間章7 夢
下半身は魔力の負荷に耐え切れず崩れ去り、余りの異常にもう痛みもない。
「……ごめんね。そして幸せな時間を」
死んだ後の常闇に持っていける、輝かしい過去があることだけが彼女の救いだった。
「ありがとね」
そこで、彼女は終わるはずだと目を瞑った。暗闇の中、幸せだった過去を思い浮かべ続け、それが死後にも続きますようにと祈る。
「何言ってんだバーカ」
「え?」
だから、だろうか。幻聴だろうか。望み過ぎて、見た事がない記憶まで作ってしまったのだろうか。
「こっちが言いてえよ。ありがとうってな」
「……夢?」
「はははははははは!思いっきり現実だ!やっとお前をだし抜けたよ!」
だが、違う。痛みは未だ続き、目を開いた先の世界は暗闇に光る魔法陣に、見知った灰色の髪と顔。彼は物凄い笑顔で、物凄い涙を流して、浮遊魔法でメリアの側に着地した。
「ジル?なんで」
「私もいますよ。メリア姉様」
「ティアモ?」
「若い三人の邪魔になってしまうが、私もいるぞ」
「父さん!?」
ジルハードだけではない。遅れてやって来たティアモと実父が、崩れていくメリアの身体に寄り添う。メリアにとって最も大切な三人が、この場にいた。
「挨拶くらい、ちゃんとしねえとな」
「馬鹿っ!ここ、身体に悪影響なのに……!」
「その悪影響に、どれだけ姉上は侵されているのですか?」
「そうだぞ。これくらいの痛み、実の娘に会うためならなんて事はない」
残された全力を振り絞って、こんな所にまで見送りに来た愛する人達を叱る。否、会話する。口では怒っていても、本当は嬉しくて嬉しくてたまらなかった。目の端から流れた涙が、その証拠だ。
「メリア。父さんと母さんの間に、産まれて来てくれてありがとう」
「……私は、ダメな娘だわ。だって、母さんは私が!」
「確かに親不孝な娘だ。父さんより先に旅立つというんだからな。だが、母さんの事は違う。あれは私を救おうとした結果だ。母さんも父さんも、メリアの事を恨んではいない」
時間はもう無い。積もる話なんて山脈が出来るくらいあるけれど、最後の別れを告げる事しか出来ない。だから、父は産まれて来てくれた事への感謝と、メリアが背負って来た十字架を降ろすべきだと話した。
その十字架は、メリアが初めて未来予知を捻じ曲げようとした時の結果。何かを救うには、同価値の別の何かを失うとは知らなくて、その代償を身を以て知った時の罪。
「むしろその逆だ。私達はメリアを愛している」
「っ……!ごめん、なさい……!私も、父さんと母さんの事、愛してる!」
だが、背負う必要はないと父は言う。どちらかが死ぬのは運命が決めた事であり、メリアはそのどちらかを知らず知らずの内に選んでしまっただけなのだ。そして、そんな事はどうだっていいと。父も母もメリアを愛しているのだからと、最後に伝えて抱き締めた。
「姉上は、ずるい。色々と勝手に背負って、勝手に解決して、勝手に旅立とうとして。本当にずるい」
「……ごめんね。ティアモ。貴女にたくさん迷惑かけて」
この妹の持つ系統外は、メリアの隠し事をことごとく暴いてしまった。そのせいでティアモに様々な隠蔽工作という辛い役割を押し付ける事になってしまった。そうでなくとも、世界の滅びを何度も見て憔悴しきり、自らの死の時間を知った愚かな女の精神を読むなど迷惑極まりなかっただろう。
「迷惑?まぁ確かに、色々と押し付けられましたが……」
ちらりと、ティアモはジルハードを横目で見てから、メリアへと向き直る。自分にはない真っ直ぐな瞳だ。
「私は姉上の事が、大好きです。愛しています。誇らしく、思います」
その真っ直ぐな瞳の持ち主が告げたのだ。嘘ではないと分かる、言葉達だ。嫌われてもおかしくないのに、彼女はこんなダメな姉を最期まで好いてくれた。
「ありがとう……私も、だからね」
「はいっ!分かって、います」
