四章 森林公園
季節は十一月の秋。草木は紅葉に移ろい、肌寒さが徐々に足を忍ばせてくる時期。私は学食にある窓側の席で一人パスタを食べていた。今は昼の休み時間で、講義を終えた学生たちが次々と食堂に入ってきて、役員に食券を渡したり、出てきたメニューをトレイに乗せて移動すると、それぞれテーブルを囲んで雑談したりで賑わっている。何人かで固まっている人達もいれば、私のように一人で食べている人も見られる。
フォークを置いてお茶を啜りながら窓の外に眼を向けると、奥の方の開けた芝生で、何人かの学生たちが楽しげにボールを蹴っているのが見える。その手前にある通路では、同じく学生たちがスケートボードを練習している。天候は晴れ。高い空の上の方で、綿飴にも似た雲が呑気にぷかぷか浮かんでいる。柔かい日光が窓を通して食堂に入り込んできて、音もなく影を縁取る。
ああ、今日も今日とてお茶がうまい。こうして外の敷地を眺めながらのんびりとお茶を啜るのが最近の日課になっているのだが、まだ花の大学生にして、数十歳は老け込んだ気分だ。芝生の奥に繁々と並んだ紅葉を眺めながらお茶を啜っていると、後ろのテーブル席に座った男女の会話が聞こえてくる。盗み聞きは好きではないが、自然と聞こえてしまうのだから仕方がない。幾つか言葉を拾っていくと、どうやらここから駅を下ったところに森林公園というところがあって、そこで今の期間に椛見が開催されているらしかった。
大学の景色をいつもの通りに眺めるのも良いが、この旬の時期に某所へ立ち寄ってみるのも悪くない。帰ったら森林公園の椛見について調べてみようか。皿に残った最後のパスタを口に運んで、私は席を後にする。
◆
「君の方から誘ってくるなんて珍しいね」
隣に座った柳がキャスケットの下から眼を覗かせて言う。あれから帰って検索をかけて、サイトに大きく椛見の宣伝が掲示されていたのを見た私は、メールで柳を誘ってみたところ、それなら今から行こうという話になったので、駅へ集合することに決めると、柳は大学の帰りにそのままやってきたのだった。
私は軽く相槌を返して正面に向き直ると、電車はガタゴトと音を立てながら私たちを運び始める。帰りの学生や社会人が散見されるが、車内はそれほど混んでいない。対面席に座った男の向こうで、窓から流れていく街並みを夕日が照らしている。時刻は五時。夏が終わり秋が来て、冬に近づくにつれて、だんだんと日が沈むのが早くなった。暗くなる時間帯が長くなると、どうにも気分は沈みがちになってしまうのが難点か。椛見はこのまま向かえば、夜に行われるイルミネーションイベントを見ることになるだろう。
大学の帰りに向かうことになったのはおそらく、お互いどうしようもなく暇だったからかと推測してみる。普段通り講義を終えて、暗くなる時間帯に一人家に帰宅するのは、なんだか寂しい気持ちがするのは、私だけでなく柳もまたそうなのだろうと思う。サークルにも入っていなければバイトもしない大学生が、家に帰って日が沈むのを眺めるのはなかなかにきつい。
それなら何か始めてみてはどうかという話だが、私は特に何かを進んで始めてみる気は持てなかった。いや、正確には何度か試してみはしたのだけど、その度に打ち負かされたといったところか。サークルは他人とのコミュニケーションが上手く取れずに通うのを止めてしまったし、バイトは夏の終わり頃に始めて、つい最近に根を上げてしまった。
大学付近の飲食店で給仕の仕事をしていたのだが、これが私にとっては大変な重労働で、週に二日程度のシフトでも散々に草臥れた。店長に辞める旨を電話で伝えると、最後に体調を心配されてしまったのを覚えている。
隣に座ったこいつからそういう話は聞かないが、そもそも全く興味がないようにも見える。世間の厳しさ。社会貢献という大仰な言葉に無頓着というか、茶を一杯啜ってそれで満足というような感じが、私に合っているのかもしれない。だからこそ必要に迫られた際の覚悟くらいは決めておいた方がいいのだろう。日々膨らんでいく負債をいつか返済しなければならないのと同様に、多額になるほど支払いは困難になっていくことを考えると気が滅入る。私たちの送る日々とはそういうこと。
