第10話 異常と日常
香花を殺して迎えた初めての朝。あの狂ったような笑い以降、仁は比較的に落ち着いていた。
「はぁ」
狂ったような笑いと評したが、今の仁よりは、そちらの方がまだ正常かもしれなかった。
「疲れた」
あんな事があった後で、まるで遠足に来たが如く平静を保っているのだから。
「いやぁ、着いた着いた」
日が昇ってから三時間ほど歩き、ようやくたどり着いた街を貫く道路の上で、仁は立ち尽くしていた。
「前来た時は、こんなことになるなんて思わなかった」
「そりゃそうさ。あんなの予測出来た人間がいるわけがない。いたとしてもキチガイ扱いされるのがオチさ」
何度か見た覚えのある風景だった。親の車に乗ってこの街を通った数は、両手の指では数え切れないほどだろう。
「めちゃくちゃだよ」
懐かしいはずの場所には、見慣れた地獄が広がっていた。
やはり、ここも魔物の襲撃を受けたらしい。折れた標識、壊れた屋根。崩れた瓦礫。かろうじて原型を残す街並みに、塗りたくられた赤黒い血。至る所に転がる骸からは腐敗臭が漂っていた。見慣れたとは言え、嗅ぎ慣れていない臭いに仁は思わず鼻をつまむ。
「とりあえず食料だ。腹が減って仕方がない」
「ツナマヨが食べたいなぁ」
近くの誰もいないコンビニから消費期限の大丈夫な缶詰を選び、持ち出した。腹を壊して力が入らず、魔物に殺されましたなど話にならない。
「うん、美味い。本当に美味い。今までで一番美味しく感じる」
「あー!何日ぶりの食料だろね?」
ドアの鍵以外が閉まっていた家に入り、約三日ぶりの食料を口にする。空腹は最高のスパイスとは誰が言ったか。
「あの臭いの中で食べるのは、さすがにな」
この家は幸い窓が全部閉まっていたため、腐敗臭が漂っていない。これは非常にありがたいことだった。
ツナの缶詰を食べ終わり、律儀に手を合わせてごちそうさまを。することも特に無いので、何日ぶりのふかふかのベッドに横になり、考える。
「しばらくここに居座るか」
「そうだね。不思議と魔物がいないし、ベッドも気持ちいい」
この家は居心地がいい。どことなく自分の家に似ていた。扉や窓が全部閉まっているのを確認して、仁は久しぶりの安眠につく。
本当に仁は、おかしくなっていた。
十日ほど、この家を拠点にして滞在した。ここもオークや龍に襲われるかもしれない。そう考えた仁はコンビニやスーパーに何度も通い、かなりの量の保存食をバッグに詰めた。我慢すれば九日間は保つだろう。
「いやぁ、臭いが気になっていた頃なんだよねぇ。こんなものあるなんて、最高だよほんと」
他にあった大きな収穫といえば、風呂に入れない人用の身体を拭くシートを見つけたことだろう。かなり体臭が気になってきており、助かったどころの話ではないと大はしゃぎしたものだ。
後は紐を引くと音が鳴り響く防犯用ブザーと、ただのひもと釘と金槌。これも有用だ。用途は後ほど説明するとしよう。
「……他にいるものはないか?後で足りないってなったら話にならない」
「懐中電灯に乾電池。水に保存食。消毒液に絆創膏。毛布に着替えにシート。こんなもんじゃない?」
「いや、他に何かいらないか、もうちょい探そう」
臆病さ、ネガティヴ、そしてオークから奪った槍とコンパスが仁の武器だった。過剰とも言える備えが、彼をありとあらゆるケースから救う。
「よっこらしょっと」
年寄り臭い掛け声とともにいつものバッグを背負い、腰にはポーチ。右手に槍。今日の探索へと出かける。
「さて、行きますか」
これが仁の、ただ生きるための生活だった。
外へ出て、周りを警戒しながら仁は思い出す。この十日間で影色のもう一人の自分と話し合ったことを。
「僕は基本的に主導権は握らない。握るとしたら、君が許可した時だけか非常時だけさ」
僕と名乗る人格は、俺に主導権についてそう言った。僕は影であり、盾であると。
多重人格というのは、実に不思議な感覚だった。頭の中でスポットライトに照らされている場所があり、そこに常に自分が立っているような。
「ほら、交代してみよう」
