第133話 出会いと別れ
人は、何かを捨て続けて生きる。持てる量が限られているから。それは夢だったり、小さい頃の記憶だったり、時には友人関係や恋人だったりもする。そのどれもが、失っても死なないものだ。生きていく為に捨てるのだから。
桜義 仁の刻印の四重発動の代償が記憶だったのも、それと同じ事なのだろう。異様な負荷がかかって、さぁ脳のどこを潰そうかと仁の脳が考えて、記憶なら失っても生きていけると判断したのだろう。生者の記憶なら、消えても大丈夫だと思ったのだろう。
しかし、失っても生きていく上で支障がない事と、失っても死なない事は同義では無い。生きていて支障が出る物を、時に人は捨ててしまう。それが前に進む為に必要な代償と知っていても、時にはその事を責めてしまうのだ。
そこにきっと、正しいも間違っているも存在しない。ただ、そうであるだけだ。
ゆっくり出来る姿勢でと促され、仁はベッドで横になった。彼の眼は、シオンとマリーに怯える色と、謝罪や憤怒の感情が混ざった色にころころと変わり続けている。達人の身のこなしでいきなり首を掴まれれば、虐殺者と同じ姿形をしていれば、怯えても仕方ない。
でも、それはとても悲しい事だった。
「何で、忘れたの?」
「……」
質問その一。斬り込まれた本題に、全てを知る僕は躊躇って黙る。絶対に言いたくない。言えない答えだから。だから、ずっと黙っていたのだから。
「嘘とだんまりはやめて。本当の事を言ってくれなかったらもう、刻印を刻まないから」
だが時に、沈黙は口以上に雄弁に語る。記憶を失う程の代償を支払う何かなんて、仁は四重刻印しか持っていない。話したくない理由だって、シオンに罪悪感を背負わせたくないのと、これからも刻印を刻んで欲しいからしかない。そんなの、鈍いシオンにだって分かって、口下手な彼女にだって追い詰める言葉くらい作れた。
「俺君、少し主導権をおくれ。彼女と話す。大丈夫。みんな味方だから、ね?
「……分かった。危なくなったら、出てくる」
俺の人格から主導権を貰い、僕は改めてシオンと向き合って深呼吸。俺が刻印の代償を肩代わりしたおかげで、辛い役目が僕に回ってきてしまった。
「……先に、謝るよ。原因は四重刻印しか考えられない」
でも、やらなければならない。怒られるのを覚悟して、頭を下げて真実を伝えて、
「前回の時も?」
また、言葉に詰まる。真実はYes。しかし、ここはNoで乗り切れる。どこを忘れたのかすら分からなかった。もしくは、前回はそこまでの代償は無かったとでも言えば。
「隠したりしないでって、私に言ったくせに僕は隠すの?」
仁がかつて腕を失った彼女へとかけた言葉で先回りされた。この少女はこんなに、人の心が読めたものだったろうか。いや、そうじゃない。彼女の眼に映った自分の顔は、それはそれは酷いものだった。躊躇いと罪悪感を隠し切れていなかった。
「前回の時も、あった。でも失った記憶はごく僅かで、日常生活に支障が無いくらいで」
「だから、今回もそれだけで済むって思ったんだ」
「……ああ、そうだよ。それだけで助けられるならって、僕は同意したんだ!」
声を荒げる。シオンの為にやったんだぞという意味じゃなくて、さも当然のように自分の命を軽く見ている彼女を責める為に。
「ただの記憶だ!思い出だ!例え無くしたってまた作れるものなんだ!でも、君は死んだらそれで終わりだ!」
無くしたっていい。大事なものだけど、消えたら無くなってしまうけれど、違うもので埋める事が出来る。絶対に代わりのいない少女とは訳も価値も違う。戦略的にも、仁個人としても。
「でも消えたらもう!」
少女の言い分は分かる。消えた記憶はどうなるのか。自分と過ごした楽しい時間を忘れられるのはどれだけ辛いかなんて、想像も出来ないくらいと想像は出来る。仮に逆の立場なら、同じ事を言うだろうから。
「だからって自分が死ぬってか!?くだらない冗談言うなっ!この一点に関しては、俺君も僕も絶対に譲らない!」
