようだ。ルピナスは酒豪だがね。あんな飲み方をするのは本当に珍しい」


 菜花に褒められて沸き上がった自責の念から逃れたかったのか。それとも、マリーと飲めることが嬉しかったのか。きっとどちらもだろうと、夫は思っていた。


「……多少は罪悪感を持ってもらえてなによりだわ。出来れば、その思いに縛られて裏切らないでくれたら嬉しいのだけれど」


「安心したまえ。少なくとも、共闘関係にある内は害することはない。君達から裏切らない限りはねぇ」


「こっちも一緒よ。貴方達が裏切らない限り、裏切らない」


 プラタナスとルピナスが裏切りを怖れたように、マリーも彼らの裏切りを怖れている。互いに裏切られない限り裏切らないと確約していれば、一先ずは安心だ。


「恨んではいるけれど、今はその力が必要なの。しのごの言ってられる状況じゃない」


 例え魔法陣を生み出した夫婦を憎んでいたとしても、今はその技術力がこちらの戦力になる。武器とは使い手が変われば、害する相手も守る相手も変わるもの。そしてその力は絶大で、出来る限りを救いたいマリーは絶対に手放したくない。


「同じだねぇ。私達も目的の為に、かの大悪魔の施設を研究させてもらいたい。ついでに付け加えるなら、君達日本人というのも非常に貴重な研究資料だ」


「付け加えで一気に信頼がガタ落ちしたけど、大丈夫?」


「許されていないからね。攫ったり解剖したりはしない」


 プラタナスとルピナスにとって、大悪魔の研究所など垂涎ものだ。この機会をみすみす逃すつもりはなく、ましてや騎士への復讐もできるとなると一石二鳥。その上、日本人という貴重なサンプルを間近で観察できるともなれば一石三鳥だ。これを手放して裏切る理由がない。


「……それにね」


 両者は利益があるから裏切らない。しかし、それだけでもない。キツいお酒を一気に煽って、カウンターに肘を突きながら、前を向いて過去を見たマリーがこぼす。


「あんたらを恨んでるけど、やっぱり友達だとは思ってるのよ。許しちゃいけないはずなのに、嫌いなはずなのに」


 利益が一致しているから以外の、もう一つの裏切らない理由を。


「サルビアと共謀してシオンを守ろうとしたり、最後のおつかいを頼まれたり。悪いところだけじゃないって分かるのよ。私は、どっちの世界も大切だから」


 マリーは日本と異世界どちらにも情がある、狭間の存在だ。故に、騎士側の立場から考えればあの魔法陣は正しいと分かる。シオンへの拷問だって彼女を守る為だし、おつかいだって果たしてる。


「あんたはきっとクズだとは思う。善悪なんてなくて、自分のやりたいことしかしない。そういう人間」


「ひどすぎやしないかい?まぁ、事実だ」


 マリーの考えではあるが、恐らくプラタナスには善悪の価値観はない。自分と妻の快楽、利益に繋がるかどうかが、彼の判断基準なのだ。故に良薬にも毒薬にもなり得る。


 彼は日本人を殺したくて、騎士の味方にになりたくて魔法陣を創ったのではない。頼まれたから創ったのだ。かと思えば復讐したさと研究の為に、日本人の側についたりする。きっと彼らは己の為に気軽に世界を救おうとし、己の為に気軽に世界を滅ぼそうとする。そういう人種なのだ。


「……でも、あんたのやりたいことってのはきっと、最終的には優しさで、人の為になるものだって信じてる」


「ハハハハハハハハハッ!これは傑作だ!私はそんなこと、ほとんど意識したことがないというのに!優しさなど、今後の人間関係を円滑にする為の手段だとしか思っていない!」


