第145話 戦友と柘榴
血だ。血の味がする。血の匂いがする。血の感触がある。目を開ければ、真っ赤な朝日が、真っ赤な血塗れの大地を照らしていた。
「はぁ……んぐっ……ぷはぁ!」
放った最大範囲は、騎士の魔法の一斉掃射によって大幅に威力を削られたが、それでも周囲の数十人は吹き飛ばした。この僅かな時間に、虚空庫から取り出した水筒を逆さにして水を飲む。残ったのは顔にかけて、布で血と一緒に拭き取った。さっきから瞼にこべりついていて、視界の邪魔だったのだ。
「はぐっ」
「何呑気にお食事してやがああああああああああああ!?」
戦況を確認し、最大範囲の討ち漏らしを数える。今回は、威力減衰と土魔法の壁で逃げ延びた一人。仲間の傷と戦場を舐め腐ったマリーの態度に激昂し、近寄って来た所で腕を切断。痛みと恐怖で動きの止まった騎士の脚を蹴りで砕き、風魔法で後方へと送り返す。
「はぁ……はぁ……」
今日というより昨日というか、一昨日気付いた事だが、何度再生しようと空腹や喉の渇きは無くならないらしい。再生によって死ぬ事はないだろうが、長時間飲まず食わずは精神的に厳しいし、何より集中力に欠ける。
「もっとだ!押せ!弱ってきてるぞ!」
「何も死ぬ事はねえ!もし討ち取ったら貴族になれるぞ!」
「「「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」」」
最大範囲は使用不可。その上、遠目からでもマリーの衰弱は見て取れる。報酬によって鼓舞された騎士達が、最大範囲で空いた穴を再び埋め尽くさんと押し寄せて来て、
「ひっ」
気圧された。ほんの一瞬だ。目が合った時だけだ。殺意のない瞳だ。だが、その目はまだ死んでいない。「絶対に通さない」という意思の視線が、自分達を貫いていた。
「何足止めてやがる!行けぇ!行けぇ!」
声に我に帰り、騎士は突撃を再開。剣を構えて魔法を用意して、周りに合わせて突っ込む。障壁は最初から無駄だと使用していない。衝突まで三秒。
「がりっ」
元気が出る薬だと言われてイヌマキから渡された錠剤を、マリーは数個まとめて噛み潰す。ばりぼりという音が戦場の音より直に体内で響く。鼻の奥からすっとミントのような香りが突き抜け、血臭を追い出して、気持ちが少し楽になった。
「ぎゃあああああああああああああ!?」
「俺の脚がっ!?来るなっ!見えにくいが細い炎がたくさん張ってやがる!」
魔法陣によって横に展開された複数の炎の糸が、マリーを無視して街に入ろうとした者の脚をピアノ線のように切断した。飛び越えようとしても無駄。幾重にも張り巡らされており、手と脚だけを綺麗に奪い去る。他の部位も一度は斬られるものの、マリーの系統外によって即座に再生されて無かった事に。
「うわあああああああああああああ!左がああああああああ!」
マリーへと向かって来た者達には、剣で応える。まず姿勢を低くして下からの切り上げで左手脚を斬り落とし、剣による一人目。
「えっ!?あっ!」
バランスを崩して落ちて来た一人目の腹に炎の槍で穴を開けて、通して吹き飛ばす。死角から飛び出して来た槍は縦横無尽に戦場を飛び回り、脚や腕、首や腰の下からの神経を食い散らかして消え去る。最初に利用された腹は、すぐに塞いで無問題。命までは、決して奪わない。
「俺、斬られて……あれ?身体が、動かない?」
身体を起こして上段の構え。突っ込んで来た騎士の身体を剣ごと真っ二つに切断して、外見は無傷に再生。しかし、首の辺りで斬り裂いた神経は損傷させたままだ。マリーが治さない限り、彼はもう首から下が動かないだろう。これで剣による二人目。
三人目と四人目はまとめて。振り終わって下にある剣をくるりと掌の中で返し、低く横薙ぎ。金属の鎧まとめて、四本の脚を同時に奪い取った。
それからもマリーの剣舞は続く。並の騎士に比べれば遥か高みにあるその剣は、川のように止まる事も途切れる事なく、人の戦う部位を奪い続ける。
「……系統外」
