五章 ガールズインブルー
「──いや、だから、なんで?!」
私は必至に言葉を探す。灰色の地面は途中で途切れて、端っこにある段差のアスファルトの先には青い空が広がっている。屋上の扉を開けてから、まだ数歩足らず。私の目の前には、まさに彼女が、すなわち柳が、端のところに突っ立って、今にも足を踏み外そうとしている。私から柳までの距離は、目測で四メートル前後。落ちたらまず助かる見込みはない。私たちのいるこの建物の高さは、他の棟と同じかそれ以上なのだから。
風に揺れた長い髪が彼女の表情を隠す。その隙間から、ぞっとするほど無表情な瞳がこちらに向けられる。今まで私に欠片も見せたことのなかった虚空の眼。体の芯が凍る。心臓の音が恐ろしく早くなる。顔色ひとつ変えずにこのふざけた瞳だ。崖の上から底の見えない谷間を覗き込んだ時のように冷たい黒。こいつのこんな表情を見るのは初めてのことだった。一体こいつは何を考えているんだろう。記憶の中で笑う柳と、今私の眼の前にいるこいつとの照合が、全く取れない。
柳の白いダッフルコートが風に叩かれて、紺色のスカートがぱたぱたと音を立てる。袖から枯れた木の枝ように覗く手がだらりと垂れさがっている。私は彼女の黒タイツと焦げ茶のブーツに全神経を払う。絶対に後ろには動くなよ。
回らない頭を必死に可動させて考える。本当なら今すぐにでも放り出したいような状況だ。こんな状況はお手上げというものだ。全部諦めてさようならだ。こんな役目は私の柄じゃない。警察の役目だ。でも私の前にいるこいつは、他でもないこいつは、友人であるところの、私のただ一人の友人であるところの、柳だった。そして私はそれを見てしまったんであって、見てしまっているんであって、つまり渦中にいるのであって、彼女を刺激するような動作は一ミリだって取るわけにはいかないのだ。鞄に手を突っ込んで端末を取り出すような真似は、この場合どう考えても逆効果だ。
私の思考の九割九分はどうでもいい内容で構成されているが、今こそここで腐り切った脳内を一掃して、最適解を導き出さなければならなかった。そもそも、なんでこんなことになったんだっけ?誰がこれを望んだのだろう。こんなに陳腐で馬鹿げた展開に誰がしたんだろう。
◆
なんてことはない。三日ほどじめじめとした雨の日が続いたら、予期は単なる虫の知らせだ。土曜日の寝起きに、疲れ切った幽霊のような気怠さを振り解いて、朝方見た夢の内容を辿っただけだ。内容は語るまでもない陳腐なものだが、これまでの生活の総決算とでもいうような、なんとも薄気味悪い話だった。
車輪の擦れる音が次第に音を増して、これまでの記憶を全て踏み潰していく夢だった。私と柳が初めて会った日から、音は微かに聞こえていた。桜の木の生えたあぜ道を通って帰った頃の記憶、小石をこつんと蹴って帰ったあの日の景色が夢の中で再現されて、飛び立ったツバメの向こうで夕日に沈む太陽が、数か月前に二人で楽しんだ夏の日の線香花火の場面に変わる。遠くの方から聞こえてくる車輪の音が少しだけ音を近づける。
花火の終わりに、公園のブランコから放り投げた柳のヒールがふわりと宙に浮かび、炭酸水が弾けるようにぷしゅぷしゅと音を立てて、その輪郭を膨張させていくと、図書館の窓から覗いた飛行機の形に変わって、空に向かって飛んでいく。歯車の音が先ほどよりも強く耳に響く。軋ませながら近づいてくる車輪の音。飛行機は、森林公園に出向いた日に駅の改札口から眺めた藍銅鉱の空を滑るように通ると、日輪と山の重なる境界面へ着地する。私たちはそこに降り立って周りに目配せする。一面見渡すかぎりのきのこを相手に、柳が口を開く。
「私は覚えてる──」
車輪の音はいよいよ勢いを増して、劈くように鼓膜を刺すと、列車は既に目の前まで迫っていた。その音にかき消されて、柳の台詞はほとんど聞き取ることができない。私はなんとか彼女の口の動きを追うことで言葉を拾っていく。
「──だからこれは最初と逆のこと」