 机を叩いて背筋を曲げて、プラタナスは笑い狂う。お花畑の理想女は唇を尖らせ、麻薬畑の現実片眼鏡は心の底からあり得ないと否定。


「いいかい?私が協力しているのは本当にたまたまだ。仮に王が同じだけの条件を先に出して来たのなら、私は君達を殺し回っていた」


「今から同じか、それ以上の条件を出されたなら?」


「私に残る僅かばかりの義理と人情に期待してくれ」


「言い切れない辺り、ねぇ?」


「やはり私は君が大嫌いだ」


「私もあんたみたいな馬鹿は大嫌いよ」


 懐かしいやり取りだ。しがらみなんてほとんどなかった昔に、何度も交わした口喧嘩だ。救う事に執着するマリーと、一切執着しないプラタナスはよくこうやって言い争っていた。


「私は馬鹿ではないよ?むしろ天才だ馬鹿マリー。嫌いな友人など聞いたこともない」


「あんたとプリムラみたいなもんでしょうが」


「ほぅ。私が奴と友人など、実に面白い冗談だ!面白すぎて魔法が暴発しそうだ!」


 例え時が経とうとも、夫婦の作った魔法陣でマリーが守りたかった人間が死んでも、友達であることだけはやめれなかった。恨んでいても、恐れていても、無邪気に過ごしたあの時代が、何かを繋いでいた。


「ここではやめんか大馬鹿者どもが!」


「うっさいわね特大馬鹿!」「断じて大馬鹿ではない。この溢れ出る賢そうな魔力を見ても分からんのかねぇ?ならば、実に大大馬鹿だ」


 始まった馬鹿合戦にロロが乱入し、更に悪化。一通り馬鹿はどちらかと詰りあった後、賢さを気取ったプラタナスとマリーが「やめだやめだ」と手を振ることで、ようやく沈静化。


「私は実に酔ってた。本当、こんな奴を友人なんて言うなんてどうかしてた!だからこの話はおしまい!」


「と、言うわけだ。身の毛もよだつ友情話はやめて、違う話をしよう。さぁ『記録者』よ。私と妻に話したかった本題は何かねぇ?」


 次の話題こそ、この飲み会の根元にして本題。顔を合わせてから言う覚悟に時間がかかるだろうから、その時間を埋める為に、ロロは夫婦を連れ出した。勇気付ける為に酒を飲みたくて、この場所を選んだ。


「……相談だ。本当に、ただの相談だ。君達に利益なんてないだろうが、聞いて応えてはくれないか?」


 これだけ時間をかけても、馬鹿合戦をしても、酒を飲んでも、まだ決まりきっていない。でも、言わなければいつまで経っても誰にも気付かれない。一人では、とてもじゃないが答えは出せない。ロロはもう一杯をぐいっと煽って押し込んで、辛すぎて酔えない頭で口を開く。


「興味深い内容だったら、もちろん」


「……まぁ、それが塔に向かう前の心残りなんでしょ?」


 なんだかんだ言って引き受けてくれた二人に、ロロは内心でありがとうを告げる。ここまで来たのだ。もう、言うしかないだろう。


「自分はクロユリをもう一度、同じように愛せるのだろうか」


 それは、彼が世界融合以前からずっと抱えていた、己の感情の不安。


「世界が融合する前とは別人の、同じ記憶を持った彼女を」


 クロユリと同じ記憶と身体を持つ彼女は、果たしてクロユリなのだろうか。『記録者』はそう、二人に問い尋ねた。








 ロロの能力は真実を書き込むというもの。もちろんそれが全てではなく、映像の投影、嘘を吐かない限りの不死性、一度見聞きしたことを忘れない、その他諸々あるが、今回重要なのは最初に述べた真実の書き込みだ。


 紙だろうが布だろうが地面だろうが、彼は真実しか書けない。裏を返すなら、真実ならば何にだって書き込める。例え人の記憶にだろうと、直接。


「今まではクロユリの記憶を忘れるという副作用に対抗……正しくいうなら、彼女の今ある記憶を守る為に、幾重にも同じ記憶を書き込むことで、忘れたと系統外に誤認させていたのだ」


