第157話 幻想現実世界の勇者 前編
「把握した。本来の作戦とはズレたが、まだ希望はあると」
倒れたまま天を見て笑う僕に、ロロは全ての事態を把握。どちらであろうと桜義 仁。残酷な判断だが、作戦の継続には支障はない。
「……すまない。自分達の因縁に、君達を巻き込んでしまって」
だが、どちらであれ犠牲は犠牲。『魔神』を仕留めきれなかった自分達の責任だと、ロロとクロユリは頭を下げる。
「起こったことだし、もうどうにもならないや。いつかの君が言ったようにね」
「ああ。自分の言葉に嘘はない。今から最善の働きをすると約束する。具体的に言うなら、あの街を今すぐ救うとかだな」
謝罪に対して返されたのは、忌み子の真実を知ったあの日に、開き直ったロロが吐いた言葉。起こったことは変えられないなら、未来を少しでよくすべき。だからロロは、嘘を吐いたら死ぬ身で街を救う事を誓う。
「できるの?」
「クロユリが復活したんだ。怖いものなんて何もないからな。仁が勝利するまでの間に街が滅んだら、元もこもないだろう」
願ってもない話だ。戦いが強引でも早く終結するならば、それだけ双方の死者が少なくて済む。クロユリが蘇った現在、彼女一人で騎士全てを殲滅する事も、戦争を止めるように脅す事も可能だろう。
「それに、もしもここで真実を信じてもらえたなら、二人が離れ離れにならなくて済むやもしれん」
そして、ロロが『魔神』に憑依されたティアモの映像を騎士達に伝え、信じてもらえたなら。世界を引き離さずに済むかもしれない。仁とシオンが、離れ離れにならない未来があるかもしれない。
「本当にいい話じゃないか。ぜひお願いするよ」
世界を跨ぐのは大変だからねと、茶化したように笑う僕に、ロロとクロユリは唇を噛み締めた。そのいい話に僕はいないというのになぜ、彼はこんなにも嬉しそうに笑えるのだろうか。嫉妬も羨望もあるだろうに、こんなにも祝福できるものだろうか。
「最後にひとつだけ、いいかな」
「なんでも聞こう」
終わりの時が近いのだろう。今にも閉じそうな瞳に、震えている手脚と唇を見ればそれくらい分かる。そんな彼のお願いに、ロロは躊躇いなくなんでもすると誓う。違えた瞬間に死ぬと分かってはいるが、どんな無理難題でさえ、僕の貢献には釣り合うと思ったのだ。
「シオンの側に運んでくれない?」
「……承った」
『魔神』が憑依した瞬間に、死なない程度に治癒したらしい。それでもロロは、まるで割れ物や赤子を扱うように優しく、手脚の分だけ軽くなった仁の身体を抱いて、横たわる少女の元へと運ぶ。
「それと、これ」
「ん、ありがとう」
シオンの左手は手首までしかなかったのに、『魔神』に斬られて肘までに減ってしまった。彼女の治療をする際に、回収していたのだろう。千切れた腕に嵌められた指輪を、クロユリは僕の手に。
「ふふっ。今だけ独り占めだ。ごめんよ。俺君」
『魔神』は仁の身体を少しも動かせていない。なのに僕は、両手でシオンの右手薬指に指輪を嵌めてみせた。
「ぼ、く?」
驚くことに、冷たい金属と氷の温度に反応したシオンがうっすらと目を開けて、名前を呼ぶ。見た目だけじゃ分からないのに、彼女は朦朧する意識で僕だと気付いたらしい。
「シオン、ありがとう。君に出会えてよかった」
再び気を失った少女の右手を両手で包み、僕は最後の力で唇を震わせる。それが、彼の現実世界で最後の言葉だった。
「……クロユリ。一旦外に出よう。自分達が蒔いた種にケリをつけにな」
「ええそうね。それくらいの恩返しはすべきだわ」
二人を置いて、『魔女』と『記録者』は塔の出口へと向かう。かつての勘違いを正して、僕と俺とシオンが守りたかった街の人間を少しでも救う為に。
「ティアモ団長やジルハード副団長は一体……おいっ!誰か出てきたぞ!」