何年振りで、何回目なのか分からない抱擁を交わす。産まれた時から一緒で、互いに忌まわしい系統外を保持していて、励まし合って来た、大切な姉妹だった。そんな妹が、誇らしいと言ってくれたのだ。そんな妹を守れたのだ。だから、この人生に意味はあった。そう、思わせてくれた。
「……メリア」
「ジル」
最期の最後は、彼だった。獰猛な顔の中で目立つ、優しい灰色の瞳と見つめ合う。狼と恐れられた彼だが、今は泣き出しそうな子犬のような表情だった。
「……今の俺があるのは、メリアのおかげだ。ゴミ屑同然だった俺を拾って、こんなにも人間にしてくれた」
未来予知という系統外を持つ、メリアを殺しに来た暗殺者。なのに、彼女は何故かジルハードを拾って、庇って飼い慣らして、人間にしてしまった。その事には、感謝してもしきれない。
「あら?そんな事言ったら、私がここまで戦ってこれたのも、ジルのおかげよ」
だが、それはお互い様なのだ。最初に助けたのは、未来予知で観た運命だったからだ。決められていた運命で、拾った命だった。
「ジルは私の想像の遥か上を行ったわ。こんなに愛する事になるなんて、未来予知じゃ分からなかった」
未来予知は、不完全なものだ。全てが観える訳でもなく、観えるのは場面だけで、その時の感情は分からない。ジルハードが運命の相手だとは分かっていたが、ここまで惚れる事になるなんて予想もしていなかった。
「ずっと、支えてもらったの。そして確信があるわ。例えこの力が無くても、私はジルを愛したから」
こんな、忌まわしい力が無い世界に生きたかった。そこでジルハードを愛してみせて、この確信を証明してやりたかった。けど、その願いは叶わなくて、この世界しかない。そしてこの世界を救ったのは、皮肉な事にこの忌むべき力だった。
「……当たり前だ。そんな力で、俺らの運命決められてたまるかってんだ。これは俺の想いだ。何度だって、そんな運命に立ち向かって、叫んでやる」
この姿だ。この声だ。この顔だ。この目だ。決められた運命を観る力を持った私に、何度も何度も挑んで変えようとした、彼だ。
「ジルハード・ローダンセ……いや、ジルハード・グラジオラスは、メリア・グラジオラスを愛してる」
涙に濡れ、震えた声で、彼は宣言した。そんな彼を、メリアは愛したのだ。
はっきりと言おう。言ってしまおう。ジルハードの人生は、今の所メリアの観た場面を全てなぞっている。もちろん先も述べた通り、繰り返す日常の中の食事などの場面はメリアにも観えていない。出来る限り系統外を使うのも避けてきたおかげで、知らない事の方が遥かに多い。しかし、メリアが意図せずして観てしまった重要な場面の運命を、彼は覆せてはいない。
だが、それでも、彼は抗い続けた。メリアが病気になった時には、万能の薬になるという伝説がある龍の血を取りに行こうとしたり。メリアの真意を知った時には、世界の滅びを避ける為に様々な方法を考えたり。その全ては、成果という身を結ばなかった。
無意味な抵抗だと、人々は笑うだろう。何も変えられないと、運命は嗤うだろう。
だが、メリアだけは笑わない。
無様にも負け続けたその姿に、メリアは力をもらっていた。勝てない事をメリアは知っているのに、それを何度も伝えたのに、彼は抗い続けた。だから、世界の滅びを知った時にメリアも抗おうと決めたのだ。
運命を欺いてやると。何も変わっていないように見せかけて、全てを変えてやると。
「私もよ。私も、愛してる……ずっと、ありがとう……!」
その結果が、今だ。救う事が出来た。役に立つ事が出来た。生きる意味が出来た。生きた意味が出来た。死んだ後に持ち込む想い出の数々も貰った。今も、こうやって最後の別れを告げに無茶をして来てくれた。
「ねぇ、最後だから」
「ん。分かった」
父と妹の前だということも忘れ、死んだ後でさえ忘れない為に強く強く、ジルハードと身体を抱き締め合って唇を重ねた。何度も抱いて抱かれた、鋼のようでありながら優しい暖かさを持つ身体だ。恐怖に怯えた冷え切った自分を温めてくれた温度だ。それが今も、力をくれた。