だが、決して譲らない。失っても良かった。そう思えるだけのものなのだ。興奮して、思わず起き上がった身体が痛んで、梨崎に止められても僕は叫ぶ。聞くだけの、俺の分まで。
「分かるか!大事なんだよ!死なせたくないんだ!それぐらい守りたかったんだ!」
「……だから!辛いの!私のせいで俺の記憶が無くなって、僕はその罪悪感で苦しんでるのが!」
仁のが正しいとも。分かっているとも。故にシオンは辛いのだ。自分がもう少し早く振っ切れていれば、仁は記憶を失わずに済んだかもしれない。守られたからこそ、彼が失った事が辛いのだ。どうせ何かを失わなければならないなら、シオンの記憶が消えるべきだった。
「私だって仁の事が好きだし、守りたいの……!だから、私が足を引っ張って、こんな事になって!」
「……引っ張ってはない、けど!」
「ええそうよ。仕方がないって分かってる!守ってくれて本当にありがとうって思ってる!貴方がいなかったらって怯えてる!でも、嫌なの……」
自分の命を助けてもらった事に、感謝しない訳がない。彼がいてくれて、助かったと思っている。歪ながら、それだけ強くなった彼が誇らしい。でも、だからこそ、自分の為にここまで傷付かれたのが嫌なのだ。
「約束して。もう二度と、四重刻印は使わないって」
「……それは出来ない。必要に迫られれば、僕らはやるしかない」
涙目で訴えられた要求を、僕は跳ね除けるしかなかった。そもそも出来る約束じゃない。シオンや街の人を救う為の手段があるのに、仁に躊躇出来る訳がない。
「まだ全部確かめた訳じゃないからなんとも言えないけど、前より記憶喪失の範囲が広がってる。次なんかしようもんなら、全部の記憶が吹っ飛んでもおかしくない」
「そもそも異常な発動の仕方なの。系統外もない常人の癖に無茶し過ぎてるわ。自分の手脚の数ちゃんと分かってる?」
「まだ二本もある。それに、死ぬよりはずっとマシじゃないか。それともなんだい?あの場でシオンを助けず、街が滅ぼされた方が良かったとでも?」
梨崎とマリーがシオンの援護に回るが、僕の正論な反論を前に黙るしかない。医者として分かるのだ。全体を活かす為に、死んだ箇所を切り取る判断も必要だという事が。守る者として分かるのだ。時には誰かが身体を張らねばならない事が。
「……ごめん。心配して言ってくれたのに、意地悪言った」
正論とは便利なものだが、時に情を全く許さない冷徹なものとなる。それを表すかのように訪れた沈黙に、少し頭が冷えた僕は謝罪する。シオンが自分に向けた感情と似たようなものを、自分も俺に向けていたから、つい熱くなってしまった。
「ただ、僕に約束なんかしても無駄だよ。例えしても、絶対に破る自信がある。だから、僕に言えるのはこれだけだ。前とは何も変わらない。必要に迫られれば使う。でも、出来る限り使わないように努力する」
刻んでいるのはシオンなのに。辛い思いをするのは自分より彼女なのに。そう分かった上で、僕と俺は守るという大義名分の下、その想いを踏み潰す。
「いっつもそうじゃない!もうしない、出来る限り使わないって言ったのに無茶ばっかりして、死にそうになって!傷だらけになって!」
「そうしないといけない状況だったって分からないのかい!?それを言ったら、君だって無茶ばっかりじゃないか!」
「……っ!」
シオンの怒気に産毛が逆立つが、僕も引かない。理は全てでないにしろ仁にある。最初に無茶をしたのは彼女なのだ。手脚の本数だってどっこいどっこい。それでも、シオンはこうも食い下がる。
「全部自分のせいだなんて思っているのかい?自分がもっと戦えたらって考えてるんだろ?俺君が記憶を失ったのが自分のせいで辛くて、もう二度と味わいたくないんだろ?」
「……っ!」
忘れた俺よりも、覚えている僕よりも、忘れさせて忘れられたシオンが一番辛い。だから、その辛さをもう経験したくないからシオンは、仁にこれ以上発動しないでと頼んだ。そういう風に、僕は声を荒げる。
