第1話 叫び
「ハァ……ハハッ……!」
走る。壊れた家の瓦礫を避け、度々見かけるモンスターの群れを避け、走り続ける。仁の本能は、この世界が現実だと確信した瞬間に、ある判断を下した。
逃げろ。
「ああちくしょう!どうなってんだよ!映画の中にでも入っちまったのか!」
もつれそうになる脚を手で叩いて鼓舞し、止まりそうになる思考を唇を噛んで無理矢理働かせる。立ち止まったら、そこで自分の全て終わってしまう。そんな現実染みた思い込みが、彼を走らせた。
流れる風景の中で人々は、誰一人の例外もなく混乱していた。誰も、この状況を理解できていない。当たり前だ。街中にアニメか小説、漫画や映画の世界から飛び出してきたような魔物が現れ、人々を殺し始めたのだ。仁だって理解できていない。理解できたのは、ここが危険だということだけ。
「分からなくてもいいから、とにかく逃げねえと……」
じゃないと、死ぬ。
続く言葉を飲み込み、ただひたすらに。泣き叫ぶ少女、怒鳴る男の声、励ます若い男性の声、誰かの断末魔の間を走り抜ける。
「ひぃ!」
小さな道の角を曲がり、大通りへと脚を移した彼は、そこで見てしまった。
「現実、だよな?俺はいつの間にか、地獄に落ちたのか?」
眼前に広がる光景は、まるで地獄の釜が開いた、いや、開ききった後の地獄だった。
蛆虫のように沸くゴブリンが徒党を組んで人間に襲いかかり、そこら一面で血飛沫があがる。死体だろうが生きていようが関係ない。骨の髄まで貪られる。
数の少ないオークも、負けじと死体の山を築いている。槍で貫く。足で踏み砕く。突進して圧し潰す。殺し方は違えど、行き着く先はどれも同じ。
死体に老若男女など関係ない。
喉を突かれた子供の死体、踏み潰された赤ちゃんの死体、頭を殴られた老婆の死体、足を喰われた中年の男性の死体……死体、死体!
幼い頃に見た地獄絵図など、遥かに上回る本物の地獄。リアリティ溢れる、見たくもない光景。
「うっ……」
走り続けた反動と目の前の光景に吐き気が込み上げたが、喉の途中で強引に押し戻す。
「今は切り抜けるのが先決だ。後で全部胃の中のもん吐いてやるから、少し待っててくれよ……」
こんなところで吐いて、時間を使うわけにはいかなかった。後でいくらでも吐けるから、今は堪えろと抗った。
気持ちが悪い。認めたくない。怖い。様々な感情が中で混ざり合って体を震わせる。しかし、その中で最も大きな「死にたくない」という感情が、仁をもう一度前へと押し出した。
命無き彼らと、命ありし仁との違い。それ、この状況でも冷静に判断を下せたことと、運がよかったことだった。
「あああああああああああああああああ!」
仁とは反対方向に進んだ男性が、たまたま巨大な蜘蛛に捕まり、頭から食べられた。
「おい!今すぐ右に……ああくそ!」
道の先にゴブリンの群れが見えた時には、大きく迂回して逃れた。隣で走っていた女性は気づくのに遅れ、群れへ飲み込まれて物言わぬ骸へと朽ちた。
位置、時間、注意。たったこれだけのことが、工場の品質チェックのように無慈悲に生死を分けていく。いや、もう一つ挙げるなら、仁が他者を見捨てたことだろうか。
「夢だよねっ!現実なんかじゃないよねっ!?」
目の前の少女がいきなり泣き叫び出し、地面に座り込んだ。仁も泣き叫びたかった。蹲り、耳を塞ぎ、目を瞑り、全てを遮断したかった。走り去り、後ろを振り返ると少女がいた場所には、槍で貫かれた肉塊を貪るオークが。
助けている暇も、助けられる力も、そんな勇気もなかった。
「くっそ……死んでたまるか……!」
そして、諦めて死ぬ勇気も、彼にはなかった。震えの止まらぬ恐怖が、こんな悪夢のような現実から逃げ出すことを許さない。
これは夢だという思いが死への恐怖を超えた時、人は現実から目を背けることができる。背けた先の、死に追いつかれる。
「ケータイ?」
聴覚、嗅覚、視覚を研ぎ澄まし、魔物と遭遇しないよう逃げ回っていた仁が感じたのは、携帯電話に届いた通知音。起動された画面に表示されたのは、親友からのメール。
『これどうなってんだ?仁、無事なら学校に来てくれ。俺らは今のところ大丈夫だ』
見られもしないであろうロックをかけ、友達からの文字の内容をようやく頭で飲み込んだ。