景色は街を通り抜けると、木は生い茂り、田圃があちこちに広がり始める。向こうの山々の間に建てられた鉄塔が、長く長く奥の方へ続いている。車内の人たちは端末を弄ったり本を読んだり景色を眺めていたりして、それぞれ移動時間の暇を潰しているが、会話が聞こえないとどうしても喋りづらくなる。私たちは特に何を話すでもなく目的地に向かう。
駅へ付きホームへ降り立つと、辺りは寂れた場所だった。山々に隠れて今にも消えそうな太陽の差す光は、色彩を山頂に明るく照らすと、麓をもうくすんだ青に沈めた。藍銅鉱の空がホームの天井を突き抜けて線路の向こうまで広がる。森林公園という名前通りの場所だった。階段を昇った改札前の窓は額縁のように景色を彩ると、柳がわたしの肩をつんつんした。
「見てよあれ。日輪と山みたい」
「日輪と山?」
「うん。日輪が山に溶けてるあの部分は絶対どこかに繋がってるよ。そう思わせる何かがある」
「トイレとか?」
「なんでやねん」
「身近なところで攻めてみた」
「宇宙に上る銀河鉄道の改札とか、浪漫を感じるものはないの?」
「でもあれだけ遠くに行ってトイレが無いのは厳しいと思う」
「それもそうだ」
駅前に降り立ってターミナルのバスを確認する。私たちはそれに乗り込むと座席は既に満席だった。つり革を掴んで窓から流れていく街路樹を幾つか見送るとすぐに目的地についた。駐車場は広く、沢山の車が停まっていた。ゲートに木造のハウスが建っていて、横側に受付があり、入り口にチケットを確認する役員が立っている。そこに沢山の家族連れやカメラを持った観光客達が集まっている。バスを降りた私たちの背後からも多くの人が流れてきた。
「公園っていうか遊園地みたいだね」
「ライトアップがもう始まってるみたいだよ。はやく入ろう」
◆
入口のゲートを通るとまず木々に覆われた中央広場に出る。どの樹木にもコードが巻かれて鮮やかな色を空高く演出している中、沢山の観光客がそれぞれ展示された作品の前に集まっては、しげしげと眺めたり写真を撮ったりしている。中央の噴水に浮かんだ色とりどりの灯篭がちらちらと揺れて、下から噴射される水飛沫はメロンソーダを思わせる鮮やかな緑色になったかと思うとラムネのビー玉にも似た爽やかな水色に変化してたいへん美味しそうに光っている。そうして夜の暗闇に包まれてぺかぺか光る広場の人だかりを縫うようにしてふらふら歩いていると、柳が私を呼びとめた。
「見てみてゾウだ。すごいゾウがいる」
果たしてそこにはゾウがいた。コードで縁取られた輪郭の内側に沢山の網目状の糸が張り巡らされていて、雨の日の翌朝クモの巣に垂れた水滴が透明な真珠の数珠つなぎを一晩で形成するように、体を青色の粒で光らせている。眼には焦点の合わない黄色い大きな玉がぽこりと収まり、長い鼻を下に落として草を食んでいる。
「よくできてるねー」
「群れからはぐれてしまったが最後…」
「写真撮ろっか?」
「撮ろう撮ろう」
ゾウと並んだ私を柳が撮る。
「ねえ鈴。ぱおーんてしてみ。パオーン」
「どうすればいいの…」
「多分両手を軽く前に挙げて凛々しく月に向かって吠える」
「やだよ恥ずかしい」
「やってみなよ、何事も経験だよ」
経験の重要性をこいつにだけは説かれたくないし、結構ウザいタイプの振りだなあと思いながらも、しかしそうでもしなければ撮ってくれない様子だった。それにここはひと気が多い。私よりもひと回り小さい子供が隣ではしゃいでいる。ここでぐだぐだ時間を浪費しているのもなんなので、観念して柳に言われたとおりの振り付けをしてみる。両手を軽く前に挙げて小さく口を開く。
「はいチーズ」
「ぱ、ぱおーん」
「はい、撮れました。めっちゃ可愛いです」
「なんだかどっと疲れた…」
「めっちゃ可愛いです」
こいつ一体なんなんだ。それになんか照れる。
「分かったよーそんな推すなよー」
「え?ゾウ可愛いじゃん」
「ゾウかよ!」
「ナイスつっこみ」
「はぁ…もういいよ」
「ごめんごめん。いや鈴も可愛いって」
「次は柳ね。絶対自分で言ったことやりなよ」
