三章 屋上
小畔川で花火をしてから数日が過ぎた。私たちはあれから大学の図書館に通うのが日課になっていた。普段の大学生活でさえ暇を持て余すのに、夏期休暇は二ヶ月も期間が設けられているので、怠惰な生活に身を浸り切った私はさながら水を得た魚といったところか。しかし募る危機感は少しでも時間を有意義に活用しなければならないと心の底で叫ぶので、こうして太陽から放射される殺人的なレーザーをかいくぐって、冷房の効いた図書館まで足を運ぶことにしたのだった。
アパートから大学までは十分足らずだが、それでも通学は相当な冒険で、干上がった魚が波打ち際で口をパクパクさせるように歩道を歩いていくと、アスファルトに反射した日光が道行く車の廃棄ガスと合さり大気を朦朧とさせて、遠くの方から聞こえる蝉の声はミンミンと私の鼓膜に突き刺さり、足取りを一層おぼつかなくさせるのだった。この夏真っ盛りの時期にだけ、セミは必死に歌うことで己の命を主張する。かたや私は死んだ魚の眼で地表を泳ぐ。蝉はすごい。蝉は短命。蝉は儚いが、精一杯生きている。見習うべき態度だった。
門を潜った頃にはもう汗が滴り落ちているので、図書館に入って二階に上がり、いつものように隅っこにある横に長く伸びた机の前に腰をかけると、数分は放心することになる。向かいの席にはいつも通り先に来た柳が本を開いて座っていたが、視界に私を認めると静かに手をひらひらさせた。時刻は十時。広い空間の中に数えるほどの人影が映るだけで、私たちの他にはほとんど誰もいない。
一息ついて窓の外を眺める。空は見渡す限りの快晴。窓の縁から飛行機が音もなく飛んでいくのを見守ると、鞄をあけて本を取り出す。朝のニュースによると今日の最高気温は三十度にも昇るようだった。ニュースキャスターが涼しげに告げる真夏日の気温情報にため息をつくが、弱音を吐いたところでどうにもならない。気分が平常に戻ったら本を開いて栞を取り出す。
二人で静かに本を読む。ささやかな空間の中、静止した物の時間はその針を止めたように、所々備え付けられた本棚が私たちの周りをぐるりと取り囲んでいる。分厚い冊子が幾つも並び、知の蔵書は圧倒的な数量を持って私たちに迫る。それらはそれぞれ異なる年代、異なる場所から入荷され、一生かけても読みつくすことは出来ないほどだった。
「人間は本質的に有限な存在である以上、有限個の努力は、無限にはなりえない。夢と幻は、達成されない──。」私は本に書かれた文字をなぞっていく。本は私に諭すように語りかける。時間の制限に縛られて、それでも人間はいつか全ての事象が自らの手の内に収まる日がくると思ってしまうものだ。
前に柳が沢山の物に締め付けられるような圧迫感を感じる、と言っていたことを思い出す。そして今私の感覚をそれに当て嵌めて考えてみたら、なんとなく腑に落ちるような気がした。前にいるこいつは至って平然な佇まいをしているので、まあ図書館などは大丈夫ということなのだろう。その基準がなんなのかは、些か曖昧だ。
どこにいっても物は溢れかえっているが、作られた物に値段を付けて、それを売買して経済はまわるのだから、必然的に物で溢れかえるようになるのだ。普通に暮らしていく上で不必要と思われるものには、進んで広告や宣伝を入れてものを買わせる。それで利益を得るという仕組み。コマーシャルなどで煽られているものは、そのほとんど全てが、ほんとうは必要のないものだ。煽らなければ買われることはないのだから。
私は文字を追いかけながらそのようなことに思いを巡らせる。有限な時間の中で、溢れかえる代替可能な物の中に埋もれて、窒息してしまわないようにするために。どこに行っても何かがある以上、どこに行っても何かがあるのだから、本当に必要なものがなんなのか、自分で決めなければならなかった。なにもかも還元されてしまうのであれば、それは生きていないことと同じだった。でも、私にとってのそれとはなんだろう。
◆
空腹感に気付いた時には、時刻は十二時を回っていた。栞を挟んで本を閉じると、うたた寝していた柳に眼を向ける。視線の合図に彼女は眼を覚ますと、今が丁度昼時であることを察した。横の椅子に置いた鞄へ荷物をしまい外に出る。食堂は夏期休暇の間ひとつを除いて全て閉まっているが、そのひとつも昼の時間帯しか開いていないのだった。私たちはそこに足を向けて歩き出す。