「ありがとう」
「……」
既に肉体のほとんどは崩れかけていて、限界だった。最早、精神だとか魂だとかいうものだけで、メリアは生きていた。もう時間なんて、ない。分かっているから、メリアはまた礼を言って、ジルハードは耐えられないとばかりに嗚咽を漏らして、泣いて。
「こら。泣かないの」
「悪りぃ。笑顔で見送ろうと思ったんだがなぁ」
灰色の髪を掻き分け、見えたおでこを震えた指でコツンと小突く。謝る彼の顔はもうぐしゃぐしゃで見れたものじゃない。それを見る自分の顔は不思議と、まだ笑顔のままで。
「ありがとう……ティアモと父さんも、近くに来てくれない?」
「はい」
「分かった」
自分だけだった。自分以外の三人はもう耐えられなくて、泣いていた。見送られる自分だけが、見送られるという幸せに包まれて、泣けなかった。もうずっと前から、自分の寿命を知っていたから。何度も何度も、覚悟し続けて来たから。先程ジルハード達が降ってくる前の場面までを観過ぎたから。知らなかった本当の最期が、幸せ過ぎたから。
「ちょっとおでこ出して……そうそう。もう少し前にお願い」
呼び寄せた二人にも、ジルハードと一緒のようにおでこを出す事を要求。戸惑いながらも、二人は指示に従い額を出して、もう動かないメリアの手に合わせて前へと。
「メリア姉様……これは?」
「感謝とおまじない。いつか、きっと役に立つから」
にっこりと、意地悪な笑みを浮かべた姉にティアモは首を傾げた。ここで系統外を使わない辺り、鈍いというか応用が利かないというか、純粋で、可愛らしくて、良い妹だ。
「……私、とてもとても幸せだった」
自分はきっと、許された運命の可動範囲内で最高に幸せに生きた。その確信が、あった。だって、こんなにも愛しい人達に囲まれて生きて、見送られるのだから。
例え、運命という籠に囚われた人生だったとしても。
もっと長く生きたかった。もっとティアモをからかいたいし、父さんにはろくな親孝行も出来ていない。ジルハードと一緒に、もっといたかった。幸せでドタバタな夫婦生活を送って、子供も作って共に育てたかった。きっとジルハードと自分に似て、凄まじいわんぱくっ子になって苦労する。だが、その苦労がしたかった。同じように歳をとっていって、孫や子供に見送られて死にたかった。
こんな力が無い人生を生きたかった。未来が観れる能力なんて、つまらないだけだ。必死に変えようと足掻いても、失う価値は絶対に変わらない。無理に動けば動く程、観えない所で何かを失う。だから、失う事が分かっているのに、何も出来ない日々を過ごすしかなかった。空虚で辛い、日々だった。こんな系統外なんていらないと何度も願った。与えた神様とやらを恨んだし、産んでくれた両親さえ憎んだ事も、普通に生きている他人を呪った事もある。
そして、最後に観えてしまった未来を、なんとか変えたいとも、絶対に覆したいと思う。でも、無理なことを知っているから、とても、悔しかった。
このように、後悔なんて腐る程あるのだ。願わくばと願った叶わない願いなんて、星の数に並ぶだろう。でも、それをジルハード達に気遣って口にも顔にも出さなかった。
「ありがとう。幸せにね」
メリアは、最後の言葉を今日何度目か分からない感謝と、生涯何度目か分からない祈りにしようと、運命ではなく自分で決めていたのだ。
運命に翻弄され、抗う事の無力さを知り、諦めて投げ捨てた。それでも、抗う一人を見てもう一度立ち上がり、同じように忌まわしい運命の力に苦しんだ妹や、どんな時も味方だった父親に支えられて、彼女は運命に立ち向かった。そして、見事に運命を欺き、勝った。
メリアが得たのは、未来。自分無き、世界の未来であった。
「起きろジルハード。もうとっくに朝だぞ」
