六話 称号、幽者
「申し訳ありません、お見苦しい姿をお見せしてしまい……」
しばらくして落ち着き、衣の裾で涙を拭ったエリザは、少々赤くなった目元を気恥ずかしげに零士へと向けた。
魔王の襲撃から、ずっと恐怖と不安に苛まれていたエリザの心。召喚された勇者、零士によって魔王が退けられた後も、しかし彼がどのような人物であるかは不明で気は抜けず。
話を聞いてもらうことはできたことで第一の関門は突破。だが、本題はそこから。
もし、勇者が我が国に牙を剥いたら。もし、敵対はせずとも、助力を得られず去ってしまったら。その勇者の選択一つが、メーディスという弱小国の命運を左右するのだ。
此度のような奇跡など、二度と起きることはあるまい。勇者の存在なしに次に強力な魔族に攻められれば、間違いなく終わる。
エリザという一人の人間としては、既に助けられた上に今後も助けを求むのはどうか、という心情である。
だが、この身は一国の女王。小国ゆえに数はそれほど多くなけれども、この国に住まう者達を背負っているのだ。ゆえに決断は一個人ではなく、人の上に立つ者として。
誠心誠意の謝罪と感謝、そして助力を請うた結果――召喚された勇者である零士は、首を縦に振った。
嬉しかった。伝承に語られし勇者が、味方となってくれたことが。心の奥底で憧れていた伝説の存在が、エリザの密かに思い描いていた人物像を粉砕しなかったことが。
同時に、安堵した。一度ならず二度までも絶望に落ち込み、以後も忙しなかったエリザの心が、ここにきてようやく。
それがために。胸の奥から、眼の奥から、想いが、涙が溢れ出てしまったのだ。
「あ、いや……」
嬉しさから流れた涙であり、恐怖や重責から解き放たれた安堵より流れた涙でもある。
そんな二つの感情から泣くエリザを、しかし零士は笑わなかった。その顔には嘲りどころか、怒りすら一片も見受けられず。むしろこちらを気遣うような、戸惑いと優しさの入り混じったような表情。
エリザは、零士の態度に思わず口元を微かに綻ばせつつも。
「魔王エスティラに襲撃されたあの時、もう助かる道はないのだと私は覚悟し、諦めてしまっておりました。……一国の女王という立場にありながら、何もすることができなかったのです」
しかしその顔は、すぐさま別種の笑みへと変わる。喜色とは正反対の、無理に笑っているような、或いは己を嗤うような、悲哀の笑みへと。
エリザの目は伏せられ、顔が若干俯く。
「…………」
諦めてしまった。何もできなかった。
そんなエリザの独白に、今度は相槌を打たず零士はただ聞くに徹するだけ。
「傷つき、倒れていく兵達を、私は見ることしかできなかった。どうしようもなく、己の無力が悔しかった。……全ては、魔王の思うがままに、時が動こうとしていました」
ですが、と一際想いの籠ったエリザの声が、放たれる。
「しかしそこに――勇者様は、現れてくださいました」
エリザは、零士の顔を、眼を見つめる。その瞳に宿るは、憧憬の光。
今は死した父、先王に聞き、抱いた憧れ。けれども、叶えては駄目だと奥底に閉まっていた憬れ。
かつて思い描いた希望の光が、まさに今、眼前に体現している。
「魔王エスティラを退け、傷ついた兵達の治療を手伝っていただき。私達をお救いくださいました。伝説に語り継がれる、勇者様のように」
大粒の涙も、沈痛な面持ちも、まるで感じさせないように。
微かに赤らんだ目元など気にもならないほど、花が咲いたような美しい笑顔で。
「本当に……本当にありがとうございます、勇者様」
また涙を零してしまえば、泣き虫に思われてしまう。だから、今度は泣かずに、最後まで。
嘘偽りなどあるはずもなく、心から、エリザは笑みを浮かべた。
「…………」
零士は、答えない。
エリザに助けた見返りを要求することもなく、かといって感謝の言葉を当然のように受け止めるわけでもなく。
ただ座って、黙している。
「……あ、あの、さ……」
「はい、なんでしょう?」
ややあって、声が上げられた。
エリザは、嬉々として零士に問う。
「勇者様、なんて呼ばなくていいんで。零士でいいです、零士で」
彼の顔に浮かぶは、苦笑。
エリザは、その言葉に意表を突かれ、一瞬きょとん、とするも。
――ユウガキレイジ。
彼が魔王エスティラに対してそう名乗っていたのを思い出した。
「はい、かしこまりました……それでは、レイジ様、と」
「……いや、様付けとかもいいんで、普通に呼び捨てで」
「それは、なりません。レイジ様は、勇者様なのです。それに、大恩ある方を呼び捨てにするなど、できるわけがありません」
敬称はいらないとする零士に対し、そればかりは譲れない、とエリザはきっぱり宣言する。
「…………」
「…………」
沈黙。
エリザは、ただただ真っすぐに零士の瞳を見つめ。