「ま、『魔女』!?」
光をくぐり、久しぶりに外へと出たクロユリを歓迎したのは、塔を取り囲んでいた騎士達だった。魔力眼でクロユリを『魔女』と判別した彼らは、驚きのあまり口をパクパクとさせることしか出来ない。
無理もない。世界を滅ぼせるほどの災厄が、目の前に生きているのだ。気を失わなかっただけマシといえよう。
「ええ。貴方達がよーく知っている『魔女』よ。とりあえず、戦争中の司令部の場所と、『伝令』の魔法陣をよこしなさいな」
断ればどうなるか。そんな事は、何よりも明らかだった。『魔女』に勝てる、もしくは抵抗できる自信のある者なんて、この場にはいない。どこかの騎士団の団長が震えながら、クロユリの足元に魔法陣を放り投げる。
「……どこからの『伝令』だ?」
「『魔女』と『記録者』といえば、信じてもらえるかしら?」
「なっ!?」
位置さえ分かれば、どんな距離でも『魔女』の魔力で強引に繋げられる。全く身に覚えのない『伝令』からいきなり飛び出した名前に、数人が崩れ落ちる音を魔法越しに聞きつつ、有無を言わさぬ間に本題へ。
「『記録者』から伝える真実があります。聞きます、よね?」
少しでも、なにか自分にできることを。その想いで繋げられたこの『伝令』は、司令部を通じて王へと真実を伝えられ、世界を動かす。
文字通り、魂を揺さぶる拳だった。完全なる想定外、今までに一度もあり得なかった方角から飛んできた拳は、『魔神』の頰を見事に撃ち抜いた。
「貴様の魂は喰らったはずだ。何故、生きている!そういう系統外なら私が奪うはずだ!」
骸の上を転がり落ち、血の海の中から見た少年の姿に叫ぶ。未だかつてない凄まじい抵抗をなんとか打ち破り、ついさっき魂を喰らい尽くした少年と、今自分を殴った少年は瓜二つ。いや、完全に同じと言っていい。系統外に対抗できるのは系統外のみだと疑うが、それもあり得なかった。
だったら、この少年は一体誰だ?何者だ?そして、この頰の痛みはなんだ?
「言ったろ。半分だからだ。桜義 仁は、二人で一人なんだよ」
歩み寄る仁は、『魔神』を見下ろしながら種を明かす。系統外でもなんでもない。ただの精神病と言われる症状で、それ以上のかけがえのないもう一人がいたからだと。
「な、る、ほ、ど。憑依した事はないが、聞いたことはある。こっちが僕とやらで、貴様が俺か」
僕に対する憑依自体は成功している。俺の言葉でそう確信した『魔神』は、僕の記憶から必要な情報を頭の中で読み上げ、状況を把握。
「見事な作戦だ。まさか、一時的にとはいえ、こんな方法で動きを封じられるとは思わなかった」
多重人格を利用した作戦。その実現する為の過程と、勝利した後の妄想。それらを眺めた『魔神』は、嘘偽りのない賞賛を贈る。何の系統外もなく、剣術も魔力もないようなただの人間がよくやったと。
「だか、いささか思い上がり過ぎだな」
『魔神』が片手を振ると同時、世界が変革される。『武計』によって生み出された銃が一斉に仁へと向けられ、銃弾が放たれた。『病災』『侵毒』『腐敗』も同時に発動。人間が生存できない空間を作り、仁を苦しみの底へと叩き落とす。
「他愛ない。たかが人間の、それもたった十数年の命でこの私の理想に勝とうなどと……どういうことだ?」
呆気なく蜂の巣にされ、死体となった仁の身体を、更に病魔と毒が犯して腐敗させていく。みるみるうちに腐り果てて崩れ落ちていく姿を『魔神』は見送り、現実世界へと戻ろうとして、戻れない。
「他に何か条件があ」
「この世界において、勝敗を決めるのは心のみ」
「っ!?」
声が、聞こえた。その衝撃に『魔神』は思わず飛び跳ねて、そして恐る恐る声の方角を、少年が死んだ場所を見る。