一度試しにと、俺の人格から僕に主導権を渡してみたことがある。すると、頭の中の俺の人格はスポットライトの外へ。代わりに光で照らされたのが僕と名乗るもう一人の仁。二人で不思議だと笑い合った。
現実へと戻り、再び周囲を警戒する。今日の探索でオーク、いやゴブリンさえ見ていない。それ以前に、この十日間で魔物の影をほとんど見ていなかった。
「この街は平和でいいねぇ」
「逆に静かすぎるな」
呑気に笑う僕に対し、不気味なまでの静けさだと俺の人格は警戒する。まるで、津波の前に潮が引くような感じだと。
「君のその姿勢は、この世界で生きていくのに役立ちそう。警戒は怠らないようにしとかないとね。疲れそうだから代わりに僕が休んでおくよ」
「それ俺にだけ疲労蓄積してないか?休みも俺ら足して2で割るのか?」
 
「それはないと思う」
やたらからかってくる僕を睨んでいると、影色の身体の向こうに横たわる死体が目に付いた。何箇所も穴の空いた青色の服に、ところどころどす黒い血が付着している死体だ。
「警察か」
それは、槍に何度も刺し貫かれた警察官の死体だった。死体には見慣れている。だが、仁の目に映ったのは腰の部分に吊るされた、黒く鈍い輝きを放つ物の方。
「警察から泥棒なんてひどい皮肉だ」
死体に近寄り、手をあわせる。仏様から物を奪うのだ。死人に口無しと言えど、一応断りを入れておきたかった。
「ん、軽い?」
初めて触れる銃の感触。重い重いとよく言われており、仁も覚悟をして持ったのだが、思ったよりは軽い。そのまましばらく、手の中で初めて触った銃を弄りまわす。
「なんて言うんだっけ?えっとリボルバー?弾は外から見る限り五発?」
「ん?予備の弾なくない?」
先のことを考えて予備の弾を探してみたのだが、どこを探しても見つからない。どういうことかと悩む仁だが、結局分からなかった。
この時、仁が拾った銃は装填数5発。基本的に、引き金を引けば弾は出る式の銃だった。これは僥倖といえるだろう。
そして余談ではあるが、今の日本の警察は予備の弾丸の保持を許可していない。仁がいくら仏様を漁っても弾が出てこないのはこのためだ。
警棒ごと腰のホルスターを外し、自分の腰に巻きつける。ポーチを少し下げ、ホルスターを上に。
「黒と黒か」
「めちゃくちゃいい感じじゃないか!」
「おまえちょっとその、センスがアレだよな」
暗い黒のポーチに真っ黒のホルスター。僕の人格は大喜びであるが、俺の人格としては少し痛々しいと感じる色の組み合わせである。
「まあ、この際贅沢は言ってられない」
しかし、色にこだわって武器を手放す訳にもいかず。色については諦めて、食料漁りのためコンビニへ向かおうとした時だった。
「足音?多いな」
乱雑に踏み鳴らすような行進の音が、仁の耳に飛び込んで来た。ガラスが何かがふみ割れるような音や、金属を蹴っ飛ばしたカーンという軽い音も遅れてやってくる。
「生存者?」
「いや違うだろ。これは歩く豚だ」
時折混じる豚の鳴き声が、仁に正体を教えてくれた。彼らに見つからないよう、ドアの外れた空き家の中に入り、二階へと駆け上がってベランダへ。
窓を開け放ち、柵に身を乗り出して、オークの数を確認して、声が震えた。
「なんだこの軍隊」
畑と道路三本を挟んだ先に見えたのは、蠢めく茶色の毛並みと白い牙の波。どよどよと一歩一歩、似たような歩幅で進む様子は、まるで胎動している生き物のようだった。
「何匹いやがる……!下手したら校舎に攻めてきたゴブリンより多いぞ」
一匹どころの話ではない。少なくとも、数十匹、いや数百を越すであろうオークの大群の大行進。今まで魔物と出会わなかったのは、このせいだろうか。
「奴ら、一箇所に固まってたんだね」
群れから離れた数匹が家の中に押し入り、中から死体を引っ張ってくるのが見えた。すぐさま千切り、仲間と分け合って貪り尽くす。
「家の中に隠れるのは愚策だな」
「あんなのに囲まれて隠れんぼなんてぞっとしない。見つかったら死んじゃうよ」
見つかるのも時間の問題である。この家に、いやこの街に留まり続けるのは危険だ。
「まさか、こんなに早く用意が役に立つとは思わなかった。まだ不安な面はあるが」
