第121話 霧原 楓の生き様と死に様
土の壁のささくれを、必死に数えるけど悲鳴は耐え切れない。ここは彼女が魔法で創り出した、地下にある拷問室。行われているのは、その部屋の用途に沿った事。
「ふぅ……んっ……おいし……」
ぬらりと光る血を美味しそうに舐めとり、美しい金の髪の女は顔を上気させる。熱い吐息はさながら、恋人との逢瀬を思い起こさせるような温度だった。
「早く言わないとぉ……手がなくなっちゃいますよぉ?」
だがこれは決してそんな、優しいものではない。むしろそれとは真逆の、醜悪なるものである。
「もっと耐えてもいいですけどぉ、死なないでくださいねぇ。前の男は何も言わずに果てちゃいましたからぁ。あれはつまらないんですぅ」
前の男。きっとそれは、自分を呼び出した時に使った変装の、蜂須だろう。彼はこの拷問を受けても、最後まで情報を明け渡さなかったらしい。反柊派ではあったが、街の存続を第一に考えていた彼には当然の事か。
「さぁさぁ、言ってくださいよぉ!禿げた頭の王様とかぁ?傷跡だらけの仁とかいうやつとかぁ?あの忌々しいシオンの小娘だとかぁ?裏切り者のマリーだとかぁ?あ、貴女の恋人の惚気でもいいですよぉ?」
「何も、言わない、から……柊司令の事も、仁君の事も、シオンちゃんの事も、彼の事も!」
彼が言わなかったのだ。私も、何も言う訳がない。絶対に話してたまるものか。こんな痛みを与えられても、何も意味が無い事を証明してやる。
「いいですよぉ?その調子ですぅ!もうちょっとで二時間経過ですけどぉ、よく耐えてますわぁ!」
街中で蜂須に反乱の事についてと声をかけられた瞬間に気を失って、気が付いたらここにいて爪を剥がされていた。拷問が始まってからもうそんなに経っていた事に、私は驚く。この狂っている女に与えられる痛みのせいで、感覚が機能していない。早く過ぎ去って欲しいと願う時間は、逆にゆっくりに感じてしまう。
(私に、できる事を……)
助けを願ったけれど、それは無駄だろう。どれだけ叫んでも、誰も来ない。シオンちゃんがヘリに刻んだ防音の魔法と同じようなものがかけられていると、バラバラになりそうな思考が端っこで推測している。
「耐えてぇ。耐えてぇ。耐えてぇ。耐えてぇ。耐えてぇ。最後の最期に耐えきれなくなって情報を渡してぇ……」
女の息遣いが荒くなる。まるで、情報を奪うのではなく、人の命と尊厳を奪い倒す事を目的としたような拷問は、更に激しさを増していく。
「ごめんなさいごめんなさいと謝りながら死ぬのを眺めたいんですぅ!」
「ひっ……」
何の情報も渡さないと決意したけれど、目の前の狂気に寒気が止まらない。絶え間ない痛みに耐えられない。死んで大切な人と別れる恐怖に押し潰されそうだ。思考は既にぶっ壊れていて、これは夢なんだと思い込みそうになる。
「がはっ……げほっ……」
「……早く言ってくださらないかしらぁ?さすがにぃ、そろそろ死んじゃいますよぉ?言えば楽に殺してあげますからぁ!」
「……そう、だね……」
悪夢。壁の中は平和だと思っていたのに、こんなのがいたなんて。人の姿に化けられる、女の騎士が紛れ込んでいたなんて。
「ささっ、どうぞぉ!」
「バーカ」
「……今なんて、言いましたぁ?」
だが私は認めよう。これが悪夢のような現実であり、これから私は死ぬと。怖いし、恐いし、痛いし、嫌で嫌で嫌でたまらない。
「バカって、言ってたんです……よ?頭だけじゃなくて、耳も、悪いんですか?」
故に、だからこそ私は受け入れて、抗おう。最低で最悪なこの悪夢を他の誰かが見ないように、何の情報も渡してなるものか。
「ああ、そうですかぁ。本当に腹立たしい種族ですねぇ……もういいです」
「うっ…………げばっ……」
笑みと吐息が一転、能面の顔がぐいっと近づいて、胸の辺りに違和感。次いで、脳の中が掻き回されるような痛み。実際に掻き回されたのは胸の辺りで、刃がぐーりぐりと押し込まれている。
「……ひゅー……ひゅー……」
ああ、私死ぬんだ。痛みは痛みすぎて消えて、胸からも口からも血が止まらなくて地面に溢れて染み込んで、視界が霞んでゆく。呼吸さえ辛いし、全てが怖い。
でも、守れた。何の情報も、渡さなかった。
「あ、そうそう。情報提供、誠にありがとうございますですぅ!」
「……なん、の事?」
