第104話 色街と代わり
「仁、その、かっこいい」
「あー、ありがとう」
今日の仁の服は、支給された軍の服ではない。受付嬢達厳選、白より灰色のジャケットと青のデニムだ。どんな男でもこれなら間違いはないと力説され、仁も思った以上に様になっていて驚いた。シオンの言葉はデートお決まりの言葉か、それともフィルターがかった視界をそのまま口にしたのか。
「シオンも可愛いよ。うん。ドキドキしてきた」
「似合ってる。可愛い」
「…………………やだ」
こっちが褒められたなら、褒め返すのが礼儀にして社交辞令。とは言え、今日のシオンはいつも以上に可愛い。自分で選んだのか、それとも選んでもらったのかは分からないが、白くて清楚に見えるワンピースは小柄なシオンに非常に似合っている。庇護欲をそそられる上に、時々見える肌の色に仁の心拍数は上がる上がる。
「照れる姿も可愛いんだもの。いやぁ、幸せ幸せ」
「……………………あはっ。死んじゃう」
「おいシオン、鼻血が出っああ!」
この糖度高めデートのシチュエーションは、シオンにとって嬉しすぎたのか、少し曲がった小さな鼻から血がたらり。白い服に血痕を残すのはマズイと、仁が慌てて手で血を受け止めて、鼻を優しく押さえ堰き止める事に成功。
「ごめんなさい……折れてから少し調子悪くて」
「これ、折れたからとかじゃないような」
「この血は洗えば落ちるから、大丈夫。水魔法ありがとう。じゃ、行こうか」
初っ端からやらかしたと落ち込む彼女を慰めつつ、仁は血に濡れていない方の手を差し出した。経験なんて無くて、デートの仕方なんて分からない仁だけれど、出来る限り彼女の意に沿うようにと、少しだけ無理をして差し出した手だ。
「は、はい!きょ、今日はよろしくお願いします!」
「いやいや、こちらこそ」
「よろしく。早速で悪いんだけど、どうしても寄りたい所があるんだ。いいかな?」
「き、聞いてたし、大丈夫!で、どこなの?」
仁がデートをする理由の一つとした、寄り道。事前にシオンやプランナーである楓達には寄りたい場所があるとは伝えておいたから、計画自体に問題はない。その場所には、多少の問題があるのだが。
「五つ子亭と色街だ」
「うん。分かったわ。五つ子亭と色街ね。早速行きまし……色街?」
「そそ。まずは五つ子亭で料理をたくさんシオンの虚空庫に入れて、色街まで運んわああああああああ!?」
デート中に色街という単語でシオンが何を想像したのかは、推して知るべしではある。ただ、分からないのは一体どれだけ純情なら、想像だけで鼻血を垂らしてしまうのかだ。実戦ともなれば出血多量で死ぬのではなかろうか。
「き、気が早いわ……ひ、昼間よ仁」
「シオンの気のが早すぎるよ!?ただ色街の稼げなかった人達への差し入れさ!」
「長居するつもりはない。その、あんまりデートには相応しくないというか、いや相応しいのかもしれないけど、下心はないから」
流石にそこまでの度胸はないと、手を再び水で洗ってもらいながら彼女の妄想を否定。そんな嬉しい気持ちで仁は、色街に向かうのではない。
「わ、私としてはあってもらった方が……」
「シオンには嫌な思いさせるかもしれないけど、ごめんね。じゃ仕切り直し」
「なるべく早く済ますから。行こうか」
シオンが口走ったとんでもない事はしっかり聞こえていたけれど、仁は敢えて無視して再び手を差し出す。
「は、はい」
傷とたこだらけの手を、同じような手がおずおずと握る。それなりの回数は手を繋いでいるはずなのに、今日だけはやたらと手の先に神経が集中している気がした。
胸と腰に僅かな布を巻いただけの扇情的の女性達に、まるで蛾のように群がっていく男性達。生きる欲、食欲、性欲に塗れた、理性としては醜悪にして、本能的には美しい街。その一角をシオンを隠すように歩き続け、ようやく柊から聞いた店の前に辿り着いた。
「すいません。『ジャスミン』という店はこちらであっていますか?
