第89話 俺の見る世界
「これは大丈夫なのか?期間はどの程度になる?」
いきなり意識を失って倒れそうになった二人を、イヌマキが即座に創成したベッドで受け止める。急なことで驚いた柊がロロへと問うが、
「ん?身体に害は無い。期間はわからん。最短でもおよそ半日。一日以内に帰還すれば合格といったところか。二日間待っても帰還しないようなら、試練を強引に中断する」
「うわ。苦しそう」
光る本のページを捲り、仁とシオンの心の底が抱える絶望を彼らの閉じた瞼の裏に投影する。それらは全て、三人の心を壊しかねないような光景のはずだ。苦しい寝顔になるのも無理はない。
「『魔神』はこの方法で心を壊す。マリーや騎士達だったら、罪もない人々を虐殺し、迫害していた事実を突き付けるだけで十分に隙が出来るからな。そうでない人間でも、心に闇を抱えていない人間はいない」
「じゃ、この試練意味なくない?だって人にとって一番嫌で、見たら廃人になるようなもの見させられてるんでしょ?」
全人類が心に闇を抱えているのなら、この試練に意味はないだろうと梨崎は述べる。もちろん、彼女にだって闇はある。食用に殺した者達、救えなかった人達の絵を思い浮かべるだけで、背筋が震えてしまう。平和に生きていたあの頃ならまだしも、今の世の中でこの試練は厳し過ぎた。
「特に仁。あいつの過去は、余りにもこの試練と相性が悪い」
仁は大勢の人間を騙して見殺しにし、自分だけが生き残ろうとした過去がある。そこを突かれれば、不安定な彼の精神はどうなってしまうのか。膿が溢れ出すだけで済めば良い方だろう。
「それなりにいるのだ。深さにもよるが、己の心の闇と真正面から戦える人間が。別に勝てなくとも、封印された『魔神』ならば、拮抗できるだけでなんとか弾けるはずだ。昔はほとんど問答無用で憑依されたがな」
決して多くない数だが、彼らは封印さえ解けていなければ、『魔神』と対抗出来る。心に抱える闇=心を壊すというわけではない者達だ。
「クロユリさんも?」
「いや、彼女は無理だ。常に絶望していたからな。あの時代だと自ら憑依された『勇者』、悪魔になる前のイヌマキくらいか?数秒程度なら弾いていた」
永きを生きたロロでも、共通点は分からない。しかし、『勇者』足り得る資格を持つ者達は存在する。一番見たくない光景を見ても、立ち上がる力を持つ者達はいるのだ。
「君たちも、そうである事を願っている」
『勇者』になりたいと願った仁とシオンに、『魔神』は資格がある事を願った。
懐かしい。最近では、全く見なくなっていたあの校舎の夢だ。手に違う体温が触れていないから、今日は見えたのだろうか。
「調子はどう?元気してる?あのシオンって子とはどう?」
「……」
血塗れになった机に腰掛ける彼女の首は、折れ曲がっている。生前は可愛かった顔は腐って歪み、土気色で生気が感じられない。ただ、仁への怨嗟が蠢く瞳だけが、生きていた。
「物を食べれて、歩けて、呼吸が出来て、物を食べれて、笑えて、泣けて、好きな人がいて。幸せだね」
後ろのロッカーにはそれぞれクラスメイトの首が鞄代わりに詰め込まれていて、一斉に俺の人格を見つめていた。その視線に込められた感情の色は、妬みと恨みと怒りだ。
「見てよ。窓の外に教室の外。みーんな思ってる」
窓の外では魔物が人を喰らい、騎士が日本人を殺している。廊下に綺麗に並んでいるのは、仁が今まで刻印の嘘で見殺しにした街の人々だ。そこには、酔馬と蓮もいる。
「ずるくない?」
そして彼らは皆、死んでいた。死んで、自分の命を奪った仁が幸せそうに生きている事に、恨みを抱いていた。
「私達を殺しておいて?見捨てておいて?自分は幸せにのうのうと生きようだなんてさ?どうなの?」
俺は自責の念から、幸せを避けていた。不幸であろうとした。しかし、いつも隣にいる小さな少女はそれを許してくれない。彼女は無自覚ながらに、仁に過ぎた幸せを与えてしまっていた。