ほとんどの騎士が平凡だ。もちろん騎士である以上それなりの強さはあるが、マリーの足元には遠く及ばない。だがしかし、時折本物や系統外、もしくは兼ね備えた者が混じっている。今、斬ったはずなのに斬れなかったこの男も、そうだろう。
「ご名答。私に斬撃は効きません。そして私は、一度食らいついたら離しません」
軟体動物よりもっと柔らかい。分かりやすく説明するなら、スライムのように剣が沈み込んで止められていた。引いても押しても、剣はビクともしない。
「このまま貴女まで、食らわせてもらいます!」
「どけ」
「え?あああああああああああああああああ!」
ぽいっとゴミを捨てるような気軽さで剣を手放し、炎の槍を身体の中心にぶち込んだ。傷は再生され続けて貫通する事はなく、魔力が続く限り彼方まで運び続ける。速度に耐えられなかったのか、末端から柔らかい身体は空中で分解し始めた。
「ロスした」
遠ざかっていく軟体男の叫び声に浮かぶのは、煩わしさ。時間も剣も二つしかない魔法の枠も無駄にした。それだけの、邪魔な敵だった。何本目になるか分からない予備の剣を虚空庫から出すついで、居合斬りのように騎士の胴体の中の神経だけを斬る。
「んっ……」
首と肩、腹と胸と脚に痛みと、何かを押し込まれた感覚。さっき飲んだ薬のせいか、痛覚が異様に鈍い。だが、これは分かる。剣が五本、自分の身体の中に入った。刺されたのだ。大量の血を吐き出したマリーは、そう理解した。
「全員、突き刺せ!殺せえええええええええええええ!」
若い声だ。あの軟体男に手こずって出来た隙。そこを上手く突いただけの、まだ入隊したばかりのような若い騎士。技量もかろうじて人体に剣を突き刺す程度だ。そんな彼が、マリーの身体に深い傷を与えた。さぞや嬉しくてたまらないのだろう。
「「「っ……おおおおおおおおおおおお!」」」
応える声、多数。息を呑んだ意味もまた、多数。かつてマリーにお世話になったり、救われた中年の騎士達の躊躇い。マリーの伝説を聞き育った若い騎士達の逡巡と、伝説へと一太刀入れる事への喜び。
「いける!ここで殺せっ!断ち切るんあ?」
何人の仲間が手脚を奪われたか。どれだけの犠牲がこの女一人で出たか。この先には憎むべき忌み子がどれだけいる事か。様々な要因が騎士達を興奮させ、全員が剣をマリーへ突き入れようとして、疑問の声を上げた。
傷口から、血が吹き出す。鈍い痛覚ですら激痛だった。だがそれでも、マリーは剣を強く握り締めて、斬撃で円を描いた。斬られた事に気付かない者もいた程の、速さと正確さ。そして、系統外による騎士達への治癒。
「なんで、俺の身体言う事きかないんだ?」
「お、俺も……!だれか、助けてくれ!治してくれ!」
マリーに近かった人間は全員、糸を切られた操り人形のように地面に力無く倒れ込む。助けを求める生きる肉の壁を踏まないようにと、後続の騎士は足を止めた。
「ふぅ……」
自己再生の際に肉に押されて吐き出された剣が、血と音を戦場に振りまいて転がる。刺された痕はもう、肌に着いた血と破れた服と鎧のみ。傷は既に完治し、おまけに減っていた魔力も完全に回復している。
「くそっ!何回殺せば、死ぬんだよ……」
何度、この絶望を繰り返したか。致命傷を与えても、魔力を消費させても、一呼吸の間に全て元通りになる。即死とストック切れ以外で、マリーは殺せない。「ふざけるな」と叫びたかった。「命は一人一つがルールだろう!」と、大軍でたった一人と戦う彼らは、そう思っていた。
止まった彼らを前にマリーは、自分の身体に突き刺さっていた剣を拾い、虚空庫へとしまう。とうの昔に兜は吹っ飛び、空気の下で輝く血に濡れた金髪をさっと払って、剣を握って魔法を構えて、世界全てとも言える軍勢を前に向き直る。
「次はどなた?」
「っ…………!」
その一言。その眼光。その女の強さ。その女の規格外さに、誰もが怯んだ。誰もが気圧された。誰もが恐怖した。誰もが、次に斬られるのは嫌だと思った。
「い、いつになったら、この戦い終わるんだよ……」
数で押せば勝てる。時間が経てば、いくらマリーとはいえ消耗するだろう。そう思って、彼女に挑んだ。
それから何時間経過した?どれだけの騎士が敗北し、手脚を奪われた?