声がする。聞き慣れた声が、隣から。忘れたいような、忘れたくないような、記憶をなぞる夢だった。
「……悪りぃ。ちょっと、夢を見てた」
こすった目を開ければ、傷だらけの肌を隠すように、服に袖を通すティアモの姿があった。朝から良いものが見れたと笑いながら、寝坊した事を謝る。
「いやらしい目つきに涙の組み合わせとは、朝から何の占いだ?それに酷い顔色だな。どんな夢だ」
涙を流して顔は真っ青だったらしい。その割に男の性は全開で手に負えんとティアモは首を振るが、チラチラとこちらを見ている辺り、内心では心配しすぎである。
「さぁな。忘れちまったよ。まぁいいさ……にしても、本当にあの塔はなんだろうな」
大した事じゃないと手を振りながら、虚空庫から服を取り出して着替え始める。魔法で作った義手の扱いにもすぐに慣れ、今では生身の腕と遜色ない速さで生活出来る。
「全部が真っ黒の謎の塔……分かってんのは中に『魔女』と『魔神』がいるって事と、扉に鍵がかかってるって事だけ」
「調査隊が近付いても攻撃は無かったらしい。恐らくは中に入らない限り、大丈夫だろう」
逸らした話題は自分達が三日前に到着した、今いる場所についてのこと。グラジオラス騎士団に王から与えられた任務は、この黒い塔の守護である。
調査隊の報告は本当に謎というか、異常な塔だった。まず信じられない事に、存在そのものが魔力によって構成されており、物理と魔法どちらの力でも破壊は不可能。扉には窪みがあるだけで開く気配は一切無い。かつての『魔女』の住処は、10km圏内に入ろうとするだけで辺り一面が吹っ飛ぶ威力の魔法が飛んできたが、この塔に関しては一切の攻撃が無い。
「まるで牢獄に閉じ込めているかのように思えるな」
「じゃあ俺らは、脱獄させようとするお仲間をとっちめる警備兵ってところかね?」
入る事は現時点で不可能。出てくる様子もなく、触らぬ神に祟りなしと、下手に刺激しない方針だったのだが、ある報告によってその方針は大きく変わる事になった。
「それより確かなんだな?イザベラ様の報告は」
「ああ。狂ってるとしか思えないが、奴らは『魔女』と『魔神』の封印を解くつもりらしい」
「俺としちゃあ至って正気に思うがね。万が一魔法陣を入手できれば、それで世界は分離する。おまけに『魔女』と『魔神』という厄介な奴らだけ俺達の世界に押し付けられるんだから」
街に潜入したイザベラからもたらされた、例の町による『魔女』復活の計画。侵略者であるジルハード達の世界を遠くに追いやり、日本人の世界には平和が訪れる。復活させた『魔女』と『魔神』はそのまま、ジルハード達の世界に残って大暴れだ。平和と復讐を同時に遂げる非常に合理的な作戦である。
「ま、魔法陣はねえんだが」
とは言え、魔法陣を持っている者は現時点で王だけだ。流石に狙いに気づいてから保持している程、馬鹿ではない。無ければ、彼らはこの塔に来る意味が無いのだ。
「まずは連合軍の指揮官を狙うだろうが、父上は持っていない。つまり、ここに来る事は……」
王は街から遥か遠くの玉座におられる。あの人のことだから戦場に出向くかもしれないが、それでも魔法陣の入手は不可能。開戦して一日以内になんとかして王から魔法陣を奪ったとしても、ここに来るまでの時間で街は落ちる
「世界を分離させる目的では、ないだろうよ。ただまぁ、『魔女』と『魔神』に助けてくれって頼みに来るのはあり得なくはない」
しかし、ジルハードはそれでも塔に来る可能性を、ティアモに指摘する。それは、賭けだ。黒髪以外の全てを滅ぼす成功と、黒髪も騎士も一般人もまとめて滅ぼされる失敗の。
「復活させてくれるって利点というか恩があるんだ。『魔女』や『魔神』だって一つくらいお願い聞いてもおかしくはねぇ。まぁ従おうが従わまいが、俺らは滅ぶわな」
良くて道連れ、悪くて完敗。ジルハード達の世界側としては頭を抱える問題だった。だから、出来る限りの手を打った。