「心だ。心が折れない限り、この世界に敗北はない」
頭部の穴から向こう側が見えている。腐り果てた身体が、地面にぼとりと落ちていく。病魔に侵された皮膚の色が変わっていく。間違いなく死んでいる。
「馬鹿な。その傷で?」
「肉体の傷に意味はない。精神に直接傷を与えるんだよ。恥だとか、恐怖だとか。要は相手の心を折るんだ」
まるでロロのように、仁の身体は全て元に戻った。この精神世界のルールだ。例えどれだけ肉体が傷つこうと、心に傷がないのならば、攻撃に意味はない。
何度も何度も、僕とこの世界で戦った。だから俺は、この世界のルールを熟知している。故に、僕ならこの世界で最強になると思って送り出そうとしたのだ。
「痛みはあるはずだ。私の頰が痛んだのだ。何度も死んだ痛みを味わったのに、なぜ立てる?」
「ああ。すごく痛かったよ。耐えられない苦痛というのは、心を折るのに非常に有効だろうさ」
殴られた頰を抑え、『魔神』が痛覚の存在を証明する。実にその通りだ。治るまでは痛みがある。実際に銃弾で撃たれたならば、その痛みが。急速な病の進行はその間の痛みを全てまとめて。毒は抗えない死への苦しみを、痛みとして与える。
「なら、いつまで耐えられるかな」
いいことを聞いたと、『魔神』は勝利を確信する。僕を失った俺は、『限壊』を発動する事さえできない、ただの人間だ。戦闘力の差は、無限に等しい開きがある。例えどんな偶然奇跡が起きようとも、覆せないような差だ。何千何万何十万何百万飛んで那由多の試行回数でも、覆せないような差だ。
「この世全ての人類が感じている痛みと同等の、ありとあらゆる苦痛を与えよう」
始まりは一発の銃弾。仁の黒い眼の中心を、銃弾が的確に射抜いた。一拍遅れてから、『魔神』が自身の系統外全てで思いつく限りの殺害方法を、精神世界で実現させる。さぁ、ぜひ自分がそうなった瞬間を想像してほしい。
「その希望しかない隻眼に、絶望を教えてやる」
身体を炎で焼こう。溶岩に叩き落として溶かしてやろう。濃硫酸の雨で骨だけ残してやろう。全身に剣を突き刺してやろう。賽子になる大きさにまで裁断してやろう。喉に水を発生させ、地上にて溺れさせよう。血管内に『反転』を設置し、血液を逆流させよう。生きたまま解剖して、目の前で内臓をぶら下げよう。
「何回、死んだかな?」
死の瞬間、全てが狂いそうになる痛みと恐怖の中に、誰だって思うだろう。怖い。死にたくない。嫌だと。それを永遠と繰り返し続ける。死の感覚を与えられる限り与えよう。終わりがない苦痛を与えよう。終わりたいと思わせよう。
「今貴様が感じているその感覚。それこそが悲劇だ」
厚さ2mの鉄板で挟んで、紙と同じ厚さにしよう。苦痛を与えると評判の病気に感染させてやろう。悶え苦しむ毒を盛ろう。生きたまま鳥や魔物に食わせてやろう。愛しい人に殺される幻覚を見せてやろう。天高くから放り投げて、地面とぶつかってぐしゃぐしゃにしよう。体内に空気を生成させて内側から爆発させよう。骨を一本一本取り出して人の形に並べよう。
「私の作る新人類に死はない。痛みを感じる事もない。四肢がもがれたとしても、すぐに再生する。痛みも苦痛も、死ぬ瞬間の恐怖を味わう事もない」
『魔神』の新人類には、ロロの系統外が応用されている。嘘を吐かない限り死なないという、研究者達が失敗と断じた系統外だ。実に愚かだと、『魔神』は嘲笑う。嘘を吐き続ける人間には使えなくとも、違う人類ならば、それはもう不死だろうと。
「かはっ!」
再生と死を、仁は何度繰り返したことだろう。どれだけの痛みを与えられたことだろう。身体を斬り刻まれて溶かされて、窒息して骨が砕けて頭に釘を刺される痛みを、千回ずつは繰り返した気がする。
「貴様らはこれから先も生まれ続け、争い続け、傷つき続け、死に続ける」