「学校なら、助かるのか?」
他に行くべきあても、安全と呼べる場所も分からない。だが、集団で人が集まっており、なおかつ大人もいるならば、
「あそこは今、地獄じゃないのか?」
目的地は決まった。仁はカバンを背負い、アスファルトを蹴り、願った。
みんな生きててくれと。
「おーい!仁!ここだ!ここ!」
「……本当に安全だったのか」
校舎まであと門をくぐるだけ、というところまで来て聞こえたのは、気楽な友人の声。無事だという事実に思わず腰が砕けそうになるが、グッとこらえて一歩前へ。
「いつもは邪魔だと思ってたけど、役に立ったよ」
学校がまだ安全だった理由。要は校門が閉められており、周りを高い塀に囲まれている為、ゴブリンやオークに攻められなかったのだ。彼らの身長や短足では、よじ登ることなんてできやしない。
「いつまで保つか分からないけど」
壊すのは、可能かもしれないが。
「でも、手間よりは近くの手頃な人間をってことか?」
皿に盛り付けられている料理と、採るところから始める料理。同じ味なら、どちらを選ぶかは一目瞭然。自分でも嫌な発想ではあるが、おそらくこれが理由だろう。
「……まずは、生き残ることを考えよう」
平静な自分が弾き出した考えを消し去り、よじ登ろうと校門に手をかけたその時、後ろから風切り音が聞こえた。仁にはそんな気がした。
「っっ!?」
気のせいかもしれなかった。そう理性が判断する前に本能が勝手に身体を動かし、横に飛び退いていた。
「危ない!」
遅れること約一秒、友人の声が校舎の窓から降ってきた。ありがたい注意だが、この声で反応しても間に合わなかったことだろう。
「……危ねぇ」
さっきまで自分の頭があった場所を、寸分の狂いもなく石の槍が貫いていた。カラランと音を立てて地に転がった槍に、仁の胸には安心が、背筋には冷たい雷が駆け上がる。
「勘って、割と馬鹿にできないもんだ」
僅かでも躊躇っていたなら、確認に後ろを振り向いていたなら、顔に穴が空いていた。選択肢次第では死んでいた事実に安心は消え、恐怖がぞわりと肌を這う。
「どこから槍が飛んできた?誰が槍を飛ばした?」
自問し、自答した答え合わせに、ゆっくりと振り向く。振り向いた先に槍を投げた犯人が、いや、この時点でもう、仁は分かっていたのかもしれない。犯人の正体が、人ではないことを。
「だよなぁ、だよな!人間が槍なんて持ってるわけねえもんなぁ!」
仁は見た。ニヤニヤと、獲物を見つけたと言わんばかりに笑っている豚顔の魔物を。
「そら、そうだよな。変わり者だっているよな」
わざわざ壁を壊すよりは、身近な獲物を。そうじゃない考え方の、壊してでもたくさんの獲物を狩ろうと考える奴がいるのは、当たり前のことだった。
ドシドシと音を立てながら、ゆっくり槍を拾って校門の前に立ち塞がる巨軀の豚。その姿には微塵の焦りもなく、ただ余裕があるのみ。何人もの人間を殺してきたのだろうか。2mはある巨体を、真っ赤な返り血で染め上げていた。
「……はっ……はっ……」
怖い。
その血に染まった身体を見ただけで、仁は気圧される。人間一人の返り血では、あんな血染めにはならない。バケツ一杯被りでもしたのかという量の血は、殺した人の数にして、奴の強さの表れだ。
「どう、する?」
生きる為に、必死になって頭を巡らす。自身の今取れる行動と、その果てのおおよその結果を考えては潰し、考えては潰してを繰り返していく。
逃げ場所なんてない。校門はあのオークが塞いでいる。錆びた鉄の門はオーク相手に、どれだけ持つだろうか。どちらにしろ、ここに魔物が集まれば、いずれ校門は破られる。
そして待つのは、クラスメイトが虐殺される未来。
悩み、考えた末に行き着いたのは、自分かクラスメイト達を犠牲にするという二択、そしてもう一つの選択肢だった。
もちろん、このオークが自分を逃したからといって、校内に侵入してクラスメイトを殺し回るとは限らない。しかし、仁はそこまで頭が回っていなかった。見過ぎた死が彼の思考を制限していた。生か死かという、極論的な思考に偏っていた。
自らが狭めた選択肢に、彼は苦悩する。心がいくつにも分かれて、それぞれの意見を主張する。
無理だ!選べない!彼らを殺されたくない!
