六歩目【寄分】
夏場のあるある。
道場の板張りに汗が飛んでて超すべる。
教士の指示に従い試合場に入った燃児に、すでに試合場にいた刃月は静かに語りかけた。
「東郷刃月です。よろしく」
怜悧な印象とは裏腹の、優しい声音だった。
「お・・・ああ、宝蔵院燃児。よろしく」
思えば、今日の試合ではじめてまともに交わされた挨拶かもしれない。書文の横で飛鳥が「しまった! 礼を逸した!」と嘆いている。
挨拶を終えて、刃月は構えを取った。燃児も慌てて穂先を落とす。
刃月の構えは脇構え。刀身から切っ先を後ろに流した下段の構えだ。相手に間合いを明かさず、動く前に刀身を弾かれることもないが初撃が遅れがちになってしまうこともある。
燃児の構えは中四平。石突を臍の前で持って穂先は中段。槍の間合いを存分に活かせ、かつ即座に突けるベーシックな構えである。
挨拶を交わしただけで、もう二人の間に会話はない。切っ先すら交わることはなく、ただ視線のみが交錯する。
書文はこの勝負、どちらから仕掛けるのかの予想がつかずにいた。
刃月から仕掛けたらどうだろう。間合いを詰めることから始めるしかないが、そうすると穂先を打ち払うために竹刀を上げるしかない。伸ばした槍を戻して突くのと刃月が間合いを詰めて切り払うか。
燃児から仕掛けるとしたら、どこを突くだろうか。上段を突いて視界を狭めるか、中段を突いて一撃を狙うか、下段を突いて後退を強いるか。
書文の想像に追いつくように、現実が推移した。
刃月が、竹刀を後ろに流したまま擦り足で間合いを詰めはじめた。上体をわずかに傾けて穂先の左に避けようとした。当然燃児がそれを許すはずもない。
「はっ!」
右手で石突を押し出し左手は柄を滑らせる。体や足は使わず、右腕だけで突いてすぐに引き戻すつもりの、牽制の突きだった。
一条の光のように、穂先が迸った軌跡に柄がある。小刻みな体移動で穂先を避けた刃月は、その柄を切り上げで大きく打ち上げた。
引き戻しの最中ではあったが支点が狭く、槍はあっさりと払い上げられてしまった。その隙に刃月は擦り足を加速させさらに間合いを詰めていく。切り上げた竹刀はそのまま左に構え、胴を薙ぐつもりで閃かせる。
決まった。これで一撃。がら空きの胴に食らえばその後の動きも鈍るだろう。伸びきった右脇を打たれればすぐに痛みが引く事はない。書文は燃児の劣勢を予想した。
しかしその予想は、固い音とともに打ち払われた。
いつの間にか穂先近くに持ち替えていた燃児が、体ごと後ろに反転して石突で刃月を突こうと試みる。刃月はそれをいなしながら二太刀目を構えるが、同じ回転で短く持った穂先を振るわれてやむなく刃月も間合いを外した。
そうして改めて、距離を取って構え合う。
ことここに至って、書文はさっきの攻防に思考が追い付いた。
槍を上方に打ち上げられた燃児は、柄を握る指を緩めて手の中を滑らせたのだ。自重で床に逆立った槍を手と足で抑え、竹刀への盾としたのだ。
冷人と剛三の勝負のように滾る静止ではない。互いの武器をどう制するか、どう間合いを取り、どう討ち取るか。霜が走るように思考の枝が伸び、結晶のような試合予測がなされる。勝敗はどちらか。
「・・・はぁっ!」
仕掛けたのは燃児。半歩踏み込みながら今度は両手で突く。刃月の体の、左側に意識的に穂先をずらして突いた。右の脇構えからでは体側左側の攻防はできない。刃月は自身も擦り足で間合いを詰めながら穂先をかわした。
「ふっ!」
直後、突如として燃児の槍の穂先が変化した。引き戻されながら大きくしなり、刃月の後頭部へ向かっていく。
刃月は咄嗟の反応でしゃがみ込み直撃を免れた。体の動きに遅れた髪の毛が穂先に絡み、ブチブチと音を立てた。複数本の髪がまとめて引きちぎられる。
「・・・っ!」
頭皮への鋭い痛みに一瞬だけ顔をしかめ、それでも構わずに大きく歩を進めた。まだ髪が絡まっていて、刃月の頭が穂先に引っ張られる感覚。柄を通じてブチブチとちぎれる感触が燃児の手に伝わっていく。
