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9話

 視界の先に居たのは、一言で言い表すなら巨大な黒い蜘蛛だ。しかし、その大きさは異様で、平屋の家屋位の大きさがある。

 後方の四本の脚は、鋼で出来た硬質な鎧に覆われたかのように鈍く光り、巨大な針のように鋭い。四本の前脚もまた、酷く硬そうな見た目であるが、針ではなく、巨大な鎌のような見た目をしていた。

 それだけでも、異形と呼べるであろう。だが、それ以上に異様なのはその顔だった。

 ロイドはそのあまりの姿に目を逸らしたくて堪らなくなる。それほどに、その姿は異様という他なかった。

 本来顔がある部分には、血の気の無い痩せこけた人間の腐乱死体のような上半身が蜘蛛の身体を突き破って鎮座しており、その腐乱死体が蜘蛛の体を操っているようだった。その男の顔は、落ち武者か晒し首にされたかのような、髷を切り落とされたざんばら髪の男の顔をしている。

 それにすら吐き気を催すような見た目であるというのに更に酷いのは、その顔すらも一応形を取り留めているお陰で何とか人の顔であると理解出来るという酷い様相にあった。

 目は蜘蛛同様に赤い大小様々なビーズのような八個の単眼だった。それは所々抜け落ちて、空洞となった黒い穴からは化け物の体液らしき濁った深い緑色のどろりとした液体が漏れ出している。

その液体は毒でもあるのか、流れ落ちた顔の半分は腐り落ちて、肉と骨が所々剥き出しであった。鼻は溶け、口は半開きで、抜け落ちた歯の隙間から毒液が漏れ出し、下唇と顎はぐずぐずに腐敗していた。

 地面に落ちた緑色の液体はじゅう…じゅうぅぅ…と白煙を上げて地面を焼き、腐り落ちた肉を燃やす際に出る臭いを更に酷くしたような凄まじい異臭がロイドの鼻を塞いだ。

「あの化け物は…?」

「貴方のような“花”を狙う害虫ですよ」

「害虫…?」

「説明は後で、あれをどうにかするのが先です」

 私が注意を引きますので、物陰に隠れていてくださいとアイーザはロイドに告げ、一人巨大蜘蛛に近づくと懐から和紙を何枚も貼り付けたような見た目の小さな球を複数個取り出した。地面に撒かれたそれは紫煙を噴き出し周囲が煙に包まれてしまう。その隙にロイドは素直に従い、慌てて離れた建物の細い路地に身を隠したロイドはアイーザの様子を伺った。

 あの紫煙はただの煙ではないようで、先ほどまでロイドの鼻を蝕んでいた焼け腐った獣の死骸のような異臭を消し、仄かに甘い花の香りがロイドの嗅覚を癒した。

 蜘蛛はロイドの姿と気配を完全に失ったらしく、その巨大を動かし、周囲を探している。アイーザは自身を無視してロイドを探す化け物に苛立ちを覚えたのか、一度小さく舌打ちをした。

「随分と余裕があるようですね。誰を目の前にしているのかも分からないとは…、無知とは本当に恐ろしいものです」


 アイーザはそう言うと、音も無く、ひらりと高く飛び上がる。朧に光る銀の月に照らされ、鮮やかな羽織を翻し闇に浮かぶアイーザの姿は、息を呑むほどに美しかった。


 中空でアイーザが袂から取り出したのは閉じられた檜扇であった。やや大ぶりで、黒塗りに金彩が施された袙扇の如く美美しいそれは、持ち手の部分には青紫色の長い飾り紐が優雅に揺れている。

その檜扇でアイーザは化け物の頭を思いっ切り打ち据えた。


 まさに白刃の一閃とも言うべき一撃に、腐っている頭は大きく拉げ、更に醜悪な見た目に変わる。またその重い一打の威力でアイーザの持つ檜扇は木製ではなく、鉄製であることが見て取れた。

 頭が潰れた事で、蜘蛛は目や鼻、口とありとあらゆる穴から緑色の毒液が漏れ出し、痛みで巨体が暴れまわることで液体が汎ゆる場所へと降り掛かる。

 その液体が建物にも降り掛かると、石造りの建物の壁は抉れ、木製の建物の壁はあっさりと穴が空いた。

「全く、“花”に焦がれるばかりに妖としての道理を踏み外すし、これほど醜い化け物に成り果てるとは…、どこまでも救いようが無い」

 毒液を避ける為、アイーザはそう言いながら背後へ飛び退く。蜘蛛がどれほど暴れ、その醜い姿を晒そうと、アイーザの顔は普段と変化無く、涼し気で立ち姿さえ美しい。

 痛みで怒り狂った化け物が、大鎌のような前足をアイーザに向かって振り下ろす。言葉に出来ぬ呻きを発しながら、全ての怨みを晴らすかのように、その重たく鋭い一撃がアイーザへと降り掛かる。

 しかしアイーザは表情一つ変えることなく、まるで舞台の上で舞を始めるかのようにすらりと檜扇を開くと、その場に留まったまま、たおやかに扇を翻し、その大鎌を華麗に斬り捨ててしまった。