彼の理性が叫ぶ。
選べ!彼らを見殺しにしても、生きろ!
彼の本能が叫ぶ。
彼の意志が願う。どちらも助け、助かりたいと。
なら選ぶのは、自らがあり得ないと切捨てようとした最後の、自らの意志の選択肢。
戦え。そして、勝て。
オークがゆっくりと、削った石を木に括り付けただけのお粗末な槍を構えるのが視えた。
それは、ファンタジーのゲームなら最序盤に出てくる装備だ。だが、穂先は血でどっぷり濡れている。そんな貧相な武器で、人は死ぬのだ。一回急所を刺されるだけでも、人は死ぬのだ。その事実を理解するとともに、死が音を立てて近づいてくる。心臓はかつてないほどの速さで血液を送り出している。
そんな中で、仁の視界は不思議とクリアだった。彼は落ち着いていた。焦りや不安を、完璧に圧し殺していた。
彼はカバンの中から一つ。光る物をポケットの中へと押し込み、備える。
「勝たなきゃ死ぬ。負ければ喰われる。なら、勝てばいい」
震える手で小さな武器を隠し、決意をより確かなものにする為に、静かに強く声を出した。声に反応したオークも姿勢を低くし、槍を前へと突き出して最後の準備を整える。
「一か八か、当たるも八卦当たらぬも八卦」
オークの行動を見て仁は、事前にあることを決めた。瞬きにも満たない間。仁の思考の最高速度。この判断の速さと的確さが、今まで生き残れた力の一つ。
「不思議だ」
時間がとても長く感じられる。ゆっくりと、ゆっくりと、泥沼をかき分けて進むように、ゆっくりと。 しかし、その時間はゆっくりであっても、確かに進んでいるのだ。
「……来る」
仁が次の息を吐き出した瞬間、オークが恐ろしい勢いで蹴りだした。槍を構えたままの突進。無抵抗の、この悪夢のような現実が受け入れられない人間など、簡単に殺せるような威力を持つ一撃。
「そうだろう。お前はそうやって、無抵抗な人を殺してきたんだろう」
それでも彼は言葉を震わせながらも冷静に、冷徹に、突進しようとするオークの目を、表情をしっかり見ていた。
5m程だった距離が、一呼吸を追えないうちに1mへと変わる。オークが獲ったと確信する。しかし、仁と結果はその確信を否定する。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
オークが前へと進んだ瞬間、仁は予め予定していたあることの通り、横へと体を跳ね転がし、間一髪のところで突進をかわした。
「よっっっっ!しゃ!」
見事なまでに作戦が決まり、仁は内心でも身体でもガッツポーズを。
「やっぱり真っ直ぐしか進めないよなぁ!」
想像でしかなかった。貧相な想定でしかなかったが、突進ならば簡単には曲がれないと予測したのだ。しかし、そう予測したとしても、相手を見てから回避行動を取っていては間に合わない。相手が動き出した瞬間に仁も動いたから、避けれたのだ。
怯えている人間では回避できなかった。そんな攻撃だった。
「だけど、俺は違う!」
避けられたという事実にオークの目が驚愕に見開かれ、僅かに動きが止まる。
「今だ!」
仁は偶然手にしたチャンスと隠していたコンパスを握り締め、声で自らを奮い立たせてオークへと飛び掛かった。
「かってぇ!でも……!もらったぞ!」
全力の飛び込みが齎したのは、鉄製のコンパスがオークの柔らかい太ももを少しだけえぐり、肉へと突き刺るという結果。もう少し深く突き刺さるかと思っていたが、予想以上に生物の皮膚が硬かった。
しかしそれでも、刃物が脚に突き刺さったのだ。痛みがないわけがなく、オークは持っていた槍を足元へと手落として膝をつく。
「俺は違うぞ!必ず生き残ってやる!」
それを見た仁は走り、いや、助走をつけながら叫ぶ。どことも知れず。誰に聞かれるかも知れず。ただ、心のままに叫んだ。
「だからっ……死ねっ!」
仁の人生の中でも、最も意味と殺意を込めた「死ね」。放たれたのは、渾身の回し蹴り。しっかりと助走をつけた蹴りはオークの頭へと吸い込まれ、そして、
「えっ?」
腕で防がれた?
