第143話 巡礼と月明かり
焼けて、壊れて、腐って、死んだ街。魔物の影すら近くにはない。
「今日はここに泊まる。焼かれてない方角に家があらはずだから、そこを借りよう」
湧き上がった感情は、あった。しかし、今は必死になってそれを抑え付けて、来た事があるはずなのに、もう焼けて分からなくなってしまった道の上を、歩く。
「うっ……」
隊員の一人が、口元を抑えて地面でうずくまった。彼の位置に移動すれば、理由は分かる。焼けた瓦礫の下に真っ黒になった人型が一つ、風雨に晒されて崩れかけていた。
「自分達の罪を、刻一刻と刻まれるようだ」
建物の倒壊に挟まれて、動けなくなって、そこを上から焼かれた。顔の窪みは、その時の気持ちを表しているような、気がした。
「……」
瓦礫と思って脚で蹴っ飛ばしたものは、誰かの腐った腕の骨だった。転がったその先には、骨までしゃぶられたであろう人骨が無造作に解体されている。
仁を除く全員がいつのまにか、鼻や口を布で覆っていた。もう雨風に流されて消えているはずなのに、ここには腐臭が漂っているような気がしたから。それを少しでも、体内に入れたくなかったから。
きっと彼らはずっと壁の中にいて、こういう街に来るのは初めてなんだろう。壁の中じゃなかった。守ってくれる人が誰もいなかった。そんな不運な街を見るのは、辛いのだろう。ここまで破損された死体を見るのは、苦しいのだろう。
「少し、大事な話があるから。落ち着けるところで聞いて欲しい」
「疲れてるだろうけど、ちょっと早足で行こうか。ここの景色は毒だ。家の中で休もう」
それが仁のいた街の、成れの果てだった。
日も暮れて、ようやく死体がない少し大きめな家を見つけ出して、シオンの魔法で最低限の臭いやゴミの処理を済ませて、各々が一段落ついた頃。
「……仁さん、話とは?」
「明日から、僕とシオンとロロが先行する」
「えっ?」
僕が口にした大事な話とは、わざわざ街から着いて来てくれた十二人を置き去りにするという事だった。
「けど、俺らだってそれなりに戦えます!道中だって、二人に守られながらでしたけど魔物を何匹も!」
当然、最後まで付いて行くものだと思っていた彼らは反論した。救いたくてここまで来たのに、命を賭してきたのに、何故ここで置いて行かれるのか。戦闘能力だって、街の中ではトップクラスだ。魔物数匹を相手にしても、見事な連携で蜂の巣にしていた。
「数百匹が相手なら、どうだい?」
「……そんなに、いないんじゃ……」
「君達が夕食を食べている間に、少しロロとシオンと話し合ったんだ。やっぱりこれだけ大きい街、つまり、風雨を凌げるはずの所に、魔物がいないのはおかしいってさ」
しかし、敵の数が膨大であれば、幾ら街の精鋭とはいえ歯が立たない。数千を越す多さならもう、マリーやシオン、イヌマキやプラタナス達でないと、処理できないだろう。
そして、その可能性は十二分にある。この街の灰や砂の上に、踏み鳴らしたような足跡が無数にあった。シオンに見てもらったが、かなり新しいとのこと。これが、何を意味するか。ちょうど昔、仁が俺と僕だけだった頃と、同じ現象が起きている。
「しばらくここは奴らの拠点だったんだ。スーパーの缶詰類が全部開けられてた。食べ尽くしてしまったんだと思う」
「食べ物を求めて大移動を始めたと見ていいわ。彼らが出て行った直後にここに来れたのは、本当に幸運だった」
後少しでも早く来ていれば、自分達は魔物の大群と鉢合わせしていたかもしれない。仁とシオンだけなら、逃げに徹すればなんとかなるだろう。ロロだっていくら食われようが死なない。だが、ここにいる十二人の日本人は別だ。まず間違いなく死ぬ。
「ここを去ったのだから、戻ってくる可能性は恐らく無いな。ほれ、嘘は言ってない」
「つまり、ここが安全の確認が取れる最後の拠点になると思っていい。君達を置いて行く理由はこれと」
「あとは単に、間に合わない可能性があるという事だ。俺はこれから、『限壊』を発動し、ロロを担いで行く」
「死ぬかもしれないから」という理由だけなら、まだ食い下がれた。でも、足手まといだとオブラートに包まれて言われたなら、無理だった。
