第159話 終わり
背を向けた先にいたのは、かつての『勇者』だった。
「よく、勝てたね」
「負けを認めなければ、勝てる世界だから」
かの『魔神』の精神を打ち破った少年に、彼は惜しみない拍手を送る。しかし、それは仁にとっては当然で、当たり前のことだった。
「もう絶対に、失いたくなかったから」
シオンがいた。堅や環菜やマリー、桃田に楓、梨崎がいた。みんながいた。
「絶対に、叶えたかったから」
柊や蓮、酔馬に託された。ジルハードやメリア、ティアモに託された。みんなに、託された。
「『魔神』には、それがなかった。失いたくないものが、もうなかったんだ」
世界を壊した先に、彼が守りたかった人がいたならば、勝てなかったかもしれない。仁はそう思う。
「それに、『魔神』は世界を滅ぼすには」
「優し過ぎた。そういうことだね」
仁の言葉を引き継いだ『勇者』の言う通りだ。『魔神』は、人の心を持ってしまっていた。例え人の醜さを見せられて狂ったとしても、人の美しさに触れて得た人の心だ。根底にあったのは仁と同じ。
「結局『魔神』は、自分の心の中にあった人を信じる気持ちに負けたわけか」
「……ああ」
『魔神』は仁を見て、仁の言葉を聞いて、かつて守りたかった人を思い出してしまった。彼らが生きていたならば、世界を滅ぼす者をなんとしてでも止めようとすると。仁のように立ち向かうだろうと、思ってしまった。仁の気持ちを理解し、共感し、受け入れてしまった。
故に、新世界の誕生を躊躇ってしまった。彼に人の心が無かったのならば、仁は『魔神』を倒せなかっただろう。
「これで、悲劇なき理想郷の夢は潰えてしまったね」
「……それは、ごめん」
仁がこれから生きるのは、決して悲劇のなくならない世界だ。戦争があり、略奪があり、殺人があり、犯罪がある。人が滅びない限り、醜さの消えない世界だ。
「でも、俺らは少しでも、悲劇を減らそうと努力して生きるよ。『魔神』に言ったことは嘘じゃないって、これからの人生と歴史で証明していくよ」
だが、きっと全ての人間が悲劇を減らそうと努力する。各々の思う悲劇の形も、減らそうとするやり方も違うだろうけれど、それでも誰もが幸福を願っている。
「それに、悲劇しかない世界じゃない。幸せだってある」
「その通りだ。彼も最後にそう気づいたから、敗北したと信じたいね」
なにも、悲劇ばかりが世界の全てではない。それらはただの一側面に過ぎず、世界は無数の面で構成されている。悪い面も良い面もあるのが世界で人間で、全てだ。
「おめでとう。君は二つの世界を救ってみせた」
「いいや。まだです。まだ、世界の剥離が残っています」
仁は『魔神』を倒した。だが、まだ世界そのものを救ってはいない。『勇者』にまだ早いと言い残し、『魔神』の系統外の映像を見る。
「俺では彼らを止められません。あれは『魔神』本人が持つ権限のようなものだったみたいで」
試しに一度念じてみたのだが、なんの効果もなかった。今もなお、失敗作は騎士と日本人を殺そうと暴れまわっている。
「今はなんとか持ちこたえていますが、被害は甚大です。特に騎士側の」
イヌマキが最後に森を解除したのだろう。木々から抜け出し、『伝令』で状況を把握した騎士の多くは一目散に街へと駆けて行く。だが悲しいかな。いくら多勢の騎士とはいえ、相手は不死に近い化け物。一時的に抑え込むことは出来ても、完全なる無力化は難しい。
「やはり、日本人が足手まといになっています。それに、今は手を取り合えていますが、終わったらどうなるか分かりません。だから、双方の為に分けるべきです」
おまけに日本人を守りながらとなると、非常に厳しいものがある。早急に世界を剥離させて元に戻し、騎士には全力で失敗作と戦って欲しい。一時的に共闘できたのだ。ここで関係を断ち切った方が、今はいい。互いに許せるくらい、時が傷を癒してくれるくらい経ってから、会えばいい。
「次に会えるのがいつか、そもそも許せるのかも分からないね」
いつかは分からない。許せるかは分からない。もしかしたら明日かもしれない。明後日か、一年後かもしれない。もう仁が死んだ百年後かもしれない。許せるかもしれないし、時間がかかるかもしれないし、いくら時間をかけても無理かもしれない。