「なんで、丸一日半も経つのにまだ戦えるんだよ……!」
戦闘開始から既に一夜が明けて、朝日が昇って昼が来て、再び太陽が沈んで月が登って夜が明けて、つまり一日と半日が経っていた。月と星しかない深夜だろうが、朝日が昇った早朝だろうが、昼食の時間のお昼だろうが、再び訪れた日の沈む夕焼けだろうが、一度も攻撃の手は緩めていない。ろくな休憩もなく、終わらないような大軍が36時間永遠と押し寄せて来る。致命傷だって130回近く与えたはずだ。
「俺らなんて、別にいてもいなくてもいいって、言われてたじゃないか……マリーと戦う事はあり得ないって、そう聞いてたはずなんだ」
今戦いに出ている騎士達のほとんどが、どうせマリーと戦う事はないだろうと言われていた。安心しきっていた。だが、引きずり出された。
「何人、やられた?何人死んだ?」
戦闘不能者は数え切れない。しかしざっとではあるが、マリーにやられた者を運ぶ医療天幕は既に溢れ、記録の紙に書かれた名前は六万を超えたらしい。一日は86400秒、一日半なら129600秒だ。つまり、マリーは2.16秒に一人を戦闘不能にさせ続けているという計算になる。ふざけるな。百人殺して一つの命をストック出来るなら、人がいる限り増殖し続けられる。
そしてマリーによる死者は今のところ、0名。マリーは斬った傷を完全に治しはせず、血を流させた。治療を必要にさせたのだ。しかしそれは、致命傷には決してならないように調整された傷である。致命傷がないなら、死ぬ事はない。
もちろん、完全な0名ではない。同士討ちや流れ弾、マリーに斬られて動けなくなった騎士が踏まれて死んだ等、そういうのを含めればキリがない。しかし、マリーの傷だけに殺された騎士は未だ0だった。
「絶対に、消耗しているはずなんだ……」
命の数は130近く削ったし、一睡もさせていない。ずっと戦争し続けている。いくら肉体の傷や疲れを『残命』で癒せても、36時間も人を斬って人の手脚を奪って、何万何十万から殺意と剣と魔法を向けられ続けた事による精神の疲労は癒せないはずだ。
「もしや、精神も一緒に?」
そんな筈は無い。事実、実際に精神まで再生する事はない。マリーはこの一日半の戦争の疲労を、精神に蓄積させている。しかし、本当は治るのではないかと疑いなくなる程、マリーの眼は鋭かった。剣は精彩を欠かず、魔法は容赦なく騎士の手脚を奪い続けた。
「……結構、来るものね」
マリー本人、辛いと感じる。全方位から休みなく向けられる敵意と殺意。まだ若い騎士や見知った顔の手脚を奪う罪悪感。殺しはしないものの、傷付けられた騎士が浮かべる恨みの表情と、耳をつんざく呪いの声。そして単に丸一日、不眠不休で剣を振るい続け、広い戦場の状況を常に把握し続け、最善の手を打ち続けた事の疲労は凄まじい。
「でも通さないわ。一人でも多く、ここで足止めしてみせる。この先は、私と違って容赦がないから死ぬわよ?」
だが、それでも通さないのは、ひとえに背負ったものがあるからだ。マリーは今、背負っている。街に住まう人達の命、塔へと向かった仁達の希望、そして騎士の命までも。
この36時間で、150人程の騎士をマリーは門の中へと侵入させてしまった。その罪悪感は、街の人間に恐怖を与えて手を煩わせた罪悪感でもあるし、騎士を守れなかった罪悪感でもある。あの銃弾と魔法刻印の嵐に、たった数人で門の中に入ったところでどうにもならないだろう。数百人単位で押し寄せて、死体を踏み越えて盾にしてようやく、抜けられるだろうに。
まだ街は沈んでいない。門の前はマリーが、結界はイヌマキと失敗作、壁の上からの銃撃が死守している。数十万の大軍を相手に、僅か数万の街は一日半の時を耐え抜いていた。
「後、数時間……」
やたら息の荒い声だった仁との『伝令』で聞いた、本日の朝には塔に到着するという情報だけが、マリーの支えだった。最初の予定よりずっと早く、『限壊』まで使って急いでくれたあの四人には感謝だ。さすがにもう一日戦い続けられる自信はない。
「そこで、貴方が出てくるとはね」