そう言ったように見えた刹那、列車は私の目の前を走り抜けて、柳を轢き殺した。走り去る列車のエコーが反響して、その音を小さく萎ませていく。後には熟したトマトを放り投げたように身体をひしゃげさせた柳の姿が残された。
眼を覚ますと、イルカの目覚まし時計がぴぴぴと音を立てていた。私は布団を剥がして半分だけ起き上がった。背中に張り付くような汗をかいていた。寝起きの不安定な精神状態は、通常であれば五分もすれば元に戻るはずであったが、雨の日の後の晴天にも関わらず、この日の私は妙に嫌な心地がじっとりと尾を引いたままだった。
昼間、柳に借りていた本を返しにアパートに寄ると、チャイムを鳴らしても反応がなかった。私はしばらくそのままでいたが、このまま帰ったのでは出向き損なので、申し訳程度にドアを引いてみたのだった。鍵はかかっておらず、私は中の様子を覗き見た。柳はいないようだったが、開け放たれた仕切りの向こうのテーブルに紙切れが一枚乗っかっているのが見えた。その紙に何か嫌なものを感じたのは、朝見た夢の名残りがどうにも、私の脳裡に警鐘を鳴らしたためだった。玄関に本を置いて帰ろうと思ったが、意を決した私は靴を脱いで、立派に不法侵入という形で部屋に入った。綺麗に片付いた部屋に一枚置かれた紙を手に取る。
私は眼を疑った。そうしてそれを、何度も何度も注意深く見た。しかし一向に内容の変わる気配はなかった。朝かいたのと同じ汗が背中をつたう。どうやらこれは見事に予感が的中したと見ていいのだろう。私は感情の起伏が相対的に乏しい方であると自覚していたが、流石にまずいことになった。どのような時でも冷静に物事に対処する必要があると考えるのは、私のような人間は焦ったところで良いことなど一つもないということを、経験的に知っているからである。
始めに確認しなければならないことがあった。風船のように宙へ浮かんでいきそうな思考をどうにか脳に着地させて周りを見渡すと、まず洗面台の扉を開けて中を覗く。水気がまだ残っていた。横に掛けられたタオルに触れても同じだった。家を出たのは昨日や一昨日のはずはない。なぜならここ数日は雨が続いていたのであって、それでいてまだしばらくここに留まっていた痕跡も残っているのだから、おそらく今日、それもついさきほどのことだろう。今は昼時なので、朝方であったらアウトだ。その場合のことは考えたくもない。
この紙は書置きである。描き置き、といった方が正しいだろうか。とにかくそれは、ひとつの絵だった。車輪に轢き殺された女の子の絵。中央に小さくぽつりと描かれている。今朝見た通りの夢の再来に、一体こんなことがあり得るのだろうか、と嘆く。なぜならこれはあまりにあり得ない話だったから。角には柳が一筆書きで書いたであろう簡素な鳥の絵が、紙を縁取る桜の木の花を啄んでいた。下に小さく打たれたアスタリスクの横に「桜に雀がキスしてる。桜がすこし羨ましい」と書かれている、ふざけた紙を手に取って、玄関を飛び出す。
おそらくこれは杞憂ではない。説明されたところで困るだけの、第六感としか言いようのない話だ。今頃彼女はスーパーで熟れた果物を選別して買い物かごへ呑気に放っている最中かもしれない、などという妙な信頼は、断じて持つわけにはいかない。起こってしまってからでは全てが遅いからである。しかし、この広い街を探し回るのはほとんど無謀と言っていいくらいだった。私は柳ではないし、柳は私でないのだから、何か目当てになるものを頼りに探らなければ、到底間に合うはずもなく、時間は今も一刻一刻とその針を進めていた。急がなければならなかった。
目的地を三つに絞る。小畔川、大学の屋上、森林公園。これ以外であれば探索は不可能だ。森林公園は電車を経由するから後回しだ。小畔川は、昼時では人目に触れすぎるが、候補を外すわけにはいかない。私は階段を下りながら描き置きを鞄の中に入れると、隙間から斜めに出っ張った本の角がちらりと眼に入った。それは今日柳に返すつもりの本だった。題名は──「車輪の下」