勝ち誇った表情を浮かべながら死のうとする楓に、先の能面から更に一転、最高の、まさに見たかったものがようやく見れるといった笑顔に変わったイザベラは、服の端をつまんで丁寧なお辞儀を。
「貴方に親しい方の呼び方ですよぉ!これだけあればぁ、後は簡単なんですぅ!これが一番、お目当でしたぁ!」
「あ……」
「あ、訂正しますねぇ?今の表情がぁ!一番欲しかったものでしたぁ!あはははははははははははははは!」
問題は多々あるだろう。シオンだってよく難しい漢字が読めなかったり、カタカナの意味が分からなかったり首を傾げている。だが、数日だけならば、調子が悪いや無視などでもやり過ごせるかもしれない。いや、イザベラならやり過ごすだろう。何せこの女は、そういう事を専門としてきたのだから。
「桃田 和希の婚約者。引っ込み思案で軍所属の霧原 楓さん。貴女の経歴はぁ、大体調べてあるんですよぉ。前の前の男は結構軽口だったものでしてぇ。でも、これだけが分からなかったんですぅ」
だが、イザベラでも知らなければならない、楓にしか分からない事がある。それは、親しい者の呼び方。いつもの呼び方と違えば、人は警戒や不安を抱く。最初の一人二人ならまだしも、知っている人間全員の呼び方が間違っていればどうなるだろうか。
「大変、仲間思いな性格だそうでぇ?追い込めば勝手に誰々の事は言ったりしない〜〜!とか言ってくれると思ってましたぁ!馬鹿は貴女の方でしたねぇ!」
誘導された。その事実に思わず口元が歪む。私は、何の情報も渡さないと決めていたのにと。
(引っかかった……)
それは愚か者を嘲る、嘲笑。誘導されるように、こっちが誘導していたんだと。馬鹿はやっぱりお前だと。くれてやる。普段とは違うみんなの呼び方という毒なんて、いくらでも。
(これが、私に出来る事だから……)
これは、次に繋げる一手。勝つ事は出来なくとも、残す事は出来た。この綻びに、きっと彼らなら気付いてくれる。この毒はきっといつか、この女を殺す。この足掻きはきっと、みんなの為になる。
「ほぉら、謝るなら今ですよぉ?あの世に行ったらもう無理ですよぉ?ほぉら!ほぉら!ほらほらほらほらほらぁ!」
興奮していて気付かない。自分の勝利に驕っていて気付かない。思わず口から溢れ出そうになる笑いを、これからみんなと会えなくなる恐怖で打ち消して、
「ごめん、なさい……!」
「〜〜〜〜〜〜!!」
でもやっぱり怖くて辛くて、和希に悪いなって思って心の底から謝った。それを目の前で最低な女に聞かれるのは癪だったけれど、ここを逃せばきっともう二度と言えなくなるだろうから。
(ああ、出来ることなら……結婚式挙げたかったなぁ)
溢れ出る。最期の戦いに勝とうとも、後悔は尽きない。
(和希、悲しむだろうなぁ……みんなも、悲しんでくれるかなぁ)
遺して逝ってしまう恋人の事を、仲の良かった友人達の事を考えれば、涙も震えも止まらなくて。今までが幸せだったからこそ、失う時は恐ろしくて。
(でも私、最後まで頑張ったよ。ちゃんと、戦ったよ)
それだけが誇りだった。最後まで勝ち目の無い戦いを諦めず、一矢報いた。決して諦めなかった。次に繋げた。それだけが。
「はぁい。楽しめましたぁ!こんなに長い時間、ここまで気持ち良かったのは初めてですぅ!」
最後まで抗い続けていた身体が、だらんと力無く下がる。21g軽くなった彼女を、イザベラはそれはそれは楽しそうに、解体し始めた。
「けどけどぉ、まだまだぁ楽しめるんですよねぇ?」
いつもの手つきで解体すれば、鮮やか過ぎてシオンやマリーに気付かれかねない。下手を装うように、ぎこちなく、死体を汚すように心がける。
「これをぉ……恋人に見せたらどんな顔をするんでしょうかぁ!楽しみですわぁ!」
飲んだ甘美な勝利の美酒は、猛毒であったことも知らず。彼女が最後に残した功績に、自分の正体が気付かれるまで気付かず。
目の前の光景を、冷静な思考が先に処理していた。感情は、追いつかなかった。
「バラバラにした理由ってのは……」
やっと分かった。死体がバラバラにされていた理由。この女の趣味もあるだろうが、それ以外にもう一つ。
「ぴんぽぉん!虚空庫に入れやすくする為ですわぁ!」
