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95話

 その日の朝、まだ店が開店するには早い時間にも関わらず、夜香堂には見知った二人の影があった。

 二人は、香を買いに来たわけではない。彼等はただ、頼まれていた品物を届けに来ただけである。

「すみません。ついてくるなって言ったんですけど…」

「うるせぇ!あの白髪頭に一言言わなきゃ腹の虫が治まらねぇんだよ!俺は!」

「どうせ、言い負かされるだけなのにな…」

 彼等は、ルネとアイーザが贔屓にしている鍛冶屋の親父さんと、その息子であった。アイーザが研ぎに出していた檜扇が、漸く仕上がったのだ。

 本来、その仕上がった品は息子が一人で届けに来る。しかし今日は、普段呑んだくれている親父さんが、酷くぼろぼろになった姿で共にやって来たのだった。

「あ、親父はこんなんですけど、気にしないでください。長距離移動で死にかけてるだけです」

 店に来て早々、息子はそう言って品物を届けに来た。彼を出迎えたのはルネで、店の前にある階段の下では、何があったのか、髪はボサボサ、着物は砂埃に塗れ、無残にもうつ伏せになって倒れている親父さんの姿があった。

「酒ばっかり飲んでるんで、仕事する以外の体力無いんですよ」

 本当なら、そのまま放置しても良かった。だが、幾ら客の来ない店とはいえ、店の前に汚いおっさんが転がっているというのはいただけない。ましてや、その場で死なれでもすれば、後処理が面倒だ。薄汚いおっさんの死体処理など、ルネはやりたくない。 

 仕方なくルネは、青年とおっさんの二人を店の奥へと招き入れたのだった。

 

 その後、ルネは珍しくアイーザの屋敷を訪れ、彼の寝室へと向かった。ノックをして中に声を掛けると、ロイドの救援要請が聞こえてきた。

 その頃寝室では、アイーザに抱き枕にされたロイドが、必死に抜け出そうと藻掻いていた。其処に聞こえてきた天の助け。ロイドはその機を逃すまいと、中から必死にルネに助けを求めたのだった。

 廊下にいるルネが寝室のドアノブに触れる。

 当然鍵は閉められていて、その鍵を持っているのはアイーザのみ。仮に替えがあるとしても、その保管場所をルネは知らない。

 となれば、方法は一つしかなかった。

「恨むなら、鍵の場所を教えなかった自分を恨んでくださいね」

 ふふっと、ルネは笑って、ねぇ、アイーザ?と、中で眠りこけているであろう弟に、言葉を投げ掛けた。返事など求めていない。ロイドが助けを求めてきたとでも言えば、あれは黙る。

 ルネは着物が着崩れることに若干の不満を抱きながら、足を上げ、力任せに目の前の扉を蹴破った。

 ミシッ!バキバキ!と木が折れ曲がるような音と、ガキッ!ベリッ!と金属の何かが、壁から引き剥がされる音が部屋に響く。ルネに蹴破られた扉は蝶番から外れ、部屋の中程まで吹き飛び、バタンッ!と大きな音を立てて床に落ちた。

 扉に一つ、壁に一つ残っているへしゃげて、宙ぶらりんになった蝶番の亡骸と、床に伏した木製扉が真ん中から僅かに折れ曲がり、曲がった部分からは千切れ、刺々とした木の繊維がささくれのように顔を出している。

 ロイドはまさかの事に声も出せず固まり、緑色の瞳がまん丸になっていた。一方アイーザはといえば…平然と寝息を立てている。

 だが、ルネもこの程度でアイーザが起きてくるとは思っていない。彼の寝穢さは、ルネが一番良く知っている。彼はゆっくりと寝室に足を踏み入れて、ベッドのそばへとやって来て、二人を見下ろした。

「ロイド〜、少し苦しいかもしれませんが、耐えてくださいね?」

「はい?」

 ベッドサイドに立つルネがそう言った。笑顔を向けるルネにロイドは疑問符を浮かべたが、此処から助かるならと頷いた。

「ははっ、アイーザと違って、ロイドは良い子ですねぇ」

 そう言ってルネが着物の袂から取り出したのは、一本の飛刀だった。ロイドは悲鳴こそあげなかったが、びくっ!と身体を大きく震わせ、じっ…と飛刀を見つめている。

「大丈夫ですよ、何もしませんから。…………貴方には」

 最後の不穏な言葉に、ロイドは冷や汗を流す。にこにこと笑顔だったルネの目が薄っすらと開く。その目は何処か不穏で、冷やかだ。笑顔の裏で彼の薄暗い喜楽が顔を覗かせている。