「だね。僕も思わなかったよ。さ、慎重にいこうか。備えあれば憂い無しっていうけど、憂いは減っても消える事はないね」
今まで蓄えてきた食料や、武器になりそうな物などは全て身につけてある。本音を言えば、まだ欲しいものはあったのだが、さすがにあの軍勢の中に取りに行くのは不可能だ。
この街を捨てよう。仁はそう判断し、オークの群れから離れるように走り出した。運悪く、魔物と遭遇しないことを祈りながら。
街を捨ててから一日が経った。道路の標識を何度も確認しながら歩く二人は、確実に次の街へ向かっているはずなのだが。
「なんだこれ?道に木が?」
「いや、道が無くなってる?面白いね」
道路は途中で途切れ、その先は薄暗い森へと続いていた。明らかにおかしいその光景はまるで、道と森を強引に繋げられたかのようだ。
「これ美味しいかな」
「当たって死ぬとか笑えないし、当たって腹壊して肝心な時に力入らなかったってのも笑えないぞ」
「一周回って面白いけど、死にたくはないなぁ」
おかしいのは、森に生えている木もだ。見たこともないような形の木や、黄色い実を付けた果樹が天へと伸びており、植物に詳しくない仁でも異質だと感じる。こんな木が日本に自生しているなど聞いた事もない。
「どうしよ?引き返す?」
「戻ってもオークの群れが街に居座ってたら、死ぬよな」
「違う道にする?」
「もしオークの群れが街から出てて、出会ったら死ぬよな」
オークの群れが街を出ていたら、鉢合わせになる可能性がある。隠れる場所のない道路の上で見つかりでもしたら、そこで詰みだ。それにもし他の道路が同じように途切れていたのなら、それだけで食料と時間のロスになる。
「ならここで立ち止まって、様子を見るかい?」
「論外だ。食料が続かなくて死ねるし、もしこっちに追いつかれでもしたら死ぬ」
あれも死ぬ、これも死ぬ。我儘を言っているようではあるが、生死に関しては妥協してはならない。仁にとって危険度の大きい可能性を消していき、最後に残された道は、
「オークの進軍速度以上の速さで、森を突っ切るしかないね」
「それがいい。あの数のオークに追いつかれたら逃げきれない」
圧倒的なリーダーがいるなら別として、あれだけの大群を統率するのには時間がかかるはずだ。実際人間がそうなのだから。
もし統率が取れていたとしても、森の中なら視界が悪い。数匹くらいに見つかっても、逃げることもできる。
地面が硬いコンクリートから柔らかい土へと変わる。仁は少し早めのペースで森へ足を踏み入れた。
森の中に入って数時間。まだ陽は沈んでおらず、木々の隙間からオレンジ色に仁を照らしている。日没までニ時間もないだろう。
「そろそろ寝れる場所を探さないと……暗くなってからだと難しいよ?」
「分かってるって。今探してる」
なるべく平地で寝やすそうな場所を探し始める。寝るときに石があったり、地面が硬いと寝違えやすい。別に寝心地にこだわるわけではないが、寝違えて戦闘に支障を来したくはない。
「寝違えて動けなくて死ぬなん−−」
「しっ。なんか動いた」
ふと、視界の端に動く影が映った。音をできる限りたてないよう木の陰からその姿の正体を探り、
「オークだ。勝てるか?」
ブモと鼻を鳴らす豚の鳴き声が聞こえ、判明した正体に仁は舌を鳴らす。
「あんまし時間はないな。仕掛けは作るにしろ、寝てる間に襲われるのは避けたい」
「夜は動かないからって油断できないもんね。たまに起きてるやついるし」
残り時間と距離と先のことを考え、自分の中で相談する。そこまで遠くはなく、進めばすぐにぶつかる距離。ここら辺で野営をしようとしている身からすれば、あまりよろしくはない距離だ。
「……」
もう少し違うところをキャンプ地とするか。その案も悪くはない。が、日没までに動ける範囲で、オークからどれだけ離れられるかを考えたなら、躊躇わざるを得ない。
「かと言って戦うのも……いや、いけるか?」
腰にかかる黒い重みと正体を思い出し、手の中で構えた。ついさっき拾ったこの武器なら間違いなく、オークの硬い皮膚だって貫ける事だろう。
「試し撃ちだ」