虚空庫の原則として、大き過ぎるものや生きている物は中に入らない。だから、斬り刻んで細かくしていた。先日、シオンが倒したオークを解体していたのと同じように。
「それにぃ、私が成り代わっている間に死体が発見されたり、死んでいたはずの日に私を見られたら大変じゃあないですかぁ?」
虚空庫の原則は他にもある。例えば、中の時間は流れないだとか。出来たばかりの料理は何年経とうが暖かいままホヤホヤで、殺されたばかりの死体は何年経とうが死んだばかりだ。
「反吐が出そうなくらいに、賢いよ」
本人を殺してから死体が見つかるまでの間のみ、イザベラはその人物に成りきっていた。次の人物へと変身する際に、前の死体を破棄して敢えて発見させれば、仁達は今この場で殺されたと勘違いする。
あの日司令室にいた蜂須は蜂須ではなく、イザベラだった。死体が発見されたのはその後だったが、すでに彼は殺されていたのだろう。
冷静な思考は、ここまでだった。
「っ……ころす……殺す!殺してやるっ!」
やっと、楓の死が理解できてきた。感情が現実に追いつき、殺意が限界を超える。楓はもちろん、マリーの魔法を打ち消した大魔法に巻き込まれた被害者達。
「んん〜〜?聞き間違いでしょうかぁ?殺す?ぷぷっ!」
「っっっっ……!」
血管が千切れそうだった。優しかった彼女を殺し、こんな形でそれを恋人に伝えるなんて。一体どこまで、この女は外道になれるのか。
死者を汚し、笑い、辱め、大切な人を失った者達を嘲り、本当に楽しそうに生き生き生き生きと死を喜ぶこの女は、絶対に許さない。それがこの場に生きている者達の、共通認識だった。
「あらあら私ぃ、大人気ですかぁ?困っちゃいますわぁ」
剣に魔法に銃に殺意に憎しみに。防御不可能な魔法の使い手にして不死身に近しい『勇者』、最強に迫る剣技と莫大な魔力を持つ少女、自壊による圧倒的速度と力を誇る仁に囲まれてなお、イザベラは余裕の笑みを崩さない。
「あああああああああああああああああああああ!!」
だが、一番に飛び出したのは。やはり、超常の力も持たない、この場で一番弱く、最も憎しみと殺意を抱いた桃田だった。
「なんて情熱的なんでしょうかぁ!恋人と一緒に死にたいなんてぇ私!感動してしすぎて涙が止まらなくてぇ腹筋が痛いですわぁ!」
「黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ!お前だけは、殺す!絶対に許さないっ……!」
愛した人の姿で涙を流して腹を抱えて笑うイザベラに、同じく涙を流す桃田はただ憎しみだけで突っ込んだ。
「桃田さんっ!」
「仁!離せっ!俺はっ!あいつを、殺す!殺さなくちゃならないんだっ!」
当然の権利だ。恋人を殺され、こんな無惨な扱いをされ。だが、ダメだ。仁は身体強化で桃田に追い付き、力で無理やり引き止める。
「貴方じゃ勝てない!ただの無駄死になる!」
「っ……!それでも、俺に黙って、見過ごせと!?恋人の、楓の仇をだぞっ!?」
勝てる相手じゃない。魔力もなく剣技もなく、『限壊』も系統外もない桃田では勝てない。銃の扱いならそれなりかもしれないが、物理障壁を張られれは終わり。それ以前に、銃が撃てるまで生きていられるかも怪しい。
「恋人の割にぃ、貴方ぁ、気付きませんでしたよねえ?なんでしたっけぇ?結婚式直前だから緊張してる?それとも軍を裏切るのが怖い?あーあ、笑いを堪えるのに苦労しましたぁ」
「……………………ころす」
更なる煽りは、実に的確に桃田の傷を抉る。仁は気付いたのに、一番近いはずの自分は気付けなかった。その悔しさは、申し訳なさは、不甲斐なさは、自責の念は、力となって彼の身体を突き動かす。
「頼むから、離せ」
「貴方まで、死なせたくないんですよ……!」
身体強化の限界のラインを超えたのか、桃田の腕や脚から血が吹き出る。『限壊』にも匹敵する膂力に仁も『限壊』を用いて、必死になって引き止める。血と唾液と怨嗟の言葉を撒き散らし、前のめりになって殺す為だけに動く。その姿はただの獣。
「一応の恋人を殺されてぇ、その相手を見逃すなんてぇ?失格––」
「その辺にしときなさい。イザベラ。貴方、醜いわよ」
「おっとぉ!相変わらず空気の読めないクソ女ですねぇ。嫌われますよぉ?」
話の流れを、マリーが防御不可の魔法と斬り込みで強引に断ち切った。もう少しで殺せたのにとイザベラは毒を吐き、桃田と同じ程の憎しみの眼で『勇者』を睨み付ける。
