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一章 大学生活

 騒音が私の鼓膜を刺激する。うるさい。布団を耳まで引っ張りあげて、体をぎゅっと丸くする。もう少しだけこのままでいさせてくれ。昨日はうっかり夜遅くまで起きていたのだから、今日は休むよ。ごめんね。この通り。布団が包まってきて抜け出せないので。しかしこの必死の抵抗も虚しく、五分も経てば図らずも、私の安眠は妨げられることとなった。むくりと布団から起き上がり、不機嫌そうに部屋の隅に備え付けた目覚まし時計のヒレをガンッと叩くと、イルカがクォーと鳴き止んだ。


 私はこの街にある大学へ通うために一人暮らしを始めた。この街は都心から少し離れたところに位置していて、全体として寂れた景観の、道を少し逸れれば田圃の広がる、言ってしまえば中途半端な場所なのだが、地方から引っ越してきた私にとっては親しみ深くさえあるので、割と親近感を持ってここを生活の基軸にしている。


 引っ越してから日は浅く、生活にもまだ慣れていない。高校生の頃とは違って口やかましい家族もいない。よって寝覚めのよくない私にすれば、朝は非常に大変だ。目覚まし時計をうっかりセットし忘れた日には、平日でも昼過ぎまで寝過ごしてしまうなんてこともザラなので、今ではこのイルカの形を模した時計が私の生活の手綱を握るといっていい。講義を寝過ごしてしまうと単位が危ぶまれる。


 眠たい瞼を押し上げて今日の日付を確認したら、カーテンを開けて換気をする。窓から明るい日差しが入りこんでくるのを眺めながら、今日は何の準備が必要で、何をすべきで、それにどのような時間を割くのか、そのようなことをおぼろげながら、思い出していく。


 大学まではまだ時間に余裕があるので、軽く朝食を取ることにする。パンをトースターにいれて、ミルクを電子レンジで温めると、洗濯物を回す。静かな一室に、新しい朝の始まりを告げるように、ガタゴトと洗濯機が鳴り始める。ここまで終えると、文明の利器はすごいなあと、どうでもいい思考が私の頭の中の回路を巡りはじめる。私の思考の九割九分は、会話の種にもならないような、下らない内容で構成されていることを再確認したら、焼きあがったパンにバターを塗って、温めたミルクと一緒にテーブルまで運ぶ。今日も大学へ通っていつもの通りに講義を受けて、そのままスーパーに寄って帰宅することになるだろうか。


 世界が日増しに似てゆくのは、怠惰からであると私は推測する──。昨日の夜読んだ本に書かれていた一節をふと思い出す。パンを口に運びながら、昨日起こったことをぼんやりと振り返り始める。日差しが部屋に漂う埃を僅かに揺らしながら、枕元の本を照らしている。





 三限の講義が終わると、受講者達が課題のレポートを提出し教室を出ていく。私も荷物を鞄に片付けてそれに倣うと、がやがやと賑わう教室を後にする。廊下を通り階段を降りる手前で、柳がこちらに向かって手を振った。


「久しぶりー」

「柳もこの講義受けてたんだ」

「後ろの方に座ってたら鈴がやってくるのが見えて。終わったら先に外に出て待ってたの。今日はもう終わり?」

「今日はこれで終わりです」

「それじゃ私と同じだ」


 階段を下りて建物の外に出ると、まだ昼下がりの暖かい日差しが敷地のアスファルトを明るく染めていた。今は講義を挟んだ休み時間なので、教室を行きかう人たちがそれぞれ棟のなかへ入ったり、出ていったりしている。私たちは正門に向かって歩き出す。正門は多くの人で賑わい、私たちの前には同じように大学を後にする人たちが歩いているのが見える。時刻を確かめると、まだ三時にもなっていなかった。正門を出たところで守衛が突っ立っているのを眺めながら、これからの時間をどう過ごそうか考える。柳は特になにを言うでもなく私の隣を歩いている。


 サークルにはあの後に一度覗いてみたのだが、どうにも肌に合わないようなので通うのを止めてしまった。話しかけるタイミングを逃したというか、そもそも基本的に他人と会話を交わそうという意欲が見られない私に問題があるのだが、見学者とも連絡を取れるようにと出された用紙に名前とアドレスを記入したために、入る気もないところから連絡網的なメールが飛んでくるようになってしまった。しばらく顔を出さなければそのうちメールも止むだろう。柳はそもそもサークルに入る気がないのか、彼女の口からそういった話が挙がることはない。