今朝見た夢と描き置きの絵。まだぎこちなく余りに頼りないが、点と点が繋がりを見せ始めた。川に流された少年、主人公の最後。小畔川だろうか?だとすると、描き置きはその上を通る線路の彼女か。
道を急ぎながら覚えている限りの柳の言葉を振り返る。まだそこに他の手がかりがあるかもしれない。森林公園に行った時の会話を辿ってみる。
『君の方から誘ってくるなんて珍しいね』
『見てよあれ。日輪と山みたい』
『ゾウだ。すごいゾウがいる』
『私は覚えてる』
『それで最近は、最初と逆のことをよく考える──』
岸に漂流した時に見たという原風景。最初と逆のこと。…やはり河川敷ということか。夏の日に、屋上へ出向いたときの会話はどうだろう。猫を追って、階段を上がる。イメージをトレースする──。
『開いた。覗いてみよう!』
『すごい。高い。ていうか、怖い』
『万里の長城かよって感じ』
『目の前に横切ってる河川敷、あれ小畔川だよ』
『今なら飛べそうかも──』
私はそこにピンと来るものを感じた。今なら飛べそうかも、という台詞。どういうことだろう。その次の台詞は確か、こうだったはずだ。
『飛べそうだと思わせるのは罪だと思わない?結末なんて分かりきってるのに』
──これか。そこに飛べそうだと思わせる何かがあるとしたら、あり得る話だ。推測はほとんど確信に変わる。小畔川か大学の屋上のどちらかだ。そうであるならば、先に調べるべきは屋上だった。あそこは一目で、いるかいないかの判断がつくのだから。
向かう先で、民家の横で眠っている老犬が眼に入った。悔しいが今は撫でてやれるような時間はない。昔に一度、この老犬を愛でてやろうと思ったきり、すっぽかしていた。でもまだ生きている。それならば後回しだ。尋ね先の友人はもう生きてさえいないのかもしれないのだから。
人影のひとつも見当たらない大学の門をくぐって、食堂の方へ向かう。そこの外れにある建物の角。あった。足がもつれる。長く続く階段を幾つも昇って、ドアの前へ。これは引き戸だ。思い切り引いてやれ。暗い踊り場に光が漏れる。そしてその先には──確かにいた。そこに彼女はいた。端っこの、段差の上に、こちらに背を向けた柳がいた。私は叫んだ。
◆
「なんでこんな馬鹿な真似しようと思ったの」
柳からの反応はない。何故と問えども返事はこない。ただ振り返って、その暗い瞳で私をぼんやりと眺めながら、突っ立っているだけ。少しずつ、慎重に、にじみ寄っていく。意識を問答の方に向けてくれさえすればいいのだ。狙いは近づくまでの時間稼ぎだ。私から柳までの距離は、現在、目測三メートル半。けれども遠い。ここからでは、柳が足を踏み外す時に走っても手は届かない。
「今なら飛べそうって柳は言ったよね。それはどこに向かって?飛ぶ必要なんてあるの」
三メートル。言いながら近づく。柳は何も言わない。まだ大丈夫だ。まだ平気。私は眼を彼女に向けながら、頭の中で言葉を組み立てていく。止めた足を再度、慎重に前へ進める。
「柳は、最初と逆のことをよく考えるようになったって言った。けれどもそれはどうして?そんなこと、考える必要、あるの」
「あるよ」
初めて柳が口を開く。声は私に足を止めるよう、警告するような鋭さをもっていた。これ以上は危険だと。声はこれ以上進めば足を踏み外すとばかりに響いた。高まる緊迫感の中、私は従わないわけにはいかなかった。それだけの覚悟がこいつにあるのか知らないが、それでも可能性がないわけではない。
「必要はある。みんな考えまいと、無関心を装っているだけで。なんでそう思わないのか、半分は不思議ではあるけれど、半分はそれなりに理解できる。今、鈴が尋ねたように、そんなこと思い詰めたってどうにもならないと、大多数の人間は知っているからね。無論、その通りだよ。どうにもなりはしない。それくらい分かりきっているよ。そうでしょ?」
「そうだね」
「それでもやっぱり、私のような人間にとっては、決行する必要があるんだよ。いや、他は知らないよ。そんなことは、どうだっていい。大多数の人間には、知ったことじゃないと、私が思われるように、私にとっても、逆は同じこと」