零士も、そんなエリザを見ていたが――そう時間をかけることなく、逸らした。
「大恩って言われても別にそんな大したことは……ま、まあそれじゃ、お好きなように……」
そっぽを向いて頬を掻く零士の姿に、少々強引だったかと、エリザは思う。
だが、これは譲れなかった。いかに、当人が言おうとである。
謙虚なのか、或いは本音なのかはエリザに分かる術はないが、零士は大したことはしていないと言った。しかし、エリザや助けられた兵達からすれば、ちょっとやそっとでは返しきれないほどの恩なのである。魔王エスティラは退き、滅亡の淵にあったメーディスは救われた。これを大恩と言わずしてなんと言う。
「ありがとうございます、レイジ様。……そ、それでは、私のことはエリザ、と、そうお呼びください」
エリザは、礼と共に彼の名を呼ぶと。コホン、と口元に手を当て、僅かに頬を紅潮させつつ言った。
自らが言っておいてなんだが、エリザがエリザと呼ばれることは、そうない。というより、そう呼べる人間が限られると言ったほうが正しい。
なぜなら、エリザは王家の者。国の民や城の兵達から呼ばれる際には、様、姫、王、女王など、エリザの名の後にはなんらかの単語がある。彼女が呼び捨てにされたことがあるのは、今は亡き父や母などといった極少数のみ。
零士のような年の近い存在は、初めて。ゆえにエリザは、その顔に緊張を滲ませていたのだが。
「え? えー……分かりました、エリザさん」
エリザの期待――緊張した呼び捨てではなく、さん付けであった。
「あ、あの、レイジ様? エリザ、と呼び捨てで構わないのですが――」
「……いや、俺が構うんで」
「いえ、しかし――」
「俺が構うんで」
今度は、敬称はいらないとするエリザに対し、断固拒否の構えを零士がとる。
「…………」
「…………」
再びの沈黙。交差する、両者の瞳。
先程の巻き戻しのような、それでいて立ち位置の代わった会話の内容に、エリザは思わず可笑しくなった。
見れば、零士も何かに気付いたような顔をしている。
「分かりました、レイジ様。どうぞ、私のことはお好きなようにお呼びください」
初めての年の近い異性からの呼び捨てという現実は訪れず。けれども、零士を習い発した言葉はエリザが誰にも言ったことのない言葉で。気恥ずかしくも、エリザは破顔した。
「……俺は一体、何をしたんだろうか?」
お疲れでしょうから、ごゆっくりお休みになってください。
そう零士を気遣う言葉を置いて、エリザの去っていった部屋。
残された零士は、椅子に腰掛けたまま、何もない虚空を見上げて独り言ちた。
尋常ではない様子でお礼を言われたが、はっきり言って零士には特別何かをした記憶はない。ぶっちゃけ、ただ立っていたといっても過言ではなかった。
故に、どう返したものかとほとほと困り。取り敢えず呼び方がこそばゆかったため、半ば無理矢理話を逸らしたわけである。
が、いくら自問したところで意味などなく。少しだけ考えたものの、零士はそれを捨て置くことにした。
「にしても、異世界に勇者と魔王、ねぇ」
エリザの話から、自身の状況に関しては大雑把ながら理解した。しかしその内容は、普通に考えれば、はいそうですかとすんなり受け入れられるものではない。――普通では。
……だが、何というか、零士は普通ではなかった。
それを自認している零士は、チラと目線を横に動かす。
視界に入ってくるのは、何がそんなに楽しいのかベッドの上をポンポンと跳ねる、淡く発光する半透明の謎の物体――もとい、己の判定。自分にだけ見える、自身が普通ではない証。
――俺の身体も大概、あれだしなぁ。
ファンタジー染みているというか、なんというか。とにかく、普通ではない。ファンタジーなぞあり得ないなど、お前が言うな状態だ。
零士は再び虚空へ視線を戻すと、先程よりも深く腰掛ける。
「……こんな世界観だと、ステータスだか何だかあったりしてな」
そうして、彼がしみじみと呟いた、刹那。
『幽者 属性:疑惑
疑惑の判定 lv1
自身の本体と判定が別々となる。
疑惑の吸収 lv1
自身の本体に接触した魔力を吸収する。吸収の限界を越えると爆発する。
』
それは、眼前の何もなかったはずの空間に、突如ぼんやりと浮かびあがった。
「…………」
零士は、まず眼前をまじまじと見つめ。次いで、三度程瞬きし。最後に目を擦り、再び見る。
……なんか、増えている。
つっこみどころは多々あるが、名称は別として、一番目に記載されているのは間違いなく零士の体質。
だが、二番目。なんか、増えている。
魔力は、まあこの世界には当然のようにあるのだろう。爆発……はなんか怖いのでスルー。
そうして視線は、一番上へと戻る。
普通に考えれば、これが大問題。
「……幽者?」
勇者ではなく、幽者。
その事実に、徐々に零士の全身から冷や汗が噴出した。