『魔女の記録』第4話 神話
「ああっ、もう……」
「間に合わんか」
壁の上の兵士の動揺や声で、クロユリは全てを理解した。この小さな地震のような振動は全て、魔物達の足音だ。
「街中の衛兵をここと東門にかき集めろ!防壁を利用して出来る限り時間を稼ぐ!一人でも多くを逃せ!」
迫り来る大群に、ミラトは即座に出来うる限りの指示を飛ばしている。だが、分かっていた。ここの南門は間違いなく食い破られる。東門から今もなお避難している人達、この街だって余すことなく、食い尽くされる。
「命令を追加する。南門と東門へ向かう際、街に火を放て。どれだけ効果があるかは分からんが、牽制にはなるはずだ」
少数でも希望を繋ぐ為に、彼は情を捨てる。兵士達には命を、民達にはかけがえのないこの地を捨てさせる事を強いた。神獣の奪還に成功した魔物達は、大事な家を薪にした火を前に怯えて帰ってくれるかもしれない。そんな淡く儚い期待を抱きながら。
「……」
「よせ。貴様の魔力が膨大でも、あの数はどうにもならん。ざっと万は軽く超える大群だぞ」
上から『暗視』で魔物を見てきたロロが、街を燃やすと聞いて動こうとした女性を制する。確かに、クロユリの魔力は莫大でさえ足りないほどではある。それこそちゃんとした魔法の使い方をすれば、瞬時に森の半分を消し飛ばせるかもしれないくらいに。
だが、眼前に迫る魔物の数は森数個分はあるだろう。何せ最後尾が見える気配はなく、最前列だけで万に近い。一体、本当の数は何匹なのか。長生きのロロでさえ見当もつかなかった。
「仮に使うならここは衛兵に任せ、避難の際にもっと効果的な地形や場面で使え」
故に、ロロは住民を避難させる際の時間稼ぎ、もしくは突破口としてのクロユリの使用を提案する。こんな開けた所で適当に撃ち、空いた穴をすぐに他の魔物に補充されるよりは、もう少し効果的な場所があるだろう。
「それに使わないで済むのなら、そちらの方が良いだろう」
「……」
それともう一つ。彼女の魔法の行使による代償を、彼は気にしていた。クロユリはロロの言葉を聞いて俯き、感情を堪えるように震えている。
「すまない。お礼と思って同行を許可したが、結果的に恩を仇で返してしまった。護衛を何人かつけるが」
「いやいや。なんなら自分は捨ててもらって構わん。しかし、この女は死守した方がいい。場合によっては戦況を逆転させる」
指示を出し終え、装備を整えたミラトが頭を下げる。切れた言葉の続きを察したロロは手を振り、クロユリを指差した。
「身のこなしは普通に思えますが、失礼。魔力を拝け……なんだ、これ……!?」
クロユリは一見、非戦闘員にしか見えない。例に漏れず彼も疑問符を浮かべるが、魔力眼に切り替えた途端に表情を大きく歪ませる。無理もない。あり得ないと思われた事が、目の前にあり得たのだから。
「そういう事だ。だが代償も大きいが故、使わざるを得ない時のみ彼女に頼め」
それでも、あり得ない事があり得ても、使いどころを誤れば勝てないという事が、この戦況がどれだけ悲惨なものかを示していた。
「街を燃やす命令を中止してください。早く」
「……は?いや、だから何を言っている?いくら膨大な魔力を見に宿していようと、あれは無理だ。魔力限界を超える魔力量が必要なんだぞ!?」
この場全ての魔物を殺す魔法は、おそらく未だない。例えば、魔力によって強引に範囲を拡大するとしよう。しかしその要求魔力は、人がその身に宿せる魔力量を遥かに上回る。
そして魔力限界を超えた人間もまた、存在しない。魔力限界を超えるまでに圧縮された魔力は、大爆発を引き起こすのだから。
「そうね。私の今の魔力なら無理ね」
つまりそれは、まだ爆発していないクロユリの魔力量では無理だという事だ。本人もそれくらい分かっていた。
「でも、私ならきっとなんとかできる。物は試しに、賭けてくれないかしら?」
「おい!待たんか!無理だと言っている!」
「待たない。だって無理じゃないから」
彼女は分かっていた上で、止めようとしたロロを振り切って防壁を登っていく。
「確かにだ!広範囲を殺し尽くす力を見せた上で神獣を返せば、怯えた彼らも逃げてくれるかもしれませんが!貴方には避難した民にとっての切り札として!」
クロユリのやろうとしている事が、全ての魔力を使い果たしての威嚇だと考えたミラトも引き留めようとする。仮にその威嚇の効果がなかった時が、余りにも致命的すぎるから。