「柳は私の質問に答えてないよ。どうして?」
「そう為らざるを得ないから。他にある?」
「なんでさ」
沈黙。風が吹いて倉庫の壁をカタカタと揺らす。隅の方にある動かない換気扇たちが私たちの様子をじっと伺う。柳の向こうには青い空が広がっている。雲のひとつさえも浮かんでいない晴れ渡った空は、しかし今日に限って言えば、どうにも皮肉じみていた。そしてその下は、下に広がっているはずの固い地面は、途切れて見えないだけで、容易に柳を、原形を留めないほどに打ち砕くだろう。そこに今朝見た夢の彼女と、描き置きの中の少女が重なり合う。
「柳は桜の木が羨ましいって言った」
空に浮かんだ太陽が眩しい。しかしそんな日差しひとつにかまけている訳にはいかない。
「柳は何になりたいの?」
喋り返してこない。私は言葉を続ける。
「柳は何だか諦めちゃってる気がする。教えてよ。あなたは何がしたかったの?」
唇が微かに震えた。その反応の機微をひとつも逃さないように眼を見開く。少しだけ俯いて彼女は私を見る。指先も震えている。パタパタと音を立てる紺色のスカートからすらりと伸びた細い脚は、なんだかどこか頼りない。腕も、身体も、足も、表情も、今まで見てきた彼女とは違って見えた。肩はとても小さい。白いダッフルコート。長い髪がちらちら揺れて血色の無い耳が覗く。長い睫の下の鳶色の眼は、どこか寂しそうだ。これはあれだ。飛べない鳥の眼だ。今にも死んでしまいそうだ。だから、そう、あの描き置きの中の少女が、こいつの内面なんだと思った。
身体を引きちぎっていく車輪の轍が、どこまでも許せなくなる。同時にこいつ自身にも、なんだか嫌気が指してくる。そんなことより、なんだ、こいつは。こいつ、私が、どれだけ…くそ、こういう気持ちはよくない。いやもう、いいんじゃないか?もうこれは駄目だろう。堪忍袋の緒はとっくに百トンにもなる重りでぶつりと切れているが、私が怒らないのは、そういう気質からなのだ。どうでもいいのだ。自分にも嫌気が指してたまらないが、いや、そんなことさえどうでも良いのだ。止めよう。嗚呼。こんな話は私たちの柄じゃないはずなのに。なんだこれ。一気にすべてがどうでもよくなったぞ。気分は一気に氷点下だ。そうして私は、必殺の手札を取り出す。
「もう好きにしなよ!」
私は大声で叫ぶ。柳の頬がぴくりと動いた。眼に少しだけ正気が戻った気がした。何驚いてるんだこいつは?ふざけるな。私は畳みかけるように言う。
「でも柳が死んだら私も死ぬから!こっから!飛び降りるからね!」
駒は奪われたあと盤上を降りるか、今ここでゲームを放棄して、盤をひっくり返すかどうかだ。前者なら私の勝ちで、後者は引き分けだが、私が敗れることはない。チェックメイトだ。こんな馬鹿げた試合はもうお終い。
「…ふざけないで」
柳が睨む。あまりにも怖い目で睨んできたので、私は少し足がすくんだ。でもそれはこの屋上の高さのせいだから、と自分で自分に言い訳する。
「ふざけてないから」
「ふざけてる。鈴は関係ないでしょ」
「関係あるから」
「関係ない!」
「関係ある」
「関係ない」
「関係ある」
「関係ないって言ってるでしょ!!!」
初めての柳の怒号。腹の底から絞り出すような声は、けれども私を落ち着かせた。その理由はもう分かっていた。分かりきっていた。しかしそれを口に出すのは野暮というものだった。私は少し角度を変えて彼女に言葉を投げかける。
「柳は寂しくなったらいつでも呼んでねって言った」
「そんなの、関係ない…」
「約束も守れないの?」
「…でもやっぱり駄目だよ。道連れだからどうにかなるなんて、そんなのずるい」
「なんで?」
「これは私自身の問題だから」
「頑固だね。間違いなく死ぬのに」
「ごめん…」
「なんで謝るの?」
「いずれは、やっぱりこうなるんだと思うから。絵に描いたようなハッピーエンドなんて、在り得ないから。上手くまとまる話なんて、実際には訪れないから。だってそれは、全部綺麗ごとだから。やっぱり、どこか誤魔化してると思うんだ」