(うーん。目の保養と目の毒が同じ意味ってよくわかるよ。シオン、ごめんだけどちょっと耐えて)
「はぁい……お客さん、ここは確かにそういうところだけどよぉ、他の店の娘連れてこられるのはちょっと」
店の前に立つ女性に確認を取るも、どうやら誤解されてしまったらしい。いやまぁ、女連れの男でこの場所だなんて、誤解されて当然なのだが。
「いえ、そういう目的ではなく。店長さんはいらっしゃいますか?その、蓮さんの代わりの者です」
しっかりと目を見ながら、丁寧に誤解を解こうと話す。事実彼女の表情を見るに、途中までは上手くいっていたはずだった。
「はっ。あの人の代わり?なんだい?あんたらが私達の空いた心を埋めてくれるってのかい?」
豹変したのは、蓮の名前を出してからだった。最初から警戒はされていたものの、女性は最早執着とも呼べるレベルの眼光を向け、牙を剥く。
「冗談じゃない。出来るわけないだろ。帰って二人で仲良く」
「エリカ!うちの従業員が失礼しましたお客様。店長の月下です」
弁明する間も与えぬ畳み掛けを止めたのは、店の中から近づいて来た声。姿を見せたのは、これまた目のやりどころに困る、透けた服を纏った女性だった。
「月下さん……でも、こいつらまた蓮の名を騙って!」
「また騙って」。つまり、蓮が死んだのをいい事に甘い汁を吸おうとした者が何人もいたという事。それだけ色街での蓮の影響力は大きかったのだろう。
「分かってる。でも、話だけは聞く価値があるだろう?何せこの街を何度も救った『英雄様』だ。他とは訳が違うからね」
「英雄だぁ?」
それでも話を聞いてくれたのは、月下と呼ばれた店長が仁とシオンの事を知っていたからだった。柊が大々的に宣伝した、初陣の時に見ていたのだろうか。
「こんな童貞臭いガキと、何も知らねえようなお嬢様がかい?」
ゴツい男か、それとも高身長のイケメンでも想像していたのだろうか。しかし、現実はもっと痩せっぽちで、顔を隠さないといけない程の傷物だ。
「し、失礼な!」
「えっ?仁違うの……?」
「ごめん違わない」
見かけだけで女性経験がないというのは失礼だと僕は食いつくが、潤んだ瞳となったシオンにあっさり掌返し。
「それにエリカ。蓮の代わりってのが本当なら、今日はちゃんとお腹膨れるよ。諦めな」
「…………けっ。なんかしたら、軍に言いつけてやるからな」
「何もしません。ただ、配慮が足りませんでした。すいません」
不服そうではあるが、食欲には勝てなかったようだ。跳ねっ返りな性格も相まって、もしかしたらあまり稼げていない子なのかもしれない。一定層から、需要はありそうではあるが。
「さ、ついてきな。今は女じゃなくて閑古鳥が鳴いちゃいるが、万一もある。奥の部屋はしっかりと防音だからね」
(確かにまだ夜じゃないけど、ここまで人気ないかな?いや、別にあわよくば盗み聞きなんて思っちゃいないけど)
「……なんで俺達の事、分かったんですか?」
彼女の例えの通り、この店には人気も声もない。たまに聞こえてくる声も、店員同士の話し声くらいだ。
「ん?まぁ蓮がよく話してたからね。真面目で顔を隠してて張り詰めた目をした少年と、その少年にベタ惚れな可愛らしい少女がこの街を救ったって。弟や妹みたいに思ってたんじゃないかな」
「……そう、ですか」
確かに、顔を常に隠しているのは仁の大きな特徴だ。シオンも一緒に歩いていたのだから、聞いた話だけで見抜かれる事もあるだろう。
「で、だ。なんで、此処に来た?軍としては公平を期す為、通常の配給以外は行わないって言われてたんだけどね?そもそも、あんたらはこんな街に来ていい人間かい?」
本当に蓮の代わりなのか、確かめるだろう。こちらを振り向かない月下から、ナイフの如き鋭さで質問が飛んできた。事実、その通りだ。英雄が色街に入り浸っている噂などが流れれば、イメージダウンは免れない。