愚かだ。実に愚かな正論だ。それだけが全てじゃないに決まっている。単純に仁に傷ついて欲しくないと願う彼女がいるのも分かっている。しかし、全てじゃなくとも僅かでも、自分の魔法で仁が傷付く姿を見たくないシオンがいれば、その正論は喉元に深く突き刺さる刃たり得るのだ。
「違う……私は……!」
「刻んだ事に罪悪感があるなら、見過ごして耐えるって責任の取り方もあるんじゃないか!僕に人を助けさせてくれよ!」
「……」
「あ……」
首を振って、後退りして、大粒の涙を零しそうなシオンに僕は気付く。今のは失言だった。要らぬ一言だった。核心を突いた発言ではあったかもしれないが、余りにも残酷過ぎた。
「はぁーい。ストップそこまで。おい患者、落ち着け。血が出てる」
仁の目線をすっと掌で遮った梨崎が強引に会話を切り、包帯にじんわりと広がる血のシミを指差して他の事に気を逸らさせる。
「シオンちゃんもゆっくり深呼吸して。少し私と外に行こっか」
唇を小さくして、必死に泣かないように耐える少女の肩を優しく抱いてマリーが外へと誘導。色々といっぱいいっぱいだったシオンは嗚咽を漏らしながら従い、仁の前から姿を消した。
「ごめんよ。助かった」
「まだまだ若いね。怒りの矛先が分からなくなったり、カッとなって言っちゃいけない事言っちまう内はまだガキだよ」
「あらら。少子化は何処へやらの子沢山な世の中だ……僕もシオンも、色々と抱え込み過ぎてたね」
「だろうねえ。はっきり言って、鏡を見てるみたいだった」
口論の最中には気にならなかった痛みの襲来に顔をしかめながら、梨崎と冗談交じりの皮肉と反省を交わす。
シオンが自らを責めて抱えて、それを僕に向けて爆発させたように。僕も同じように、自らを責めて抱えて、シオンへと矛先を向けていた。互いに八つ当たり同士。上手く収まる訳もない。
「……俺君のせいだよ。大体」
「それをシオン……?に向けたのは僕だろ。そこは僕が悪いと思う」
大元の原因は俺にある。いっそ二人仲良く記憶を吹っ飛ばしてたら、もっと話がこじれただろうが、ここまで険悪にはならなかったはずだ。仁を責めようにも、何せシオンの事を綺麗すっぱり忘れているのだから喧嘩のしようがない。シオンが仁に怒声を浴びせて、仁が知らないけどごめんで、シオンが深く傷付いてはい終わりだ。
「なんで僕の記憶残したか、覚えてるかい?」
「……思い出せない。ただ、どちらか片方でも覚えてる方が、良いって思ったんじゃないか?」
普通に考えて、どちらも忘れるよりはマシだ。だが、あの時。四重刻印を発動する間際に、俺が交わした取引を、僕は朧げながらに覚えている。
「忘れる罰と、自分だけが覚えている罰。どうせ二人いるんだから、どっちも味合わせた方が辛くないか?なにせ、忘れている奴は罪悪感の感じようがない」
俺はそう、代償に持ち掛けたはずだ。せめて僕の記憶だけでも残そうとした、必死に作ったのが見え見えの言い訳だった。
無理だろ。そんなの通じるか。いっそ滑稽なまでの稚拙な建前。だが驚く事に、代償と言う奴は大馬鹿者だった。なんと彼は、俺の要求を受け入れると頷いて笑ったのだ。そこから先の精神の記憶は、僕にはない。現実世界に戻って、サルビアに殺されかけて、みんなを守ろうしたはずだ。
「そのせいでこのザマだよど畜生。なんでよりにもよって盾の僕じゃなくて俺君なんだよ」
あの時、僕は諦めて全てを受け入れようとした。ここは駄目だから、次に行こうと。ところが俺とか言う奴は、到底勝ち目なんかないような勝負に打って出て、何故か勝って帰って来た。
悔しかった。不甲斐なかった。なんで自分はあの時、本当に大事な物を失う事を、簡単に受け入れてしまったのだろうか。駄目元がむしゃらに足掻こうとしなかったのか。諦めた自分が忘れるのが、お約束の展開ではなかろうか。そうした方が俺は苦しんだだろうに。