だが、仁が味わった死の感覚はまだほんの一端だ。今までに死んだ人間の数だけ死がある。それ以上の数の争いがあり、傷がある。それら全ては悲劇なのだ。悲しむべき事なのだ。無い方がいいに決まっている事なのだ。
「早く人類を滅ぼさなければ、悲劇は増え続けるのだ」
『魔神』は、それら全ての悲劇を数えていた。例えある一人が死んだ後も、彼が生きている間、死ぬ時に感じていた苦痛恐怖絶望は世界に累積していると。人類の歴史が続く限り、永遠にこの数字は増えていくと。
「これから先、生まれるはずだった生命に、私は苦痛を与えたくない」
未だ空気も水も両親も知らない。まだこの世に存在していない生命を、『魔神』は憂う。このまま今の人類が続く限り、生まれてしまった彼らは苦しむだろう。人間に定められた本能に従う他なく、争い傷つけ、死に怯えながら生きて死ぬだろう。その血と肉は地獄であるこの世の一部となり、骨は歯車となるだろう。そのことが、『魔神』は許せなかった。何もしていない無垢な生命がすでに、罪を犯す運命にあるなんて。
「分かるか?私は急いでいるのだ。母体を早急に変えねばならない。貴様らの汚い本能ではなく、新しく清らかな本能に従って、幸せに生きるべきなのだ」
まだ生まれてきていない生命に罪はない。彼ら全員が幸せとなる為に、不幸にならない為に、『魔神』は世界を滅ぼすのだ。
「私の世界は幸せに満ちている。理想の楽園だ。辿り着くべき場所なのだ!」
『定軸』で仁の腹を貫き、避雷針として雷撃を落とす。全身の水分が蒸発し、焦げた肉の匂いが鼻を突く。だが、仁の眼はまだ死んでいない。
「貴様には絶望の世界がお似合いだ」
仁の精神を壊すべく、『魔神』は黒いもやを生成。それは彼の眼の上へと覆い被さり、違う世界を見せる。
「精神に響くだろう?」
首の折れ曲がった少女。見捨てた生徒に先生達。仁の嘘を知らぬまま、希望を託して逝った者。仁が殺した騎士と街の人々。美味しい食事に囲まれる自分と、それを羨みながら餓死する痩せ細った子供。
「許しを請え。泣け、叫べ。弱音でも中身でも吐くがいい」
救えなかった場面。殺した瞬間。シオンや堅が無惨に殺される未来。消えていく僕。仁の心の中にある傷に注射針を突き刺し、そこに毒を注入するような映像の数々。
今までこの系統外を使われた者は皆、やめてくれと許しを請うた。死なせて欲しいと懇願した者も、負けを認めるからと泣き叫んだ者も大勢いる。思い出したくない、忘れたい過去は誰しもに存在するのだ。特に仁のような人間には、非常に多く。
「本当、試練の通りだな」
「……馬鹿な」
しかし、仁は許しも請わなかったし、泣き叫びもせず、ましてや吐く事すらなかった。ただ何事もないように、鼓動や呼吸と同じだと言わんばかりに、黒いもやを手で払って解除した。
「一体どういう精神構造をしている……!?」
驚く『魔神』には悪いが、仁はすでに試練で予習済みだ。いや、そうでなくとも、こんな光景は常に頭の片隅にある。
「今更そんなの見せられても、何も変わらないんだ」
例え過去をどれだけ悔もうと、その時の映像を思い出しても、過去には帰れないし、変えられない。死んだ者は戻ってこないのだ。だから、こんな映像など、攻撃ですらない。
「むしろ、想いが強くなるだけだ」
より一層、仁は己を責め立てる。それは彼の中で次は守るという絶対の覚悟となり、心はより強固なものへと変わっていく。
「くっ!」
過去のトラウマを掘り起こしても、何らダメージにはならない。ならばと、『魔神』は再び系統外を展開し、肉体的な苦痛で仁の心を壊そうと試みるが、
「……なぜ、発動しない!?」
