プロローグ 桜の中で
五月の始め。新入生の歓迎会もそこそこに終わり、一年生の大部分は既にある程度コミュニティを形成し終えるような時期。私は一人、この日の最後になる五限の講義を受けていた。教室の端っこに座ったのは、大きな教室にはある程度の受講者がいるので、彼らの目線が気になるためである。自意識過剰と言われればそれまでだが、基本的に動物は自分の死角に誰かがいると落ち着かなくなるのだ。だからこれはそれと同じ。私は努めて正常である。
講義は一つのコマに九十分が割り振られており、この五限の講義は一年生に絞って行われている。黒板の前で拡声器を首に備えた教授が、講義の内容をつらつらと話しているのが聞き取れる。
私は話もそこそこに、窓から景色を眺めていた。いい天気だ。空は一面透き通るような青。視線を眼下に移すと、若々しい木々の新緑が構内にちらほらと規則正しく植えられている。こんな天気の晴れた日に、わざわざ校舎にやってくる人間とはなんて愚かな生き物なのだろう、などと適当な思いを馳せていると、ふとそれを望んだのは自分じゃないかと気付かされる。
私は大学一年生で、名前は黒川鈴と言う。流れるままに高校生活を終えて、一般的には中堅私大と呼ばれるこの大学へ、それほど苦労をかけずに入った。友人は少ない、というかいない。独りでいるのはわりと好きでも、多人数でいるのは目立って好きではない。二人までなら平気でも、三人以上になるとどうも苦手だ。うまく会話に溶け込めない。こんなんで将来大丈夫なのだろうかとたまに自分でも思うが、要するに私は面倒くさがり屋なのだろう。
講義が終わると、私は受講者が次々と退席していくのを眺める。荷物を纏めてすぐ教室を後にする者や、楽しそうに会話を交わしながらのんびりと退室していく人たちを横目にふと、今日はいい天気だから、これからサークル見学でもいこうかな、などと考える。しかし一人で見学に行くのはちょっと気が引けるかもしれない。友人がいないと相手に縛られる時間が少なくなるわけで、その点では大変都合が良いのだが、臨時の際にはつい間に合わせの人数が欲しくなってしまう。独りは不便な点もある。こういうとき、誰か私と都合よく行動を共にしてくれる人はいないものだろうか。
後ろを振り返ってみると、そこに座っていた女の人と目が合った。白いブラウスに黒のカーディガンを羽織って眠たそうに眼を閉じていたのが、講義の終わりに気付いて眼を覚ました様子だった。濡れ羽色の長い髪が艶を帯びていて、線の薄く整った顔の横に真黒く垂れている。美人さんだ。私が何か尋ねようとしているのに気が付くと、彼女はゆっくりと注意をこちらに向けた。睫の下の鳶色の瞳が私を捉える。私は話しかけることにした。
「今一人ですか?」
「うん、そうだけど…」
透き通った声だが、表情にはてなを浮かべた様子で佇んでいる。普段はこんな会話の一つも繰り出す機会も相手もないのだが、この時期の春の陽気に当てられた私は、普段以上に積極的になっていることにそれほど躊躇いはなかった。この後特に用事もなく、相手も一人であるのなら、軽く誘ってみるくらい問題はないだろう。それに、二人までなら気も楽だ。
「宜しければ、これからサークルの見学にいきませんか?」
「ん、いいよ。私どこにも入ってないし」
「それじゃいきましょう、適当に」
初対面でもわりと落ち着いているのは、彼女が寝起きでぼんやりしているのもあるだろうか。とっさの思い付きが意外な収獲になった。荷物を鞄に閉まって二人で教室の外に出ると、暖かい日差しが外を包んでいた。
私は何か手頃にできて、そのわりには面白くて、そのくせまあまあ大学生活を楽しめそうなものを期待していたので、何か読んだり書いたりできる文科系のサークルを覗いてみようと考えていた。どうせ暇だろうし。ちなみに動くのはあまり好きではないので、活発そうなところは始めから全て候補を外している。
「向こうの棟でやってるらしい文科系のサークルを見に行きましょう」
私がそう提案すると、彼女も頷いた。文科棟は大学の端の方にある小さな敷地にあり、私たちはそこに向かって歩いた。彼女は嫌がる様子もなく、何の気なしについてきた。講義を終えて敷地を出ていく学生たちを脇目に棟へ到着する。階段を昇り二階へ上がると、廊下から部室が見えた。しかし、部屋の電気はついていないようだった。というか、外から見た感じ、どの窓にも灯りのついた様子はなかった。