「うわ、眼が座ってる…」
写真を撮ったら柳と分かれてその場から移動する。他にも船や電車を模した木がライトイルミネーションを身に纏い、人々の注目を集めている。広場を抜けて階段を上がる途中の横に茂った草木には、孟宗竹を切り抜いて内部に電灯を入れたオブジェや、たんぽぽの綿毛に似た細かな斑点が集まって光るミステリアスなオブジェが並んでいる。
階段を昇り終えて一本道に出ると、側面にずらりと一定の間隔で灯篭が設置されており、園内に植栽された楓の木を仄かに照らしていた。それはこの椛見のメインイベントである楓の見本園で、案内によると、野生品種と園芸品種を併せて合計およそ五百本余りが植えられているようだった。地面が隠れるほどの落ち葉を踏みしめて近づいていくと、太くしっかりした茎根から尖端へ向かうにつれて幅をするりと鋭利に狭めた枝に、傘状に覆われた豊かな紅葉が重い頭をもたげて、その葉の一枚一枚が微かに異なる濃淡を浮かべていた。
万華鏡のようにライトアップされた朱色のグラデーションを観光客の流れに沿ってゆっくり抜けると休憩所につく。多くの人がそうしているように私もベンチの一つに腰をかけて後から来るだろう柳を待つ。しかし随分と飽きさせない造りになっているなぁと感心してみる。どれもこれも季節が過ぎれば回収されてしまう代物だが、それをこうして寄せ集めることでひとつの世界を創り上げている。さきほどゾウの手前ではしゃいでいた子供は、この日に見たものを記憶として残し続けるだろうか。紅葉を眺めながら歩いていく観光客たちもまた、写真に映すことで一瞬の記録を残そうとしている。
それはおそらく、常に連続的に変化していく物事の只中にあって、なにか変化しないものないしは固定的なものを同時に保とうとする欲求を、人は無意識にしろ持っているからだろうと思う。しかし時間的にも空間的にも広がりを持つ存在は絶えず自己組織を構成する要素を流動的に変化させる以上、記憶もまたその範疇を越え出ることはできず、想起は常にその位置をずらしながら反復せざるを得ない。私は前のベンチに腰を下ろして身を寄せ合っている恋人達を祝福しながらそのようなことをぼんやりと考えるが、これは決して羨ましいとか嫉妬とかそういった類のものから来るものと誤解されては困る。
「ごめんお待たせ。…ってもしかしてまだちょっと怒ってる?」
「え、どうして?」
「気難しい顔してたから。そうじゃないなら良いけどね。それじゃ行こう」
休憩所を抜けて柳と二人で歩いていくと丸く開けた場所につく。それはこのイベントの最後の催しで、看板には花壇のイルミネーションと書かれていた。辺り一面に花壇を模したモチーフの展示物がにょきにょきと光をうごめかせる。奥は行き止まりなので、必然ここには一層多くの人が行ったり来たりして道を塞いでいる。私たちは溢れる人だかりを周りこむように移動して展示物を眺める。花々に蝶々が戯れ、カボチャの馬車を兎が引っ張っていく。よく見ると、丸太を切り取った窓の中で小さいクレヨンの住民がよろしくやっており、お伽噺の中に放り込まれたように愉快な空間を演出している。そしてこれは…きのこだろうか?中央に際立って大きなきのこがひとつ怪しげな微笑を浮かべて佇んでいる。
「うわキモッ!」
「柳、声が大きいよ…」
「いや、これは…ううん?私の背丈よりずっと大きいな。こいつも全部木材で出来てるのか」
大きく生えた木の樹皮に丸太を輪切りにした眼が二つと、途中でばっさり切り落とされた枝の鼻がその間にずんぐりと収まり、曲がった枝が二本合さって楕円形の口をつくる。影が浮かび上がって表情に不気味な立体感を与えるのは、根元に備え付けられた照明がその役割を果たしているからで、伐採された木の上の網で覆われたピンクのバルーンは、膨張した脳味噌のように胞子を毒々しい色に膨らませる。遠目で見るとカラフルなブロッコリーにも映るが、近づくにつれて鮮明さを増す黒ずんだ樹皮と不味そうな胞子は誰がどう見てもここにきのこを認めることだろう。それも毒きのこ。
「それにしてもキモいなぁ…」
「これだけ周りから浮いてるよね」