「ここまで来てくれてありがとう。旅の間、戦いを君達が負担してくれたから、すごく助かった」
「弱音もほとんど吐かずに、こんな長い距離を走って来たの、本当に尊敬するわ」
「と、まぁあとは、全てが終わった後の僕の回収だけ頼むよ」
「自分を担いで運んでくれた事に、感謝する。しっかり名前は刻んでおくぞ」
彼らの活躍は、きっと彼ら自身が思っている以上に大きい。神経をすり減らす戦闘を担い、ロロを運び、テントなどの設営やご飯の用意など全てしてくれた。疲れ果ててクタクタで、いつ魔物が来るかも分からない緊張の中、必死に仁とシオンを支えてくれたのだ。
「「「ありがとうございました」」」
「いえ、こちらこそ。後は、頼みます」
「自分達も一日と少し経ったら、出発しますね。仁さんを回収しなければならないので」
深く頭を下げてお礼した仁とシオンに、十二は笑って頭を下げ返す。短い旅だったが、互いの人となりを知るには十分な時間だった。
仁達がこの街を発つのは、明日の夜明け前。今はまだ二十時を過ぎた頃であり、万全に備えて寝るのが定石なのだが。
「なぁシオン。少しいいかな?」
「え、いいけど……仁の身体は大丈夫なの?」
だが仁は、寝る前に少し外に出ようとシオンを誘った。別に外に出る事自体は嫌ではないと言いつつ、彼女は少年の身体を下から上まで軽く見て、休まないでいいのかと尋ねた。
「無理、し過ぎだよ」
シオンから見て、仁はやはり異常だ。街を出た日なんて、正直に言えば到底走れるような身体じゃなかった。なのに、彼は涼しい顔で泣き言一つ言わず、走り続けていた。痛覚を僕に押し付けて感じなくして、無理をして走っていたのだろう。
だと言うのに、仁の身体は驚異的な治癒をみせた。魔力眼で盗み見たシオンには分かる。仁はほとんど夜に眠らず、三重刻印で治癒を進めていた。治癒がある程度終わったなら、一人で抜け出して剣の練習を繰り返す。平均睡眠時間など二時間にも満たないのに、彼はこの旅について来たのだ。
「今日くらい、しっかり寝たら?なんなら膝枕でもしてあげるから」
疲労は蓄積されている。無理をしている。なのに、彼は我慢して隠してしまう。ちょっとずるいが、仁が好きな餌でシオンは釣ろうとして、
「うーむ。それは大変魅力的。やばいよ俺君。僕寝ていい?」
「シオン。それは後でお願いしていいかな?……折れた標識の文字を見たんだけど、この辺、確か近いんだ」
彼が浮かべた、絶対に譲れない何かを語る時の表情に敗北を悟る。プロポーズの日には浮かべていなかった表情で、サルビアと戦う時に浮かべていた表情だ。シオンが断っても、彼は一人でその場所に行くだろう。
「……分かったわ。でも、長居はしないで」
「ありがとう」
「膝枕してもらえるからね!早く帰るよ!」
本当は、身体の不安にこぎつけて、彼にこれ以上背負わせたくなかったのだけれど。シオンはせめてその場所に自分も行く事で、彼の支えになろうと決めた。
「家の方角はもう焼けてる。ここから電車……まぁ、特殊な移動手段を使わないと、行けない距離だから」
「せめてここだけでもね。本当は、もう一つ行きたい場所があったけど」
家には寄らないでもいいのかと聞いたシオンに、彼は寂しそうに顔の火傷の跡を歪めて返す。電車とはどういうものかを説明してもらっている間に、目的地は見えてきた。
「ここだ」
本当に、あと少しの場所にそこはあった。歩いてまだ十分も立っていないだろう。
「……ただいま」
騎士に吹き飛ばされた一部を除いて、それは未だ残っていた。炎もここには届かず、彼らは火葬されなかったらしい。それが幸せなのか不幸なのか、或いは感じる暇さえないのかは、仁にもシオンにも分からない。
「この建物が学校って言うんだ。シオンも知ってるよね?」
オークと死闘を繰り広げて、コンパスという針と奪った石槍で勝った校門を通って、中へ。そこに広がるのは、暗く陰鬱とした世界。
「名前だけ。通った事はないわ」
シオンは学校というものを聞いた事があっても、見た事がない。でもここは、話で聞いていた風景と真逆と言っていい。誰もいなくて音もない、正に死んだような建物が学校と言われても、頷けなかった。しかし、ここにはあったのだ。シオンの世界が来なければ、シオンが聞いたような明るく楽しい、生徒がワイワイと騒ぐ学校が。