彼の手の中の聖剣が消えた。宙に浮かんだ銃も、仁を固定していた『定軸』も何もかも。僕の人格はすでに死亡しており、抵抗は不可能。外部からの妨害もあり得ず、俺にも『魔神』の系統外を阻害する権限はない。
「悟ったからだよ。意味がないって」
だが、俺にはその理由がよく分かる。『魔神』自身が、系統外の発動を諦めているのだ。いくらトラウマを掘り返そうが痛みを与えようが、仁には効かないと理解している。だから、彼は発動できないのだ。
「これからは、拳と口で語ろう。お互いに今まで生きてきた全てを乗せた拳で、誰かからもらった言葉と自分で見つけた想いで」
この世界での勝利条件は、相手の心を折る事。そして仁に通じるのは、思想のみ。つまり、相手を説き伏せた方が勝利する。
「……いいだろう。来い。絶望の重さを叩き込んでやる」
故に、魂の殴り合い。己の人生、そして仁は希望を、『魔神』は絶望を乗せた拳を構える。
「善人が地べたを這いずり、悪人が見下ろすのがこの世界だ。こんな世界、おかしいとは思わないか?」
『魔神』が最初に振るった拳は、問いかけ。果たして、この歪な世界に救う価値はあるのか。滅ぼすべきなのではないかという、仁の根底への疑問だ。
「思うよ。そんな世界、俺も嫌いだ。どちらかといえばお前の創る世界の方が綺麗だし、幸せだと思う」
「ならばなぜ、私に敵対する!世界を憎んでいるなら、どうして!」
驚くことに、仁は救おうとしているはずの世界を嫌いだと言った。『魔神』が作った新世界の方がずっと、悲劇も理不尽も少ないのだろう。彼もそう思っていたのだ。
「でも俺は、そんな世界でも生きようとする人達が好きだ」
それでも戦う理由は至極単純。世界は嫌いでも、その世界にいる人々は好きだから。例えより良い楽園のような世界になるのだとしても、今の人達を切り捨てるなんてこと、仁にはできやしないから。
「だから、俺は戦う」
彼は今一度強く、拳を握る。強化も『限壊』もない普通の速度で。『魔神』には止まって見えるような速さで近づきながら、彼は言う。
「こんな、こんな虫けらみたいな人間どもがか?争い続けることしかできないような、そんな人類がか!」
この世界の人間を好きだと言った仁を、『魔神』は全力で否定する。新世界には、今の人類全てを滅ぼしても到達する価値があると。だから、彼は戦うのだ。
「愚かで」
系統外なしでも、戦闘経験の差は歴然。仁の拳を余裕でかわしながら、『魔神』は今までに見てきた人間を語る。頭の賢さではない。そもそも存在自体が愚かで、使い方が愚かなのだ。
「醜く」
カウンターが仁の腹にめり込み、吹っ飛んだ。顔の美醜や体型ではない。心の底が醜いのだ。他者よりも自分。自分の為ならば何だってするような、その腐った精神が醜いのだ。
「弱く」
伸びてきた少年の拳に自らの拳をぶつけて、押し返す。力の弱さではない。強い生き方ができない人類を、弱いと嘲っているのだ。自分より下がいないと安心できないような人間を、認められないのだ。
「卑怯で惨めで矮小で」
再び腹に深い拳を与えて、膝から崩れ落ちた仁に告げる。人間は皆、心のどこかに卑怯を隠し持っていると。惨めだと隅っこでは理解しながら、目を逸らしていると。世界に対して人間とは矮小な存在なのに、さも世界は自分は中心に回っていると思い込んでいると。
「助けてくださいと縋り付き、他者を蹴落とす」
まだだ。まだ、足りない。希望の消えない眼を見て、『魔神』は悟る。だから、顎を蹴り上げた。『勇者』の仁やシオン、マリーに縋り付き、助けを乞うあの時の人々を思い出させ、人間の醜さを揺れた脳に染み込ませる言葉と共に。
「争い続けて、いつかは自ら滅びるような人間がか!」
そして、それでも立ち上がろうとしたその顔に。人は争いをやめられない。それは本能で避けられないにしろ、余りにも愚か過ぎる業。その炎はいつしか人類そのものを、世界を焼き尽くすだろう。