弾は五発しかない。ここで一発撃ってしまうのは考えものだが、本当に危ない時に外してしまうくらいならば、軽く練習しておいた方が良いだろう。
「撃ったら脱臼とかよく聞くしね。感覚だけでも掴んどこうよ」
「……何も分からないな。引き金を引けばいいのか?」
引き金を引く、自分に銃口を向けない、仁が知る銃の撃ち方はこの程度だ。もしこれだけで撃てないなら、いざという時にぶっつけ本番で失敗して困っていたことだろう。
「これ、安全装置かかってるのか?本当に撃てるのか?」
他に何かないかと、銃を念入りにチェックする。安全装置らしき鍵穴を見つけたのだが、仁は鍵なんてものを持っていない。全身くまなく漁った警官の身体からも鍵は見つからなかった。
「僕に言われてもねぇ。物は試しだ。弾が出なかったら逃げればいいさ」
ダメで元々。引き金を引いてみないことには弾が出るか分からないと、仁は改めて撃つことを決めた。オークの姿を確認。狙いを10m程先のオークの頭に定めて、引き金に指をかけ、ゆっくりゆっくり引いていく。
「さすがに緊張する」
人生で初めて銃を撃つのだ。緊張しないわけがない。額の汗が流れ落ち、鼻の横を通って下へと落ちていく。喉が砂になってごくりと鳴って。震える指を力で抑え込み…
「……はっ……ふぅ……」
顔から離れた汗が、引き金の合図だった。
「っ!?」
轟音。耳が驚き、反動で腕が弾かれ、跳ね上がる。飛び出した弾丸はオークに吸い込まれるように進まず、オークの左の木に穴を開けた。
「は?」
「外した?」
考えるより早く、ただただ反射だけで木の陰に再び身を隠した。未だ反響の続く耳に、鼓動の音とばたつく足音が飛び込んできて、思考がうるさくてたまらない。
「こう、なるのかよっ!」
弾が出て当たるか、もしくは安全装置や手順違いで弾が出ないかと思っていたが、まさか弾が出ても当たらないとは思わなかった。だが今はそんな事より、
「見つかった……!」
痛む右手を無視し、銃を腰のホルスターに戻して槍に持ち帰える。左手にはコンパスを隠し持ち、オークの突進に備えた。
いつ死んでもいいよう、一生分を打ち切ろうとしているのか。そう錯覚するほどに心臓が大きく早く鳴り響き、考えをかき乱す。先手を取れなかったのは痛すぎて、何をどうしたらいいのか分からないくらいだった。
「……?」
しかし、いつまで経ってもどれだけ構えても、鼓動が大きくなっても、オークの足音が聞こえてこない。
「どういう、ことだ?」
まさかオークは隠れていて、仁が出てくるのを待っているのだろうか。
「…………」
五分は経過しただろう。緊張で仁の時間の感覚が正確ではないかもしれないが、相当な時間が経ったはず。
あれだけ大きかった心臓の鼓動は、150回前から緩やかになり、今では少し緊張しているといった程度まで落ち着いた。服を濡らした冷や汗も今は治り、代わりに濡れた布独特のひんやりした気持ち悪さが仁を襲っていた。パニックが収まるほど待った。だというのに、
「なんで、オークは攻撃してこない?」
警戒を続けたまま、そろりそろろと木の陰から顔を覗かせる。するとオークのいたはずの場所には何もなく、誰もいなかった。
「はぁ……音に驚いて、逃げたのかよ」
人生で最高に無駄に緊張した五分間だと脱力。最後に張り詰めていた緊張の糸も切れ、仁は地に膝をつける。しかし、すぐさま今の無防備さを考え、オークの油断させるための罠かと考え、
「あいつ、どんだけ慌ててたんだ?」
「僕らと同じか、下手したらそれ以上だね。漏らして転んで、これさえ演技なら食われても仕方ないよ」
オークの足跡周囲に点在する濡れた地面と、一際大きいな窪み、つまりオークの転んだ後を見て、仁は今度こそ安堵のため息をついた。
「無駄な時間だったのか?というよりこんな命中率なら、この銃だって無駄……」
「でもまぁ、遠くの的に当てるのは無理!ってのはわかったじゃないか!弾がないから練習できないけど」
「これはこけ脅し専用か。はぁ……良い武器になると思ったんだけどなぁ」
生き残ったことを喜んだ後、頭に思い描かれるのはせっかくの銃がまともに使えないという現実。今度は落胆のため息をつき、腰のホルスターを悲しい目で見つめる。
