三話 幽者、異世界に来たりて
疑惑の判定、という言葉がある。
意味は文字通りであるが、この言葉を知らない人が聞けば、その解釈はそれぞれ異なるかもしれない。
例えば、スポーツのゲーム。
結果は明らかであるはずなのに、何故かその真逆の判定となったり、或いはどう考えても不自然なものであったり。
例えば、シューティングやアクションゲーム。
プレイヤーが操作するキャラなどに明らかに敵の攻撃が当たっているのに、ダメージとならなかったり。
そのようなものが疑惑の判定とされているようだが、さて、これはゲームに限らず現実においても起こりうることだ。
なぜなら、スポーツは現実にも存在している。ある意味誤審とも言い換えられるわけだが、人間が判定する以上、完璧な判定ばかりが必ず出るわけではないのだ。
では、シューティングゲームやアクションゲームなど。これを現実とするならば、要するに他者からの攻撃に対する疑惑の判定はあるのか、ということになる。
こちらの答えは、否であろう。
ゲームはあくまでゲームであるため、攻撃が当たったか否かの判断基準――つまり判定という要素が必要となる。故に、実際にゲームのキャラの身体に攻撃が当たっていたとしても、判定が働かなければダメージは受けないのである。
だが、現実は違う。
なぜなら、相手の攻撃という明確なものに対し、それを受ける者の肉体もまた明確なものとして存在しているからだ。
攻撃が当たったのなら当たり、外れたのなら外れる。とても簡潔かつ単純な話。
当たっていて外れているなどという現実は有り得ず、その逆もまた然り。故にそこに、ゲームのような判定など入り込む余地はなく、疑惑の判定など起ころうはずもない。
だが、その本来起こりうるはずのない現実に、常識に、真っ向から喧嘩を売るような存在が一人、いた。
世界中で恐らくただ一人、ゲームの中から抜け出たような身体を持つ彼の名は、柚垣零士。
渾名は、苗字と名前の先頭の一字ずつ、つまり柚と零をとったのをもじって、幽霊。
彼は、自身が他の人間と違うことを知りつつもそれを隠し、ごく普通の日本の学校に通う――渾名の少々変わった高校生、であった。
――その日までは。
外を歩いていたはずが、気付けば若干薄暗い屋内にいて。視線の先ではなにやら大きく黒い妙な球体がいくつもものすごい勢いで迫っており。あっと声を上げる間もなく足元で炸裂したり、己の身体を通り抜けては地面で爆発する。
突如そんな事態におかれ、柚垣零士は戸惑っていた。
自身の周辺を舞い上がる、風塵。もうもうと立ち昇るそれに視界を塞がれ、何も見ることのできないその中で、動くことなくただただ立ち尽くす。立ち尽くせざるをえなかった。……と思ったが、この中にずっといるのは嫌なので、数歩、零士は歩く。
歩きながら、思った。
……判定がどっかに行っててよかった、と。
取り敢えずはその事実に、零士は胸を撫で下ろす。
もし、自身の判定が己の身体に残ったままだったら、爆風に吹き飛ばされていたのは確実。そもそも謎の球体は零士の身体を通り抜けることなくぶつかって爆発していただろう。
故に零士は、勝手に動いた自身の判定に、この時ばかりは感謝した。
そうこうしている内に、風塵を抜ける。
「…………」
クリアとなった、零士の視界。映りこんできた現実に、零士は思わず目をパチパチと瞬いた。
立っていたのは、そこそこ大きい広間のような見知らぬ場所。視線の先にはぐったりと倒れ伏す、鎧兜を纏った人達。それだけでも、理解の範疇の外にあるというのに。
「…………」
眼前の宙に、人が一人、浮いていた。妙に青白い肌をした、女性と思しき人物が。
そんな現実を即座に受け入れろ、という方が無理な話である。
言葉は勿論のこと、微動だにせず。ただただ零士の顔は、視線は、宙に浮かぶ女性に固定されていた。鎧兜を纏い、地面に倒れこむ人々も本来であれば充分にインパクトのあるものではあったが、しかし宙に浮かぶ女性の方がそれを上回ったのである。
で、その当の女性は、というと。
真紅の瞳を大きく見開き、零士を見下ろしていた。まるで、有り得ないものを見た、と言わんばかりの表情で。
……いやいや、なんでそちらが驚いているのか、と。
口は動かずとも、心の中で零士は突っ込む。
だが、すぐさま零士は思い直した。
もしかしたら、あっちも俺と同じ状況下にあるのかもしれない。……妙な黒い球や爆風を受けているかは別として。もっとも、なんで――というか、どうやって飛んでいるのかは知らないが。
「……何か、したのか?」
同じ状況であるなら、彼女は何かをして、こうなったのか。
それを、聞きたかったのである。
何故なら、零士はただ外を歩いていただけで、まったく心当たりがないのだから。
ただ、不可思議な現象に動揺していたため、その意図を伝える余裕はなく言葉が短くなってしまったが。
零士の言葉を聞いた刹那、宙に浮かぶ女性の瞳がスッと細められた。
と同時に、何やら怒気のような雰囲気を感じ、彼女の周囲の空間が捻じ曲がったような錯覚を零士は覚える。
なんでか知らんが、怒っている。確証はなかったが、漠然と零士はそう思った。
なので、理由は不明だがともかく慌てて謝ろうと口を開きかけた時、気付く。