「違うわよ。もっと単純。突破口だとか、追い詰められた時の悪足搔きなんかよりずっと、効果的」
「籠城か?その魔力量なら数日はもつかもしれんが、その間も永遠と魔物が押し寄せ続けるぞ!」
森の半分を消し飛ばせる魔力を、森半分よりは小さい街を覆う防壁を創る為に使う。悪くはない。が、しかしたま。魔力が無くなって壁を崩された時に広がるのは、遅れて合流した魔物達が街を取り囲む滅びの光景だろう。そこまでの未来を予測したロロはクロユリの手を握り、振り向かせる。
「だから違うって言ってるでしょ。もっと簡単。シンプルに考えて。あいつらにこの街を攻撃させないには、どうしたらいいのかを」
「ど、どうするのだ?」
「分からない?全てのを魔物を私が焼き払う。シンプルイズベストよ」
逆に彼女にぐいっと腕を掴まれ、ロロはまるでダンスのポーズのような体勢まで引き寄せられ、目の前の唇は荒唐無稽なホラを吹く。
「何を言っているのか分からんし、お前こそ分からんのか!魔力が足らないと!」
「でも、できる。お願い。信じて」
しかし息が触れ合うような距離で見た、逸らすことのできない目は、本気だった。彼女以外の誰もがホラだと思っていても、彼女だけは本気で、自分の力を信じていた。
「お前、震えて」
「安心して。失敗は疑ってない。ただ、怖いだけ」
触れ合うような距離にいたロロだから気づいた、クロユリの潤んだ瞳と震える身体。その真剣な目で僅かに揺らいだ感情の中の彼女は、救いを求めていた。
「……貴方達といた時間は、一人の時より楽しかったわ。何も覚えてなくて、途方に暮れて、ただ呆然と彷徨っている時なんかより、ずっと。全部を忘れてるって事を、忘れられたみたいだった」
「……」
彼女が震えていたのは、悩んでいたのは、出来るかどうかなんかじゃなかった。自分の記憶が無くなってしまう事を、彼女は悩んでいた。
「でも、だからこそ守りたい。記憶に残っていても、現実の人達が死んだら意味なんて無いわ。いつか守った事も失った事も忘れてしまう私だけど、貴方達を守れたり、失った事実は変わらないもの」
ロロが死なない事をクロユリは知らない。いや、関係ないか。どちらにしろ、ミラトやこの街の人達は死んでしまう。どうせこの先、魔法を使わずに生きて行くなんてこと、道端で魔物に食われかけてる見知らぬ不審者を助けてしまうような性格の彼女が、出来るわけなんてないのだ。
「遅かれ早かれだから。きっと、前の私もそう思いながら、魔法を使ったんだろうなぁ」
どうせ後に消えてしまう記憶なら、今誰かを守って消えた方がいい。記憶が消えても性格が変わらない彼女はずっと、そうやって誰かの為に自分の記憶を消し続けてきた。それは、ロロを助けた時も同じだった。
「今の私はきっと、今までの私より忘れたくないって思ってる自信があるわ。そして、それと同じくらい守りたいとも思ってる」
忘れたくない記憶をくれた者達だからこそ、忘れてでも助けようとする。通りすがりの見ず知らずだろうと、見捨てておけない。それが、クロユリという名前の人間だった。
「時間がないから、もうやるね」
「待て!」
壁上への階段を一気に駆けあがろうとした彼女の腕を、ロロがもう一度掴んだ。
「待たない。離して」
「違う!自分も手伝うと言っているのだ!」
「一体何を……きゃっ!?」
決意が緩ませる行動に怒ったのか、クロユリは涙目で睨みつける。だが、そうではないと首を振ったロロは腕を離して、今度は震える柔らかな掌をぎゅっと握った。
「こ、こんな時にもせ、セクハラ!?」
「何かは知らんがおそらく違う!クロユリ。君の魔法の使い方は非常に拙く、効率が悪い。そこでだ。『記録者』たる自分が、最も効率の良い魔法の使い方を伝授してやる。それとあとでせくはらの意味を教えろ!約束だ!」
「あ、ありがと……お、教えない方がいい気がする……」
自分で服を破こうとしたのに、手を握っただけで頬を染めるとは一体。そう内心では思いつつも、ロロは手伝い方を説明。セクハラが何かは気になるが、それは後だ。
「ここで撃っては街に被害出る。飛ぶぞ!お前の魔力量なら簡単だ!3、2」
「わ、私そんな魔法知らな……」
「1、そらっ!」
「なに、これ……」