「ええそうです。分からないから、いいんですよ」
だが、それは無限の可能性だ。希望もあって絶望もある、可能性なのだ。
「ありがとう。君は世界最高の『勇者』だ」
「違います。ここに来るまでに戦ってきたみんなで、俺達で『勇者』なんです。世界最高かは、分かりませんが」
最後にお礼を述べた彼の言葉を、仁は訂正する。仁一人ではなく、自分が今まで歩いてきた道のり。人類の歴史の中で、誰かを守る為に生きた人々全てが『勇者』だと。目の前の彼だって、その一人だと。
「それだと全人類が『勇者』になるんじゃないかな?」
「いいじゃないですか。何も問題はないと思いますが」
『勇者』の名前大安売りだ。でもまぁ、大安売りだって、みんな『勇者』だって、悪くないだろう。
「では、これで」
「うん。君に少しでも、幸せがあることを祈っているよ」
仁の表情を見ていた『勇者』は、きっと気づいていたのだろう。
久しぶりに現実世界に帰ってきたような、そんな気がした。実際に眠っていた時間はとても短かったのだろうけれど、精神世界での体感時間はおぞましいほど長かった。
「おお!目が覚めたか!」
「勝ったよ……シオンは?」
目が覚めたそこは、まだ塔の中だった。起きてまず勝利の報告をして、少女の姿を探すが見つからない。まさかと全身を恐怖が覆うが、
「大丈夫だ。まだ生きてる。外で騎士に治療してもらっているからな」
「……良かった」
既に治療できる場所へと移されただけらしい。ロロの答えに胸をホッと撫で下ろして、そこでようやく自分の内側を認識する。
「これで足りるかな?」
「おそらくは。信じる他あるまい」
計画通り、『魔神』の魔力と系統外を引き継いだらしい。身体から溢れる力、頭の中に浮かぶ数多の能力の情報量に圧倒される。でもその代わりに、もっと大事な存在はいないのだ。
「ロロ。早速だけど、お願いします」
「状況は聞いた。すぐに取り掛かろう」
今は悲しんでいる場合ではないと心に鍵をかけ、魂に刻まれた至上命令を実行に移すよう、ロロに呼びかけた。
「クロユリが外で騎士に睨みを利かせている。シオンにもしものことが無いようにな。さぁ、行くぞ」
「うん……あれ?治ってる……」
立ち上がる際に気づいたが、あれほど酷かった傷のほとんどが塞がっていた。どうやら、『魔神』が折角憑依した依り代に死なれては困ると治してくれたらしい。もちろん、刻印の代償はそのまま氷や黒や無となって残っていたが、それでも助かった。
「ロロ!そして、仁。勝ったのね」
光の扉をくぐり抜け、塔から姿を現した仁に、『魔女』と騎士達の間に緊張が走る。しかし、ロロの姿を見た彼らは、安堵の息を吐いて警戒を解いた。未だ嫌悪とも恐怖とも、疑念ともいえる感情の視線は消えないが、それでも攻撃してくる者はいなかった。
「あの子はもう大丈夫よ。安心して」
「……良かったです。治療をありがとうございます。では、お願いします」
数人の騎士に囲まれ、治癒魔法をかけられているシオンの容態を、『魔神』の経験を用いてある程度把握。多少危ういラインではあるが、なんとか助からなくもないだろう。
「さぁ、こっちへ。この魔法陣に二人で触れてくれ」
一瞬の間に無限回繰り返した迷いの末、シオンから目を離し、ロロの持つ魔法陣にクロユリとで触れる。何をどうすればいいのかは、本能が教えてくれた。
「そうだ。その調子だ」
身体から抜け落ちた魔力が魔法陣へと吸い込まれ、光はその大きさを増していく。いつしかそれはシオンや周囲の騎士をも巻き込み、世界へと広がっていく。
騎士のざわめきがする。怯える鳥の鳴き声が天から聞こえる。引き裂かれる世界が震えて、泣いている。
「仁?」
その中に紛れた声を、仁は聞き逃さなかった。『魔神』の系統外だとかそんなんじゃなくて、仁が聞き逃さなかった。
「……ごめんな。シオン」
魔法陣から目を離して彼女を見て、俺は謝った。世界を剥離することでも、僕を守れなかったことでもある「ごめんな」だった。
「いよいよだ」
ロロの感極まった声が細かに入ったその時、傷だらけの少女が立ち上がった。周りの騎士が「馬鹿なっ!」だとか、「その傷で動いては」と叫んでいる。仁の中の『魔神』の経験だって覆された。あの傷で立ち上がって、走るなんてあり得ない。だが、現実は否定のしようがなかった。