 大学に入ってから思った以上に時間に余裕ができた。高校や中学の時のように常々朝早く起きる必要もなければ、夜決まった時間に寝る必要もなくなった。単位を取得するために時間割を埋めて、それに沿って大学へ通うだけだと、今日のように正午には講義が終わってしまうこともある。想像していたより大変な課題もそう多くはなかった。要するに私は今、暇を持て余した生活を送っているのだ。焦燥感は感じていないが、何かしなければ時間はそのまま過ぎていくだろうと思われた。


 帰り道、日差しは駐車場に止められた車のエンブレムを銀色に照らした。民家の犬小屋では犬がひっそりと顎を落として眠っていた。草木は揺れて、道路の横の小さな花壇に朱色のチューリップや淡い薄紫のスミレが植えられていた。向こうのベランダには布団や洗濯物が干されていた。


 いつも通りの長閑な日常の風景だった。何か素敵なもの、ささやかなものは、目の前からひっそりとやってきて、私はその幾つかを心の内に留めておこうとした。けれども景色はそれぞれ記憶の中でその輪郭を薄めると、もう二度と元通りにはならなかった。私はそれらを忘れることで、漠然と日々をやり過ごしてきたように思う。


 道路を渡ると柳のアパートが見えた。柳のアパートは大学から五分も歩けば着くところにあるので、先日は手前の駐輪場で別れたのだが、今度は柳は私を引き留めた。


「──まだ早いし、良かったら家に寄っていかない?」





 階段を昇って突き当たりが柳の部屋だった。柳は玄関を開けると「まあゆっくりしていってよ」と言った。お邪魔します、と靴を脱いで部屋に上がる。結構広い。九畳はあるだろうか。中央には四角い白のテーブルが一つ。その奥にテレビが一台と、手前の角に置かれた机の反対側には大きめの本棚が設置されている。中には難しそうな本も並んでいた。本の背表紙をしげしげと眺めながら、どこかで聞いたことのある表題の本をいくつか取り出してパラパラと捲る。


「何か知ってる本でもあるの?」

「うーん、なんだろう…。あ、この本は知ってます」


 私は昔課題図書で読んだ本を手に持つと、彼女に差し出した。もうそれほど記憶にないが、太陽が眩しかったから、というフレーズは覚えている。それで人を撃ち殺した主人公は、殺人を咎められて死刑台に昇った…確かそのような内容のものだったと思う。


「ああ異邦人。鈴はこういうのに興味あるの?」

「昔に課題図書で読んだことがあるくらいかな」

「この本の途中に出てくるおじいさんと老犬のこと覚えてる?」

「ああ、なんかそんなのもありましたね」


 柳は「犬飼いたいなぁ」と小さくつぶやいてその本を棚にしまうと、「紅茶とオレンジジュースがあるけど」と言った。私はオレンジジュースを頼んで炬燵の一方に座った。柳はオレンジジュースをふたつコップに注いで持ってくると、テーブルにコトンと置いて隣に座った。私たちはそれをゴクゴク飲んだ。


「アパートにペットは難しいよね。それに、ここはペット不可だし」

「それじゃ無理ですね。ここに来るまでに民家に犬が一匹いたけど可愛かったなあ」

「あの犬はもう長くないよ。私たちが卒業するまでには、多分死んでるだろう」

「そうなんですか?」

「うん。もう相当歳を取ってるね。背中の毛、抜けてるところが三つあった。あれは老犬だ」


 そして「飼い主は気のいい奥さんだった。死んだらきっと悲しむだろうな」と付け加えた。私たちは束の間訪れた静寂のあと、再度オレンジジュースをゴクゴクと飲んだ。そうして、今度から大学の帰りには、あの老犬をひとつ愛でていってやろうと考えた。