「こんな人間を、お前は好きと言うのか!愛していると!」
『魔神』から見た人間とは、そういう生物だった。どうしようもないような、生きている価値なんて見出せないのが大半の動物だった。
「そんな人間だよっ!」
だが、仁の肯定の拳が振り被られる。『魔神』の拳を顔に受けながら構えたそれは、まさに人間を体現したかのように醜く、傷だらけで、弱々しい。
「お前は、余りにも見ていなさ過ぎるんだ」
「なんだと?」
「良いところも悪いところも、両方あんのが人間だろうがっ!」
「ぐっ!?」
しかし、その拳は『魔神』のみぞおちに深く突き刺さり、彼の世界を大きく揺らした。
「何をそんな、当たり前のことを偉そうに」
『魔神』は仰け反りながら、己に言い聞かせるように嘲る。仁が拳に乗せて叫んだのは、何の変哲もないただの真理だ。誰だって知っているし、そこら中で叫ばれてる使い古されたセリフだ。
「その当たり前が、お前は分かっていないんだろ」
「分かっているとも。善も悪も兼ね備えているなんてことはな。だから、許せない。必ず存在する悪が、許せないと言っている!」
もちろん『魔神』だって理解している。その上で、どちらも兼ね備えている事が嫌いで憎くて、滅ぼしたくてたまらないのだ。
「貴様こそ理解していない!人間の悪を正しく見れていないだろう!」
見ていない。希望を抱けるなんて、余りにも絶望を知らない。人間なんて、見れば見るほど吐き気がする醜いものだと、『魔神』は反論する。
「俺の記憶を覗いてみろ。そんなもん、たくさん詰め込まれているよ」
だが、仁は知っている。人間の醜さや弱さ、卑怯にして卑劣な行いに、繰り返された嘘に争い。全部仁が行ってきた事だし、日本の時代から見てきた事だ。
「……なんと醜い記憶だろうか」
見た『魔神』でさえ、同意しよう。仁が人間の悪を見ていると認めよう。生き残る為に、忌み子を殺す騎士。生きる為に、仲間を見捨てた仁。生き延びる為に仁に依存して頼り続けて、助けてもらえずに仁を恨んで死んだ生徒達。みんなみんな、醜かった。
「とんだ『勇者』だな。香花の首を絞めたその手で、世界が救えると?いや、この世界にはお似合いの『勇者』か」
仁を食べようと首を絞める少女と、彼女を殺そうと首を絞める仁。その記憶の結末を見た『魔神』は嗤う。仁も香花も、醜い人間の一人だと。
「なんとも、醜い。貴様の歩んできた道は、ここに至るまでの道は、骸と嘘ばかりじゃないか」
人間の醜さは止まらない。仁が吐いた、自らを特別扱いしてもらう為の嘘。憎しみに狂った龍に、生きる為に騎士と殺し合う光景。結局愛に気づかぬまま、実の父親を殺した少女。自分の弱さにつけあがり、強者に施しと救済を強いる弱者達。その他あげればキリがない。
「そして貴様ですら、その道を醜いと感じている。よく理解している」
そして記憶の中の仁も、人間が醜いと認めていた。矛盾しているぞと、それでも救おうとする仁を滑稽だと嗤う。
「託された義務感か?助けられなかった者達への罪悪感か?殺した者へのせめてもの罪滅ぼしか?」
記憶を読めば分かるとも。この少年が、どんな思いで戦っているかなど。彼に託して死んでいった者達の、なんと多いことか。彼が助けられなかった人間の、なんと多いことか。彼が殺した数の、なんと多いことか。
「それもある。だが、さっきから何度も言わせんなよ」
「じゃあなんだと……」
「大切な人がいるからだよ!」
彼が愛する人間の、なんと多いことか。
「お前の言う通りだ。人間なんて、醜くて弱くて卑怯で惨めで矮小で、本当に酷い奴らだ!」