「世界は、再構成される」
世界を光が包み込んだ。眩しく、暖かい。そんな光だった。
それは、世界が変わる瞬間だった。世界中のどこにいる誰だろうと、その光を目撃した。
「これで、一安心ですね。まぁこれからはこれからで、課題は山積みですが」
王の隣で街の様子を眺めていた石蕗は、一番の問題が解決したが、まだまだたくさん課題はあると笑った。やっと取りかかれる。そういう笑みだった。
「……これで、少しは報われたかな。けど楓にも見せたかったよ」
桃田は、死んだ恋人を元の世界に戻したかったと。微笑みとも悲しみとも取れる表情で、光を見ていた。
「勝ったんだな」
堅は、これから訪れるであろう大変だが平和な日々に思いを馳せ、心の中でトーカや仁をはじめとした様々な人に感謝を告げた。
「……終わったの?」
氷の刻印を発動させ、失敗作を串刺しにしながら光を浴びた環菜は、消えていく敵と騎士に状況を理解して、へなへなと腰が抜けてしまった。いきなり現れた化け物達から街を守ろうと必死だったのだ。ようやく、子供達を守れた。その安心があった。
「なんとかギリギリ治療し終わったところで良かったよ。でもまぁ、あと何人も待ってたんだけどなぁ……よくやったよ。みんな。ありがと」
治療していた最中に光を浴びた梨崎は、相も変わらず。全員を診れなかった事に、不満を漏らしていた。だがその表情は、どこか晴れやかなものだった。
「……本当にすごい。私なんかより、ずっとね。さぁ、気張らなくちゃ。まだまだこれから」
自分には救えなかった世界を救った少年と少女に賛美を送り、負けていられないと頬を叩いて気を引き締める。マリーの戦いはまだ終わっていない。残り少ないストックで、犠牲を限りなく少なくした上で、失敗作を全て拘束しなければならないのだ。彼女はザクロ達騎士と共に、もう一度剣を握る。
そして、
「仁!私、貴方に会えて本当に良かった!」
「こっちのセリフだよシオン。君に会えたから、世界を救えたんだ」
「必ず、また来るから!」
「待ってる。死ぬまではずっと」
何度もよろけてこけそうになりながら走って、辿り着くまでにシオンは言えるだけのことを言おうと、仁は迎えに行くまでに伝えたい事全てを伝えようと、一秒さえ惜しいと口を動かし続ける。
「絶対に間に合わせるから!ありがとう!愛して」
あと、数センチで触れ合える。抱き締められるその距離で、シオンは消えた。綺麗な黒い髪も黒曜石みたいな黒い瞳も、何度も重ねた唇も華奢な身体も、言葉さえ途中で、溶けて消えた。
「……お預け、か」
仁の氷の魔法で動いていた右手と両脚もまた、消えた。『魔神』から引き継いだ系統外も経験も魔力も、同様に全て跡形もなく。残ったのは、代償で置換された氷の左腕のみ。
「俺も、僕もだよシオン」
少しでも犠牲を減らそうとした事に、悔いはない。でも、あと少しだけ発動を遅らておけばと思う気持ちが、ないわけでもなかった。そうしたなら、この手であと一度だけ、触れ合えたかもしれなかったから。
「愛してる。ずっと愛してる」
両脚が消え、仰向けに横たわった仁は、彼女が消えた空間に行き場を失った氷の左腕を伸ばす。空気にしか触れない腕に、透き通るような青い空の下。
「……おかしいなぁ」
周囲の地形も、雲の形も大きく変わっていた。黒い塔もなく、世界は元に戻ったと確信がある。
「世界を救ったはずなんだけどなぁ」
もう、あの街を騎士や魔物が襲うことはない。シオンの世界でも、もう『魔神』と『魔女』に怯えなくてもいい。二つの世界が殺し合うことは、もうない。
「嬉しくなきゃ、いけないはずなのに」
やっと望む場所に来れた。多くの者に託され、積み上げられた骸の願いを叶えた。仁は『勇者』になれたのに。
「なんでこんなに、悔しいんだろうなぁ」
仁は確かに世界を救った。それも二つもだ。でも、シオンには触れない。僕の声も聞こえない。香花も悠斗達も蓮も酔馬も柊も楓も、この世にはいない。
失ったものが、余りにも多過ぎた。血が流れ過ぎた。人が死に過ぎた。助けられなかった人が、多過ぎた。
悔し涙に滲む隻眼の視界の澄み切った青空ほど、仁の心は晴れなかった。