「これからどうしよう。特にやることもないけど」


 柳が呟く。この街から外に出ればどこかで暇を潰せる場所もあるだろう。電車に乗って都内に出ようかと提案すると、柳は首を横に振った。浮かない表情を湛えていた。


「ごめん、人の多いところは苦手で」


 それには納得する。事実、私もそうだ。それに明日は平日である。時計を見ると時刻は三時を回っていた。静かな窓から暖かい日差しと微かに学生たちの声が届く。会話から察するに三人ほどで、声音は少し踊っていた。帰路の途中だろうか。声はアパートの横を通り過ぎて、そのまま小さくしぼんで消えた。部屋に静寂が戻ると、柳がゆっくりと口を開く。


「人とか物があんまり多いとくらくらしてしまうんだ。そうして自分が一体どこで何をしているのか、分からなくなる。情けない話だけど。溢れかえるものの中で、私は一人の異邦人だよ。途方もない数のものが私の体を真綿で締め上げて、いつもそれに耐え切れず逃げ出してしまう」

「なんだか引きこもりみたいだね」

「そんなはずは…」

「駅前のレンタル屋でも寄ってみる?あそこ本も置いてあるし」

「う、うん…」


 適当な返事を返すと二人で炬燵から出て用意をする。靴を履いて玄関から出ると、柳がしょんぼりとした顔で後からついてくる。階段を下りて駐輪場に出ると、車の上で猫がちょこんと蹲っていた。私たちはそれを一瞥すると、駅前にある大きなレンタルショップに向かって歩く。


「あそこの車にはよく猫が座ってるの」

「猫も可愛いよね」

「気まぐれだよね。鈴は猫派?」

「派閥があるんですか…」


 どちらも可愛いとは思う。無理に両者を比較する必要はないと思う程度には。しかし、私はどちらかといえば断然犬派だった。なによりも総合点で犬は猫を上回る。犬は飼い主へ厚い忠誠心を備えているし、訓練を積めば人間の役に立つ。盲導犬は人間をエスコートするし、警察犬は鋭い嗅覚から遺留品を嗅ぎ分けたり、足跡を追及することが出来る。私はこれらの理由から、可愛さを比較することなく犬に軍配を上げる。


「犬ですね」

「犬かよー。まあおおよそ検討はついてたけどさ」

「柳は猫の方が好きなの?」

「うん、私は猫の方が好き。やつらは自由だ」

「やつらは恩を忘れるよ。懐くのは家ともいうし」

「わあ。全国の猫派を敵に回す台詞だね」


 雑談しているうちに目当ての店についたので、自動ドアを潜って店内に入る。一階には書店が、二階にはレンタルショップが内蔵されていた。柳が家で何か見ようかと言ったので、私たちは一階で軽く本を物色したあと二階に上がる。二人で洋画のコーナーを眺めて、そのままホラーの棚に移ると、柳は私の裾を引っ張った。私が不敵に笑い返すと、彼女は顔を青く染めた。


「グロ系は勘弁して」

「柳は何か見たいのある?」

「うーん、アクションとかSFとかかなあ。ホラー以外ならなんでもいいかな」

「そうだねぇ…」


 視線を反対側の棚に移すと、お勧めの表示と一緒にどこかで聞いたことのある映画が挟まっていた。取り出してみると、表紙には鉛弾を外殻に挟んだヘルメットが映っていた。裏側には、今にも叫び声が聞こえそうな表情の男が銃を構えている。横から顔を覗かせた柳が「ベトナム戦争を題材にしてるみたいだね」と言った。そして「面白そうかも」と呟いた。


 私たちはこれを鑑賞することに決めて、レジで精算すると店を後にした。帰りがけに大学生たちが駅に向かって歩いてくるのを見て、どうも同年代とすれ違うのは苦手だと感じた。それが楽しそうであるほど余計に。コンビニに入ってお菓子を適当に見繕うと、さきほど通ってきた小道を抜けて柳宅に戻る。駐輪場にいた猫はいなくなっていた。


「私は庭にいる猫を家に連れ込める法律がほしいなぁ」


 柳が残念そうに言った。確かにそんな法律があれば、家に一人でいるときも束の間の癒し空間を堪能できるかもしれない。猫くらい物で釣れば簡単に寄ってくるとは思うが、それを家に招き入れるのは面倒なことになりかねないとも思う。部屋の中で爪を研がれたり、用を足されたりしたら大変だ。特にアパートでは大家に迷惑がかかるし、修理代の費用も馬鹿にできないだろう。