槍で貫けない相手でも、銃なら貫けるだろう。しかし当たらないなら、貫ける以前の問題だ。槍の方が何倍も役に立つ。
「とりあえず、寝床作らないとな」
「おうともさ。逃げたオークとは反対方向に少し歩こうか。念のため、ね」
「もちろん。最初からそのつもりだよ」
空はオレンジから青へと移ろう途中で、もう日が沈むまで時間がない。仁は荷物を担ぎ直し、早歩きでオークの足跡と真逆の方向を歩き出した。
「何作ってるのー?」
「警報機」
陽が沈み、懐中電灯と月明かりだけが手元を照らす夜。寝床を確保した仁はある準備に取り掛かっていた。
「え?なにそれ」
「ほら、見てろ」
買ってきた防犯ブザーの紐に違う紐を括り付ける。そして、紐の反対についている金属のリングに釘を打ち込み、木に固定。
「で、次はっと……あれ、上手くいかねえ」
「代わって代わって。ブザーから少し離れた木へ紐を結べばいいんだよね?」
「そうそう……おまえ、なんでそんな手先器用なの?」
「俺君が不器用すぎるだけだよっと。できた」
紐の片端はブザーの紐に、もう片端は木にぐるぐると巻きつける。計四つの防犯ブザーにこの準備を施し、仕掛けは完了だ。
出来上がったのは木に吊るされた防犯ブザー四つと、仁を中心とした膝の高さほどの歪な紐の四角形。紐は昼間なら目立つだろうが、夜になればほぼ見えない。
「これが鳴ったら非常事態ってことだ。さすがにこの音量なら起きれるだろ」
「なるほど!それにさっきみたいに魔物も逃げてくれるかもしれないしね」
夜寝ている間に魔物が仁に近づこうとすれば紐に引っかかる。すると紐が引っ張られ、防犯ブザーの紐も抜ける、という簡単なトラップだ。
「ひゃー。よく考えたもんだ!手際はともかく」
「うっ、うるせえな! 過信はダメだけどこれで多少はゆっくり寝れる。それは俺のおかげなんだぞ?」
「僕がいなけりゃ設置できなかったじゃん!まぁ考えたのは本当にすごいと思うけどさ」
設置の際の俺の不器用さに僕はやれやれと首を振る。だがそれでも、このアイディアは非常に有用だろう。
「やっぱり二人、いや二つの身体がいるな。見張りがいないとおちおち寝てられない」
ずっと寝ないで行動し続けるのには無理がある。かと言って熟睡すれば、魔物に寝首を掻かれるかもしれない。見張りがいる間は感じなかった不安要素だ。だから、擬似的な見張りを作らなければなかった。
「……誰かいれば良かったなんて、言う資格はないよな」
「ま、言うだけなら誰も咎めないよ。それに寝ることに関してはこれがあるから、ある程度は安心さ」
彼女を生かしていた場合の利点だけに後悔する。とはいえ、一度裏切った少女にもう一度見張りを頼もうなんて欠片も思わなかったが。
「今日はもう寝よう。疲れたんだ」
こうして、仁の森の中での新しい一日目の生活が終わった。
「おやすみ」
「おやすみ」
紐でできた四角形の中心で仁は毛布に包まり、2人揃って微睡みへと落ちていく。
きっと、仁のように街から森や山へと逃げ、生き延びた日本人はそれなりにいた。いなかったのは、異常なまでの卑屈さと臆病さ、そして運の良さを兼ね備えた者だった。
『僕』
桜義 仁が仲間の死から目を逸らす為に創り上げたもう一人の人格。元の人格の一人称が俺、新しい人格の一人称が僕であることから、僕と称される。
俺が真面目で融通が利かず、手先が不器用なのに対し、僕はおちゃらけており融通利きまくり、手先が器用とほぼ正反対に見える。しかしながら、やはり元の人間は一緒なんだなと思わせる面も。
多重人格ではあるが、形としては穏やかな共存である。主導権を奪い合うことは少なく、また奪ったとしても、もう片方の意識が落ちることは基本的にはない。基本的にないというのは、僕の人格には「強制的に俺の意識を奪い取る」能力が備わっているからである。これは、僕ではなく俺の深層心理が望んだことであり、余りにも辛い光景を見ないように、見せないようにする為のものである。
常に二人で一人であるが、一部の感覚を分け合ったりして色々と便利に応用している。
 