思考が、本日何度目かの驚愕と理解不能で埋め尽くされる。現実を疑うが、残念ながら視界は事実だ。
繰り出した全身全霊の蹴りは、オークが咄嗟に突き出した腕でいとも簡単にあっさりと、それはもう息をするような簡単さで防がれた。傷一つ付けることなく、相手を欠片も怯ませることなく。
当然といえば当然だろう。たかが素人の回し蹴りの威力など知れている。人間相手ならそれなりのダメージは入ったかもしれないが、人外には通じなかった。
コンパスが刺さったから、自身の攻撃が刺さると過信して間違えた。
オークはRPGでは雑魚。取るに足らない存在。思考の片隅に、そんな余裕が住んでいたのかもしれない。先のオークの傲慢のように。それが命取りになった。
だが実際、鍛えていない人間のなんと非力たることか。ゲームや漫画や小説の登場人物は、ヒーローや勇者であるからこそできるのだ。
「ブモオオオオオオオオオオ!!」
舐めていた人間に手傷を負わされたオークは、目を血走らせて怒りの咆哮をあげる。しかし、やはり脚の傷は深いのだろう。何度も立とうするが、痛みが邪魔するのか。また膝をついている。
「ひっ」
対する仁も咆哮を聞いた瞬間、本能的な恐怖から後ろへと飛び退いていた。
「なんでだよ……」
攻撃が通じなかったことで、マイナスな思考が一気に湧き出した。圧し殺していた焦りと不安が、再び彼の心に顔を出す。仁ではオークを殺せない。しかしオークは今、怪我によって脚が遅い。
逃げるべきだろうか?
もし逃げても、他のみんなは大丈夫か?
決めるのが遅かった。逃げるのなら、すぐに逃げるべきだった。友と自らの命を秤に載せたせいで、仁は長所である判断力の速さを欠いた。
「あっ……それ、俺の……」
仁の脳が答えを導き出す前に、オークはゆらりと立ち上がる。傷が広がるのも構わずコンパスを力任せに引き抜き、そのままそこら辺に投げ捨てた。
こちらを見つめる目に、先程まであった驕りはない。ただ、怒りと殺戮の炎が燃え盛っている。仁を許さない。絶対に殺し、骨の髄まで喰らうという意思があった。
「ひっ……!」
今まで向けられたことのない、本物の殺気に仁は怯え、恐怖し、涙し、挫けそうになった。
「いやだ……」
怯える仁へ、巨体が向かってくる。足の傷のせいか、突進のような速さはなく。怒りの余りか、武器も取り落としたままだ。それでも、仁の腕より四回りほども大きい腕ならば、人間の首をへし折るなど朝飯前のことだろう。文字通り仁自身が朝飯だ。
「近づくな……」
死という文字が頭に浮かぶ。先の死体が頭に浮かぶ。死という暗闇が迫ってくる。
「来るな……」
彼が拒絶したのはオークか、はたまた死か。彼の思考は「死にたくない」に支配される。時間が引き伸ばされたかのように感じる。
自分の肉体では、相手を殺せない。
Q.どうやったら俺の攻撃は通じる?
さっきつけた傷口を観察する。コンパスを強引に引き抜いたせいか先ほどよりも広がり、血が流れ、暗く赤い中身が見えている。
あそこに一撃入れれば?いや、動きを止めるのが精一杯だろう。
「どうすりゃいいんだ!時間なんてもうねえんだよ!」
一歩、一歩とオークが近づいてくる。また、オークと全く同じ歩幅で死も近づいてくる。
Q.さっきどうやって傷をつけた?
