第92話 叶えたい夢
「いつから気づいてた?」
シオンの言葉に、綺麗な仁の顔が、彼の形をしていても彼ではないものへと変形した。
「ほとんど最初から。確信したのは倒れた時」
「偉く早いな。そして試練を超えたのは偉く遅い」
唇に手を当てて思い返し、いつから違和感を覚えたかを辿る。何故か、父親の事を精神が拒絶する程に嫌いだったし、母親の料理もまるで数えられる程しか食べていないように、とても新鮮で懐かしかった。なのに、彼らと一緒に食卓をいつものように囲んでいる。
「本来なら、その違和感さえ覚えないはずなんだがな。君の心に彼らは余程傷跡を残していったらしい」
やれやれと首を振った試練に、シオンは苦笑する。おかしいに決まっているのは現実での話。シオンが望んだ世界では、何もおかしい事ではない。なのに違和感を覚えたのは、心の一番深いところまで彼らが傷を残したからだ。
「きっと私が倒れたのは、許されなかったからだと思うの。こんな風に罪も嫌な事も何もかもを忘れて、ただ幸せに浸るだけの日々なんて、過ぎたものだった」
今なら分かる。こここそが、この世界こそが、シオンが一番望んでいた世界だ。何もかもか思い通りになる、理想郷だ。だが、痛む頬の傷と自分がこの世界に住まう事を許さなかった。
「気付いて何故、その場で試練を終了にしなかった?この世界に残るつもりはないのだろう?」
「ないけど、少しだけいたかったの。もう一度だけでいいから、お母さんのサンドイッチを食べたかった。もう一度だけでいいから、お父さんと家族の喧嘩をしたかった。二人ともう一度だけでいいから、家族になりたかった」
嬉しげに、しかし寂しそうにシオンは笑う。ここは現実では無い、ただの幻想の世界。永住が許されないなら、少しだけ滞在しようと考えたのだ。
「なら、もう数日いるといい。今ならこの少年ともいい雰囲気であるし、家族とももっと話せる。少しだけ明かすのなら、明日は仁も交えた朝ごはんや稽古が––」
「この世界と現実の世界で時間の流れが同じなら、これ以上は危険だから。それに、これ以上この世界にいる権利はきっと、私にはない」
「そうか。それは、残念だ」
どんな誘惑や甘言もシオンに意味は無いと悟った試練は、本当に残念そうに目を伏せる。この少女は麻薬じみた世界で良い味だけを吸って、すっぱりと辞めてしまった。どんな精神構造なのか理解も及ばない。
「やっぱり貴方、優しいのね。まるで仁みたい」
「え?」
「今の顔、特にそっくりだったわ」
楽しそうに笑いながら、人の弱さに巣食う試練たる自分を優しいと評した少女に、思わず顔を上げてまた笑われた。再度、試練はこの少女の頭の中がどうなっているのか分からなくなった。
「この世界は本当に幸せだと思うの。私の願った通りに、事が全て進む。何も不自由はなくて、自由で、普通」
「それは君が望んだからだ。自分はただそれを偽りの理想郷として見せただけ」
「でも、見せてくれたんでしょう?」
この世界は、本当にシオンの思うがまま。家族と普通に食卓を囲みたいと思えばそうなり、学校に行ってみたいという思いと、仁をもっと強くしたいという思いから、教師としての立場になった。仁の事を両親に紹介出来たらと望んでいたから、父は仕事を投げて帰宅した。美味しい母の料理を食べさせたかったから、彼はそう遠慮せずに了承した。そして、シオンがこの世界ではあの続きを聞きたくなかったから、仁は酒を一気に飲んで気絶した。
「今にして思えば、ちょっと無茶苦茶だったかな。仁はいきなりご飯に誘われたらもう少し遠慮するし、きっとお酒もあんな風には飲まないし」
仁は臆病で、慎重である。だがこの世界でシオンが望んだから、彼はその性格を歪めるような行動を取った。
「両親に関しては分からないけどね。ずっと冷たくされてばかりだったから」
性格が歪められたのは両親も同じだ。いつもは虐待ばかりの二人が、すっかり親バカになっていた。サルビアに至っては、シオンとプリムラの尻に敷かれて威厳も何もない始末。