こいつはアレな感じがする。アレの象徴。私はなんとなくそう思う。ただそれを問うとまずいことになるくらい容易に想像がつくので、口には出さないだけで。二人でしげしげと毒きのこを眺める。
「食べたら死にそうだ」
「煮込んでも駄目かなあ」
「鈴はきのこを食べたアリスがどうなったか知ってる?」
「腹痛で死んだとか?」
「妥当な推測だけど違う。可笑しな話だけど、背が伸びたり縮んだりしたのだ。奴は芋虫が座っていたきのこを生で食べた。衛生的な知識を欠片も持ち合わせていない…」
「それこそ腹痛になりそうだね」
私たちには到底真似できない芸当だ。不思議の国のなせる業は私たちの世界では通用しない。きのこを噛んでも背は伸びないし、草木に舞う蝶々はあっても、カボチャの馬車を引く兎は存在しない。そんなものはとうの昔に過ぎた話だ。それでもこの毒きのこはどちらの世界にも同様に首をもたげて怪しげな存在感を醸し出すと、丈をビンビンに伸ばしてケタケタ笑った。
「鈴は生まれた時の記憶を覚えてる?」
首を横に振る。ぼんやりと小さい頃の記憶は覚えているが、それらはどれもイメージであって、事実としてあったものかどうか確かめようがなかった。
「私は覚えてる。いや違う、イメージかな。正しくはその時のイメージを思い出す。もちろん大なり小なり事実は違うよ。最初は黒醤油のカップ麺みたいな油の混じった海に、黒い次元の穴からぽーんと投げ出されて、激しい濁流に呑まれるんだけど、モグラが土を掘るようにもがいた手だけが溺れた眼の黒い渦に映って、それから岸へ運ばれた。浅瀬から体を半分だけ起こして空を見上げるとね、雲のカーテンから光りが差し込んできた。そこで始めてものが照らされるのを見た。貝とか砂とか小石とか、海辺の岩とか高いところに背を伸ばした木々とか。矢を射るように物体がそのものの圧迫感をもって飛び込んできたのをみて、ああ、こんなものは今まで知りもしなかったって、でももう私はそこに包まれていて、それでものすごい恍惚感に襲われた。私の他にも何人かいたっけな。みんな空を見上げて口をあけて小鳥が餌もらうみたいに間抜け面してた」
柳はそこまで言い終わると端末を取り出してきのこの写真を一枚ぱしゃりと撮る。私はきのこを見上げながら注意深く柳の話を聞いていた。柳は私が何も言わないことを確認すると、一呼吸おいて話を続ける。
「このイメージは昔ベッドで眠ってる私を起こしに来たお母さんが部屋のカーテンを開けたときに見た夢で、その後すぐ眼が覚めちゃったから、実際のところ全く事実ではないんだけど、まあそれでもかなり昔のことで、それからずっと強く印象に残ってたってことだよ。こういうところに来るとたまに思い出して、なんとなく考えちゃうんだけど…続けていい?」
私は頷いて続きを促す。
「幼いころは体が弱くて、いつも熱を出してた。夢なのか現実なのかよく分からない時が多々あって、夜うなされている時にはよく嫌な夢を見た。きのこの夢も見たよ。丁度今私たちが見てるこれみたいな。でも、そういうのを見るにつれて、私はなんでここにいるんだろうって不思議に思うようになった。それで最近は、最初と逆のことをよく考える…」
柳の言葉を追ってそれに解釈を加えていく。最初は生まれる時の夢、続いて曖昧なイメージ、そして最近はその逆のこと…。逆のこととはなんだろうか。生まれることと逆のこと。それに思い当った私の体は硬直する。私の前にはきのこがにょっきと生えている。私はそれをぼんやり眺める。きのこは笑いかける。一体何に笑いかけているのだろう。きのこは菌類。きのこはアレだ。アレの象徴。お伽噺の世界の真ん中にそそり立つきのこ。蝶々に兎にカボチャの馬車を見下ろして笑うこいつに対して、私はどういうリアクションが求められているのだろう。分からない。笑い返せばいいのだろうか。表面を撫でてやればいいのだろうか。そうしたらこいつはきっと嬉しそうに脳味噌から胞子を飛ばして…ああ、作ったやつはどこのどいつだ。鋏でこいつを切り落とすか。そんなことをしたところでどうにもならない。頭のおかしい奴が一人連行されるだけだ。詰まるところ、こいつは否定できない代物で、私たちは頼りなくそれと対峙するしかないのだった。