「しかし、イザベラ様からの連絡は途絶え、それどころかサルビア様が率いるカランコエ騎士団まで一切の音沙汰がないのはどういう事だ?」
最強のカランコエ騎士団による、忌み子殲滅戦。自国だけではなく、世界中の国家から掻き集めた他の騎士団は、それぞれの王都や都市と町村の防衛、もう一度忌み子の生き残りがいないかの絶滅作戦を遂行している。注ぎ込んだ兵力は百万に届く、国家を超えた未だかつてない規模の作戦だ。過剰だと思った。そもそも、それ以前にグラジオラスが街を襲撃した時点で終わると誰もが思っていたのだ。
「……信じたくはねぇ。信じたくはねぇんだが……やられたんだろうよ」
しかし、現実は理想と大きくかけ離れた。例の街を侮っていた。グラジオラス騎士団は精鋭部隊のみと少数だったとはいえ、敗走。カランコエ騎士団も動員できるほぼ全員を注ぎ込んだが、それ以来消息は不明。特にマリー・ベルモットの裏切りと、ジルハード・ローダンセとティアモ・グラジオラスの敗北。サルビア・カランコエの生死不明は国を大きく揺るがした。
よって、作戦は大幅に修正される。例の街は『魔女』と『魔神』に次ぐ第三の災厄として認定され、グラジオラスを含むいくつかの騎士団を除く、全勢力にて叩き潰す事が即座に可決された。既に戦端は切り引かれたらしいが、『魔女』の残した結界を壊すのに苦戦しているらしい。
「……やはり、あの三人か」
把握する限り、例の街にいる強者は三人。最強の片割れであるマリー、サルビアとプリムラの血を引くシオン、そして日本人の忌み子の仁という男。誰もが、ジルハードとティアモと同等以上の実力を持つ。あの三人に同時に襲い掛かられたら、さすがのサルビアでも無理だろうというのがジルハード達の見解だ。
「俺らの知る中で考えられるのはな。いてててて。ああ、傷が疼く」
まぁ、直接あの場にいなかった自分達には想像する事しか出来ない。実際には大幅に違う。サルビアはジルハードの想像より遥かに強く、街には多大な戦力と希望が残されていた。
「大丈夫か?」
仁とマリーの事を考えると、胸と背中の古傷と無い腕が痛む。義手で胸を抑えたジルハードに、ティアモは顔を険しくして心配そうに声をかける。
目が覚めた時の事を、ティアモはまだ鮮明に覚えている。胸を貫かれて背中を切られて、腕を無くしてなお、自分を抱えて森の中を走っていたジルハードの苦悶の表情を。走った後に点々と続く血の跡に、真っ青な唇を。いくら治癒魔法で最低限の止血はしていたとはいえ、あの状態で撤退出来たのは奇跡と言っていい。
ティアモが目を覚ましたと同時に彼は倒れ込み、木にもたれかかって目を閉じた。必死に泣き叫んで名前を呼んで、撃たれた自分の事を忘れて治癒魔法を魔力が無くなるまでかけ続けた。
「心配すんなって。昔っから傷の治りは早い方だ。さすがにまだ絶好調って訳じゃねえが」
魔力が回復したら土魔法で洞窟を掘り、歩けるようになるまでそこに隠れた。驚いた事に、ジルハードの傷は獣のようにみるみると塞がって行き、数日としない内に立てるようになっていた。実は仁の真似をして、二重の治癒をティアモにバレないようにひっそりと行っていたからである。
拠点にしていた街に帰還し、ジルハードの受けた傷を医者に話した時、大げさ過ぎると笑われた。そんな傷で動ける訳がない。失態を隠す為の誇張ですかな?などと思われ、読み取ったティアモは怒りを抑えるのに必死だった。実際にジルハードの身体を診察した医師は驚きの余りにひっくり返って頭を打ったので、多少溜飲は下がったが。
「……無理は、するな」
ティアモは自分の身体を、傷だらけだと思っていた。しかし、ジルハードの身体の傷はそれを更に上回る。醜いなど思わず、嫌いな訳がないその身体にもたれかかって、どこにも行くなと強くきつく抱き締めて、訴える。
「……お前だけは、せめて」