「だから死んで誤魔化すの?」
「そういう訳じゃない。でもいつか死んじゃうよ」
「別に今じゃなくてもいいよ」
「それはそうだけど…」
「戻ろう。ほら、手握って」
私は柳との間に張りつめていた残りの二メートル半を一気に通り抜けて、彼女に手を差し出す。柳はすこし躊躇った様子で、私の手を握り返した。そのまま二人で扉に向かって歩いていくと、散々走ってへとへとになった私の足が、今頃になって、緊張の糸が切れたのと同時に根を上げた。重心を崩した体が、ドカッと倉庫の脇にもたれかかる。柳の手を掴んだままだったので、彼女もまた倒れるように私の傍へ腰をかける。
「人生で一番疲れた…」
私がそう言うと、柳は申し訳なさそうな表情で俯いた。しばらくそのまま休憩する。安堵感が時間差でどっと押し寄せてくる。それに劣らないほどの疲労感が体中に広がったら、もう一歩も動けなかった。目をつぶって呼吸を整えると、私はこれで二度目になる疑問を口にすることにした。
「柳はなんでそんなに思い詰めてたの?」
今度は答えが返ってくるはずだ。震えた唇からついに出てこなかった言葉が。柳は俯いた顔を上げて空を仰ぐと、透き通った青色をじっと眺めた。私もそれにならって空を見上げる。雲一つ見当たらない、どこまでも晴れ渡った空。二人で空を眺めていると、何分か経ってから、ようやく柳が決心したようだった。私はそれを聞き逃さないように、注意深く耳を立てる。空を見上げたまま、柳が口を開く。
「…全部消えて行っちゃうなんて、全部流れていっちゃうなんて、悲しすぎるから。手に入れたと思ったものが全部、離れて行っちゃって…。でも、どうしようもなくて。手立てが欲しくて。何か残したいって思った。いつまでも消えない、形にできるものを…。例え幻想でも、私にはそれが必要だったの。まだ残ってるものがひとつだけあったの。私にとって、それを記すのはあまりに難しくて…もう、止めようかなって、思ったことが幾度もあって、それで今日は…」
ぽつりぽつりと、言葉を紡いでいく。自分の心から漏れ出る言葉を、想いを、誤らないように、空へ落とすように。それはおそらく、今日聞いた柳の話の中で、最も重要なものに思われた。私はそのまま静聴する。
「もう止めにしようって思ったの、書くことを。鈴と私の、これまでの話。いつまでも消えないものとして残したい話。流れていく物の只中へ、絶対に消したくない話だから。掲げたい話。そしてこれからの話。私は今、小説を書いてるの」
柳はようやくそこで口を閉じると、私の出方を伺う。私はもう一度、出された台詞を追いかける。ひとつだけ残っているもの、絶対に消したくないもの、柳と私の話、掲げたい話…。ああ、なんだ、そういうことか。こいつの考えていることが、ようやく分かった。そうであるならば、私の言うべき台詞はこうだろうと思う。
「最後まで書いてみせてよ」
「えっ」
「暇つぶしに読んでみたいから」
「読んでくれるの?」
「別に悪い気はしないしね」
「…そっか、うん。分かった」
空の様相はもう皮肉染みてはいなかった。青、青、青。あまりにも青としか表現しようのないほどの青空に向かって、それなら絶対に、ここで終わらせる訳にはいかないなと思った。そして良かった。こいつの手を掴めて。私の手を握り返してくれて。
「鈴のおかげで真っ赤な傷口が全部青に塗りつぶされた。ありがとう」
「別にいいよ。好きでやってるだけだから」
「えへへ…」
次第に疲れは引いていった。このどうにも煮え切らず、誰に気付かれるでもない、私たちのちょっとした事件に幕を下ろす時間がやってきた。私は立ちあがって柳の手を引っ張る。二人で起き上がると、軽くお尻を叩いて埃を落とす。
「それじゃ帰ろう」
いつか考えた代替不可能なものの話が頭を霞める。それは今この瞬間の、私と柳の物語だった。私も何か始めてみようかな。今度こそ。
ここまで読んで頂き感無量です。
次回は最終章の後日談となります。