太陽は一層ぎらぎらと光って、アスファルトや芝生の緑や花を開かせた紫陽花の上に降り注ぎ、全体として灰色を基調とした学内を、明るい新鮮な色へ変貌させる。幸い湿気もないので不快指数は上がらないが、いつまでも外にいるわけにはいかない。
食堂のそばにある駐輪場まで来ると、柳が「猫だ」と木立のあたりを指差した。視線の先には灰色の猫が鍵しっぽをぴょんと立てて、丸めた手足をしなやかに音もなく運びながら、楠木の前をうろついていた。
眼を奪われている柳に「撫でてく?」と尋ねると、彼女は少しだけ期待の眼を向けて頷いた。そういえばこいつは猫が好きだった。ゆっくりと猫に近づいていく。どうやら逃げる気配ない。特に警戒もしていないようだった。人に慣れている。柳が「よしよしよし…」と手をこまねく間にちらりと食堂の方に眼を向けると、奥の方に備え付けられた従業員用の出入り口に、廃棄用の倉庫が見えた。おそらくこの猫は余りものを預かりにでも昼時ここへやってくるのだろう。
「よしきた…あれっ」
猫は柳の手をすんでのところで逃れると、食堂を逸れて、学内の外れにある大きな建物の方へ向かっていく。柳は猫の後を追う。もはや周りがみえていない。私もそれについていく。
猫は建物の隅へ歩いていくと、角を曲がって視界から消える。私たちもならって角を曲がると、もう猫の姿は見えなくなった。
「逃げられちゃったね」と私が言うと、柳は不服そうに表情を霞めたが、それは猫の自由さ故に許容される、もしくはまさにそれが猫の捉えどころのない長所であると一人納得すると、自分の不満に決着をつけたようだった。
建物の角には中に入る階段が開け放たれていた。猫を追う必要もなければ誰も近寄らないようなこの場所に、ひっそりとそれはあった。電灯さえついていない階段の奥からは、夏の熱気と不自然なほど調和しない、コンクリートのひんやりした空気が漂ってきて、私たちに昇るように無言で告げていた。私は抗いがたい引力を感じた。
「猫はこの階段を昇っていったんじゃない?」
柳はそう言って中に入っていく。どうやらこの階段はこの建物を昇るためだけに備え付けられているようで、その他は廊下に出るための通路もなにもなかった。地面はかつかつと音を立てて、奥へ進むごとにコンクリートの灰色は、闇にまぎれて色を一層深く黒く落としていく。私はそれに少しの寒気を覚える。ここは苔むした廃墟を思わせる。
昇っても昇っても終わりが見えない階段に足が根を上げ始めるころ、ようやく行き止まりの踊り場に到着する。寂れた胴の扉がひとつ蓋を閉じられていて、その上にひびの入ったステンドグラスが備え付けられている。この階段を上がる間、猫は姿を見せなかった。柳の推測は外れだ。
「猫いないね」
「林の方へ逃げたのか…。考えてみれば、ここに追い詰めてとっ掴まえる訳にもいかなかった」
「そうだね。まあ、いいんじゃない?」
取っ手に手を伸ばして押してみるとガタンと扉が揺れた。案の定施錠がかかっているらしい。当り前といえば当たり前の話か。大体どこでも屋上への扉はロックされている。そもそも入る必要のない扉だ。階段を降りるのは昇るよりも楽なので、私はここで佇んでいるよりは早く戻るよう柳に告げる。柳が私の前に出て扉に手を伸ばす。私は階段を降りはじめる。
「開いてるみたいだよ」
「えっ?」
踵を返す。柳が扉を引っ張ると、暗闇の中にすっと光が漏れはじめる。
「これ引き戸だ、重い…」
押して駄目なら引いてみろとはよく言うが、それがそのままの意味で現実に起こるのを見たのはこれが初めてだったので、私は感心して事実を受け入れる。一方向からのやり方だけではなく、違うやり方をしてみたら簡単に問題が解決することもあるらしい。開け放たれたドアから光が一斉に飛び込んでくると、どんよりとした踊り場は息を吹き返して、外来の尋ね者を歓迎した。扉の上のステンドガラスが透明な青色に浮かび上がる。
「開いた。覗いてみよう!」
◆
貯水池は一点でも穴を穿たれると、そこから勢いよく水が流れ込んできて、壁そのものが水圧によって決壊するという。あるいは暗いトンネルを抜けた先で果てしなく続く青が空高く世界の広さを主張して、眩しい光に眼が眩むように。光と影は両者とも、ひとつの姿の片面であり、それらは互いに交差する時、赤々しい血が真っ青な血管に流れ込んできて、芯にある白い心臓を力強く波打たせると、体中に生の脈動を打ちつける。私たちの見つけた屋上の澄んだ空は、さしずめそんなところ。