「俺は、最低だと思う」
仁は、そんな自らを最低だと思った。迎えるつもりのなかった死というものは、この世の中で最も理不尽で不幸なものと捉えているから。これから歩むはずだった幸せな人生を身勝手にも摘み取った人間が、幸せになっていいはずがないから。
「だよね?最低だよね?自覚してるんだよね?私達の屍の上にある幸せ、消えたほうがいいって思わない?」
ぱかん。西瓜を踏み潰すような感覚が、脚から伝わってきた。そこにあるのは、頭部の潰れた騎士の死体。仁が犯した罪の全てが、この世界にはあった。
「罪があるなら、罰を与えなきゃって思わない?命と同価値なのは、命だけだとは思わない?」
キスをするような距離まで近づいて、目の前の目が仁の目を覗き込んで、語る。彼女の手がするりと仁の頬を優しく、傷ついた肌を労わるように撫でて降りて行って、首元で止まった。
「ね、死んでよ。仁が私達に許される道は、それだけだよ?」
目には目を。歯に歯を。厳密に言えば復讐ではなく、罪を犯せば同じだけの罰が返ってくるという意味合いを持つ言葉だったはずだ。だがこの場合、俺にとって意味は変わらない。
「死には死を。平等になれる、仁への罰だよ」
復讐にしろ同じだけの罰にしろ、俺は死ぬべきだとこの世界の罪全員が思っていた。
「うん。そうだな。俺はきっと、死ぬべきなんだろうな」
そしてそれは、儚く笑った俺自身も例外ではなかった。
「……認めるんだ。じゃあ早く死んでよ」
「それは出来ない。俺はまだやる事がある」
一瞬意外そうな顔をした香花の催促に、俺は首を振る。思っていた上で、俺はまだ死ねなかった。死ぬ事を選んではいけないと思っていた。
「はあ?何言ってんの?とっとと死んでよ。どうせシオンだとか、あの街だとかを守りたいって思ってるんでしょ?」
「ああ。俺は、守らなきゃならない」
死ねない理由は、この街を守る為。大切な人を守れずに死ぬ事は、俺には出来なかった。
「そんなの、私達にとっては何の意味もないって分からない?わー!私を殺した人が『勇者』みたいに人を救ったよー!嬉しいなー!なんて思うと思う?償いになんて、ならないから」
だがそれは、香花達にとって何の償いにもなりしない。死んだ彼女達への唯一の償いとなる行いは、彼女達を生き返らせる事。ただ、それだけだ。仁が死ぬ事は罰やけじめであれど、彼女達にとって救いでも償いでも無い。現実的に望める最善が、仁の死なのだ。
「確かに香花たちに意味はないよ。でも、あると言ってくれた人がいるんだ」
廊下の外にいる蓮と酔馬、軍の兵士達は仁に希望を託して死んでいった。自殺して、彼らが命を賭して繋いだものを投げ捨てて逃げる事は許されない。
「くすくす。そうやって仁はまた、生きようとするね。理由があれば、気が楽だもんね。私の時もそうだった」
それを聞いた香花は、折れた首を揺らして声を潜めて笑う。あの時を思い出すように、俺の首に当てた手に少しすつ力を込めながら、彼女は俺という人間の性格を語る。
「私が裏切ったから、足手纏いを殺して生き永らえる大義ができたね。一度イザベラに裏切られたから、人が信じられないって、見殺しにして生き残る理由ができたね。誰かに託されたから、罰を受けずに生きる意味ができたね」
俺の性格は極めて臆病である。予測を重ねて何本も予防線を引き、仮に責められても大丈夫なようにありとあらゆる行いに大義名分を用意してから、平気で犯罪を犯す。要は免罪符さえあれば、何でもする人間なのだ。
「そうだよね。みーんな見殺しにして、私を殺して、知らない善人を見捨てて、誰かを守ろうとした騎士達を踏み潰して斬ってでも、仁は生きたいんだもんね。生きたがりだもんね。だからこそ、死んで欲し––」
「安心して香花。俺も、もうすぐそっちに行くから」
「……何言ってんの?」