「あそこが玄関というか下駄箱というか」
「下駄って、あの着物体験の時の下駄?」
「いいや、昔からの名前が残っているだけで、もうみんなスニーカーとかに変わって……」
指差した入り口の名前に食い付いたシオンへの説明が、途中で止まった。ふっと、全てを忘れてしまったかのように、仁の声が消えたのだ。
「うん。覚え、てる」
約一年間という歳月は血の跡を洗い流し、魔物が生徒の死体を食い貪るのに十分な時間だったのだろう。綺麗な三つの月明かりの下、地面に光る白い石のようなものはきっと、骨だ。
「みんな……」
それはもう、擦り減って風に飛ばされてに雨に流されて、ほとんど残っていない。死んだ場所に残り続けた数奇な数個が、あるだけ。人の形をしていない白いそれらを、仁はみんなと呼んだ。
「ここで、ティアモ達と悠斗達は交渉したんだ。降伏するから助けてくれって」
「……」
なんと甘い事を。シオンはそう思った。忌み子が騎士を見かけたならば、一目散に逃げて、逃げ切れる事を祈るしかない。でも、それを知らない日本で生きてきた悠斗という少年は、ここで死んだ。
ぽつりぽつりと、仁が語り始めたのは、あの日にあった物語。断片的に知ってはいたけれど、ここまで詳しく話してもらったのは、初めてだった。
「裏切られてさ。後ろから刺されて」
彼は、どこかここじゃないところを見つめ続けていて、涙が流れている事にさえ気付かずに、ずっと口が動いていた。
「僕が見たはずなのに、俺も覚えてる。みんなの死に方、一つ一つ。全部」
それは、最愛の少女の記憶さえ手放した少年が、絶対に手放さなかった記憶。忘れてしまえばいいのに、忘れようとしなかった全ての始まりの日。
「話したっけ?俺達、ゴブリンとオークの群れ、そしてオーガを、魔法も使わずに倒したんだぜ」
「うん。すごい。私が仁達だったならきっと、出来ないよ」
誇らしげに、裏切って殺し合って殺される前の生徒の戦いを、彼は話す。それはシオンの世界から見ても、凄まじいと言っていい戦果だ。地形を利用して、身近にあった物を凶器に変えて、死体をバリケードにする。オーガに魔法を使わずに一人で飛び降りて突っ込んで勝利した一般人なんて、世界でも極めて稀有な存在だろう。
「俺だけじゃないんだ。全員が、全員で必死になって生きようとしたんだ。死にたくないって思って、戦ったんだ」
「その結果が、これさ」
バリケードの跡を通って、階段を登っていって、そこでシオンは見た。腐っていたから魔物も手を付けなかったであろう、白骨化した死体を。
「手を、繋いで……」
「僕らがした。良作と、この子……ごめんね。君の名前、知らなくて」
死体はいくつかあったが、目を引いたのはこの二人。手を繋いで死んでいて、それを仁がしたという。
「ごめんなシオン。俺一人じゃ、ここに来て正気を保てる気がしなくてさ」
ようやく知れた、あの日の仁の過去の詳細。見捨ててしまった、大事な仲間達。まとめて、焚き付けて、利用しておいて、いざ自分の身が可愛くなったら、切り捨てた罪達。
「僕らには、手を合わせる権利もない」
「なのに、何故かここに来たかったんだ」
来たところで、何も変わらない。彼らが生き返る訳でもなく、仁が許される訳でもない。手を合わせて冥福を祈る事は、見捨てた仁には出来ない。ただ、食われて朽ちて、腐った仲間を見るだけなのに、彼はここに来た。
「ねぇ仁。何故かは分からないけど、きっとここに来た事に意味はあるよ」
「……」
理由はシオンにも分からない。でも、彼の心がここに来たがったのには、何か理由があったのだ。そしてここに来た事には、何かの意味があるのだ。
「私達の日常なんか、ロロは書かない。歴史的に見て意味はないだろうから。でも、私達にとってその時間には、絶対に何かの意味があるの」
当たり前の事だけどと、前置きして仁に話すのは、サルビアとの戦いで得たとある答え。それは、この世に意味が無いという事なんて一つも無いという事。
「仁はこの時に思ったんでしょう?助けようとしたのに、助けられなくて、全部無駄だったって。無意味だったって」
「……ああ、思った」