「さっきのあの魔法。凄まじかったけれど、それだけよね。貴女自身は私よりも弱い。シオンちゃんや、仁よりもね」
「仁とそこのゴミはともかく、貴女方二人の方が強いのは認めますよぉ?だからぁ」
「シオンちゃん!仁と桃田を守って!」
イザベラの手が再び虚空庫へと吸い込まれて消え、その瞬間を目撃したマリーがシオンに声をかける。
「はい!」
予め魔法障壁を展開していたシオンが、仁と桃田を隠すように立ち塞がって自らを盾と為す。
「撤退しますわぁ!」
刹那、再び魔法陣が展開。大爆発が建物を吹き飛ばし、道に大穴を開けて、大地を揺さぶり、そして砂煙が視界を閉ざす。五感全てが一時的に封じられてしまった。
「払います!」
狙いに気付いたシオンが急いで風魔法を発動させて、砂煙を薙ぎ払う。
「……いない」
見失ったのはほんの数秒。だが、その数秒の間にイザベラは建物をよじ登ったか、角を曲がったか、路地に入ったか。どれかは分からない。だがしかし、逃した。
「イザベラの見分け方、分かりますか?」
「……ほとんど無理だわ。見た姿を完璧に真似るもの。身長に匂いも声の高さも、傷跡の位置も服も完璧に。その気になれば存在しない人物にだってなれる。誰も本当の彼女の顔を知らないの」
最悪。人や遮蔽物の多いこの戦場では、なんと厄介な系統外だろう。見つけ出すことは、おそらく不可能に近い。そして、イザベラにとって一般人に紛れて奇襲する事は、赤子の手を捻るがごときだ。
「……あっちに逃げた気がする」
イザベラに関しては手詰まり。だが、桃田だけは諦めない。銃を持ち、よろよろと勘だけで歩き始める。
「憶測で動かないでください。貴方が行っても!」
「頼むよ、仁君。止めない、でくれ」
再び止めようとした僕に彼は振り返って、仁達は見た。
「お願いだ。頼む」
涙が溢れて、くしゃくしゃになった、顔を。その眼の奥に宿る憎しみと、後悔と、愛を。
「……貴方が、死ぬ事を、彼女は……」
「……例え望んでいなくても、俺は殺さなきゃならない。ただ殺されるだけだったとしても、ここでただ見ているだけなんて、俺が許せない」
「桃田、さん……」
在り来たりなセリフで引きとめようとしても、無駄だった。きっと何を言っても止められない。それだけが、分かっていた。シオンを失えばきっと、自分もそうなる。
「桃田……そっちで、合ってる……」
ふと会話の中に入り込んできたのは、聞き覚えのある声の、聞いた事もないような苦しげな声。それは、桃田の勘が当たっていると示す内容だった。
「柊さん!?」
「悪い……少し、しくじってな」
「柊!無理しないで!」
「そうです兄貴。意識があるだけでも不思議なんですから!」
ヴァルハラヘルヘヴンの長兄、一葉に担がれ、紅に付き添われた柊の声だった。人に囲まれている事、イヌマキに守られている五つ子亭から出てきた事から彼は本物だと断定し、警戒を解く。
「酷い怪我……治して」
「俺の事は、いい」
目に付くのは一葉の巨体からはみ出た禿頭ではなく、ぽたりぽたりと零れ落ちる血の雫。床に優しく降ろされた彼を診たシオンは重傷だと判断し、すぐに治療にかかろうとするが、柊はこれを拒否。
「マリー、頼む。桃田と一緒に奴を追ってくれ……放っておくには、厄介過ぎる」
「……私の立場、分かってる?貴方を捕まえる立場なんだけど」
この街のどんな人物にも化ける事が出来て、奇襲でシオンを殺す事が出来る程の強さを持つ女騎士。彼女の追跡及び殺害を命じた柊に、私は反乱軍だとマリーは冷たく返すが、
「安心しろ……もう、逃げも隠れもしない……だが、この街は守らねばならない……」
「……確かに、私が適役だわ。私がイザベラを何としてでも仕留めてみせる。だから仁。貴方達は急いで軍の放送室に向かって降伏宣言を出して。それが条件よ」
息も絶え絶えといった様子の柊の言葉に理があると判断し、軍の降伏を条件に追う事を承諾。もう既に見えなくなった桃田を探す為、残った建物の上によじ登って彼を探す。
「柊さん、一体何があったんですか?」
「なぁに。ちょっとした、読み違いだ……」
マリーの姿が見えなくなってから仁が発した問いに、彼はゆっくりと答え始めた。この内乱の始まりの瞬間。そして、読み違えた一手を。