おかしい。どれだけ傷口を抉っても、俺はずっと笑顔を崩さない。一切の動揺も絶望の様子も無く、ただ冷静に安定して何事も無い日常会話のように、言葉を返してくる。終いには、あれだけ生きたがっていた彼が、そう遠くないうちに自ら死を選ぶような発言までしてきた。
「本音を言うとね。俺は自分が嫌いで嫌いで堪らないんだ。いっそ殺してしまいたいくらいに」
「だったら今ここで死」
「だからダメなんだよ。俺にとっては、もう構わない事だから。自殺って自ら望んで殺すって書くだろ?」
生きようとして犯した罪、吐いた嘘はいつしか、仁から生きる気力を奪っていった。それは何故か。
「皆といるのが辛いんだ。皆、俺の事を英雄だって思っているから。一緒に生きるのが辛いんだ。皆、いい人過ぎるから」
大切な者達ができて、彼らが皆優しく、いい人だったから。仁のように己の為に人を殺す事をしない、人達だったから。そんな彼らと汚れた自分を比べて、仁はいつも心から膿を吹き出していた。
「こんな汚れた俺が、せめて彼らに出来る事は無いかって探してた。どうやったら、彼らを守った上で死ねるかを考えて、見つけたんだ」
俺にとって、俺の命はただの道具でしか無くなっていた。いつか立てた必ず生き残るという誓いは、必ず守るに上書きされていた。
「なに、それ……」
まるで、ちょうどいい死に場所を見つけた自殺志願者だと、香花の顔をした絶望は思わず首から手を離して飛び退いた。余りにも、理解できなかった。
「おかしいわ。貴方が一番見たくないトラウマを見せているはずなのに、なんで……」
そして、人が一番見たくない光景を見た時の反応とは程遠い仁を、恐れた。立ち向かうのではなく、逃げるわけでもなく、ただただ息をするように振舞っている。こんなパターンは初めてだった。でも、なんらおかしい事はない。
「人が呼吸を辛く感じると思う?」
この風景は俺が起きている間ずっと見て、聞いているものなのだから。
「嘘……貴方、どういう神経してんの?」
膿が出ていない訳ではない。最早膿が皮膚と同じなのだ。心に傷が付いていないわけではない。すでに粉々に砕け散っているのだ。絶望していない訳ではない。最初から仁は絶望しているのだ。
少年はずっと、己が犯した罪を責め続けていた。一番触れられたくない過去を自ら弄り、いつしかその行いは少年にとっては当たり前となり、日常になった。毎日している行いと同じものを見させられても、何ら意味はなかった。何もない空間に爆弾を落としても壊れるものがないように、0に何をかけても割っても0のままのように。少年は、自責で辿り着いた狂気によって、絶望を調伏した。
「香花、あの時はごめん。謝って許されるなんて思ってないけど、俺もそっちに行くから。君の望みは叶えられないけど、恨みは晴らしてみせるから」
「……」
この少年には何を言っても無駄だ。そう、香花の顔をした絶望は悟る。暖簾に腕押しなんてレベルの開き直りではない。もう、彼の心は揺るがない。
「みんなも、ごめん。本当はここにいる全員救いたかったけど、俺にその力はなくて、どうにも出来ない。でも、出来る限りの事はする」
時を戻す魔法も、死者を蘇らせる魔法も、この世にはないらしい。だから、香花達の願いを叶える事は出来ない。大切だった死者達に俺が出来るのは、恨み通りに死ぬだけ。
「でも、今生きている人達に俺は幸せになってもらいたい。贖罪だとかじゃなくて、これは俺が望んだ事でさ」
過去は決して変わらない。仁がクズで最低な事をして、人を殺した事はどう足掻こうが変わらない真実だ。しかし、未来は変えられる。今は守る事ができる。大切な生者達に俺が出来るのは、期待通りに救う事だけ。
「この心臓が動く意味も、止まる意味も見つけたんだ」