穂先の竹間に髪を挟んでしまった燃児は即座の挙動が効かず、刃月は髪がちぎれるのも構わず肉薄した。屈んだまま、地を這うような低い姿勢で滑り込み、左足を支えにして逆袈裟に切り上げる。
一見脇腹を狙ったように見える一撃は、その半歩手前、燃児の左手を痛撃した。
「ぐぁぁっ!?」
予期せぬ末端への痛みに燃児は反射的に手を開いてしまった。当然片手で支えられるものでもなく、槍は右手を支点に穂先を床に落とし、刃月の竹刀はその間にもう一度閃いていた。
燃児の手を打った切っ先は振り抜かず、右手だけに持ち替えて間合いを伸ばしてがら空きの胴を薙いだ。
「っごほ・・・!」
片手だけではあっても、腰を使って体の外に回転させて放たれた打ち込みは燃児の腹に深く食い込み、燃児は口から湿った音を漏らす。
胴体への痛打に燃児は静止を余儀なくされ、刃月は追撃しようにも体勢が悪くすぐには動けない。
体勢を立て直す手間のない分、燃児の挙動がわずかに早かった。腹を抑え、穂先を床に引きずりながら二歩三歩と後退した。刃月は崩れた姿勢を強引に起こし、呼吸の整わない燃児に追い撃ちをかける。
もう一度両手に持ち直した竹刀を下段へ振り足元へ。振り抜かずに柄頭を押し込んで切っ先を跳ね上げる。そこから素早く刃を返して切り上げ、再度刃を返して切り下ろす。体を押し込むように前進して突き。
書文は刃月の、素早く、流れるような打ち込みに目を奪われた。乱れた髪がなびく様が、細い手足が閃く様子が、鮮烈な印象となって刻みこまれていく。刃月の攻撃と燃児の防御、その打ち合いの音が苛烈に染み込んでくる。
試合開始直後は拮抗していた攻防だが、燃児は片手と体幹にダメージを追い、その上間合いは刃月のもの。勝負の平衡はあっさりと崩れ、燃児は刃月に下った。決まり手は、鳩尾への突きだろう。
教士が高く手を挙げて制する。
「そこまで!」
ゲホゲホと激しく咳き込む燃児に手を貸す刃月は、結局一度も攻撃を受けることなく勝利を収めてしまった。
「東郷刃月、君は特上位に行くといい」
「ありがとうございます」
回りの生徒が上げる感嘆のため息や賞賛もまるで気にした風はなく、刃月は静かに頷いた。特上位。今日始めて出た最高評価だ。
続いて教士は燃児に向き直った。
「宝蔵院燃児、君は・・・上位だな」
「・・・・・承知しました」
込み上げる胃酸か、完全な敗北か、燃児は苦いものを飲み下すように渋面を作っていた。
●
「ドンマイ、燃児くん」
「お疲れ様」
「・・・ああ」
気落ちした様子の燃児に、つとめて明るく言葉をかける飛鳥と書文だが、燃児の表情は晴れなかった。
「よ、よかったじゃないか、上位にはなれたんだし」
渇いた笑いを浮かべて書文は励ましを重ねた。それに対し、燃児は徐々に声を荒げだした。
「負けた上で評価されたということは、それだけ期待が低かったということだ。宝蔵院にしてはよくやった、東郷相手によくもった。そう見られての上位だ。何を喜ぶことがあるっ!」
「・・・っ」
冷人と話すときも、落ち着いた態度を崩さなかった燃児の怒声。決して大声ではなかったが、放たれた迫力に書文はビクリと肩を揺らした。
「・・・すまない、八つ当たりだ。忘れてくれ」
「いや、僕こそゴメン。考えが足りなかった」
険悪な雰囲気もそこそこに、すぐに互いの非を認めるふたり。それを見ていた飛鳥は、安心したような、呆れたようなため息を吐いた。
「もう、せっかく仲良くなったのに、一日で友情終わっちゃうかと思ったじゃん」
「あはは・・・、ゴメン」
おどけてみせる飛鳥にも、書文は苦笑しながら言った。書文だって、せっかくできた友達をたった一日で失いたくはない。
「俺がまだ未熟なだけのこと。御前試合もあるんだ、もっと精進しなくては・・・」
敗北にうちひしがれるのでなくのでなく、のびしろを思い奮起する。高校生という年若でありながら、確かな求道者の姿であった。
●
燃児の試合終了後しばらく、冷人が帰ってきた。剛三はまだ血が止まらないのでまだ保健室だという。冷人は首を固定して、冷やすためだろう氷を当てている。
ちょうどそのころ、書文の名前が呼ばれた。
.