どうか、これ以上傷付かないでくれと。これ以上、失いたくないと。
「分かってる。お前が死ぬまで死なねえよ。例え生き地獄だろうが死に地獄だろうが、俺はお供するまでさ」
「なら、私は永遠に死ねないじゃないか」
ティアモとジルハードは生き延びた。しかし、そこからが辛い現実だった。
「……私のせいで、沢山の者の手脚と、命を」
グラジオラス騎士団の精鋭部隊はほぼ壊滅。大多数が生きていたとはいえ、五体満足で拠点に戻って来れた者は数えられる程度。自分の指示で手脚や命を失った者達の事を考えると、今も世界が真っ暗になる。
「みんなは、気にしていない。覚悟していた。相手が悪かった。貴方のせいじゃないって、言ってくれるし、思ってくれてる。でも、私は……」
騎士団の人間は、心の中を含めて誰もティアモを責めなかった。だけど、ティアモは自分で自分を責める事を止められなかったし、騎士団員以外は遠慮なく内心に態度に言葉でティアモを責め続けた。
「まぁ、お前はそうやって背負うわな」
温度の無い腕で抱き締め返しながら、ジルハードは本心とは違う言葉でティアモを慰めた。そういう女性だと知っていたから、本心であるお前のせいじゃないというのは、言えなかった。
「許せねえなら許せねえなりに、行動しようぜ。過去はどう足掻いたってどうにもなんねえ。未来に向けて戦おうや」
責任感が強過ぎるのだ。確かに、団長という立場である以上、全ての団員の人生を背負う義務がある。しかし果たして、たった一人の人間に数百人から数千人の人生を背負えるものか?不可能だろう。なのに彼女は、義務だからとバカ真面目に背負っているのだ。ほっぽり出して貴族のお嬢さんらしく、煌びやかな服でも着飾ってればいいのにと、いつも思う。
「……姉上みたいな事を、言う」
「俺の憧れだ。お前ら二人はな」
「……そうか」
でも、そうしないティアモをジルハードは尊敬していた。今度は本心からの言葉で、ティアモを励ました。
「ティアモ。あー、そのなんだ。もう遅いな」
「どうした?」
その時だった。天幕の扉が勢いよく開け放たれたのは。
「伝令!あっ、その、失礼します!」
入って来たのはまだ若い兵士。身につけられた紋章は、確か合同で塔の警備にあたっている他国の騎士団のものだ。男女の抱擁を見て色々と勘違いしたのだろう。ジルハードの忠告は遅く、即座に離れたがティアモは頰を赤らめている。
「いい。なんだ?」
無防備な彼女を背中で隠し、若い兵士の前に詰め寄って問う。かなり失礼とも言える態度だったが、彼の様子は尋常では無い。
「塔が現在、三名と大多数の魔物に襲撃を受けています!塔の近くで警備に当たっていた者は全滅!今は応援が駆け付けて何とか食い止め……あ!ちょっと!」
「全部隊を動かせっ!許可も権限も責任も全部私が貰う!カーネス!ジルハード!」
「分かってる。一直線で駆け抜けろ」
全てを聞くよりも早く、ティアモとジルハードは駆け出していた。虚空庫から剣を引き抜き、鎧はもう暇がないと着けずに、駆け抜ける。途中で一つの天幕にいる男に声をかけて、自らの命令とジルハードの言葉をこの場の全人員に伝令。
「ちきしょう。予想より全然早えじゃねえか!」
もっと後だと思っていた。街から塔までの距離を考えるに、この速度は速すぎる。ほとんど寝ずに休まず、強化を用いての行軍速度だ。
「何か、奴らの世界の道具か、マリーの持つ魔道具で時間を縮めたのだろな!」
魔法陣はいつ入手したのか?それとも、最早やけとなって魔法陣無くして突っ込んで来たのか。どちらかは分からないが、問題なのは来た事だ。
「……来やがったな」
塔からそう離れていない場所の天幕だ。塔の麓にはすぐ辿り着く。そして、見た。
「桜義 仁」
兵士の海の中に飛び込み、恐ろしい速度で剣を振るって道を切り開く傷跡の少年の姿を。
いつか逃げ延びた虎の子が成長して虎となり、今騎士達に牙を剥いていた。