思ったとも。思わずにはいられなかったとも。あれだけ必死に足掻いても、大いなる力の前には無力。全ての努力が報われないなど知っているが、余りにも呆気なく、あの日のこの場所での日々は死んだ。
「でもそれは、意味が無い訳じゃないと思う。無駄だって、無駄だったて意味がある。無意味にも、悔やんだその先に意味がある」
「無駄にも、無意味にも」
非常に面白い考え方だった。無駄や無意味にさえ、矛盾しているようだが意味があるなんて。
「……あと、忘れちゃいけない事がもう一つだけ。仁は守ろうとして、守ったよ。短い時間だったかもしれないし、誤差に近い人生の延長だったとしても」
「……でも、その先で死んで」
「……そう、だね」
意味は、分かる。確かにあの時、仁がいなかったのならば、状況を楽観視していた彼らは魔物の襲撃で死んでいた。短い、一時間と少し程度の時間だったが、それだけの時間を守ったのは仁だ。でも、その後を知っていれば、到底受け入れる事は出来なかった。
「……ごめん。私には、彼らの気持ちを軽々しく想像する権利は無いね」
「いや、いいよ。俺が怒る事じゃない」
肯定なんて出来ず、歯を砕けそうになるまで噛み締めた仁の顔を見て、シオンは謝った。自分ならば、その一時間にさえ感謝したとは思う。その先で助けてもらえなかったと思うのは、逆恨みだと思う。でも、それはシオンの想いであって、彼らの想いではない。
「私に出来る事、するね」
「……何を」
そう言って、シオンは死体に近づいて。
「貴方達の冥福を、お祈りします」
「……」
「ほら、ここに来た意味はあったでしょ?」
手を合わせられない仁の代わりに、手を合わせて祈りを捧げた。ここに来なければ、彼らの冥福を祈る者は誰もいなかった。何事にも意味があるという、証明をしてみせた。
「……敵わないな」
少女は賢い。数学が出来るだとか、そういうのじゃない所で、真理を持っている。いつも、仁は驚かされてばかりだ。
「私も、仁に対していつもそう思ってるんだけど……」
「絶対剣術では負けてる……そうだ。ここだ。ここで俺達は作戦会議……を……」
懐かしさすら感じる教室に入って、作戦を黒板に書き殴った事を思い出して、まだ白い色が残っている事に驚愕して……言葉が消えた。
『これ、あの子が帰って来たら驚くかしら?』
『いいじゃん先生!あいつ、クール気取ってるけど、内心チョロいから!』
『チョロいって……まぁ分からなくもないけど』
『泣くんじゃね?俺泣くのにこの貴重なおにぎりを賭ける!』
仁がオーガを倒してからオークとゴブリンの群れを切り抜けるまで、少し間があった。きっとその僅かな時間の間に、誰かが言い出して、みんなで書き出したのだろう。
「この、部屋には……飛び降りてから、来ていなかったな」
知らなかった。知るはずもなかった。死体の手を繋げて、泣いて叫んで、寝て。そして起きてすぐに、学校の外へと歩いて行ったから。この教室には、入らなかったから。
『仁!助けてくれて、ありが』
黒板に書かれていたのは、周りにオレンジやら赤やら緑やら黄色やらでデコレーションされた文字。最後の『が』の濁点は、魔法が校舎にぶつかった振動で震えたのだろうか。『とう』はきっと、それどころじゃなくなった。でも、何を書こうとしたかは、分かる。
「まさかさ、こんなの書いてあるなんて思わねえよ……」
「サプライズだと、分からないじゃないか……」
さすがに一年間の年月で消えた部分も多いが、それでも、読めた。大きな大きな白い文字は、再び仁が来るまでにかろうじての所で残り、意味を果たした。
「……来た意味、あったね」
来た意味はあった。一年越しに、ようやく分かった事があった。
最期の瞬間に、彼らは仁を恨んだかもしれない。でも、救われた一時間には、感謝していた。
「……手を合わせても、いいのかな」
「いいと思うよ」
「……みんな、逃げて、ごめんね」
「助けられなくて、本当にごめんな……!」
それが知った事が、どれだけ救いになったかを知るのは、手を合わせて祈っている仁だけなのだろう。
でも、あの黒板の文字が全てを救った訳じゃない。学校からの帰り道、並んで、話して、三人は四本の足で歩く。
「家にシオンを連れて行きたかったなぁ……俺の親なんて酷くてさ。もう孫は諦めたとか言いやがって」
