二章 小畔川
部屋に一人閉じ籠もってからどれほどの時間が過ぎただろうか。夏期休暇に突入してからというもの、外出する用と言えば、週に一度スーパーで食材を購入する際か、近くのコンビニへ立ち寄る際に限られた。一般的な学生はこの夏、海に出かけたり合宿したりするのだろうか。しかし私は人付き合い自体にストレスを感じる種類の人間であり、遊びに誘える友人も多く持たないので、そのような事情には疎かった。暑いのも好きではないから、部屋を出る気も起きなかった。
目覚まし時計を設定する必要がないので、私の生活は爛れきっていた。一日ごとに就床する時間が微妙にずれていって、ついには朝日が漏れて小鳥がさえずり始めるのを合図に布団へ潜るようになった。そうして日が暮れ始めた頃に起床すると、あっという間に一日が終わる。私は今日も寝間着のまま、布団の上で本を読んでいた。冷房の効いた部屋は私の王国だった。
ふと、遠くの方から祭り囃子が聞こえたので、窓の外に眼を向けると、日は既に傾き始めていた。読んでいた本に栞を挟んで起き上がると、クッションを抱きかかえて背中を壁に預ける。そうしてこれまでの大学生活に思いを馳せてみる。
なにか一つに夢中で取り組んだこと、誰かと楽しく笑い合った日々、そんなものは存在しなかった。この半年はただ無為に流れていった。私は軽く絶望したし、その度に何度も立ち直ったが、そうしたところで仕方がなかった。確かに言えることは、鬱々とした気分になる日が急増したということだ。人間なにか目標を持たなければ腐っていくものだとしみじみ思う。しかし私は面倒臭いこと全般が致命的に苦手なので、まるで抵抗する手立てが見えてこない。全ては私の責任である。
部屋に小さく届く賑やかな祭りの声を聞きながらブルーな気分に浸っていると、テーブルに置かれた携帯が点滅した。見ると、入る気もないサークルの連絡網の一番上に柳のメールがぴょこんと表示された。
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「いらっしゃい」
チャイムを鳴らすと柳が玄関から顔を出して私を招き入れた。流れるように首から落ちた横髪が、白いシフォンチュニックのバタフライスリーブに掛かっていた。靴を脱いで部屋に上がると、冷房の効いた風がひんやりと頬を撫でる。しばらくすると、うなじに浮かんだ汗はひいた。
メールには『家に来て』とだけ書かれていた。私はそれから用意をして家を出たのだった。柳のアパートには五分程度でついた。幸いにも外の気温は普段よりも低く、湿気もなく空気は澄んでいたので、歩くことはそれほど苦にはならなかった。私はテーブルに腰かけて、理由を聞き出そうと柳の方を見た。柳は冷えた麦茶とビニール袋を持ってきて、コップをテーブルの上に置くと、私の横に腰を下ろして袋を広げてみせた。中には花火セットがひとつ入っていた。
「どうしたのこれ」
「こないだ実家に帰った時に持ってきたんだ。今日こっちは祭りがあったみたいだね」
さきほど聞こえた祭囃子がどこで行われていたのかは知らないが、この付近ではないようだった。おそらく駅を跨いだ向こう側だろう。花火セットを手にとってしげしげと眺めてみる。けっこうでかい。
「これから花火しようよ」
「いいけど、どこで?」
「河川敷はどうだろう」
河川敷はここから大学へ向かう道を越えた先の県道を歩いていくと、横に抜けた住宅地に沿って奥の方まで続いている、小畔川と呼ばれる大きな川が流れている。駅へ向かう方角とはずれるが、少し歩けばすぐに着く距離だ。私はそれに反対する理由もないので頷く。
「それじゃあんまり遅くならないうちに行こう」
麦茶を飲み干して立ち上がる。カーテンを閉めて部屋を空ける用意を整えると、柳はビニール袋を片手に早速玄関へ向かう。私もそれに従う。玄関を開けると、夕日が斜めに暮色に輝き、子供の頃の懐かしい情景と私たちの灰色の現在との間を揺蕩うように、このどこかで行われている遠い祭りのささやかな息遣いが漂ってきた。茜色の光の中に前を歩く柳の髪はさらさらと揺れて、薄い光の境界をあいだをきらきらと光った。階段へさしかかると、車の上で寝ていた猫がにゃあと鳴いた。
◆