「すごいね。こんな場所があったなんて」
屋上の端には丸いアンテナが一台、首を太陽に向けて伸ばしていて、一輪の向日葵を思わせる。その横に、何かを測定する装置が倉庫と一緒に腰を下ろしている。他にも何に使うのか分からない装置が放置されたまま、そこかしこに転がっている。可動していない換気扇がいくつか並んでいるのを横切って奥にある段差に向かって歩いていくと、そこからは、この街を一望できる景色が私たちを待ち受けていた。二人で端っこまで来ると首を伸ばす。
「すごい。高い。ていうか、怖い」
「柳は高いところ苦手?」
「苦手というかこれは本能だよね、人間の」
見渡すと、地平線には青い山々が遠くにそびえて、まだ見ない景色をその向こう側に暗示させる。どこまで歩いて行っても原理的に跨ぐことが出来ない地平線という境界は、私たちに何かを予感させる。決して取り込むことの出来ない、認識の蚊帳の外にある未知のもの。こちら側でさえあまりに多くの物、者、モノに溢れていて、それらのひとつひとつが今、私たちの眼の前に、姿を現すのだった。積み木を崩したように家々が区を隔てて並び、その建物から、窓から、玄関から、決して知ることのない人たちの生活が、少しだけ顔を覗かせるのだ。毛細血管のように張り巡らされた道路からは、赤、青、白の車が、いくつもいくつも目的地に向けて流れていく。日曜日の真昼間に、社会はひとつの生命体のようだと、私たちは俯瞰で眺める。あらゆる有機的な関係が織りなすひとつの風景。
「あの山の間にずーっと並んでる鉄塔はさ、人間が電気もない時代にカンカンやって作ったんだよね。万里の長城かよって感じ」
それは大げさだと思うが、考えてみると実際すごいことだ。鉄塔は途切れることなく続いている。文明の力はすごい。
「目の前に横切ってる河川敷、あれ小畔川だよ。私たちが花火やったところはあそこだね」
柳が指を刺す方へ眼を向ける。線路と河原が十字に交差しているあの小さい河原で、私たちは先日花火を楽しんだのだった。近くで見る景色と遠くから眺める景色の違いはどこか不思議な感じがする。そうして私はここから、あの日楽しんだ景色を眺めてみたいと思った。あの河原で柳と私が楽しそうに花火をしていて、場が私たちを包み込んでいるのを、この屋上から眺めるのだ。それは多分気恥ずかしくもあり、でもおそらく、そのときの気持ちは、ここからは汲みつくすことはできない。おそらくそこが主観と客観の違い。私はそう思う。河原の道の上では米粒くらい小さく映る人々が呑気に散歩を楽しんでいる。澄んだ青空に図書館の窓から見上げた時に通った飛行機の跡が一本棚引いて、私たちの上に弧を描く。
「今なら飛べそうかも…」
柳が呟く。確かにここはずっと留まっていた窮屈な場所から抜け出してきたような解放感がある。
「飛べそうだと思わせるのは罪だと思わない?結末なんて分かりきってるのに」
風が柳の髪を揺らす。背中に羽が生えたら彼女は本当に鳥になりそうだなと思いながら、一足遅れてその唐突な言葉の意味に思いを巡らす。
「なんてねー」
望遠の瞳を和らげて笑いかける。表情に寂しそうな影が少しだけ影を落とす。なんだか知らないが雰囲気が勝手によろしくない方面へ向かっているのを察知した私は、柳を勇気づけるために話題を変えなければならないと思った。その矢先に私のお腹が、当然きゅう、と音を立てる。おい空気読め。
「ご飯食べたい…」
私に考える体力は残っていなかった。互いに顔を合わせると、一拍子おいてから、柳がくすっと笑い、そこから、ふふ、と漏れる声を留めるように腹を抱える。空腹を訴える瞳が柳を貫いたら、そのあまりに間抜けな切り替えしが、幸いにも場を和ませる契機になってくれた。
「食堂いこうよ」
私がそう提案すると、柳はついに堰を切ったように笑い出した。扉をくぐって階段を下りると、食堂に向かった。冷麺が季節限定で販売されていたので、私たちはそれを食べた。照りつける太陽に憶すことのない涼しげな風が頬を撫でて、もと来た道の紫陽花を揺らした。
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四章に続きます。