 二階に上がる途中、前にいた柳のお尻がぷりぷりと揺れた。ブーツがカツカツと音を立てながら、私はなんとも扇情的なお尻だと思いながらそれを眺めた。しかしそれもものの数秒で終わり、奥の部屋まで歩いていくと玄関を開けて柳の部屋に戻った。私はこれから階段を昇る際には柳に前を歩かせようと、少しの嫉みと羨望を込めて決めた。


「帰ってきたね」

「柳はおっぱいも大きいよね」

「ごめん、なんのはなし?」


 テーブルの上にコンビニの袋を乗せて、座布団に腰を下ろす。テレビをつけると、鉄道の番組が放送されていた。長い列車が青い山々の間を走り抜けて、濃淡の異なる様々な緑色をキャンバスに置いていくように、広大さを感じさせる風景の中、もさもさと茂った草原の絨毯の上で、羊たちが牧草を食んでいる。窓から流れていく名前の知らない景色は、豊かな緑の鼓動を弾ませながら、奥行きを感じさせる遙か向こうの綿雲と群青のなかへ溶け込んで、果てしなく続いていくものと思われた。背後で大草原の音楽が奏でられる。


「長閑だね、大自然」

「ニュージーランドって書いてありますね」

「行ってみたい。楽しいだろうなあ」


 番組は終盤に差し掛かっていたようで、ナレーターの解説と共にテロップが流れ始めると、そのまま静かに幕を下ろした。出し抜けに、柳が先ほどレンタルしてきた映画を取り出した。


「そんじゃこれを見ますか」


 チャンネルを変えてレコーダーを入れると再生が始まる。私は袋から取り出した緑茶にストローを差して咥えながら画面を見つめる。柳は背中を椅子に預けて、枝のように細く長い指でお菓子を摘まんだ。





 お菓子の袋はとっくに空になっていた。映画が終わってしばらくの間、私たちは画面を見つめたまま黙っていた。エンドスクロールが終わると映画は最初に表示される再生画面に戻って、部屋には止め処ない音楽が流れた。ようやく余韻が途切れると、私は手を伸ばして電源を落とす。部屋の中はついに無音になった。窓の外に視線を移すと、いつの間にか日は落ちて、辺りは暗くなっていた。外の木が風に揺れて、さらさらと音を立てるのが聞こえた。柳はしばらく姿勢を変えずにいたが、天井を仰ぐと一言「あぁ」と仰け反った。


「貝になりたい…」


 上を向いた柳の目は瞑っていたが、長い睫毛が薄く閉じた瞼の上に緩い曲線を描くと、枝毛のない綺麗な髪は小さな白い耳を外に覗かせたまま下に落ちて、黒い肩をより一層黒く染め上げた。


「列車に乗りたい、ニュージーランドの」

「ここからだと遠いよ」

「私はあの広大な大自然とベトナム戦争の舞台が地続きだとはとても思えない」

「そうだねぇ」


 窓に移る景色は普段通り変哲のない日常を映していた。私たちの生活もまたその通りだった。しかし一つとして同じ気流の風はなく、一つとして等しい形で揺れる草は無かった。瞬く間に風景はその様相を変えた。昔穏やかであった場所は、今では荒廃した土地の瓦礫の名残りのように見えた。そのようなことがあった。私はそれをぼんやりと感じていた。事実、私の記憶も同様に、もとあったものを、そのままそっくりと思い返すことは出来なかった。


 私は「なんでも自分のものにしようとすると上手くいかないもんだね」と呟いて、まだ残っていた最後の緑茶パックを飲み干すと、柳は仰け反った姿勢から首をこちらに傾けて私の眼を見つめて、思いついたように言った。


「唄を歌おうよ。過ぎ去っていくものを送る唄がいいよ。私たちがさっき聴いたあれを」


 そうして私たちは映画のラストシーンに流れたマーチを二人で歌った。途中、隣の部屋から壁を殴る音が聞こえた気がしたが、私たちはそれに臆することなく歌い続けた。柳の歌声は思った以上に音痴だった。

ここまで読んで頂き、まことに有難うございました。

二章に続きます。

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