この時間帯に活動しているだろうと思っていたのだが。彼女が鞄から、入学の際に配られたサークル一覧なるものを取り出してぱらぱらと捲る。目当ての頁を見つけると、「あぁ、今日はやってないみたいだね」と言った。そうして、どうやら今日はどれも活動日ではないことがわかった。
事前に確認を取るくらいあたり前にされてしかるべきものだが、正直な話をすると、ふらっと訪れた際には運良くやっていればいいな、くらいの軽い気持ちだった。それなら他人を巻き込むなという話ではある。振り返ってみれば、私はさきほどの講義で思いついたことを後先考えず行動に移したに過ぎない。それを春の陽気のせいにしたら、相手に無駄足を取ってしまったことを謝る。
「すいません。確認とってなくて」
「いいよ別に。特に何も用がなければ帰ろうよ」
彼女は私の失態をそれほど気にしていないようなので、ひとまず胸を撫で下ろす。しかし流れで一緒に帰ることになったので、階段を下りて外へ出ると、そのまま二人で裏の校門の方へ歩いていった。空は先ほどよりも赤みを帯びていて、木の葉をきらきらと照らした。生暖かい風がほのかに頬を撫でると、彼女の黒い髪が草木を揺らすように靡いた。
「私の名前、柳っていうの。よろしく」
「私は鈴。黒川鈴」
軽く自己紹介を交わすと同時に、さり気なく丁寧語を崩す。こういうことについては見極めが大事なのだ。ズルズルと続けてしまえば口調を変える機会を逃す。昔に一度それで、お互い距離の詰め方を探り合って、妙な緊張感を引きづったまま、何時の間にか関係がフェードアウトしていた、ということがあった。懐かしい記憶。ふと、向こうの空をツバメが飛んでいくのが見えた。柳が空を仰いで言う。
「空が赤いね」
「そうだね、春ですね」
「夕焼け空は、なんだか少し哀しくなるね。あ、私の帰り道こっちであってるけど、大丈夫?」
「私はこっちで大丈夫ー」
裏の校門は正門と違って少し寂れていた。田圃の道を横切って迂回する。あぜ道の脇に咲いていた桜はもうその花を散らして、今では萌黄の葉を覗かせていた。それを見て私は呟く。
「桜もう散っちゃいましたね」
「そうだね。ほんとうに早いよね。でもやっぱり綺麗だった」
ちらりと横目で柳を覗き見る。私は「オッサンかよ、老けてんなあ!」と心のなかで呟いたが、それは心のなかだけにとどめておいた。言ったら多分殴られるだろう。合いの手を入れてみる。
「桜ってなんであんなに散るの早いんだろう?」
「今オッサンかよって思ったでしょ。別に良いけど。まあ、よく儚いものほど美しいっていうよね」
表情が顔に出ていたわけではないのに悟られた。間の問題だろうか。読心術。中々に感が鋭いと感心しつつ、柳の言葉を吟味する。儚いものほど美しい。妙に納得してしまうところがある。私はそのような事柄についてあまり他人と会話を交わしたことがないので「そうかもしれないね」と無難な返事でお茶を濁す。
「もし桜がずっとそのまま満開だったら、誰もお花見しなくなると私は思うんだ。でも桜はすぐ散ってしまうから、その前にせめて花を愛でようという気持ちがおこってくるのだ。これは私の考えだけど」
小石をこつんと蹴ってみる。込み入った話になってきたが、言いたいことは分からないでもない。
「年中桜が咲いてたら毎日お花見できると思うけどなぁ」
「きっと大人はみんなアルコール中毒で倒れちゃうよ」
「肝臓には優しくないですね」
「宴会だけにもう限界っつってね!」
「は?」
「…聞かなかったことにして」
あぜ道を抜けて住宅地に入ると、白いペンキで塗装された、二階建てのこじんまりとしたアパートがあった。私たちはそこでアドレスを交換をしたあと別れた。
「それじゃ私はここで。またね」
「うん、それじゃ」
帰路につくまでの間、大学で初めて知り合ったこの人のことを考えた。人付き合い自体が苦手な私でも、柳は変に気負う必要もなさそうな人物だったので、そのうち親しくなれそうな気がしないでもなかった。
「…まあ、わりとだけど」
行く道の向こうで、斜陽がビルを黄金色に染め上げていた。
ここまで読んで頂き、有難うございました。
一章に続きます。