カウントが0になった瞬間、クロユリの頭へと無数の数字や見たことがない文字の羅列が流れ込む。ほんの少し後に、身体が宙に浮いているという認識も遅れてやってきた。
「嘘、飛んでる……?」
「浮遊魔法だ!ふふっ、何気に自分も空を飛ぶのは初体験だが、これはなかなか悪くない!」
それは、繋がれた手を通じて伝わる温もり以外の情報。ロロが今まで記し、己の記憶へと刻み込んだ最も魔力の効率が良い魔法。それをクロユリの意識に魔法陣のように刻む事で、彼女の魔力を使って発動させているのだ。
「……うん。すごい」
「「暗視』の使い方も教えてあるからな!抜かりはない」
眼下に広がるのは森かと見紛う程に蠢く魔物と、小さくなっていくミラトや街。夜の月はどれだけ近づいても近づけず、ただ地との距離が広がるのみ。
「ありがとう。もう、いいわ」
「……承知した。では、発動する」
だが、楽しい時間は永遠には続かない。元より急を要する事態で、目的地に着くまでが自由時間だったのだ。その場所に着いたのなら、後は魔物達を殺す作業が始まる。
『黒き魔女。夜の闇を裂いて天へと駆け上がり』
「ごめんなさいね。貴方達はきっと、あの子を取り返しに来ただけなのに」
ロロが彼女の魔力量で最大効率の虐殺を行える魔法、範囲、出力を演算している最中、『魔女』はこれから身勝手に理不尽な死を贈る者達へと、謝罪を述べる。
『死に行く者達へと、身勝手な言葉を贈る』
「けど、私達も譲れないの。だから、ごめんなさい」
「……森という地形を考えれば、これがいいか」
状況を考えてロロが導き出したのは、火の魔法。弾け飛ぶ、爆発する、追尾するなどの特殊な効果は一切なく、ただ地に落ちて燃やす事だけに特化した、初歩的な火球。クロユリの魔力量で爆発などさせたらどうなるかが、予測できなかったのだ。範囲は木々に燃え移らす事で広ければいいと、思っていた。
「さぁ!火加減無用だ!ありったけの魔力をぶち込むがいい!」
「ん」
だが、シンプルで十分だ。クロユリの魔力なら、初歩的な火球魔法でさえ、
『魔女、未だ明けぬ夜天の空を照らす、早き太陽を創り出す』
太陽と、化すのだから。
「なんだ、あれ……?」
『生きとし生けるもの、全てが空を見上げて恐怖した』
壁の上から矢を番えたミラト達衛兵が、パニックに陥りそうになっていた民達が、それを抑えようと必死に声を張り上げた領主が、神獣を奪った憎き人間を喰い殺さんと息巻いていた魔物達が、全てを忘れ、本能的な恐怖に背筋を震わせた。
「着地点を誘導する。自分に合わせろ」
「うん。分かってる」
一体どれだけの魔力を込めれば、あれだけ巨大になるのか。落ちれば、一体どれだけの範囲を巻き込むのか。理解の範疇を超えている。せっかちな太陽に照らされた者達は、虚とした何の意味もない思考を巡らせる事しか出来なかった。
『抗う術はなく、祈る事しか出来ない』
だってもう今更逃げようとしても、緩やかに落ち始めた太陽の意思には抗えない事を本能が知っていたから。ここから攻撃しようにも、あの高度には届かない。ただ、反撃さえ許されぬ蹂躙の範囲に自らがいない事を、祈るのみ。
『落ちた太陽は大地を大きく揺るがし、触れた存在全てを溶かしつくした。生きた証でもあり、死んだ証でもある灰さえ残さず、全てを』
落ちた際の影響は、魔物達の足音なんかの比ではない。それこそ地震かと思うほどの振動と、暴風に近い衝撃波が街を襲った。その大部分は防壁によって削られたが、街の建物の屋根はいくつか吹き飛んだ。
「……世界の終わりか何かかこれ」
範囲の外にあった街はマシだ。直撃した範囲はただ穴が空いているだけで、何もない。魔物なんて生きているわけもない。近かった箇所の木は衝撃で根こそぎ吹っ飛び、熱によって火がつき、燃え出していた。
「さて、これだけやってもまだ全部は殺し切れていない。手はあるのかな?」
たった一撃で森の七割を消し飛ばしたが、それでも全てを仕留めきれていない。熱された大地やその光景を生み出した者に怯んではいるが、追撃がないと知ればいずれ動き出すだろう。
「見ての通り、奴らは殺すまで止まらん。これは聖戦なのだ……嘘だろう?」
予想通り、空いた穴を埋めようと再び蠢き出した魔物達。ロロは隣の顔を見て判断を仰ごうとして、驚愕した。
「魔力が、ほとんど減っていない……?いや、こんな短期間で回復するわけが!?」