 麗しい表面とは違い、裏面は無骨な刀のような鋼の姿を晒していた。地色は青く紫があり、刃は白く、研ぎ澄まされたその姿は月光を反射し、艶やかに煌めく。

 鮮やかな切り口からは後に毒液が溢れ出るも、それすらもアイーザは檜扇で切り払い、その身にも、扇にも緑色は一滴の姿も見えなかった。


「ギャアァァァァ!!」

 人間の顔部分が絶叫を発し、その勢いにとうとう下顎がぶちぶちとちぎれ、緑色と共に腐り落ちる。

「もう、そんな恥を晒すのにも飽きたでしょう?終いにしましょう」

 アイーザの冷酷な青紫色が、化け物を見据える。いくら彼の背が高いといえど、アイーザが蜘蛛を見上げている筈なのに、彼は蜘蛛見下していた。

 その得体の知れない凄まじい圧に、蜘蛛はじりじりと後退る。しかし、それを許すアイーザではない。


 すっ…とアイーザが流れるように動いた。そして、風に攫われるかのようにその姿が消える。

 そして、瞬きの間にアイーザは化け物の頭の目の前に姿を現し、ひらりと身を翻す。その手には金彩の鉄扇。

 その刃が月光を纏い、彼の手捌きを白閃がなぞる。舞うようにしてアイーザが重力を感じさせずに、音も無く地面にふわりと降り立つと、ずるりと首が地へ落ちた。


 ぐしゃりと音を立てて、自らの緑色の海に落ちた首が沈み、腐り落ちていく。蜘蛛の身体部分も同様に沈み落ち、じゅうぅぅ…と肉が溶け、焼け落ちるような音が響き渡る。

 ロイドはもう終わったのかと物陰から姿を現し、アイーザへ駆け寄ろうとした。

「アイーザ…!」

「ロイド、まだ来るなっ!」

 ロイドはまさかそんな事を言われるとは思わず、動揺したためか裸足で小石を踏んだためか、ロイドは転びその場に崩れ落ちる。しかし、ロイドの姿を捉えた化け物は、最後の力を振り絞り、毒液の中で半分溶けた頭だけでロイドに襲い掛かった。

「ひっ!?」

「チッ!」

 アイーザが舌打ちをして頭を斬り刻もうと動いたが、一瞬の隙を突いた化け物の方が先にロイドに届くだろう。しかし、ロイドの目前に飛び掛かってきた頭は、突然降り注いだ淡黄色の火炎に呑まれた。悲鳴を上げた頭は無残に焼け落ち、地面をどれほど転がろうとその炎は消えず、低い呻きも出せぬようになり、最後はその黒い影だけを残して灰となり消えた。

「落ちた妖はしぶといですからねぇ。完全に消滅してからでないと、とても危険なんですよ?」


 くすくすと笑いながら、ひらりと音も無く地に降りてきたのはルネだった。

 アイーザ同様の黒い着物と、落ち着いた女物の着物を羽織り、普段同様のしなやかな佇まいのまま、彼は優しくロイドに注意を促す。

 彼の手にもまた、アイーザ同様にやや大ぶりな扇子があった。しかし、アイーザの檜扇のような鉄扇とは違い、彼のは正真正銘の扇子で、淡黄に染めた和紙が大人しいが、どこか華がある色だとロイドは思った。

「すみません…」

「分かって貰えれば良いんです。にしても、大変でしたね」

「はい、二人ともありがとうございます」

 ロイドが丁寧にお辞儀をして二人に感謝を述べる。しかし、アイーザから出てきた言葉は、ロイドを再度、あの真っ暗な底なし沼に叩き落とすものであった。

「ロイド、花街へ戻りますよ」


「…え?」

 まさかの言葉に、ロイドは自身の耳を疑った。何故また花街に…?ようやく逃げてきたというのに、何故、よりによってアイーザが淡々と、何でもないことのようにあっさりと突き放し、剰え地獄に突き落とすような言葉を言うのか。ロイドには理解出来なかった。

「嫌です…」

 一瞬、ひゅっ、とロイドは息を呑んだ。流石のロイドも、その言葉には首を縦に振る事は出来ない。そんなロイドが必死になって振り絞った言葉は、僅かなその四文字だけだった。

 背中に冷たい汗が流れ落ち、全身が強張る。足は根が生えたかのように動かず、その声色には落胆と驚愕が綯い交ぜになっていた。

「嫌でも、一度戻ってもらいます。でなければ、また貴方が襲われることになりますから…」

「なぜ…?気にすることはないって、アイーザが言ったんじゃないですか…」

「ええ、あの時は。…ですが、今は状況が違います」

「嫌です…。絶対に嫌です!彼処には戻りません!私は…、私は…ッ!」

 ロイドが全身で拒否を示し、アイーザさえも拒絶する。その悲壮に満ちた表情は、彼がただならぬものを背負っていることを察するのには十分であった。しかし、どうしてもロイドをこのままに出来ないのだと、今度はルネが口を開いた。

「ロイド、貴方がこのまま花街の外に居ると、先程のような被害を更に増やすことになるんです」

「…っ!?」

「ですから、一度だけ、私達と一緒に戻ってはくれませんか?」

「……。」

 ルネの説得にロイドは押し黙った。ぎゅっと拳を握り、指先から手のひらまで白く染まっている。唇を噛み締め、薄っすらと血が滲んでいた。

 ルネに言われた事は、ロイドも理解できている。このままでは確実にロイドのせいで被害を増やす。今回は偶然居合わせた人が居なかったため、被害者が出ることはなかった。家屋も全て空き家だったのだろう、あんな風穴が空いてもなお、騒いでいる人はいない。

 けれど、もし此処が中心街であったら?御屋敷であったら?あんな巨大な化け物だ。死屍累々の地獄絵図になることは明白だった。それでも、自分勝手だとは頭で理解していても、ロイドや己の首を縦に動かすことが出来なかった。




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