 忘れさせようとする系統外に、囮の本物の記憶を何重にも重ねてちらつかせて食わせ、処理し終わったと思わせる。そうすることで彼女が持つ本来の記憶、更に言うならクロユリの心を、ロロは守り続けていた。


「記憶の喪失は個人の人格の死と言ってもいい。今まで何をしていたのか、何を思ってどう生きてきたのか。それら全てを失うのだから」


 想像してほしい。自分が何もかもの記憶を失った時のことを。親の顔も兄弟姉妹の顔も、友人に恋人に子供の顔も忘れ、何もない見知らぬ部屋と世界に何の思い出もなく一人だ。そこに、今想像している君の心はあるのだろうか。消えて欲しくないと願った貴方の心も、消えてはいないだろうか。


「人によって考えが異なるのは百も承知だ。「中には俺は俺だ。記憶なんてなくても変わらない」と言う者もいるだろう。だが、彼女は代償のことを、自らが消えると言ったのだ」


 『記録者』としての系統外故に、最初に彼女と代償に抗った時のことは逐一細部まで記憶している。骸の山に、彼女は飲み込まれていきそうだった。新しい彼女が生まれ、古い彼女は消えそうだった。少なくとも、クロユリの中で記憶の喪失は彼女の精神的な死なのだ。


「ごめんなさい。記憶を失うのは怖いけれど、私にはピンとこないというか」


 言って分かる問題ではない。これは感覚の問題、個人の感じ方によって答えが変わる問題だ。


「そうかい?これは君にも近いものがあると思うんだがねぇ。まぁ、分からない顔をしてる君には、言わぬが花かな」


 そんなマリーを、理解出来たプラタナスが訳知り顔で嘲笑う。ロロが彼女に席を外してもらわなかった理由は、これだろうから。


 マリーは再生する系統外を持つ。例えば、例えばだ。頭を上から二つにかち割られたとしよう。顔の中心を剣が通り抜け、鼻が半分、目が一個ずつだ。この時点でもう死んでいるようなものだが、再生が間に合った。二つの頭の一つから、新しい身体が生まれて再生する。


 さて、ここで問題だ。この再生したマリーは、再生前のマリーと本当に同じなのか。再生せずに打ち捨てられた頭の片割れに、彼女の意識は残ってはいないだろうか。その隻眼で、全く同じ記憶を持った新しい自分が生まれ行く様を、切り捨てられた絶望感の中で見てはいないだろうか。


 説明が下手で申し訳ない。もっと簡単に言うなら完全なるクローンだ。同じ記憶を持った自分が何人も同時に存在していたとして、誰が己こそがオリジナルだと証明できる?更に面白いのは、オリジナルが実は死んでいた時の場合だ。誰だって、己こそが本物だと信じて疑わない。オリジナルが死んでいるのに、オリジナルだと思い続けている……かもしれないという話が、マリーにも当てはまるのだ。


 クロユリの場合もこれに類似している。オリジナルを失おうが、クローンその1が死のうが、他のクローン達は生きている。クローン達は続いていく。クロユリがオリジナルの記憶を失って心が何も知らない形に変化しても、ロロが外部から書き込めば、記憶と心の形はオリジナルと同じになる。同じにはなるが、それはオリジナルの記憶ではない。彼女は二番目のクロユリなのだ。何度記憶を失おうが、再度書き込まれる限りクロユリは続く。続くが、消えた彼女は帰ってこない。


「だが自分は、自分と共に歩んだ彼女を守りたかった」


 だからこその誤認。消えてから再度書き込むのではなく、寝てすぐに刻み始める事で系統外に勘違いさせた。ツンデレとセクハラの意味を教えてくれた、あの時の彼女のままで固定し続けた。


「自慢じゃないが、私はあの世界融合までの幾星霜、彼女と夜に別れて寝たことがない」


「……」


「本気で喧嘩した時も、どんな用事や要件があろうとも、毎晩この戦いだけは欠かさなかったものさ」


 ラブラブだろう?そう茶化した彼の言葉に、マリーは思わず絶句する。気持ち悪いだとか、そういう話ではない。永劫にさえ勘違いする時の中、今までロロが密かに続けていた、たった一人の女性を救う為の戦いに対する畏怖。そして、それが途切れてしまったことの意味と彼の感情。


