『魔女の記録』第10話 慈愛の悪魔の黙示録
「あ、新しい人類?」
「そう。魔力はなく、嘘を吐かず、欲を持たず、人を憎まず、自然を壊さず、必要以上に動物や植物を殺さず。要は、人間が生きていく上で必要な罪以外は決して犯さない、そんな高性能で高尚な人間様だよ」
淡く光る卵の中身を受け止めきれず、よろめいた仁達へ、イヌマキは懇切丁寧に詳細を語る。確かに、どの世界も発展すれば、生きるのに必要のない便利や利益を求め、資源を湯水のように使い、殺し合う。それはまるで、自ら種を滅びへと突き進めているようにも見える、愚かな行いの繰り返しだろう。
「虐殺や略奪を繰り返す愚かなる人類と見るか、より良き生活を求めて進化する人類と見るか。自分と奴が道を違えた理由はそこにある」
しかしそれは、見方を変えれば進化である。発展した医療が多くの人を救い、科学や魔法が暮らしを豊かに変えて、人に自由な時間を与えた。湯水のように使われた資源も、全てが無駄になるわけではない。いつか、この進化が種の滅びから逃れる術になるかもしれない。
「何より、自分もクロユリもイヌマキも、耐えられんかった。今もなお必死に生きている世界中の人間全員が死に絶える事だけは、大多数の人間をこの手で殺してもと思う程にな」
「計画には選ばれた者以外の旧人類の一掃が含まれていてな?仮に『魔神』が勝っていたら、旧人類なんて数人も残っちゃいねえよ」
世界をたった一人で敵に回して、滅ぼす。常人なら荒唐無稽大ボラに尽きる妄言でも、最強であるべく創られた『魔神』ならば十分に可能だった。なにせ、死ぬ事などないのだから。
「何故、『魔神』はそんな大それた事をしようと?」
人類を一新するなどという、神にも等しき行為。『魔女』が何故、世界を敵に回したのかは大方理解できた。しかし、『魔神』の理由はまだ分からない。
「……自分が産まれた理由を知り、その通りに奴は生きていた。命令に従ってひたすらに戦いに明け暮れ、殺し続ける日々。だがある日、彼の世界の色は塗り替えられた」
自国が戦争に勝つ為に彼は造られ、使われた。唯一の完成体である彼が挙げた首は、数えきれるものではない。いくら殺しても永遠と蘇り、凶悪な系統外と魔法による死を戦場にばらまき続けた。
「自分も奴から聞いた範囲しか知らんが、とある女性に出逢ったらしい。兵器と恐れられる自分にも、負傷して降参した敵兵にも、貧民街の住民にも優しく接する強き女性に」
兵器だった彼に、心を宿した女性がいた。戦う事しかできなかった彼を支え、間違いを犯そうとしたならば、生物なら常に危機を感じる程の実力差を知った事かと本気で叱りつけるような、優しく強い女性が。
「そっからだよ。奴が兵器じゃなくて、人間になったのは。殺し続ける戦いから、救う戦いをし始めた。味方を守り、敵の首級を素早く討ち取り、最小限の被害で戦いを集結させていったのさ」
変わった彼の生き方に、彼女は僅かに喜んだ。僅かだったのは、彼が人を殺し続けている事は変わらないから。それでも、殺す為の戦いから救う為の戦いに変わった事は、大きな意味があった。
「すると彼には仲間が出来た。守られた恩義や、戦いでの勇姿に惹かれた者達だ。彼も、あの時代が最高だったと語っている……そして、その時代はそう長くは続かなかった」
変わった彼の生き方を国は許さず、酷く怯えた。彼が戦った戦場での敵兵の生存率はほぼ9割以上と馬鹿げており、なおかつその全員の助命を、彼が嘆願してきたからだ。元より、反乱分子の可能性がある人間をそんなに受け入れられる訳も無い。
「国の上層部はその助命を聞き入れず、大多数の人間を処刑した。彼に気づかれないよう巧妙に事故に見せかけたり、鉱山等の過酷な環境に放り込んでロクな食事も与えなかったり、最前線に立たせて後ろから矢の雨を降らせたり」
「けどまぁ、余りにも数が多すぎたんだな。いずれバレるのは時間の問題だった。でよぉ、バレたらだ。これからも国の為に働く事を対価に、助命を頼んだ彼はどう思う?」
「僕が彼なら、ブチ切れるだろうね」
この事実を知れば、彼は反旗を翻すかもしれない。そうなった時、虐殺を強いてきた自分達はどうなるのか。保身しか考えていない権力者は想像し、震えた。そして、保身に走った。
「その通り。だから、攻略は不可能に近い最強の不死者を言いなりにするという問題に、彼らは最適な答えを出した」
真正面から戦っても、搦め手を使っても、勝ち目はない。不意打ちも毒殺も暗殺も、死なない相手に意味はない。故に国は、死なない相手と戦う事を諦め、
「彼の仲間を人質にしたんだよ。不死者にとって一番大事な、不死じゃない仲間達の命を」