「さっきシオンが言って、君が否定したセリフだというのに、恐れ入ったよ」
シオンと同じだ。不甲斐ない、背負えなかった自分を責めて、そのモヤモヤを違う相手にぶつけてしまった。あんな傷付ける言い方なんて、しなくても良かったのに。シオンを傷付ける為に正論を使った。実にまさにガキだ。
「先が思いやられる……なんでよりにもよって僕が……」
こんなんでやっていけるのだろうか。記憶喪失の激しい俺に変わり、これからは僕がメインを務める事になるだろう。この一件を教訓にして、肝に銘じなければ。
「はあああああああもう。どうすりゃ良かったのかなぁ……とりあえず、俺君は一発殴らせろ」
「そこは感謝の言葉でもくれた方が、嬉しい」
「そうかい。じゃあこうしよう!どうもありがとうございました!」
本音からの感謝を込めて、本気の拳で精神世界の俺を殴り飛ばす。ああそうだとも。まさに、シオンの気持ちとたった一つを除いてまるきり同じだ。
「僕は大事なものを、君のおかげで失わずに済んだよ。両の手離して喜べないのが玉に瑕だけど、それでもどこかでホッとしてる」
だからこそ自分に腹が立つ。犠牲の上に成り立った結果など、素直に喜んでいいものじゃないのだ。でも、人間とは悲しいもので、顔に出なくても喜んでしまって、それに自己嫌悪する。
「……失ったのは俺みたいなのに、何故か周りの方が辛そうなのは不思議だ」
「辛そうな周りの人を見るのは辛いだろ。それが君の罰で、これで手打ちだ」
精神世界で横たわって、空を眺める俺へと手を差し伸べる。責めようが胸首掴んで揺すろうが、俺の記憶は戻らない。だから、この話はここで終わりなのだ。シオンと違って、僕は四重刻印をこれからも使う可能性を否定しないのだから。
「どうやら勝手に自己完結してくれたようで何よりだ。明日から、色々と失った範囲の検査だなんだする。今日はもう寝な」
「……そうするよ。なんか落ち着いたら一気に疲れが来てね。僕の手打ちは明日かな」
僕と俺より、シオンの方が時間がかかるだろう。壊れた身体は痛みを主張して、何故か全身が疲れているようなだるさがあって、瞼はもう限界だった。
「包帯、変えてくれたり、治療してくれたり、ありがとうございました。えーと」
「梨崎さんだよ」
今日はお言葉に甘えてと、瞼を閉じる前に自分を支えてくれた人物にお礼を述べる。でも、俺の頭ではどうにも彼女の名前が出て来なくて、同じ頭の僕に助けてもらう。
「梨崎さん。忘れてしまって、ごめんなさい」
「いーよいーよ。私なんか覚えてなくても謝らやなくても。あんたはもっと、違う人にそれを言うべきだ」
「俺が言いたいと、思ったんです」
「へぇ。そうかい。なら素直に受け取っとくよ」
何故かは分からない。けど、驚いた梨崎の顔に、心のどこかでしてやったりという感情が沸いた。
軍の本館を含むほとんどの施設が内乱の際に壊され、現在は取り壊し中。故に、仁とシオンが今いる部屋は反乱軍が隠れ家としていた、スラム街にある洋館である。見た目はボロいが中は整えられ、なんと医療施設まで整っている。立地は少々悪いが、石蕗が住居兼仕事場として使用中の為、警備は万全。この街で最も安全な場所と言っていい。
仁がいる病室の棟の階段を降り、渡り廊下を渡って宿泊棟の一階。マリーに割り当てられた部屋の中に、二人はいた。
「落ち着いた?」
「……ん」
部屋に入った瞬間に涙腺が決壊して、ベッドの上に腰掛けて、よーしよしと背中をさすられてから、何分経っただろうか。ずっと泣き続けていて、時間の感覚も分からなかった。
「ごめんなさい……色々と、汚しちゃって」
「いいのいいの。こんなん洗えばいいし。人は辛い時には甘えていいの」
落ちた涙と鼻水がマリーの服についているのを見て、謝るけれど、何でそんな事で謝るのと彼女は笑って手を振るだけ。
「シオンちゃんは、そういうのも分からないのね」