「……ま、孫」
「……挨拶したかった。もっと、親孝行しとけばよかった。感謝の言葉くらい、言っときゃよかった」
悔いなんて、この街にはいくらでもある。両親に関しては、少なくとも自分を恨んだりはしていないと、はっきり言える。最期の瞬間まで息子の心配をしているような、本当に良い両親だった。
だからこそ、仁は悔やむ。何の恩返しも、出来なかったんだろうと。
「私が親なら、仁の幸せが嬉しい。だから、私頑張るね」
「難しいね。幸せを願う人と、不幸を願う人を僕は背負ってる」
隣の少女の言う通りだと、思う。そして、頑張るねと彼女は言ったが、別に頑張らなくても、とても仁は幸せだ。幸せ過ぎて、呪い殺されないか心配なくらいだ。
「その、不幸を願う人はもしかして、さっき行きたかったもう一つの場所に関係ある人?」
「紫丁 香花。学校で一緒に戦った人間で、俺と僕以外に生き残った唯一の人物で」
「少しだけ一緒に旅して、僕達が殺した人さ」
「っ……」
シオンの知っている名前であった。何度か、仁がこぼしていた名前だ。場違いな嫉妬を抱いた事があったけれど、それは大きな間違いだったと悟る。
「彼女の死体は、今も残っているかもしれない」
この街には、いや正確に言えば、仁が行きたがったもう一つの場所に、後悔が残されていた。その場所は察しの通り、仁が香花を殺したあの場所。
「確かめて何になるって話だし、さっきみたいに彼女は僕に感謝なんて抱いていない」
そこに行っても、何になるのかは学校以上に分からない。彼女が仁を恨んでいるのは、分かりきった事だから。
「裏切られて、殺されそうになった。だから、殺した」
「でもね。彼女、最後に命乞いしてたんだ。助けて。何でもするからって。必死に。でも、殺したんだ」
口には決して出さなかったが、それは仕方がないとシオンは思った。自分だったら、殺せなかったかもしれない。しかし、世間一般的に見て、殺そうとした人物をもう一度信頼出来るのか?
仁が包み隠さず話した状況を聞いても、香花はその先では足手まといだ。見捨てて生きようとしても、人間としておかしくはない。
「そしてね。少し歩いたら街があった」
「えっ……?」
「魔物か騎士に襲われた後みたいで、もぬけの殻だったけど。それでも食料もガーゼも消毒液も包帯も松葉杖も、隠れる家もあった」
しかし、その先の話を聞けば、その選択は深い後悔に変わる。知らなかった。あるなんて思わなかった。だが、そこで彼女を許すだけの寛大さが仁にあれば、二人とも助かったのだ。共に生きて、シオンと出会って、あの街に一緒に行って、戦って、この場にいたかもしれないのだ。
「今でも俺は、殺した時の感触がこの手に残ってる」
「脳裏から消えないんだよ。香花の断末魔が」
震える手を月にかざして、後悔で顔にシワが寄って、吐き出す言葉はまるで、血反吐のように苦しそうだった。
「……」
何も言えない。この出来事は先程と違って、完結している。街があった事を知っていた今となっては、あの選択は間違いだった。その事を仁は理解していて、苦しんでいる。誰だって犯す間違いであっても、間違いは間違いなのだ。他のみんなも同じ事をしたからなんて、そう思って罪悪感を消せるような少年ではない。
「ありがとうシオン。気を遣ってくれて」
「この事は、誰にどう言われようと弁明出来ないし、覆らないからさ」
何も言えなかったシオンに、仁は礼を言う。人は、求める言葉以外受け取りにくいもの。時には不快な気持ちになる事もある。香花の件に関して仁は、何の言葉も求めていなかった。ただ、彼女が生き返るという結果だけを、求めていた。
「「……」」
「……」
無言が続く。シオンは、何を言ったらいいのか分からなくて、何度も必死に考えて言葉を作ろうとしても、覗いた仁の顔を見れば喉で止まってしまう。
「ありがとうな。シオン」
「え?」
「こんな俺と僕と、一緒になってくれて」
「本当に感謝しかないよ」
そんな沈黙を破ったのは、唐突に告げられた感謝の言葉。いきなり過ぎて、シオンは目を丸くして仁を見つめ返すが、彼はまた寂しそうな笑みを浮かべていた。
「後、数日しかないから。出来る限り感謝を伝えたくてさ」