不意打ちも毒殺も暗殺も全てが通じる者達の命を、その手に握った。国の端々に監禁し、彼が少しでも反抗的な態度を見せれば、すぐさま処刑出来るように。
「いくら最強でも身体が一つしかないんじゃ、囚われた全員を同時に救う事なんて出来やしねえ。助けられるのは出来て一人だけ」
「だから彼は再び、殺す為の戦いに身を投じていった。言われるがままに、自分がかつて助けた者達の命さえ刈り取っていった」
やっている事は、前と何も変わらない。ただ、殺すだけ。変わったのは、彼が心を持ってしまったという事。兵器に宿ったはずの心は擦り切れて、壊れていった。
「それでも、彼の心は信じていた。自分が戦う限り、仲間は生きていられる。そして全ての戦いに勝利した暁には、解放してもらえるという書類まで作った約束を」
壊れかけた心を繋ぎ止められるのは、たった一つの希望のみ。そうして彼は戦い続け、信じ続け、終わる日を待ち続け。
「その日は、来なかった」
代わりに来たのは、偶然盗み聞いた国の上層部の焦った会話。そこで、彼は知る。
「人質はみんな、戦う彼を解放するために命を絶ちましたと。誰もが、己以外から一人を助けろと懇願して、死んでいきましたと」
善なる人間の尊さと、この世界での末路を。仲間達の、死を。
「最初に死んだのは、彼を人間にしてくれた女性。そこからみーんな自殺するのには、一年もかからなかった。国は彼にそれを五年間、ずっと隠していたのだよ」
悪しき人間の救えなさと、この世界の本質を。人間という存在の醜さを。そして、心と強さを繋ぎ止めていたたった一つの鎖が千切れた彼は、
「『魔神』になった」
人を殺した己の手を憎み、人を殺させる腐った人間を憎み、大切な者を奪い去ったクズどもを憎み、大切な人を守れなかった己を憎み、彼は人間という、醜い存在そのものを憎んだ。系統外で狂わない完成体の彼は、人の心で狂い堕ちた。
「彼は、こう言っていたよ」
『なぜ、悪しき者が利を得て腹を肥やし、幸せなのだ?なぜ、善なる者が損をして痩せ細り、不幸なのだ?善なる人間が幸せになれない世界など、滅んでしまえばいい。そして、私が創る。今度こそ、善なる者が幸せになれる、善なる者しかいない世界を』
「そんなの、暴論すぎないかしら……?」
「暴論でも論は論だ。少なくとも、狂った彼にはそう見えてしまった」
彼が得た真理は、完全には程遠いがある種的を射ているもの。彼がそれを完全だと思ってしまえば、それは彼の中では真理たり得る。実際この世の中、真面目な人間の方が損をする事は多々ある事だ。
「手始めに『魔神』は、己の国をたった一人で滅ぼしにかかった。守る仲間に縛られていた時とは違い、『魔神』を縛る鎖は何もない。惨殺した仇の血を浴びて笑い狂い、適当に埋められた仲間の墓を新しく建て直すのに、時間はかかれど手間はかからなかった」
『魔神』は、人間という存在そのものを憎んでしまった。人の誰しもが少なからず持つ悪意の部分を、許せなくなってしまった。ごく稀に存在する、その悪意が限りなく0に近い仲間達のような者以外が息をしている事が、許せなかった。
「そ、そんなの……!みんながみんな、そうだって限らないのに!」
「その通り。だが『魔神』はもう、仲間以外の人間が信じられなくなっていたんだろうな」
そこから始まったのは、己が掲げた理想の為に、虐殺を永遠と繰り返す日々。かつて自分が産まれた場所の機能と人材を脅して使い、新たな人類の開発を進める傍らで、旧人類を絶滅に追い込んでいく。
「俺もその人材の一人だったけどな?さすがにこれは許容出来なかった。家族を人質に取られていて仕方なく従っていたが、どうせ『魔神』の目的が完遂されれば俺の家族は死ぬ」
「だからこの男は、『魔神』に反逆したのだ。人の身で勝てぬのならと、自らが携わった『魔神計画』によって人を辞めてな」
人を辞めたと笑うめんこい犬に、いまいち信憑性に欠けるなと思いつつ、一同はようやく見えた扉めがけて突き進む。
「どうやって勝ったの?相手は不死で、身体を幾らでも取り替えられるんでしょ?」
勝算もないまま反逆する程、目の前のイヌマキは馬鹿には見えない。不死身にして最強たる『魔神』を如何にして倒したのかと、梨崎が問い掛ける。
「例え不死であっても、無敵ってわけじゃねぇ。半径1km以内の心に深い闇を抱えた人間って条件じゃねえと、『魔神』は取り付けても憑依出来ないのさ」
「取り付くと憑依って、どこが違うんですか?」
『魔神計画』に嫌々ながらも参加していたイヌマキは、『魔神』の性能を把握していた。下手すれば、彼本人よりも。
「取り憑くてのは、ただそこにいるだけだ。要は同居人。一方の憑依は完全に支配している状態。要は細胞から人間を辞めれば、奴は俺を支配出来ねえ。1km以内に人がいない状況で勝てば、そこで終わりになる訳だ」