「蓮さんは、俺達を庇って死にました。最後に、貴方達を頼むと託されました」
「……そうかい。納得したよ。こっちにとっちゃありがたい話だし、あんたらは人柄的に信頼してもよさそうだ。さ、ついたついた」
顔は見れない、けれど、声はどこか震えていた。この人もきっと、蓮さんという存在に支えられて生きていた人の一人なのだろう。
「ぶっちゃけるが、軍の一般向けの配給はまるで餓死するか、軍に入れって言ってるようなものでね。この色街でも、飢えて死ぬ女はその辺に転がってるものさ」
仁とシオンに椅子を勧め、自身はベッドに腰掛けた月下は、防音なのをいい事に軍への率直な意見を述べる。
「配給が少ないのは、俺らの力不足です」
「そんな事を言われても、現状は変わらない。責めてるわけじゃないんだ。実に合理的で、この街の存続を考えれば仕方ない。軍が手を抜いてる訳でもないしね」
配給が少ない本当の理由を知っている仁はただ、黙って頭を下げた。今顔を見せれば、鋭いこの人に何かあるのかと見抜かれてしまいそうだったから。そして何より、そうやって犠牲を積み重ねないと救えない事が、申し訳なかったから。
「ただ、その中で蓮や部下達が持ってきた飯は、稼げなかった子にとって生命線だったよ。多くの店で飢えてる子を集めて、貰った飯を分け合ったものさ」
全てをカバーできる訳ではない。しかし、それでも少しでもと女達はルールを作り、お裾分けをして多くを生き永らえさせた。でも、蓮や彼に付き従うような馬鹿な部下達は皆、あの戦場で仁と街の為に命を投げ捨てた。
「だから、あんたらが飯を持って来てくれたなら、と思ったんだが、そこまで期待出来る量はないみたいだね」
「あ、そっか……!ちょっと待っててください!あと何か羽織ってください!」
仁達の装備を見て、食べ物が入るスペースがシオンの持つ鞄くらいしかない事に気付いた月下は、残念そうに肩をすくめる。が、シオンは色街に来てから初めて、笑顔を見せて。
「はいはい。彼氏さんを誘惑するつもりはな……こりゃすごい。たまげたねぇ」
「たくさん、持ってきましたから!まだまだあります!」
「と、いう訳です。出来れば、他の店の飢えてる子にも声をかけてあげてください」
さっと上に服を羽織った月下は、シオンが虚空から取り出して魔法で浮かせた、五つ子亭の料理の数々に目を疑った。仁が五つ子亭に事前注文した数は、約50人前。急遽他店のシェフも呼び寄せる大仕事となり、仁としては申し訳なかったが、甲斐はあった。
「オッケ……こりゃ久しぶりに私もお腹いっぱいになりそうだ!さ、こうしちゃいられない。料理が冷めない内に呼びに」
「月下さん!エリカが!エリカが……!またあいつらに!」
「っ!?どうしたってんだい!客人、あんたらは隠れてな!」
意気揚々と、月下が部屋を出ようとした瞬間だった。取り込み中だというのに断りもなく開け放たれたドアから、娼婦の一人が真っ青と赤の入り混じった顔を出す。何事かと月下は仁達を残して、先とは違う目的で部屋を出て行ったが、
「俺君、シオン。僕らも行こうか。あれは血だ」
「当然よ」
女性の顔についていた赤の正体が血ならば、只ならぬ事態だ。蓮が守ろうとした人々が血を流した事態に、じっとしていられる訳がない。
「うっ……はあっ……あああああああ……」
「エリカ!……ひどい。あんたら、これ軍に言ったらどうなると思ってんの?幾ら何でも、限度ってもんがあるわよ」
暗い廊下を逆戻りした仁が見たのは、腕を深く斬りつけられて呻くエリカと、彼女に駆け寄る月下。そして、血の付いた刃を振りかざす、明らかにカタギではない三人の男達。
「軍に言ったら、だって?知るかよ。愛しのあの大きな熊はもう死んでんだろ。とっとと上納品納めろって言ってんだ」
「あいにくこっちは最近、稼ぎが悪くてね。ろくに食べれてないんだ。渡せるものは何もないよ」
「別に上納品ならなんでもいいんだよ。例えば、女とかでも。ちょっと痩せてるけど、別に中身まではそんな変わらねえだろ?」