――自身の身体の判定が、宙に浮かぶ女性の、その傍らに浮かんでいた。
それも何故か――ファイティングポーズをとって。
他の人には、どういうわけか見えない。ただ、己の判定だからだろうか、零士には見えるのだ。
ぼうっ、と淡く発光する、のっぺらぼうのような人型が。零士と全く同じ背格好をした、己の判定が。
あれが自身の身体から完全に離れていたから、あの連続爆撃のような何かの中心地におりながら尚、傷一つ負うことなく生きている。今の零士は、殴られようが蹴られようが、刃物だろうが銃弾だろうが、ともかく何をされても痛みはない、という状態だ。
「そんなところで、何をやってんだ?」
ポツリ、と漏らす。
別に、宙に浮かんでいることは疑問ではない。零士は、己の判定がそういうこともできるものだと、既に知っているからだ。
零士の純粋な疑問、それは何故ファイティングポーズをしているのか、に尽きた。
「――面白い、よもやあれに傷一つなく耐えようとは思わなんだ。それに、我を前にしての、その余裕」
だが、零士の言葉に反応したのは、何故か女性の方であった。
「誠、面白い。……フッ、ならば、これはどうだっ!?」
いきなり笑うや否や、その手から一筋の漆黒が零士めがけて放たれたのである。
その凄まじい速度は、見た目は、まるでレーザービームの如く。
ギラリと光るそれを阻むものはなく、あっさりと零士の身体が貫かれる。
そして、一秒もかからず零士のいた後方の壁へと到達し。まるで一枚の紙を相手にしているかのように容易く貫通、爆発した。
ヒュウッ、と、爆砕された元壁の場所から、外よりの冷たい風が入り込む。
再びの沈黙が訪れる中、しかし身体を貫かれた零士の身体は、崩れ落ちることはなかった。
むしろ、何事もなかったかのように、立っている。
――仕掛けは、先程と同じ。
今の零士の身体に、判定はない。つまりいくら零士の身体に攻撃しようが、判定に当たらなければ零士自身にダメージは零なのだ。
だが、その事実を知るのは、この場において零士ただ一人。
「クククッ、そうか、これも効かぬか。……む?」
納得したように、それでいてどこか嬉しそうに笑う、女性。
そんな彼女が、何かを感じたようにふと背後を振り返った。
……本当に何をやってんだ、俺の判定は。
零士は、見た。己の判定たる発光する人影が、シュッ、シュッとパンチを女性に向けて繰り出しているのを。――しかも、寸止めで。
「……ふむ?」
だが、彼女にはそんな判定の阿呆な行動が見えていないようで、首を傾げている。
零士は、安心した。自身の判定が他の人に見えないのは知っていたが、空を飛んだり黒い何かを放てる、とにかく妙な力を持った人物にも、自身の判定が見えていないことを。
もし女性に見えて、あの力が零士の判定に直撃していたら。全く関係ない位置にいる零士の身体が爆発していただろう。
だが、見えはしないくせに、彼女は振り返ったのである。つまり、全く気付いていないわけではないのだ。
……どうか、目の前に攻撃しませんように。
祈る。
と、そんな零士の内心を知ってか知らずか。
今度は女性の横に回り込み、再び寸止めパンチを放つ零士の判定。
ややあって、女性がまたしても零士の判定を正面に捉えるように向き直った。
「…………」
……見えはしないようだが、完全に何かを察知しているじゃねぇか!
とっとと止めさせたいところではあるが、しかし悲しいかな、零士には自身の判定の動きを止める術はない。零士の判定は零士には制御できず、自由に動くのだ。零士の判定のくせに。
しばらく、何かを考えるように、女性は顎に手を当てていたが。
結局は何もすることもなく、地面に立つ零士を見下ろす。
「我の負けだ、メーディスの娘。約定通り、我は退こう」
その言葉の意味を、当然零士は理解できない。
「おい、貴様、名前は?」
そんな零士をよそに、女性が口を開く。
どうやら、自分に聞いているようだ。迷いつつも、零士は名乗る。
「……柚垣零士」
「ユウガキレイジ、か。その名、覚えたぞ。分身とはいえ、ここまで虚仮にされたのは初めてだ。その首、必ずや我が貰い受ける。心配は無用かもしれぬが、その時までくたばってくれるなよ」
……虚仮にしたのは俺じゃなくて、俺の判定なんですが。
見えないふりをして実は見えてるのでは、と内心怯える零士。
そんな彼は、己が何を為したのか、そして他人から見ればどんな言葉を口走っていたかに、未だに気付いていない。
「ではな、勇者。また……ん?」
空を滑るように飛び、先程レーザーのような攻撃で壊した壁から、外へ出ようとしていた女性。
その姿が零士の視界から消える、直前。
「クッ、クハハッ、そうか、そうだったのか」
突如、笑いだす。
気でも触れたのか、とはらはらと遠目から見る零士に対し、女性は心底おかしい、といったように。
「やはり、面白い。メーディスに来たのは、間違いではなかった」
そうして、外へ飛び出していくのであった。
「そうそう、名乗るのを忘れていたな。我は、魔王エスティラだ。……ではまた会おう、勇者――いや、幽者よ」
最後に零士をチラと見やり、そんな言葉を残して。
言葉だけでは、何が言いたいのか伝わらぬ、魔王の言葉。
しかしその言葉の意味を零士が知るまで、そう時間はかかることはなかった。