そんな姿、何度だって見てきた。ニュースを流せばどこかの国の戦争や内乱、自国の汚職や詐欺に殺人事件が永遠と。仁が通っていた学校の中には、陰口にいじめが。世界が変わってからは、生きる為に他者を平気で蹴落とすような人間を何人も。
「でもな、醜いって知っているから、人間は美しくなろうとするんだよ」
だが、違う姿だってある。過去の失敗に気付き、己の醜さを知った者達はそのままだったか?いいや、違う。己の事を省みて、少しでも誰かを救おうと行動を起こした。
「弱いのだって認める。でも、だからこそ強くなろうとしてる」
誰かや自分を守る為に、願いを込めて剣を振るう。そんな姿を仁は何人も見てきたし、騎士だってそうだった。
「確かに、俺達は間違えてばかりだ。全知全能でもない、そういう生き物だ。最善だと思って突き進んだ先が間違いだったなんて日常茶飯事だよ。でも、間違えても間違えても俺らは、正解を求めてる」
間違いなんて何度も見てきたし、何度も重ねてきた。でも、その度に後悔して、次はもっといい選択肢をと考え続けている。より良きものを探求し続ける。
「俺達は分かり合えなかった時、殺し合うことでしか解決できないこともある。でも、分かり合える努力をやめることは絶対にないし、大多数の人間が殺し合いなんて望んでいない」
日本人と騎士は、互いに生きる為に殺し合った。それしか解決方法がないと思っていた。仕方がなかった。なのに、とある一人の女騎士はいつの間にやら、子供達に懐かれていた。助けられ、助けようとした。
ティアモだって、戦う理由がないなら停戦を望んでいた。シオンもマリーも、出来るなら殺したくないと思っていた。例え憎んでいたとしても、互いに殺し合う螺旋にいるよりは、互いが救われる共生を望んでいた。
「そういう人間なんだよ。俺らは。間違えて、足掻いて、もがいて、傷つけて、傷つけられて、それでも前に進み続けるんだ。進もうとしてるんだ」
醜いが故に美しくなろうと、弱いが故に強さを求め、間違えたからこそ正解を探し、大切な誰かを守る為に傷つけ合う。欠点を抱えているからこそ、より良きものになろうと進む者達。
「だから、その歩みを止めさせない」
故に、仁は人類を滅ぼすべきではないと思った。
「それに、世界を滅ぼさせてなんてたまるか。俺にその事を教えてくれた大切な人達がまだ、この世界には生きているんだ」
そして仁は、シオンや街の人々を守りたいと思っている。これだけでいい。『魔神』と戦い、負けない理由は、これだけで十分だ。
「ああ、そうか!貴様の戦う理由はよぉく理解したとも!」
入れ物である世界なんざ、仁にはどうでもよかったのだ。そこに生きる人々を守ろうとしているのだ。大切があるからこそ、仁は戦えるのだ。
「では、こうするとしよう」
「……なんだ?意味がないと分かったのに、また映像を見せるのか」
殴り合いを一方的に中断した『魔神』は、仁の前に映像を投影。首を傾げながら、仁はそこに映るであろう過去のトラウマに身構えて、
「真実を述べる。私が今見せているのは、現実世界での同時刻の映像だ」
予想に反し、作られた映像ではない、中継の画面を食い入るように見つめた。そこは、数回しか仁が行った事がない、しかし、非常に印象に残っている薄暗い場所。いくつもの水槽が並び、そこに人の形をした人ではないモノが眠っている、地下の研究跡地。
「なぜ、私が失敗作を殺さずに、生かしておいたと思う?いずれ脅威になるような存在が生まれるかもしれないと、思っていながら、だ」
まさか、そんなはずはない。あそこはイヌマキがしっかりと管理しているはず。そう思って、彼がすでに力を使い果たした可能性に思い至り、仁は隻眼を見開く。
「映像を見せているのは系統外だが、私が今からする事は、別に系統外でもなんでもない。魂が自由な今なら、命令を下すことができる」