この街では本来ありえないはずの非合法の上納品の要請と、血を垂れ流すナイフ。どちらも軍にバレれば即刻で死刑が決まる故、そんな活動をする者はほぼ皆無だった。なのに、なぜ。
「今帰るなら、軍に黙っててやる。失せな」
「軍に黙っててやる、だぁ?もうすぐあんなのなくなるってのぉ!」
要求を突っ撥ね続ける月下に、三人は笑い転げる。軍がなくなるなど、どうしたらそう思うのか甚だ疑問ではある。だが、本当に信じているなら、彼らの無謀な行動に合点がいった。
「あの熊が死んでせいせいする!あいつが目を光らせていたせいで、俺らは肩身が狭かったからなぁ!」
そもそも、人間とは全員が全員善良である訳ではない。時にはこのように、他人の都合を考えられないような存在も発生する。そして中でも、自分の事しか考えられないような奴は、保身に長けている事が多い。大方、軍に目を付けられないように細々と活動して、粛清から逃れていたのだろう。
「そうだ!今日の上納品はお前にしてやるよ。奴のお気に入りだった女が、俺らに媚びて奴に泣いて謝るのが楽しみで楽しみでしょうがねえ」
勿論、表の街同様軍の目は光っているし、色街の事件に介入もできる。だが、この街は欲望の街。時に多くの人間が密かに徒党を組み、上手く立ち回る事で世に出ない犯罪もまた、多く生まれてしまう。蓮が、いなければ。
「どうする?このままあんたらの店を本格的にぶっ壊されるか、身体で支払うか!おっと!軍に頼ってもいいぜ?すぐになくなっちまうけどな!」
「…………これ以上他の娘に指一本触れないって約束するなら、好きにしな」
「おうおう!こりゃ、ご奉仕が楽しみだ」
それに、犯罪を犯した者が裁かれようと、起きた犯罪が無くなるわけではない。今のようにナイフや暴力を散らつかされれば、従わざるを得ない事もある。例え後でこの三人が裁かれようと、ここで断ってしまって消えた命は戻って来ないのだから。
(僕達を頼らないのは、僕達が色街にいる事が露見する事を避けたいから)
(さすが蓮さんの惚れた人だよ)
ただちょっと話して、飯を渡しただけの少年と少女なのに。頼れば、この場を切り抜けられるのに。切り抜けた先にある未来を見て、月下は仁達を頼ろうとはしなかった。
「ちょっと待ってくれないかい?代わりに僕がご奉仕するよ!誠心誠意真心込めて!」
「……は?」
「ちょっとあんたら!隠れてろって言ったじゃないか!」
「いやいや見捨てられる訳ないです。シオン、エリカさんの治癒を」
「さー!絶対に、治してみせるわ」
誰かが傷つかない為に。仁達の未来の為に。だから、身体と尊厳を捧げようとした月下を。仁はだからこそ、助けようと思った。
「んだてめぇ?舐めてんのか?」
「舐められたいんじゃないの?ああ!ごめん!僕の勘違いだ!君が地面を舐めたいのか!」
「は?何言ってふごぉっ!?」
珍しく本気でブチ切れた僕は、鳩尾にずむっと拳を埋め込ませ、宣言通り地面を舐めさせる。もしかしたら肋骨が折れたかもしれないが、先に女性に手を出したのは向こう側、それに、どちらにしろこいつらは縛り首だろう。
「こ、こいつ殺してやる!」
「ヤル気盛んなのは結構!今は人口めっちゃ減ってるからね!でも、女性が嫌がってるなら、諦めるのが男でしょ」
「ああああああああああ!?腕がっ!腕がっ!」
突き出されたナイフを半身で余裕でかわして、腕を掴んで下ろして、肘に膝蹴りを打ち込む。骨を砕いた嫌な感触が足の骨をじーんと伝わってきたが、良心の呵責はそれほど無かった。
「さぁて、最後は君だけど……嘘でしょ?」
「風穴空けてやるっ!死ねえ!」
あっさりと二人を地面にご奉仕させ、最後の一人と向かい合った仁は驚愕した。男の手に握られていたのは、なんと一般人が入試困難なはずの銃。しかも、この男は撃つ事に何の躊躇いもなかった。
(躱したら、後ろの人に……!)