シオンが顔を伏せたのをいい事に、マリーは一瞬だけ顔を曇らせる。少女は親に甘える事を許されず、一人で生きてきた。友人とのじゃれ合いや、恋人との付き合い方は分かってきただろうが、親への甘え方はまだ知らない。
「……なんで、こうなっちゃうんだろう……」
「……」
今きっと、彼女はそれを学ぶ時だ。子供はいた事はないけれど、マリーはかつて母にされた時のように、シオンの言葉を黙って撫でながら聞き続ける。
「なんで、頑張っても、守れないの……?」
胸を刺すような、悲痛な独白だった。今までずっと頑張って生きてきた少女が、溜め込んできた心の膿。
「せっかく大切な人が出来たのに……」
彼女は大切を知らなかった。だからきっと、一人で生きていた時にこんな思いをした事はなかった。一人の時は、自分の全てを守れていた。
「大切な人の身体も、大切な人の記憶も、命も、守れない」
しかし彼女は、仁と出会って大切を知った。それはとても暖かくて嬉しくて、かけがえのない物だった。けど、それは失う事を知る事でもあった。当たり前だ。守れない範囲にまで、大切が広がったのだから。
「何の為に強くなったの?あの人はなんで、私の大切を奪って奪って、奪っていくの?私が、何かしたの?」
マリーの目を見るその瞳は、暗く深い。擦り切れて、壊れかけた仁を支えた少女だった。故に、今の今まで気付かなかった。自分が壊れかけてようやく、気付けたこの感情。
「ねぇ、どうやって人は、こんなのに耐えているの?」
虚しさだとか、絶望だとか。そんな言葉で表される感情だ。人が生きて、出会いと別れを繰り返す内に麻痺して失っていく感情だ。幼い内から慣れるから、普通の人はこんなに辛くならない感情だ。
「守れなくて、別れて、悲しくならないの?いつか壊れるって知ってるのに、なんで」
しかし少女は成長してから、初めてそれを知ってしまった。故に慣れず、人の何倍よりも痛感している。
「それはね、シオンちゃん。人は知っているからこそ、守ろうとして、幸せになろうとするの」
「……それが、分かんない……」
なんでと問われて、雨に打たれた子猫のような少女に見つめられて、マリーはようやく口を開いた。そして、自分が生きてきて得たものを、言葉に変換する。
「シオンちゃんは、どうせ別れるのになんで幸せにって思ってるんだろうけど、逆なの。別れるからこそ、幸せになろうとする。別れを見つめた上で、目を逸らす」
「見つめて、逸らす?」
「そう。みんなが生まれた時から知ってる事。形あるものは全て壊れ、人は、いつか死ぬ。絶対に、別れは来るって分かってて見つめて、そしてそれから幸せで目を逸らす」
矛盾しているようだが、違う。理解した上で、自分にはどうにもならない問題だからと無視するのだ。どう足掻こうがいくら足掻こうが、逆らえない事だからと。だから、水を差されないように、幸せで別れという期限を隠すのだ。
「じゃないと、せっかくの幸せから棒が一本無くなっちゃう。ああ、向こうの世界は漢字ないから、分からないか」
「……?」
大切しか知らず、別れを知らなかった少女には到底出来なかった事。いつまでも続くと思っていた幸せが呆気なく壊されて、ようやく知った辛さ。
「出会いは別れの始まり。幸せは絶望への登り道。ええそうよ。否定はしないわ。別れと悲しみは避けられない。でもそれをどこかで知っているから、人はより幸せになろうとする」
終わりがあるからこそ、幸せになろうとするのだ。そうやってマリーは言うけれど、シオンはいまいちピンとこない様子。
「自覚がないだけできっと、シオンちゃんは気付いてるよ。仁と離れ離れになるって聞いた時、どう思った?」
「……辛かったけど、死ぬわけじゃないし、また絶対会うって。そして、別れるまでに……あっ……」
「ね?人はそうやって、幸せで目を逸らして、生きていくの。そして別れに直面して悲しんで、泣く。私達はそういう生き物なの」