「よく、勝てましたね」
「まぁ色々とズルしたってのと、『魔神』が俺に憑依しようとするって確信があった」
「確信?」
魔神になる事で馬鹿げた力を得たイヌマキは、本物の『魔神』と戦い、数多の策を講じる事でなんとか勝利した。当然、彼はイヌマキに憑依しようとするも弾かれてしまう。
「奴は憑依した際、身体の支配権だけじゃなく魔法と魔力、系統外を奪うんだ。だから奴は俺に勝てないと悟ったなら、俺の系統外を奪おうと必ず憑依してくるって踏んでな?いやぁ、あの時の驚きっぷりは最高だった」
憑依しようとしても出来ない事実に、『魔神』はイヌマキの真の狙いを悟る。しかし、時は既に遅し。
「着いた。まぁなんで俺がこんな犬っころの格好してるかって言うと」
扉にお手をした悪魔が、砂となって崩れ落ちる。代わりに視界に飛び込んできたのは、開いた扉の向こう側で一際存在感を放つ、透明で液体が入った巨大な試験管。
「俺は外の空気に長時間触れると、身体が崩れるんだよ。そして『魔神』に言ってやったさ。俺と共に死ねってな」
胸より下を全て鎖で覆われ、気だるそうに水槽の中で腕を組んでいた男の唇が、頭の中に流れ込んできた言葉の形に動いていた。
「……え、あの犬が?」
「そう。あの犬だ。どうだ?惚れ惚れするだろ?……ああ、鎖の部分はもう崩れかけてて、見せられるもんじゃねえから」
恐ろしいとさえ、感じる美貌だった。同性である仁でさえ、均整が取れている顔から思わず目が離せない。水槽の中でふわふわと軽く浮く金髪も、慈愛とも嘲笑とも取れるような不思議な笑いも、掘りの深い顔立ちも、全てが悪魔めいた美しさを放っている。
「ま、俺は人間の頃の顔立ちを好きって言ってもらった方が嬉しいが……個人的な話はさておき、話を戻そう。俺の力を奪おうと身体に取り付いた『魔神』と道連れってのが作戦だったんだが、一つ誤算が生じた」
「誤算?」
「『魔神』の野郎、俺の身体を今まで奪ってきたありとあらゆる系統外で保護しやがったんだよ。外気に触れないようにしたり、再生させたりってな」
爆弾の配線を切られてしまったなら、自爆は出来ない。憑依していなければ系統外を使えないと思っていたイヌマキは逆に驚き、続く破壊と再生に精神がおかしくなりそうだったと語る。
「だったらこっちもやってやらぁと、『魔神』がせっせと身体の維持で抵抗できねえのを良い事に、封印を俺ごと施してやったのよ。それ以来、ずっとここに住んでる」
己の身体にもう動けない封印を施す事で、『魔神』を完全に封じたとイヌマキは思っていた。あくまで、思っていたのだ。
「しくったのは、『魔神』が己の予備を密かにこの研究所に用意していた事に、俺が気付けなかったって事だ」
あり得ないと思い込んで可能性を捨て置くのは愚かだと、狡猾で魂を操る『魔神』は手を打っていた。植物状態にある失敗作の中に、魂を分け与えた己のスペアを紛れ込ませていたのだ。イヌマキが気付けなかったのは、予備が目覚めるまでに何の兆候もなかったから。
「植物状態の失敗作が目覚めるのは稀だ。少なくとも自力じゃ無理って話で、それは『魔神』の予備も例外じゃねえ」
「しかし、賭けたのだな。何千年後になるかもしれないが、それでも何らかの衝撃で目が醒める事を」
勝つ可能性は100ではない。しかし、0ではない。『魔神』は永遠と眠り続けて待ち続けてそして、その時は訪れた。
「『魔女』の莫大な魔力が、『魔神』を起こしてしまったのだよ」
『新人類』
『魔神』が掲げた理想の世界の住人。狩りは知っているが、争いは知らない。優しさは知っているが、怒りを知らない。愛を知っているが、憎しみは知らない。笑いを知っているが、嘘は知らない。進化を知っているが、欲は知らない。癒すことは知っているが、傷つけることは知らない。美は知っているが、醜さは知らない。強さを知ってはいるが、弱さは知らない。
今存在する人間から悪の部分や殺し合いの部分を削ぎ落とされ、不老不死を得た、まさに人類の一つの終着点ともいえる存在。ロロの系統外を応用されている。
生活のレベルは今と比べて大幅に落ちるが、そこから進歩することはなく、資源を使い潰すことも自ら星を殺すこともない。死なないから絶滅することもない。星の最後を見届けられる、人類。
彼らの住む街はきっと、誰もが助け合い、誰もが笑う最高の街になるだろう。平和な世界になるだろう。きっと、今よりずっと悲しみの少ない世界になるだろう。優しい人や真面目な人が、損をしない世界になるだろう。
そこはきっと、誰もが思い描いて現実世界の実現を諦めた、悲劇無き楽園となるだろう、