 ルネに頼むんじゃなかったと、ロイドは少し後悔した。

「お手柔らかにお願いします…」

 ロイドは諦めていたが、それでも心の何処かでルネの慈悲に縋っていた。だが、残念ながら、心の無いルネにそんな感情は無い。

「大丈夫、大丈夫。ただアイーザを起こすだけですから」

 語尾にハートマークでも付けていそうな声音で、ルネは言う。あぁ…これはもう、何を言っても無駄なのだなとロイドは悟り、全てを委ねる事にした。

「死んだら恨みますからね!」

「平気ですよ。ロイドが死んだら、アイーザも直ぐに追い掛けるでしょうから」

 勿論私も──と、ルネが言い、手に持った飛刀を振り翳す。

 全くロイドは安心出来なかったし、そういう事ではないと突っ込みたかったが、もう何もかもが遅いのだと、ぎゅっと目を瞑った。

 ルネの飛刀が、眠っているアイーザの横顔に振り下ろされる。それははっきりと敵意を纏って、真っ直ぐにアイーザの目尻を狙っている。切っ先が彼の皮膚に触れるその瞬間、アイーザの目が開き、彼の目が鋭く形を変えた。

 ロイドを抱きしめていたアイーザの手が飛刀を握り、勢いを完全に殺されてしまう。

 ロイドはアイーザの力が緩んだ隙に、ベッドから逃げ出したが、それがアイーザの逆鱗に触れたらしい。

 ルネの足が床から離れ、彼の細長い身体が宙を舞う。アイーザが手に持った飛刀ごとルネを振り上げ、そのままベッドに放り投げた。

 バフッ!とベッドマットと布団が仰向けになったルネを受け止め、その奥からガキッ!とベッドのスプリングが傷みそうな音が聞こえた。

 アイーザはいつの間にか飛刀を奪い取り、ルネの上に馬乗りになると、その飛刀をルネの首へと押し当てた。

「きゃー…とか、悲鳴をあげるべきですかねぇ?」

 両手を肩口まで上げ、降参のポーズをとるルネがへらへらと、そう口にする。アイーザは最悪な目覚めによる苛立ちと、ロイドが腕の中から居なくなったことで、完全に据わった目をしている。そんな殺意と怒りが籠もった目でルネを見下ろしていたが、ロイドがアイーザの腕を掴み、「それルネです!アイーザ!」と、必死に説得したことで、それらを引っ込めた。

「ルネ…?」

 改めてまじまじと見下ろせば、嫌という程見知った顔がにへらと笑っている。

「目、覚めました?」

 ルネがそう言うと、アイーザは舌打ちで返した。彼の眉間にはずっと深い皺が寄り、その目は不快感で形を歪めている。アイーザがルネの上から退くと、ルネはふぅ…と息を吐いた。

「相変わらず、容赦が無いですねぇ…」

「黙れ。それと、さっさとベッドから降りてもらいましょうか」

 寝起きのアイーザの顔はいつも凶悪だ。寝乱れた髪、着崩れた寝間着、掠れた低い声と、寝惚けているのか青紫色の目はいつも完全に据わっている。眉間の深い皺も消えない。吊り上がった眉尻が、彼が不機嫌であることを如実に伝えてくる。

 そんな荒んだ寝起き姿のアイーザは、ベッドサイドで二人の様子を窺っていたロイドに近付いて、べったりと抱き込んでしまう。そんな間も、アイーザはルネに対する警戒と敵意を解くことは無かった。

 ロイドはおろおろとしながらも、アイーザを受け止め、ルネは素直にベッドから降りてくる。

 「何か用ですか…?」と、アイーザが不機嫌を隠さず尋ねれば、「貴方に客人です」と、ルネが返した。

「客?」

「ええ、貴方に頼まれていたものを持ってきたみたいですよ?」

 そんなものがあったかと、アイーザは思案する。しかし、寝起きの深い霧がかかったような頭では、何の答えも出て来ない。

「……扇子じゃないですか?」

 ロイドは、あ!と、何か思い出した顔をして、研ぎに出していた鉄扇の存在を思い出す。ロイドに言われ、アイーザも思い出したのか、あぁ…と、全く顔を出す気も無いであろう無気力な声を溢した。

「アイーザ」

 ロイドがへばりついているアイーザに声を掛ける。

「…………何です?」

 ぐったり、べったりとロイドから離れようとしないアイーザは、ロイドの柔らかな金色の髪に顔を埋めたまま、気怠げな返事をした。

「寝たら駄目ですよ。一先ず着替えてから店に行きましょう」

「…………………。」

 アイーザは返事も頷きもしなかった。これがロイドだけなら、力尽くでベッドにロイドを押し込み、二度寝を決め込むところだが、今はルネという面倒くさい存在がいる。

「アイーザ、寝るなら寝るで構いませんが、次はベッドをぶっ壊しますよ?」

 ルネが笑顔でそう告げる。それは脅しなどではなく、迷いなく実行するというルネの宣言だという事を、アイーザは知っている。ベッドが無くなるのは、アイーザにとって死活問題だ。

 仕方なくアイーザはロイドと共に、店に行く準備をはじめた。だが、彼の動作は酷く緩慢で、無言の抵抗を続けていたのは言うまでもない。




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