(初心者がぶっ放せば、あらぬところに銃弾は飛んでく!)
当たらない可能性大より、当たる可能性小を重視した思考を即座に展開。跳弾や的外れの流れ弾にならない避け方を模索した結果、頭に衝撃。しかし、これは魔法発動の代償だ。
「俺君!三重!」
(今日は俺が耐える!やってやれ!)
「なっ!なんだそりゃ!?」
速度×3。掌の刻印から伸ばされた氷柱が銃口を天に向けさせ、無意味な銃声が空しく響いた。念の為にと後ろを振り返るが、誰にも当たっていない。
「魔法だよ」
「っ!?こいつら軍か!こんのクソアマ!」
「黙れよクソ以下。誰かの為に身を投げ出そうとした人がクソってんなら、お前はなんなんだい?」
懲りずに月下に殴りかかろうとした男に足をかけて転ばせ、背中に飛び乗って氷魔法で両脚と右手を、左手で左手を抑えつける。
「離せっ!」
「つれない事言うなよ。同じクソ以下同士、仲良くしようじゃないか。僕は君とお話がしたいんだ」
「ひっ…………な、なんだその顔!?ば、化け物!」
マスクを外して傷跡を晒し、右手で男の髪をつかんで顔を引っ張り上げて、臭い息に近づける。火傷で爛れ、刻印の代償で黒く死に絶え、氷と化しているその皮膚はもう、見る人全てに強い嫌悪感と恐怖を刻み込むもの。
「軍がなくなるって、どういう事だい?」
「そ、それは……!」
「おっと、そこまでにしてもらおうか!じゃねえとこいつを撃つぞ。確かこの店の店員だったよな!」
「……四人目がいたのか」
遠い、10mほど先の安全圏から耳に届いたダミ声に、仁はゆっくりと視線を向ける。外で客引きをしていた女性だろうか。言葉通り、口を抑えられた女性の頭に銃口が突きつけられており、言うなれば人質だ。
(シオンが物理障壁を張って特攻しても、分からない)
(人質を撃てば奴はもう破滅だ。だけど、撃たれてしまえば)
『限壊』を発動させれば、おそらく取り押さえられるだろう。それ以外で撃たれずに無力化する手段となると、いまいち思い浮かばない。実に嫌な距離だ。
(これは、使わざるを得ないか)
『限壊』の使用は、基本的に禁止だ。許されているのは、街を救う場合のみ。これは街の中のいざこざ。助けられるのは、たった一人の、はっきり言えば街にとって死んでも大して損にはならない、軽い命。柊や梨崎は、止めるだろう。
「でも、命は命なんだよ」
脳から指令が行き渡り、人間が行動に移るまでは0.8秒というのを、どこかで見た事がある。銃弾が脳をぶちまけるまでの時間をほぼ0と考えると、三重全て強化じゃないと間に合わない。脚はボロボロになるだろうが、だけど、やるしかない。
「救える命を救わないで、何が『勇者』だ」
「おら!そいつらを解放しろ!時間稼ぎのつもり…………ぬっお…………おお……おお……」
「え?」
かっこをつけて覚悟を決めて、魔法を発動しようとしたら、鐘の鳴るような音がして、男は白目を剥いて泡を吹いて地に倒れこんだ。何が起こったのか。その答えは、男の股座から振り上がり、中心に突き刺さった脚にある。
「おっかしいなー道に迷っちゃったらこんなところに来ちゃったなー……うわ。汚いもん触っちゃった。風呂入った時に100回くらい石鹸付けて洗おう」
