第5話:「衝動」
現代ファンタジー・吸血鬼モノの伝奇ライトノベルです。
放課後の運動場は喧騒に満ち溢れている。裕也と恵理はサッカーコートの近くのベンチに来ていた。練習熱心なサッカー部はすでに練習をはじめていて、ミニゲームでもやっているようだった。
「今日、クラスで休んでいる人がいたでしょう?」
恵理が問い掛けてきた。
「前のほうに空席がひとつあったの、気になって」
「ああ、草薙真奈美って女子だだけど……」
裕也が答えると、恵理はやや困ったような表情で何かを切り出せないような顔でいた。それは今日一日教室で表情を崩さなかった彼女からは裕也は想像できず、一瞬どきりとした。
だが、彼女が何故今日の欠席者を気にして悩まなければならないのか、裕也にはさっぱり分からなかった。不思議そうな顔をする裕也を見て、恵理はその端正な顔を少し崩して苦笑した。
「草薙さんとは顔見知りかもしれないの。だからちょっと気になって」
「かもしれない?」
「うん、勘違いなのかもしれないけど」
なるほど、それならわからないでもないと裕也は思った。
「草薙さん、休んでるのって今日だけ?」
「……いや、昨日も休んでるな」
「そう。最後に会ったのは?」
「一昨日の夕方かな? 何でそんなこと聞くんだ?」
恵理は少し困ったような顔をした。
その瞬間、裕也はこめかみのあたりに違和感を感じた。一瞬、視界がぼやける。これは裕也の未来視の前兆だった。
裕也はとっさに体を動かした。彼は何か丸くて大きいものが飛んでくるのを見たからだ。裕也の未来視が見せる未来はこの程度のものだが、それでも彼から見えるはずのない場所から飛んでくるものにわざわざ当たりに行くことができた。もし、彼が動かなかったらそれは彼に当たる事はなかっただろう。彼がその場所へ移動したのは、その延長線上に恵理がいたからである。
「いてっ」
裕也の腰のあたりに結構な重さのボールが当たった。
サッカーボールだ。おそらくミニゲームをしているサッカー部がシュートでもして大はずれしたのだろう。
「すみませーん」
玉拾いをしている一年生らしい男子が頭を下げながら走ってきた。
裕也はボールを拾い上げるとその男子にボールを投げて返した。
「で、えーと、なんだっけ?」
裕也は気を取り直して恵理に向き直った。
恵理は驚いた表情で彼の顔見ていた。
「どうしてボールが来るのが分かったの?」
「偶然じゃないかな? ボールが俺に当たってきたんだよ」
裕也は頭を掻いてごまかした。
「違う、春日井君、あなたはボールに当たりにいったわ」
裕也は小さくため息をついた。未来視の能力は他人には知られたくないことだった。
裕也は沈黙を保った。彼が答えない意思を持っていると恵理は判断した。彼女は小さく息をつくと、裕也に軽く会釈をした。
「ありがとう、春日井君」
「え?」
「私が聞きたかったのは草薙さんの事だけだから……それじゃ」
恵理はきびすを返して歩き出した。決して慌てているようでもないのに彼女の足取りは颯爽としていて速い。
裕也は彼女の後姿を見送った。
「えへへ、見たよ裕也。モテモテじゃん」
裕也は突然肩をつかまれて背後から声をかけられた。
「沢渡、湧いて出るな」
裕也の死角から忍び寄ったのは沢渡陽子である。何故こういう時には未来視が働かないのだろうと裕也は毒づきたかった。裕也は呆れた顔で振り返った。
「あのねえ、人を虫みたいに言わないでよ」
沢渡は不満顔だった。もともと幼く見える彼女だが、むくれてほほを膨らませていると中学生のようにも見える。
「言っちゃうぞ。真奈美に。でも森川さんも森川さんよね。転校初日じゃない」
「あのなあ、沢渡。今してた話は全然そんな話じゃないぞ」
「え、そうなの?」
「森川さん、草薙の事を聞いてたぞ。顔見知りなのかもしれない、だって」
「なんだ、つまんない」
「おまえね、第一、俺と森川さんじゃ吊り合わないよ」
裕也はため息をついた。だが、沢渡の表情は不満顔のままだった。
「それって、森川さんが美人だから? それ、真奈美に失礼じゃない?」
裕也は沢渡の言いたいことは分かる気がした。沢渡は裕也の中で草薙が恵理に劣るのかと責めているのだ。女の子としては自分が付き合っている女が一番であって欲しいのだろう。だが裕也も草薙と正式に付き合っているわけでもない。それも沢渡の不満顔の素なんだろうと裕也は思ったが口にはしなかった。
「まったく、裕也はオタク君と一緒にいるから目立たないけどさ、結構もてるんだぞ」
「え?」
「ってそういうことを自覚してないのが頭来るよね。私だってさあ……その、裕也のことちょっとは……いいなって、思ってみることだってあるんだから」
沢渡の口調にいつものような歯切れのよさがない。裕也は聞き間違えたのか、とまじまじと沢渡を見た。沢渡は視線を外して少し頬を赤らめている。
「おいおい、あんまりからかうなよ」
裕也は苦笑いをしてわざと軽い口調で言った。
何か反撃があるはずだと思っていた裕也に反撃はなかった。沢渡は赤い顔のまま、胸を高鳴らせて大きな瞳を潤ませていた。
「おい、沢渡?」
裕也が声をかけると、沢渡は弾かれたように背筋を伸ばした。
「あっ……私部活あるからさ、またね、裕也」
と、沢渡は裕也と視線を合わさず空手部の練習場がある体育館へと走り出した。沢渡は自分でも何を言い始めたのか、良くわかっていなかった。
きっと真奈美のせいだ!