「シオンがいなきゃどうなってたか。まず死んでたし、まず刻印の嘘は続いてたし。あ、そもそも刻印も知らないや」
シオンと仁が出会ってから、色んなことがあった。シオンがもしいなかったらという僕の仮定は、もう絶対死んでるという結論に落ち着いて。
「実はね。最近ようやく遅まきながらに気付いたんだけど、すごい事があるんだよ」
「……な、に?」
「それはね。シオンが僕達に影響した事って、ぜーんぶ良い事ばかりなんだ!」
涙に濡れたシオンの問いに、子供のように駆け出して、くるりと回って月を背景に僕が笑う。
本当に、その通りなのだ。シオンがいたからこそ、仁は生きている。
シオンがいたからこそ、魔法が使えている。
シオンがいたからこそ、あの時もう一度オーガに立ち向かおうと思えた。
シオンがいたからこそ、街にたどり着いた。
シオンがいたからこそ、アコニツムに勝てた。
シオンがいたからこそ、嘘を告白できた。
シオンがいたからこそ、街を守れた。
シオンがいたからこそ、今日に意味があった。
シオンがいたからこそ、仁は再び人を信じて、大切を作る事が出来た。
シオンがいたからこそ、仁は幸せだ。
「な?すごいだろ?俺も、記憶でしか分からないのがいくつかあるけど、それでもびっくりだ」
物の見事に、全てが良影響だった。今の仁があるのは全て、シオンがいるからなのだ。優しくて寂しがりで、世間知らずでかなり天然で、でも、戦いになると一変して、常に誰かの為に身をすり減らすその小さな背中に、仁は憧れて、励まされて、追いかけて来た。
「だから、ありがとう。俺と僕が言えるのは、この言葉と」
「その、恥ずかしいけど、愛してるくらいなもんさ。ああ、あとごめんも忘れるところだった」
泣いて止まったシオンを、仁は氷と人の腕で強く抱き締めた。
「……私、そんなにすごい?」
「うん。すごいよ」
「すごすぎるね」
シオンは、嬉しかったのだ。こんなに、人に必要とされていて、感謝された事なんてなくて、あるとも思っていなかったから。自分が仁の役に立っていると言われたから。
「……仁だって、同じだよ……」
「そうかい?僕達は結構な頻度で、シオンを困らせたり悪い事してきたと思ってるけど……」
「私だってよく困らせてたわよ」
でもそれは、シオンにとっての仁だって同じ事。少し上の困ったような顔が否定しているが、この瞬間こそまさににそうだ。
「私を孤独から救ってくれたのは、いつも危ない時を助けてくれたのは、貴方だから」
「たまに環菜さんとかマリーさんもいると思うけど」
「でも、一番多いの仁よ?」
全て、鏡写しのようだった。仁がいたからこそ、シオンは生きている。
仁がいたからこそ、シオンは魔物の軍勢を前に自棄にならなかった。
仁がいたからこそ、サルビアに立ち向かおうと思って、一度目は逃げ切れて、二度目で倒せた。
仁がいたからこそ、シオンは街にたどり着けた。
仁がいたからこそ、アコニツムを墜とせた。
仁がいたからこそ、シオンも大切を作れて、孤独じゃなくなった。
仁がいたからこそ、優しさを知れた。
仁がいたからこそ、両親の愛を知れた。
仁がいたからこそ、シオンは幸せになれた。
「私も、仁に言えるのはありがとうと、愛してると、ごめんなさいくらいだわ」
抱き締め返して、最近覚えた口付けをねだって、言い返す。こちらこそだと。
三人は同じだった。互いがいなければ生きてはおらず、大切を作ることも叶わず、裏切られて光を失った世界で、或いは光を知らない暗い世界で死んでいた。
「……あと少ししかない。あと少しだ」
別れは近い。明日からそれまでの時間は、ほとんどが移動と殺し合いだろう。もちろん、一緒にいるその時間全てを大切にすると決めているけれど、ゆっくりできる最後の今日の、今の時間はもっと大切だった。
「大丈夫。必ず、もう一度会えるから」
時間なんて止まれと、仁もシオンも思ったいたけれど、彼女が口にしたのはいつなのか、あるのかさえ分からない遠い再会。
「桜義 仁は、シオンに出会えて幸せでした」
「私もよ。貴方と一緒になれて、とても幸せだったわ」
この歪で残酷な世界で、仁とシオンが最大の幸福を一つだけあげるとするならば、それはきっと、互いに出会えた事だろう。