「ずっと自分は、自分と共に生きた彼女を……守ってきたんだ」


 嗚咽を漏らし、涙する彼に。普段ならば絶対に見えない、感情が溢れたぐしゃぐしゃの顔に。マリーもプラタナスも言葉が出なかった。無神経なプラタナスが唯一神経を使う、愛する妻という部分と重なっていたから。


「……これからずっと、永遠に守ろうと思っていたのだ。なのに」


 世界融合によって、永きに渡るロロの戦いは終わった。共に生きた人格の彼女は、もう消えてしまった。


「次に自分が会う彼女は、同じように笑うだろう。同じように泣くだろう。同じように戦うだろう。同じように生きるだろう。同じように、愛してくれるだろう」


 記憶を寸分の狂いもなく刻むことは出来よう。きっと新しい彼女は、古い彼女が消えたことにさえ気が付かないまま、同じようにロロと共に生きるだろう。身体も一緒。魂も一緒。なのに、彼女は彼女ではない。


「自分は、そんな彼女を愛せるのだろうか」


 ロロが愛したのはクロユリだ。それは間違いない。しかし、新しいクロユリを愛することは、果たして出来るのだろうか。


 それが、彼の抱える悩みだった。助ける事は当たり前だとしても、いざそれが目の前に迫れば躊躇してしまった。


「で、同じような私達に聞いたということかねぇ?」


 プラタナスを選んだ理由は、似ているからだ。死にかけたルピナスの魂を、人形に移し替えた。だが、彼だって証明できていない。オリジナルの心はもう死んでいて、ただの記憶が宿った人形が自分をルピナスと思い込んでいるかもしれないのだ。


 同じような境遇の彼は、新しい妻である人形を心の底から愛せたか。それは代替品や誤魔化しではない、真実の愛といわれるものか。


「私は愛せたとも。なんの迷いもなくねぇ」


 愚問だ。彼はそんな悩みを抱えることはなかった。すぐに、当たり前にして至極当然のように、プラタナスは人形となったルピナスを愛した。


「確かに私と共に生きた彼女の魂がすでに死んでいるのなら、それは腑が煮え繰り返る思いだ。今すぐにでも騎士を殺したくなる」


 もちろん、彼だってその可能性は考えたとも。オリジナルが死んで、彼女は別物なのではないかと。プラタナスが揺らめかせた殺意とその表情に、マリーとロロは背筋が凍り付くのを感じた。


「だがねぇ。ロロ。彼女は自分が二番目だなんて、きっと分からないのだろう?私達と同じように」


 しかしその殺気は、彼が振り返ってイヌマキと勝負している人形を見ることで霧散する。彼の言う通りだ。誰だって、自分こそがオリジナルだと思って生きている。新しい彼女には、今までの記憶があるのだから。


「なればこそ、悟らせないようにするべきじゃあないかねぇ?新しい彼女だって彼女には違いないのだから、愛するべきではないのかねぇ?」


 新しい彼女は夢にも思っていない。本当はさっき生まれたばかりなのに、今までを生きてきたと思っている。初めて出会った今日も、今まで通りが続くと思っている。その期待に応えろと、プラタナスは言った。


「私はよく、分からなくて、間違ってたらごめんなさいなんだけれど、オリジナルの彼女の精神が消えてしまったという事実に目を瞑れば、今までとなんら変わらない。でも、そんな事実に目を瞑ることなんてできないって話で合ってる?」