「それにしても、とんだ羞恥プレイを考えるやつがいたもんだ。製作者はきっと遠目で鑑賞者を見てるよ。それで私たちがどういう反応を示すか、推し量ってるかもね」
柳がぼやく。流石にそれは考え過ぎだろうと思うが、確かにこのモチーフは一風変わって露骨だった。ゲートを潜ったところにいたゾウはまだ可愛いものだった。今私たちの周りでは観光客がそれぞれ注意深く展示物に視線を投げ掛けたり、談笑しあったり、写真を撮ったりしている。そうして折り返して帰っていく人達は皆、満足気な表情を浮かべていた。花壇のイルミネーション。きのこは醜くもあり愉快でもあった。生と死のモデルはある不気味さと明瞭さを持って私たちに迫った。きのこは無言で何かを語った。それは循環だった。岩をどかすと湿気を含んだ地面に這う虫が現れるように、表面を一枚剥がした裏側には、あまりにも純粋な意志が隠されている。
建物の方からアナウンスが流れた。それは閉園が近づいていることの報せだった。私たちはもう一度きのこを見上げた。出し抜けに柳が言う。
「戻ろっか。多少名残惜しい気もするけど、このきのこともお別れだね」
「そうだね、全然名残惜しくないけど」
「最後にこいつの笑みにどう答えたらいいか、ねえ鈴、教えてくれないかな…」
柳はきのこを見上げたまま尋ねる。その横顔は最初に彼女と出会ったころ、散った桜を綺麗だと言った時に見せた、儚げな、頼りない表情と重なった。私はその意味をようやく理解した。ここまで彼女と付き合ってきて感じたこと。変化していくものに対する諦めにも似た感情。変わり行く景色の中で置き去りにされたような閉塞感。或いは経由したものをひとつも留めておくことの出来ない無力感。或いは距離。規定された単位によってはついに図ることの出来ない距離だった。
私はどう答えればいいのだろう。何が正解とまではいかずとも妥当なのかを考える。そうして柳に届く言葉を探す。記憶を振り返りながら紡ぐ言葉を探っていくと、一つの景色が浮かんできた。白い部屋の中で私と柳が楽しそうに歌っていた。それは戦争映画を見たあとの、過ぎ去っていくものを送る唄で、提案したのは柳だった。今度は私が彼女に答えを示す番だった。それに気づいたら、もう言葉は決まっていた。もちろん公共の面前で歌うわけにはいかない。
「ぱおーんでいいんじゃない?」
「えっ、なんで?!」
失敗した。柳が驚いた顔でこっちを見ている。その障子を開いた襖のような口に思わず私は笑ってしまう。流れの途中でのだしぬけの変化。でもまあ、私たちはこれくらいのやりとりでいいんだと思う。思いつめて面倒くさくなるのは苦手なのだ。気を取り直してもう一度。
「笑って手を振ってさよならで。そしたら私たちも振り返らないで帰ろう」
◆
騒音が私の鼓膜を刺激する。腹を空かせたイルカの時計がキィキィ鳴いて私を夢から叩き起こすが、生憎くれてやる餌は無い。布団を剥がして起き上がると、ヒレを叩いてもう一度布団に倒れる。二度寝である。しかし、講義に遅れないように計算して起きなければならない。また螺子を巻いたように繰り返される日常が始まるのだった。だるい。人はアラームのない時代どうやって起きたのだろうとどうでもいい思考が頭を掠め始めると、不意に枕の横に置いた端末が振動した。
入る気もないサークルの連絡網のメールはとっくに止んでいたが、代わりに迷惑メールが来るようになった。その積もったメールの一番上に、柳の件名が表示された。中を開くときのこの写真が添付されていた。
それは昨日見た通りのきのこだった。私たちはあの後、申し訳程度に笑いかけたら手を振って帰ったのだった。それは明らかにおかしい人の身振りであり、周りの観光客は私たちに一瞬怪訝な顔を向けたが、私たちはそれで満足だった。さわやかに別れるのが私たちの間の了解だった。画像の下には「いちニョッキ!」と書かれていた。私と柳ときのこでさんニョッキが限界だったので、私は苦笑して寝転がった。
ここまで読んで頂き有難うございます。
次は五章になります。