「でも、だからこそ、この世界は綺麗で幸せでした」
だが、それこそがシオンの望みにして見たかったもの。叶えたいと思っていて、叶わないと知っている夢。仁にはもう少し甘えて欲しいし、両親は普通であって欲しかったから見た、ただの幻想。
「見せてくれて、ありがとう」
「礼を言われる筋合いなど無い。自分は試練を与え、君は合格した。それだけだ」
そんな素敵な世界を見せてくれた試練に、シオンは頭を下げて礼を述べた。一方の試練はその言葉を受け取らず、合格だと判定を下す。
「聞かせてくれ。君はなぜ、この世界から出ようと思った。許されないと言っていたが、この世界ならその後悔も忘れられるのに」
そして問う。罪悪感から帰ろうと思うのであれば、その心配は要らない。しかし、シオンはそのことを知っていながら、帰ろうとしているように見えた。
「私、欲張りなの。欲しいと思った物は全部欲しい。こっちの世界はその点、もう満たされてる」
傷一つ無かった身体に、数多の線が浮かび上がる。父と母からの拷問、度重なる戦いで負った醜い傷跡達だ。
「だったら、まだ欲しい物があるあっちの世界でも、満たされてやろうとは思わない?」
最後に顔の半分に浮かんだ火傷を隠す仮面をつけた少女は、子供のような残りの半分を見せる。
「私はみんなを守りたい。あの街を救いたい。仁を幸せにしてあげたい。たくさん、まだやり残した事があるの」
全てが叶ったこっちの世界とは違って、あっちの世界ではやりたい事だらけで、叶えたい夢だらけだ。どれも望むだけでは手に入らず、叶うかも分からないものばかりだけれど。
「こことは違って、まだ叶う望みのある夢だから」
叶わないとは限らないなら、追い続けられる。
「やはり理解出来んな。一番の理想がここにはあるのに、それを放って次善に走るとは」
すっと立ち上がった試練が腕を振り、この夢の世界の出口を作る。その向こうにあるのは、希望が見えたとはいえ未だ厳しく、悲しい世界。好きな人は自責で苦しみ、幸せを拒絶している。シオンに優しくしてくれた大事な人達に街の為にと嘘を吐き続け、時には彼らを失う事もある。両親はシオンを愛さず、むしろ殺そうと剣と魔法を振るう。
「……」
「「シオンッ!」」
しかし、この世界は優しい。出口の前で戸惑うシオンへとかけられた二人の声。振り向くとそこには、嫌いだったはずの両親の姿。もう止める気はないと言ったではないかと試練の方を向けば、彼も目を見開いて驚いていた。
「残ってはくれないのか?私達は、お前を愛せなかった。でも、この世界でなら……!」
「私達は、あなたの両親になれる。家族に、なれるのよ」
試練ではない。ならば一体何かと考えて、辞めた。どうせ答えなんて決まっている。ここがシオンの望む世界なら、これはシオンが望んだ事なのだろう。
「ありがとう。私も、そうなったらどれだけ嬉しかったかって、いつも思ってる」
「なら……!」
喉から手が出る程、いや、もっと渇望していたこの世界でなら、忌み子なんて無かったこの世界なら、サルビアとプリムラは普通の親として接する事が出来て、仁の仲間は誰も死ななかった。
「でも、ダメなの。あっちの世界はまだ悲しいから。悲しいのは嫌いだから、私が変えなくちゃ」
だが、ダメだ。それ以上に救いたい人達が、出来てしまった。自分だけが幸せに溺れる世界なんかより、みんなが幸せになれる世界をシオンは望むから。
「それにね。確かに、元の世界の二人は私を愛していなかった」
「……」
「でも、彼らが私を生かしてくれたの」
サルビアとプリムラはシオンを殺さずに、生かした。暗い欲望の捌け口とする為だったのだろうが、それでもあの日々が、今のシオンの強さの源になっている。
「斬り刻まれてて、魔法を撃ち込まれた分だけ、私は強くなった。そして今、この力で私は誰かを守る事が出来るの」