元は優しい少年だった。クラスメイトを全員救おうと戦って、どうしても無理で心を壊してしまった。続いた裏切りに傷ついて、人を信じれなくなって騙して、そしてそれを悔いて、歪んだ。自らを呪う人間も、助けようとしていた。例え助けられなくとも、少しでも誰かの為に生き、死のうとしていた。
「だから、俺はこの先に行くよ。俺以外の生きている人達に、平和な世界を見せる為に」
心にある闇で俺が止まる事はない。その闇こそが、彼の強さや願いの源なのだから。
「……私達はその世界に連れて行ってくれないんだ」
絶望の最後の悪足掻き。彼女達にとって、救われた世界に意味はない事を改めて、言葉のナイフで突き付ける。
「俺が言える事じゃないけど、俺は死ぬ程連れて行きたかったよ」
だがそれは、彼が何万回と繰り返した問いで、答えはもう決まっていた。どうしようも出来ない事だから諦めて、出来る範囲の事をするしかないのだ。
「何の解決にもなってないね」
「うん。だから俺は一生、死んだ後も香花達と向き合い続ける。きっと満足のいく答えは出せないけど、それでもずっと」
俺は、過去のトラウマに蹴りをつけて、解決して乗り越える事は出来なかった。だから、死んでも永遠に向き合い続ける事にした。許しは乞わず、悠久に責められる事を選んだ。
「本当はもっと怒りたかったし、恨みたかった」
「存分にしてくれ。正当な権利だ」
「……どうせ無駄なんだなと思ったら、もうする気なくなるよ」
てこでも動かない仁の心を前に、香花はもう匙を投げた。怒りも恨みも、ほとんど残っている。だがそれらをぶつけたところで、何もない。何も変わらないのだ。
「あのさ仁。次は、間違えたり、見捨てたりしたらダメだよ」
「……あれ?俺のいつもとは少し違うな」
と思った矢先、俺の心が大きく揺れる。いつもなら絶対に言われない一言が、最後についてきたから。
「今日は『試練』だからね。きっと、突破のご褒美か何かだよ」
「……ん。ありがとう。次はもう、絶対に間違えない」
これは想像以上に効いているのかもしれないと、絶望は思う。だが、最終的に意味はないだろう。少し揺れるだけだ。
「ねぇ、仁。私達もさ、今の仁達の隣にいる未来、あったかな」
幻想の世界が現実へと引き戻されていく中、香花は彼へ問う。あの日、忌み子なんてなくて、騎士達がクラスメイトに剣を向けなかったら。あの日、仁を食べようとなんてしなかったら。
「きっとあった。でも、そうならなかったんだ」
仁の答えは非情で残酷で、どうしようもない程に真実だった。
「…………だよね。待ってる」
分かりきった現実を前にして、香花はどうにもならない願いを抱えて涙を流す。時が戻れば。違う未来だったなら。何度も何度も、生者も死者も同じ未来を想像する。
「世界を救ってから、来て。それがせめて、私達の死んだ意味になるから」
「………分かった」
死が覆らないなら、死の意味そのものを覆す。香花達がいたから、彼女達を失ったからこそ、仁が世界を救えたのだと証明しろと、せめてもの何かを望ませてくれと、死者は仁を送り出す。
「廊下の外の熊みたいな人と弱気そうな人からも。お前なら出来るって」
「出来る出来ないじゃなくて、必ずやりきるよ。俺は、世界を救う『勇者』になってみせる」
絶望からの励ましに、仁は思わず苦笑して、自らを責めた。そうしてまた一つ、励まされて傷ついて、彼は強くなった。
この『試練』は仁が創り出した幻想に過ぎない。死者と話すなど、科学上ありえないのだから。
だが、『魔神』は言っていた。魂は、肉体が消滅した後も残ると。もしかしたら俺は、彼女達の魂の残留物と話していたのかもしれない。
しかし、幻想だろうが現実だろうが関係はない。仁の力になった事だけは、どっちであろうと変わらない。
「ただいま」
「なっ!?まだ、15分も経っていないぞ!」
以前と変わらぬ覚悟を以前よりも強くして、確かな現実へと俺は帰還。かかった時間は、わずか15分だった。