河川敷を歩いていくと、様々な風景が私たちの眼を惹いた。姉弟が公園で遊んでいるのを見た。小さい男の子の方が、小鳥のように軽い体を弾ませながらブランコを漕ぐのを、隣で同じようにしていた姉が笑いながら見守っていた。二人は夕日が沈むまでの束の間の休息を、めいっぱい楽しんでいるようだった。河原にある階段を下りると、川に沿った歩道の通りで、大きな犬を散歩につれた老人が静かに歩いていた。犬は草の茂みの方にいくと、せわしくなく片足をあげた。それから川を泳ぐ鯉を見つけた。少し手前の川上で仲睦まじさと柔かい含みを湛えた老夫婦が餌を流していた。反対側の河原では、夕日を背にした高校生のカップルが、二人乗りの自転車を漕いでいくのが見えた。全ての風景が暮色に彩られた。夏草とみずみずしい川の匂いが、遠い音楽を奏でるようなを懐かしさをもって、鼻腔を仄かにくすぐった。
私たちは高架下の横のアスファルトに腰をかけて夜を待った。二つ三つ電車が線路を軋ませながら走っていくのを聞くと、夜はすぐにやってきた。日が沈んでいくにつれて高架線を照りつける光は角度を斜めにしていって、それから暗色が空を次第に塗り潰していくのを見送るのは、心地良いものだった。私はたったそれだけのことを、これまで何度もしてこなかったように思う。通りがかる人影はもうなく、草木はその色を一層深く暗くした。静寂と平穏が辺りを包むと、遠くの空に小さい星がひとつ浮かんで、きらりと煌くのが見えた。一番星だった。柳はそれを待っていたように、すっと立ちあがると、片手に持った袋を漁って、花火セットとライターを取り出した。
「そんじゃ始めますか」
「これだけ量があると大変だね」
「怪しい奴らがこないうちに終わらせよう」
「私らも十分怪しいと思います」
そこで私たち二人の祭りが始まった。柳は私に三本ほど手持ち花火を持たせて「最初はこれにしよう」と言ったので、私はそれの一本に火をつけた。すると、火がシュボッと音を立てて、勢いよく噴射した。火が消えないうちに柳の手持ちに火をつける。柳はそれを振り回しながら「めっちゃ明るい!」とフラットな感想を述べたので、私はそれに対抗するかたちで、両手に持った全ての花火を同時に発火させる。辺りはとたんに明るくなった。
私は柳に向かってニヤリとほくそ笑むと、柳はケラケラと笑った。柳の花火に火を移し、柳が私の花火に火を移し、何度も何度も着火を繰り返すうちに、思っていた以上に沢山の量の煙が、もくもくと空に昇っていった。それを見て私はふと冷静に返った。
「この煙の量はヤバいよ」
「わはは!お前らはそのまま空を昇っていって、あの一番星まで届け!」
「絶対通報される」
「星に到達したら、煙を四方に拡散させて、雲になって、雨になるといいね」
柳はそう言って屈託のない笑顔を私に向ける。出鱈目で幼稚な台詞を吐くにはもう過ぎた歳頃なのに、なんでこいつはこんなに楽しそうに笑うんだろうか。そのような思考が頭を霞めたら、私はもう彼女と一緒に、この時間を存分に楽しんでいることに気付いた。
「嗚呼、もうやけくそだよ!」
「見てみて。こっちはスパークするやつだ。これやろう!」
先ほどのよく噴射する花火と違い、こちらは静かに火がついて、それからだんだんと弾けるようにして火が散った。ばちばちと音を立てながら幾つもの方向に踊る光の玉は、真上に輝く星にも似て、丸く、儚く、光って消えた。それから地面に置いて打ち上げる種類の花火を試した。柳が静かに近づいておそるおそるライターで火をつけると、花火は打ちあがらなかったので、次に私が試しに近づくと、突然しゅぱっと音を立てて火の玉がいくつか飛び出してきた。
焦りを感じて身を翻すと、飛び出した火の玉は頬のすぐ横を勢いよく通り越した。それを見ていた柳は、いくらか血の気の引いた顔をして、謝罪の言葉を口にした。私は落ち着き払ったあと「死ぬかと思った」と言うと、柳は引きつった笑みを浮かべた。
最後に線香花火が残った。膝を曲げて小さく屈んで、夏の日の終わりによくやったように、じっと手を動かさず、つま先ほどのともし火を静かに見守った。慎重に、大事なものを抜け目なく、落とさないようにして。夜空にはもう沢山の星が瞬いていた。私たちはその空の下にいた。焔は柳の瞳の奥に映されて、めらめらと燃えた。それは柳の瞳に始めから宿っていたようだった。普段覗き込むことの出来ない、多彩な世界の裏側に隠れた生命の焔。