戦いはもう、終盤に来ている。騎士の大軍は36時間戦っても未だ壊れないマリーに恐れをなして、押されて。その軍隊の後方から、ざわめきとおかしな動きが少しずつ前へと向かって来た。
「ザクロ・グラジオラス」
「やぁ。お久しぶりだ。最後に会った時よりも頑固になったんじゃないか?マリー」
義足を引きずって現れたのは、最早老年に差し掛かろうという騎士。サルビアより数歳だけ上のはずだが、いささか老けて見える。その深いシワだらけの顔には見覚えがあった。なんなら、あり過ぎるくらいな戦友だ。
「……やっぱり、総司令官は貴方だったの?最前線に出てきてもいいのかしら?」
「お前みたいなことを言う奴を犠牲者の名前の紙の束で殴りつけて、やっと出てこれたというのが正しい。私はもっと早くにここに来たかったんだ」
総司令という言葉を聞いた時から、想定はしていた。自分にぶつけるなら、この男だろうと。一度は現役を退いた彼に剣を握らせる一番の方法は、後方の指揮役を押し付けて犠牲とマリーを見せる事だ。あとは勝手に出てくる。利用されると分かっていても、彼は来る。そういう男なのだ。昔から。
「……それとだ。そろそろ限界に見えるから、早く服を着替えてくれ」
「……変態。だまし討ちでもする気?」
「馬鹿者!?そんな事を騎士がするか!した奴がいたらこの私が斬り捨てるわ!」
「不良のくせに、そういうところだけは初心よねぇ」
結婚するまで女遊びが酷かったが、蔑ろにされたという噂は一つも聞かなかったのが彼の美徳だろう。土魔法で簡易の更衣室を作り、僅か30秒で着替えを終えて礼を言う。この時だけ、ほんの少しだけ、昔に戻れた気がした。
「全く。私もずっと前に隠居したのだがな。娘に団長職も譲ったし。どこぞの誰やらのせいで奴は死ぬわ、先生にルピナスは裏切るわ。お陰で無理やり引っ張り出されてしまったわ」
彼の関係を言うなら、サルビアの先輩にして悪友でライバルで、プラタナスの生徒。そして、ティアモとメリアの実の父親で、ジルハードとティアモの剣の師匠だ。『黒髪戦争』で脚を奪われて以来、前線に立つ事はほとんどなかったはず。
「……娘さんに、お会いしたわ。息子さん含めて大変、良い教育をなされたみたいね。これは皮肉じゃなくて本心よ」
「おお!お前はティアモとメリアの系統外を恐れて会わなかったからな。そうだろ?いい子だろ?ジルも悪ぶっているが、本音は優しい子だ……そんな子の両腕を焼き切った奴を、例え友とは言え憎らしく思う」
だが、その強さは衰えていない。真の強者はただそこにいるだけで、威圧となる。歩き方や振る舞いからしてそこら辺とは違うのだ。現に彼の義足を引きずる歩き方も、隙が無い。義足だからと舐めて襲いかかれば、自分が義足をつけるハメになる。
「……全てが終わったら、治すわ」
「全てとは何かね?世界丸々かね?」
「本当に忌み子はいないの。信じて」
「……すまない。自国だけならともかく、他国を含めた連合軍となると私の一存では無理だ」
憎しみ、悲しみ、切なさ。感情を隠そうともしないのはら昔から変わらない。彼もまた総司令官という立場ではあるが、本質的には並の騎士と変わらなかった。歴史を動かす程の決断を下す影響力は、持っていなかった。
「なら、斬られて」
「それも出来ない。保険は必要だ」
「…………じゃあ、決まりね」
軍は止められない。『記録者』の記録が矛盾する二枚。ならば、どうするか。どう転ぼうが、自分達が助かる道に突き進むのみである。例え忌み子が忌み子でなくても、構わない。忌み子だった時に備えて斬ると、彼は言った。
「あの戦争の時、私達は共に戦った戦友だった」
戦場の空気が、たった一人の男の剣を握った動作だけで変わる。ピリピリと痺れるような、肌が焼けつくような感じは、この戦争が始まって以来の緊張感だ。
「なのになぜ、互いに殺し合う運命になったのだろうな」
「さぁね。私は貴方を殺さないけど」
蹂躙の時間は終わった。ここから先、マリーは本当の意味での命の削り合いに入る。『残命』の消費速度は今までの比じゃないだろう。
障壁を無効化する血に塗れた剣と、剣先に魔力を宿した剣とがぶつかり合って火花を散らした。