彼女は駆けながら心の中で叫んだ。草薙が裕也のことを好きだと知ってから、彼女の心はどこかざわついていた。彼女も裕也とは長い付き合いで、友達以上の存在だと思っていた。それが恋愛感情なのか、彼女自身もわからなかったが、ただ黙っていられなかったのは事実だった。
金曜の夜――。
裕也たちの学校は明日は休日だったが、千明の通うフェイノール学院は土曜も授業がある。裕也と千明で生活リズムが異なる夜だった。
午前一時五分。千明は明日も早い為もう寝ている。
裕也は昨日ろくに眠れなかった事を思い出すと、急激に眠気を感じて、自分の部屋に入った。暖房の効いていたリビングから自室に入ると思いのほか冷え切っている。
裕也は悪寒を感じた。
「随分冷えてきたな」
彼は身震いをするとベッドの中へともぐりこんだ。
あっという間に睡魔が襲う。ゆっくりと目を閉じると意識は闇へと沈んだ。
「うあっ……」
裕也は毛布を跳ね上げて荒い息をついた。
夢を見たのだ。恐ろしい夢だった。
彼は震える手を見つめた。その手は夢の中で獲物を襲おうとしていた。とんでもなく飢えた彼はある女を襲おうとしていた。見ず知らずの女だ。その女を狩り、その血を浴びるように飲もう――。まるで吸血鬼のように。
裕也は顔中を汗まみれにしていた。汗が顎を伝って定期的に落ちる。息は荒いままだ。喉は焼け付くように渇き、胸は燃えるように熱い。息は上がり、心臓はフル稼働している。
リアルな感触を残したその夢は、未だ彼の中に留まっている。
「くそっ!」
気が狂いそうになるような飢えに裕也は喉元をかきむしった。
彼は罪もない枕を投げつけると部屋を出た。
リビングを少し歩き、千明の部屋のドアを開ける。
千明の部屋は小奇麗に片付いていた。裕也はよろけるようにその部屋へ入った。
ベッドでは千明が静かな寝息を立てている。少しはだけたそのパジャマの襟元から覗く白い首筋は、夢で裕也がまさに狩ろうとしていた女の首筋によく似ていた。
裕也はかさかさに乾いた唇を震わせ、喉を鳴らした。
その白くやわらかい首筋に牙を立て、その血を吸えばこの飢えは収まる。欲望のままに喰らえば至福が得られる。
裕也は音もなく笑った。
獲物はたやすくここにいるではないか。
と、裕也は軽い頭痛を感じた。それは頭全体を覆うようなものではなく、後頭部の一部分だけがほんの少し針を刺したように痛む。
それが、引き金だった。
俺が、千明の血を飲む?
俺が、千明を殺す?
その針のような傷みはその疑問だった。
それはあっという間に裕也の頭全体に広がり、耐えがたい頭痛に襲われた。
「うぐ……あっ」
裕也は頭を抱えて壁にもたれかかった。割れるような痛みが絶え間なく彼を襲う。汗は高ぶっていた先ほどの汗とは違う、脂汗のようなぎとぎとしたものに変わった。頭痛は治まるどころか波打つように徐々に強くなっていく。
視界がぼやけて意識が遠くなる。
ここは千明の部屋だ。ここで倒れるわけにはいかない。
裕也は壁に寄りかかり、崩れる膝を必死で立ててリビングへ出た。指先まで汗に塗れたその手で何とかドアを閉める。
裕也はその場でうずくまり、荒く息をした。
「くそっ……なんだってんだ、これは」
かすれる声で言った。
裕也は自分の部屋へ戻ろうとした。もはや立ち上がることもできなかったから、はいずるように自分の部屋へ入った。
視界は蒼い靄がかかり、頭の中心が軋む。
裕也は激しく髪をかきむしりながらベッドへと戻った。意識が保てるような状態ではない。嫌な汗の感触だけが妙に鋭く伝わってくる。だがそれさえも、まもなく朧のように消えた。