『魔神』は力を封じられてはいるが、封印されているわけではない。故に、今なら意識を彼らと繋げられる。
「悲しいことに、私1人では世界を滅ぼすのに時間がかかり過ぎる。だから私は、兵士を用意したのだよ」
『魔神』が指を鳴らすと同時に、一斉に失敗作達の目が開いた。水槽を各々の力で壊し、よたよたと何年振りか分からない外気に身を震わせ、そして。
「君が戦う理由である大切を、私は殺すとしよう」
世界を滅ぼす尖兵達は今、解き放たれた。目覚めて地上へと這い出た彼らは、『魔神』に埋め込まれた使命に従い、古き人類に強大なる牙を剥く。手始めに、一番近い日本人達へと。
「いずれも何らかの系統外を持つ、不死に近い化け物達だ。話は通じないから、私みたいに説得できると思わない方がいい……さぁ、どうする?」
街を攻める軍勢が仁に何もできないように、塔の中で『魔神』と戦っている仁では、街に手を出すことはできない。そんなどうしようもない位置で、仁が守りたい人達の虐殺が始まった。
「早く私を倒さないと、貴様の守れたものが嫌いな世界だけになってしまうぞ?」
仁に出来るのは、少しでも早くこの男を倒す事だけ。
「貴様アァァァァァァァァァァァァァァ!!」
より強く、拳を握る。必ず殺す。今すぐ殺す。精神世界を大きく震えるほどの怒りが、仁の口から吐き出され、そして。
「私の勝ちだな。負けを認めなければ、この世界では負けないのだから」
先ほどの重みなど全くない、ただ焦りと怒りに任せて放たれたその拳を、『魔神』は欠伸をするよう呑気さで軽々と受け止めてみせた。
「ぐっ……」
映像が気になって目を逸らしてしまった仁の頰に、凄まじい衝撃。ここに来て、仁の心にヒビが入る。
「イヌマキはどこかな。どうやらいないようだなぁ?あの街に、果たしてこれだけの神兵を無力化できる力があるのか?」
まさに、『魔神』の言う通りなのだ。イヌマキの時間が僅かに残っていたとしても、マリーの命のストックに余裕があったとしても、例え街の戦える人間全員が健在だったとしても、数百を超える数の失敗作を相手に出来るのか?不可能だろう。
「おや、醜い。見たか仁。今お前の守りたい人間が、お前の守りたい人間を囮にしようと蹴落としたぞ」
仁が『魔神』を倒して、即座に世界を分離させる。それしか道はない。しかし、『魔神』は街が滅びれば仁が弱ると知っている。だから、彼は絶対に敗北を認めない。映像を眺めながら余裕で仁の拳を受け流し、たまに思い出したかのように痛烈な一撃を叩き込んでくる。
「ははははははははっ!はははははははは!どっちも死んだではないか!ああ、断末魔を聞かせてあげられなくてすまない。これは映像だけなのだよ」
死の恐怖に怯えた人間がとった醜い行動に、『魔神』は笑いが止まらなかった。俺は動揺を抑えられなかった。
「おい見るがいい桜義 仁!この隙を見逃さずに、騎士達が街への侵入を果たしたぞ!」
こんな時でさえ争うのかと、敵の窮地を好機と捉えて街の中へと雪崩れ込んだ騎士達を見たその時、仁の心を絶望が覆い始めた。僅かに希望の空間があったのは、騎士と失敗作がぶつかり合って潰し合い、多少の時間稼ぎになるのではと考えたから。
「ははっ、はははははははは!」
だが、そんな考えなどすぐに消える。なぜなら、騎士の数は余りにも多く、失敗作を抑えながらでも日本人の相手ができたから。
「ははははははははははははは!見たか!これが人間だ!」
指で示して、嘲るように真実を見せつける。
「これが人間だよ、『魔神』!」
失敗作達を包囲して剣を向け、日本人達を安全な場所へと避難させる騎士の姿を、仁が『魔神』に見せつける。
希望はまだ、死んでいなかった。