「お、おかしいですね!そ、そしたらたまたま事件現場に出くわしてしまって、しかもたまたまそこにシオンさん達がデート中だなんて!」
「演技下手くそですか」
脚の主人はうええと汚物を踏んづけたような顔をしている環菜で、人質に取られた女性を解放しているのは楓だった。色街嫌いの環菜と、嫁入り前の楓がこんな所にたまたま来ている理由なんて一つしかなくて、仁は呆れた顔で全てを察する。
「兎にも角にも、助かりました」
(うわぁ……どうしようもないやつだったけど、さすがにこれは同情する)
気絶し、もしかしたら男として死んだかもしれない哀れな男から銃を取り上げ、一応頭を下げる。『限壊』を発動すれば、デートの時間は減っただろうから。
「いやぁ、それほどでも。んじゃま、残念だけどこいつらなんか色々と言ってたらしいし?こっちで預かっとく」
「ごゆっくり、楽しんできてください!」
前方からも後方からも、二人の声が聞こえてきた。シオンをチラ見すれば、環菜と楓の声がするスクロールを広げ、冷や汗をタラタラと流している。大方、『伝令』のスクロールでリアルタイム通信し、デートのアドバイスをしてもらっていたのだろう。結果的にそれのおかげで助かった形なので、何も言えなかったが。出来れば、三人だけのデートが良かったなんて、思ってなくもない。
「……あ、ありがとう。助かった……けど、これであんたら……」
「いいんです。俺個人としては、むしろこちらの方が。この街、蓮さんがいなくなってから、治安が悪化したりしてませんか?さっきも「また」って言ってましたし」
「……まぁ、酷くは、なった」
発砲した音を聞きつけて、それなりに人が寄ってきている。間違いなく、仁が色街にいる事は知れ渡ってしまっただろう。『勇者』が金で女を買っている、そんな噂が流れるかもしれない。だが、それでいい。
「蓮さんはこの街の顔で、抑止力でした。なら、蓮さんの代わりの俺は、同じく抑止力になります」
「そういう事。看板でもかけとくといいよ。『勇者』お気に入りのお店、乱暴者は僕らがやっつけるってね」
蓮がいなくなった事で色街の治安は悪化している。軍所属、顔が広く、人望も厚く、手を出せば本気で軍に粛清されてしまう蓮は、非常に厄介な抑止力だったに違いない。ならば、同じような知名度を誇る軍所属の仁が、代わりになるしかない。
「……本当に、ありがとう」
「感謝される筋合いは、そんなにないよ。僕らがいなければ、もっと強ければ、蓮さんは死なずに済んだ」
「月下さん、ご飯が冷めてしまいますよ。早く、他の店に知らせに行ってください」
頭を下げられても、何も嬉しくはない。心がまた痛むだけだ。善良なる市民達を特別を騙し、蓮や酔馬達に命を捨てさせて守らせた仁にとって、感謝は罵倒以上の刃物だ。
「怪我もバッチリ治療済み。少しだけ、跡が残っちゃうのは、ごめん……」
「いいって。その、さっきは酷い事言って、悪かった……感謝してる」
斬りつけられていたエリカも、どうやら無事だったようだ。見直した様子の彼女と喜んでいるシオンを見て、仁は僅かに顔を綻ばせた。
「貴方が守ろうとした者は、俺達が」
「僕達が守ってみせます」
気のせいには違いない。頭の中の幻聴が一瞬だけ消えて、熊の笑い声が響いた気がした。