A.コンパスを使った。しかしコンパスは手元にない。あいつがどこかに放ってしまった。
距離はもうほぼない。あとは腕を伸ばして、仁の首をへし折るだけ。
それだけで、仁は死ぬ。覚悟なんてする暇もなく、辞世の句も読む暇もなく、死ぬのだ。
「あ……」
数十分前までは知らなかった死が迫るその刹那、仁はある作戦を思いついた。だが、細部までは詰めれていない。あと一つだけ、ピースが足りない。だけど、欠けたピースを探す悠長な暇は存在しない。
仁が思いついたことは、原初の人々が考えたことと同じことであった。
「自分の肉体だけで殺せないなら、弱いところを狙えばいい。武器を使えばいい」
彼らが狩りに石器を用いたように、仁も武器を手に取ろう。
「どうせ死ぬなら、諦めるより戦ってやる」
どちらにせよ、ここで諦めたら死しかないのだ。中途半端だろうと、この作戦を行わないと死ぬ。諦めて死ぬよりは、どれだけあるか分からない可能性とやらに縋ろう。
「塩を塗りたくってやる!」
ゆっくりとしたオークの腕が首を絞める瞬間、仁はその非力な蹴りを傷口へと叩き込んだ。威力はそこまでではない。だが、傷口につま先が入ったのだ。痛くない訳がない。
「ブモオ!?」
よろけるオーク。だが、ここで終わらせない。これではさっきの繰り返しだから。
「ぶっ倒れろおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
両手を前に、今出せる全力でオークを突き飛ばす。いつものオークならば耐えれたであろう、非力な一撃だった。だが、脚の痛みによろけていたオークには、耐えれなかった。
「どけっ!」
地面へと倒れた巨体を跨ぎ、飛び越える。仁の目的のものは、その先にあるのだから。そう。それは、最初に投擲された槍。
「これだ!これならきっと、殺せる!」
数歩先の地面から槍を拾い上げた仁は、再び足を抑えてもがくオークのところまで、人生で最高に急いで舞い戻る。
「最高だ……予想以上だ!」
良い蹴りがこれまた良いところに入ったのか、オークの傷口が潰れて血が溢れ出ている。まだ立ち上がれていない。最高の結果だ。ここに来て、運は仁に味方した。
「……どこ……!」
だが、ここで問題が発生する。仁が思いついた作戦の詰められなかった細部の部分。欠けた最後のピース。
Q.どこを突けばいい?どこなら、オークを殺せる?
A.硬くないところで致命傷に追い込める場所。
胸は?骨と筋肉と脂肪が邪魔。頭?自分の力で頭蓋骨を砕けるか?さっきの繰り返し?
どこだ?と自らに問うが、答えはこちらを睨むオークと目があったことで得られた。
目だ。目なら貫ける。
「勝つのは……生き残るのは……俺だああああああああああああああああああああああ!」
今までの人生で、最大音量にして最高に惨めな叫びを張り上げる。それは、他者を助ける英雄の叫びのような内容ではない。そんなお上品なモノ、きっとこの世界にはない。
彼があげた叫びは、現実の叫び。
素人が狙いを定めて、素人が槍を振りかぶり、素人が槍を振り下ろした。ただ、「必ず生き残る」という仁の執念だけは、どんな槍の達人より強かったことだろう。
穂先が空気を切り裂き、風切り音をあげて、槍が行く。
地べたに転がるオークは顔を狙われたと予測し、また腕で庇う。だが、遅い。素人の方がほんの少しだけ、速かった。オークの神経が腕に命令を下す直前、
ちゅぷり。
穂先がオークの左の角膜に刺さる。そのまま、虹彩、水晶体を貫き、脳に到達。
「あっ?」
しかし、筋肉か何かに引っかかったのか。槍の動きが止まってしまう。このままじゃ殺せなくて、それは仁にとって非常に困る事態。
「だからっっっ!」
苦痛に泣き叫ぶオークを見下ろしながら、彼は咆哮する。生きたかった。それだけ死にたくなかった。邪魔するなら、殺したかった。
「死ねえええええええええええええええええええええ!」
咆哮とともに突き出された最後の一押しが、オークの脳をぐちゃぐちゃに引き裂いた。
『オーク』
身長2mを超える、豚と人間の特徴を併せ持った怪力の魔物。雑食であり、食べられるものならなんでも食べる。意思の疎通は基本的に不可能だが、仲間や一部の魔物と共通の言語を保持していると思われる。その証拠として、より強大なオーガに従い、自分達より弱いゴブリンといった魔物を従えることがある。また、ごく稀に特異な能力を持った変異種が生まれることがある。
生まれてから成長するまでの速度が異常であり、数ヶ月で成体となる。食べる物がなくなると群れをなし、「食べ歩き」の大移動を行う習性がある。
豚と人間のハーフの突然変異体が起源という説もあるが、他の魔物と同様に、どのような進化を辿ったのか、元はなんだったのかは謎。彼らは『記録者』が生まれる前に現れた存在であり、まともな記録がほとんどない。ただ、こう書き残されてだけいる。
「魔物達は突然、いきなり現れた。森の中から出てきたわけでも、海を渡ってきたわけでも、ましてや空から降ってきたわけでもない。突然、不意に現れたのだ」