「綺麗だね」
「うん」
「ニュージーランドの大自然には行けないけど、こういうのも悪くはない」
「意外と楽しいかも」
「あ、鈴もそう思う?」
「うん。色んなもの見れたし」
「そっか。良かった。いや、安心した、かな」
「安心?」
「うん。なんだか少し、ほっとしたよ。鈴は今日の祭りに行ってないと思ってさ。君はいつも家にいるだろう。いや、私もそうだけど。それで一人落ち込んでたり、してるのかなあ、なんて」
柳はそう言ってはにかんだ。柔かい頬が少しだけ持ちあがって、それを見た私もなんだか照れくさくなった。紐から垂れさがった蛍火は、むくりむくりと大きくなった。花火はそれからしばらくそのまま、静かな星の夜のなかで、飴玉が口の中で弾けるように、ぱちぱちと弾けた。
「だから君を誘ってみたんだ。君はほんとは寂しがり屋」
「それは柳もじゃない?」
「そうなのかな。よくわからないけど」
「そういうのって、自分じゃあんまり気がつかないかもね」
「それじゃ私たちはおんなじかな。寂しがり屋同盟とか、どう?」
「同盟ねぇ…」
「駄目?」
「別にいいけどさー」
「寂しくなったらいつでも呼んでね」
探せばどこにでも見つけられそうな会話。けれども私はこの高架下の、河川敷の静かな戯れの中に、今日暮色に染まった景色と同様の、いつか行った祭りで食べた、真っ赤な色の林檎飴を思い出した。記憶の中で林檎飴を齧った私が、とても嬉しそうにしていた。あれから年月は幾度も廻って、四季はその様相を絶え間なく変えながら、くるりと手元に戻ってくると、記憶の中の夏の日の夜に吸い込んだ、賑やかさと物哀しい風が吹いた。むせ返るような夏草の匂いは、さらさらと流れる小川に和音を乗せて、揺蕩うように、またどこか遠くへ運ばれていくらしかった。
ふと、ぽたりと雫が落ちるように、夜の闇に覆われて宙に浮かんだ蛍火が、すっと地面に吸い込まれた。それがこの宴の終わりの合図になった。
「これで花火は全部おしまいか」
「なんだかあっけなかったね」
「そうだね。それじゃ終わった花火を全部集めて帰ろう」
「うん。あと、柳に一言」
「ん、なに?」
「今日ここで沢山のものを見れたのは柳のおかげだから。ありがとう」
「…全く君は急だねぇ」
予想しない不意打ちに柳は頬を赤くして眼を逸らした。普段のすました表情とは裏腹に、初々しい仕草が思わず加虐心をそそる。私もそうだが、こいつもなかなかに素直じゃないと思う。
「あっ照れてる?」
「さあ、そうと決まったら早く帰ろう」
「照れてるでしょ。その表情初めて見た」
「照れてないし。こういうのに慣れてないだけで…」
「ありがとう。楽しかった」
「…うん」
花火をビニール袋に回収して河川敷を後にする。二人でもと来た道を辿ると、夕刻に姉弟が遊んでいた小さい公園が眼に入る。中央にぽつんと滑り台が建っていて、隅の方にブランコが二つしかない、小さな柵で覆われた公園。柵には『不審者に注意』と書かれた看板がひっそり立て掛けられていて、私はそれを見て苦笑したが、柳は思いついたように言った。
「ねえ、少しここに寄っていかない?」
「いいけど何するの?」
「ブランコ漕ごうよ。今なら誰もいないし」
そこで私たちは童心に還って、対象年齢をゆうに越えてしまったブランコにちょこんと座った。もう背丈が発達してしまったから、足はすぐに地面に届いた。漕ぎだしてみると、鎖はがっしゃんがっしゃん音を立てて、私たちを小気味よく揺らした。前に押し出された重心が、そのまま後ろへ返って、後ろへ返った重心が、振り子の原理で私たちを前へ運ぶ。
勢いは次第に増して私たちを高く押し上げると、柳は「飛んでけ!」と言って、中ヒールのストラップパンプスを空へ向かって放り出す。ヒールはぽおんと宙を舞って、蝶のようにひらひらと、ロケットのような放物線を描き、高いところで一旦静止すると、そのまま少し先のところで、ぽとりと地面に落下した。私たちは互いに笑いあった。そうしてまた夏の日の思い出がひとつ出来た。
読んで頂き、有難うございます。
三章に続きます。