「……ああ」


「下手に賢いと損だねぇ。私のような天才は自分を納得させる答えが出せる。本当の馬鹿はそもそもこの事実に気づかない」


 そうなのだ。このことに気がつかなければよかったのだ。今まで通りに、愛せたはずなのだ。気づいてしまったから、こんなに壊れそうになるまで悩むのだ。


「私はロロじゃないから、その悲しみも悩みも、完璧に理解する事はできない。悲しくて、苦しいことしか分からないわ」


「分かっている」


「当たり前だねぇ」


「……ただ、私が守れなかった人達にいつも思うのは、謝罪。そして忘れない誓いと、次は必ず守ろうという決意よ。いくら悔やんでも変えられないから、背負うしかない」


 マリーはプラタナスほどロロに近くはない。故に、類似しているケースで自らが思うことを、彼に話す。


「新しい彼女を、今度こそ守り切ろうと思わない?」


「思うとも。次は、ない」


 何の躊躇いもなく即答したロロに、マリーもプラタナスも微笑む。例えかつての彼女とは違っても、彼女である以上見捨てるわけがない。


「一先ずはそれでいいんじゃないかしら。守る間にきっと、貴方は新しい彼女も愛せるわ」


「守る間に?」


「ずっと守るんでしょう?愛した人と全く同じ女性とそれだけ長い間一緒にいて、惚れないなんて男に出来るの?」


 マリーは今すぐは無理でも、これから愛していけばいいじゃないと言った。愛とは時間をかけて生まれるものだからと、彼女は持論を伝えたのだ。


「……参考に、なった。感謝する」


「いや、いいことだよ。私にとっても興味深い話ではあった」


「これくらい、いいわよ。むしろ、あんまり力になれなかったような気がするくらいだし」


 律儀に一度ずつ頭を下げたロロにプラタナスはドヤ顔をし、マリーは苦笑する。そもそもこの問題、相談で解決する問題ではない。納得のいく答えなんて、きっと出ないだろうから。だがそれでも、相談が答えの後押しくらいにはなる問題だ。


「それにねぇ。二つだけ言えることがある」


「何かな?」


 空のグラスをカウンターに置き、相談を受けた二人が心配ないと笑い、保証する。


「ロロはクロユリさんのことを、本当に心の底から愛してるってことと」


「きっと君は新しい彼女も、愛せるだろうということだ」


「塔の中に入ったら細かい悩みなんて全部吹っ飛んで、一目散に駆け出しそうだわ」


「ああ。本当にねぇ」


 これだけこの問題で悩める人間が、愛していないわけがないと。そして彼女を愛しているのなら、もう一度愛せるさと。


「…………本当に、感謝する」


 しかし保証されても、ロロには分からない。実際、その時になってみないことには。だがそれでも、この保証は思わず涙ぐむものであったし、励みと助けになるものだった。


「––––––……!」


「い、イヌマキが、負けただと?」


 どうやら勝負ありだったらしい。心なしか頰が赤く見える人形がプラタナスの背中に抱き付き、夢うつつながら勝利のご褒美に口づけをねだっている。木彫りの犬はふにゃんとふやけ、もはや原型を保っていられずに溶けていた。


「さて。ルピナスが帰ってきたところだし、辛気臭い話はこの辺にして、マリーの昔の恋の話でもしようかねぇ」


「はぁ!?あんた、この話の流れでそこにもってく!?いいの?こっちも暴露するけど!てか暴露以前に今もイチャつきおってムカつく!」


 ご褒美を与えたプラタナスの発言にマリーが噛み付き、そこからはひどい暴露合戦に。まるでロロの涙と悲しみを少しでも和らげる為に始まったような醜い争いは、彼にバッチリ全部記録されるのであった。





 永遠の夜を寄り添いて、無力なる彼は愛する者の心を守り続けた。人知れず、歴史にも残らず、永遠に続いた彼の戦いは、ある日突然敗北に終わった。積み重ねた何千勝は、たった一つの敗北にて覆された。


 失意に悩み、苦しみ、失った彼女の心に壊れそうになるまで悲しみ、終ぞ戻らぬ時に悟る。守れなかった十字架を抱え、彼は思う。今までの彼女に最大の感謝と愛と謝罪を。新しい彼女を、もう一度愛そうと。


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