幸せだからこそ悲しみがあるのならば、その逆も然り。悲しみがあるからこそ、幸せもある。終わりがあるからこそ、感じられる。ずっと続いて永遠に終わらない幸せは、幸せではない。それは普通になってしまう。
だってそうだろう。君達日本人にとっての普通が、戦争の地域からしたらどれだけの幸せかなんて、知らないだろう。
「私もね。たくさんの別れを経験してきた。恋人とも、友人とも、両親とも、戦友とも。その度に泣いて、悲しんで、こう思うの。次の幸せは守るって」
「いつか終わるって、分かっているのに?」
「そうそう。抗っちゃう。少しでも長く、幸せでありますようにって。でも、そう思えるのは、幸せの価値を知っているから。別れた人達の思い出があるからなの」
幸せを失う辛さを知るには、幸せだった思い出がいる。そして、幸せを失う辛さを知るからこそ、マリーは倒れても何度も立ち上がり、その度に守ると誓うのだ。それは幾度も破られた誓い。いつかは破られると分かっている誓い。だが、その時までは全力で抗う誓いだ。
「仁はきっと、これを経験している。彼は一回全部を失って、そこからまた新しい大切を作って、必死になってる。次は無駄にしないって思って、シオンちゃんを守ったの」
「次……」
「失った人を忘れる事は、私には出来ない。でも、過去に戻る事も、変える事もまた出来ないの。私達は失った辛さを抱えたまま、次に生きていくしかない」
誰だって知っている。当たり前の真理だ。時計の針は戻らず、前へのみ進み続ける。失った物は失ったまま、取り戻す事は叶わない。非力で悲しい人間に出来るのは、次の何かを失わないように全力で抗う事だけ。
「シオンちゃんは、仁の手脚と記憶と、父親を失った。他にも守れなかった人はたくさんいる。でもそれは、今更どう思っても変えられない」
「……」
言葉では理解していても、心ではまだ難しいだろう。俯いてぎゅっと握られた拳がその証拠。だが、言葉で理解出来るなら、今は十分だ。
「シオンちゃん。さっき仁というか僕のアホがね。どうせ自分が辛いからこうやって責めてるんだろって言ったけれどね」
「うん……アホじゃない。その気持ち、確かにあって……」
「何がおかしいのって話だから、気にしないでいいよ。誰だって、好きな人が自分のせいで傷付くのが辛いなんて当たり前で、辛い事が嫌で避けようとするのなんてもっと当たり前じゃない?」
アホな僕のあの時の言葉を笑い飛ばせと、シオンに微笑んだ。あれは責めにもなっていない。ただ、「今日も空気がありますね」と、当たり前な事を言ったくらいのものだ。
「辛いだろうし、嫌だと思う。でも、だからこそ、これから幸せになろう。あの記憶を失った俺とかいうアホを、もう一回メロメロにしちゃおう」
「……そんなので、いいの?」
「いいのよ」
「私のせいで、記憶を失ったのに?」
「だからこそじゃない。知らない?両想いって、年頃の男子にとってはこの上ない喜びなのよ?」
あった事はあった事。話はもうそこで終わりなのだ。終わった話をいつまでも読むのはやめて、拾って抱えて次の話を読み出すべきだ。そして、その次の話は、出来る限り幸せであるべきだ。
「……うん。頑張る」
「その意気その意気。仁なんて記憶を失ってようがちょっと喧嘩をしてようが楽勝よ」
今日、ようやく甘え方と前への進み方を知った少女は、先程とは違う意味で拳を握り、
「マリーさんって、お母さんみたい」
「………………結構、来るわね…………」
自分をずっと撫でてくれて、話を聞いてくれたマリーを、母の様だと例えた。が、当のマリーはそうであってもおかしくない年齢差に頭を抱えて沈んだ表情に。
「ああああ!?年齢とかじゃなくて、その!」
「うふふふふ。分かってるわ。ありがとう」
シオンが慌てて訂正すると、可愛いと言って嘘の落ち込みを引っ込めて、彼女の頭を撫でた。
「……願わくば、貴方と仁に幸せがありますように」
そっとシオンの耳元で、マリーの切なる願いが囁かれた。けど、その表情は、まるで別れを知るような。