クロユリの魔力はほとんど減っておらず、以前と変わらず視界を埋め尽くす程の光を放っていた。
「私の能力は、殺した生物の魔力を奪い取るの。殺せば殺す分だけ、魔力の回復上限も増える。ううん。それだけじゃない。恨まれれば、憎まれれば、恐れられれば、もっと魔力は増えていくわ」
それは彼女が持つ系統外、『魔女』によるもの。確かに、クロユリは先の太陽で一度魔力を使い切った。が、その後死んだ魔物達の魔力を奪い、怯えた人や魔物達の数だけ魔力が増えた。使う前と今の魔力量にほぼ差はない。もう一度、太陽を落とせる。
「……私が今まで何したのかは分からないけど、これだけの魔力があるって事は……何でもない。続けましょう」
「……あ、ああ……」
振り切るように首を動かし、再び魔力を集中させ始めたクロユリに促されたロロは、呆然と頷きつつ思う。
一体、君はどう生きてきたのだろう、と。
出会った時、すでに彼女の魔力はふざけていた。それは、今までに彼女がたくさん恨まれ、憎まれ、恐れられ、殺してきたという事。そしてその事を、彼女は覚えていないのだ。
『魔女の魔力は尽きる事はなく、幾度も幾度も太陽を地に落とし続け、殺し続けた』
新たに生み出された小さき太陽が、また大地を焼き尽くす。その度にクロユリの魔力は元に戻り、大物が多数紛れていた時には過去の値を超える。そしてまた、魔物達と大地を焼き滅ぼすのだ。
「ははっ……俺、多分……すげえものを見てるんだろうな」
衝撃波に髪を任せ、吹っ飛んできた屋根の瓦を障壁で防ぎながら、目の前の光景にミラトはぽつりと呟く。確信していた。たった一人の女性と、たった一人の男性が創り出したこの光景。数多の太陽が地に降り注ぎ、この街を魔物から守ってくれているという、昨日までの自分に言っても絶対に信じなかったであろう物語は、神話の類だと。
「……黒い髪の『魔女』に、『記録者』様……」
落ちる度に、森の半分以上が魔物ごと消滅していく。万を軽く越す軍勢はいつしか百にも満たない数にまで減り、裸になった大地を一つの豆粒のように疎らに街へと向かっていた。あれだけの数ならば、衛兵でも十分に対処できるだろう。
「こっちの方角はこんなものかしら」
「そ、そうだな。これだけ減らせば、後は何とか……」
「さ、次は違う方角に行くわよ。どうせ寝たら忘れるんだから、それまでに出来る限りこの街を危険から遠ざけないと。忘れるのは、私だけで十分だわ」
だが、『魔女』の攻撃はまだ終わらなかった。例え南の魔物を滅ぼしたとしても、残りの方角から押し寄せる魔物はまだ息をしている。
「「こっちの方角」の時点でそう言うと思ったぞ。君の気が済むまで、付き合おう」
短い付き合いながら、彼女のそういうところは分かってきたロロは、即座に頷いた。
「……ありがとう。ロロ」
「どういたしまして、だ。クロユリ」
寂しげな笑顔で感謝を告げた彼女に、ロロはとある覚悟を決め、上空からの無慈悲な虐殺を再開した。
『太陽の雨が終わったのは、本当の太陽が昇った頃だった。その時にはもう街の周囲の森も魔物も、跡形も無くなっていた』
『魔女』
クロユリが持つ系統外。魔力の量を増加させる能力で、実質上限はないといって良い。魔力を増やす方法は二種類存在する。この系統外にて手に入れた魔力は、黒い輝きを放つ。
一つ目は、命を奪った存在から魔力を奪う。殺した存在が保持していた魔力を、まるまる奪うことができる。人のみに限らず、魔物や龍といった相手でも発動する。
二つ目の方法は、保持者に向けられた負の感情の総量による増加。怖がられた分だけ、恐れられた分だけ、恨まれた分だけ、憎まれた分だけ、嫌われた分だけ、魔力が増えていく。
先も述べた通り、魔力限界を超えても魔力は増え続けていく。理論上の上限だが、現時点で世の中に存在する生命が持つ魔力+これから先産まれる生命が持つ魔力+彼ら全員の最大限の負の感情であり、とてもじゃないが到達は不可能。しかし、そんなのは些細なことで、既に誰にも超えられない魔力となってしまっている。
この系統外、善良なる常人が持っても少し魔力が多くなる程度で腐るもの。しかし仮に、持つ者が凶悪な殺人者であればあるほど、力を増していく。世界の敵とも呼ばれる存在であれば、一体どれほどの魔力を見に宿すのだろうか。