意図せぬ結果だったに違いない。彼らの必要以上の虐待が、シオンという化け物を創り上げ、騎士団に対抗する要となっている。早々に殺しておけば、こんな事にはならなかったはずなのだ。街を守る戦力なんてなくて、アコニツムの襲撃で日本人は絶滅したはずだった。
「その事だけは、感謝してる。この世界だったらきっと、ここまでの強さは得られなかったはずだから」
愛は無くとも、あの世界の父とも母とも呼べぬ両親で良かった事もある。この世界の強さではきっと、守れなかった。
「……行くんだな」
「うん」
父の問いに、精一杯の勇気を振り絞って応える。
「残る気は、ない?」
「ごめんなさい」
母の願いを、申し訳なさの隠せない声で断る。
「……いつの間にか、大人になっていたのだな」
「あの男の子のせいかしらね」
一番効果的であろう揺さぶりにすら耐えたシオンに、二人は親より好きな人を選んだ事に対するちょっぴりの皮肉を込めつつ、育てた事もない子の成長を喜んだ。
「うん。俺と僕がいなかったらきっと、私はあの森で死んでたし、この世界から抜けようって思う事もなかった。私だけの幸せを求めてたと思う」
皮肉の通りだ。仁がいたから、シオンはあの森の家から出る事が出来た。彼がいたから、シオンは命を落とさずに済んだ。一人ぼっちでは、なくなった。
「私はもう、ひとりじゃない。だから安心して。父さん。母さん……じゃ、もう行くから」
虐待されていたあの頃とはもう違うと、シオンは出口へと足を一歩踏み出す。とてもとても、勇気のいる一歩。世界が色を失い、音を立てて崩れていく。
「あ、言い忘れてた。最後にみんなでご飯食べられて本当に嬉しかったよ!」
今言わないと一生言えない。そんな気がしたシオンは最後にと振り向いて、遠のく両親へと叫ぶ。
「父さんもだ。身体には気をつけるんだぞ」
「私もよ。どうか、お幸せに、ね?」
帰って来たのは我が子を気遣い、幸せを願う親としての言葉。頑張って笑おうとしたのだろうけれど、彼らの顔は涙でぐちゃぐちゃだった。
「うん。行ってきます!」
まぁそれは、シオンも同じだったのだけれど。溢れる涙を拭いて前を向いて、そして、彼女は夢から目覚めた。
「本当に、強くなったな。もう私達の助けなんていらないくらいに」
「ええ。そうね。良い人も見つけたみたいだし、孫の顔が見れなかったのが、本当に心残りだけど」
両親は、シオンが見えなくなるまで手を振り続けた。いなくなってからサルビアは誇らしげに呟いて、プリムラは残念そうに肩をすくめる。
「全く、困るね。勝手に試練に干渉されては」
「ごめんなさい。どうしても、ね?」
「どちらにしろ、結果は変わらんかっただろう。あの子はもうそれ程までに、強い子だ」
仁の顔をした試練が、互いに支え合う二人を咎める。最後の親子の時間はイレギュラーそのもので、試練の結果が変わるのではないかとヒヤヒヤしていた。
「……確かにな。絶望を跳ね除ける程の欲望など聞いたこともない。さぞかし教育が良かったのだろう」
「痛い皮肉だ」
「頑張ったのよ?」
試練をかき乱した不届き者の傷口を抉るように痛烈な皮肉をぶつけるも、彼らは分かりきっていると馬耳東風だ。
「どうか、幸せになってくれシオン」
「私達では、出来なかったから」
分不相応にも、願う。親として接する事が出来なかった、娘の幸せを。
「おはよう。シオン」
「……ひっ!?おはよう!」
目が覚めて飛び込んできたのは、ベッドの隣の椅子に腰掛けている仁の姿だった。自分の頬に流れる熱い液体や、寝顔を見られた事は明白で、シオンは羞恥に頬を赤らめる。
「し、試練は?」
「始まって16時間くらい?多分、文句無しの合格だと思うよ」
「良かった」
誤魔化すように試練の合否を尋ね、返答に無い胸を撫で下ろす。仁一人だけで『魔神』と戦うなんて事になれば、彼がどんな無茶をするかわかったもんじゃな
い。何より、力になれないのは嫌だった。
「これで一緒に、戦えるね」
「……いや、そのだな。僕が、まだなんだ」
「え?」




