89話
「大丈夫ですか?」
二人の背後からルネが声を掛け、歩み寄ってくる。ロイドははい、と返事をして、涙を拭った。
「二人が乗り気じゃなかったのは、こうなる事が分かっていたからですか?」
ロイドはルネとアイーザに問う。確かに、彼等は花街の番人で、花街の維持が仕事だ。花個人の事まで首を突っ込むことはしない。だが、今回の二人は、今まで以上に乗り気ではなかったように思う。だからこそ、ロイドは察したのだろう。
二人はこの結末を予想していたのではなかろうかと…。
「ん〜、そうですねぇ…。ある程度というところでしょうか」
「花街では、この程度の事はよくある事ですから」
「男女の秘め事、許されぬ恋路、そして痴話喧嘩は、花街のもう一つの花ですからねぇ」
そんな会話をしていると喧騒が静まり、幾人かの野次馬がその場から小走りで去っていく。三人の視界がひらけると、奥の野次馬達が道を開け、その道を歩いてくる二人の男に視線が釘付けになっていた。
男達は羨望の眼差しで二人を見つめ、女達は頬を赤らめ、恥じらいの眼差しで二人を見ている。白と黒、それぞれを纏う二人の美丈夫は騒ぎを聞きつけ此処まで出向いて来たらしい。
「カザミジ」
「アヤトキ…さん…」
アヤトキの顔を見たカザミジの顔は青褪め、先程までの威勢は何処へ行ったのか。ぐったりと力を無くし、ずるずると羽交い締めにしていた男達の腕からずり落ちて、地面に崩れ落ちた。そんなカザミジを見下ろすアヤトキの目は、酷く冷たい。
「さん付けは不要だ。それで?申開きはあるか?」
崩れ落ちたカザミジの前までアヤトキはやって来て、両腕を組む。侮蔑を含んだ黒真珠の瞳が、カザミジに突き刺さる。その声は冷やかで、硬質で、まるで声そのものが刃のようで、カザミジは冷や汗が止まらず、地面に落ちた視線を上げる事も出来ずに、その場で震えて縮こまっていた。
「あの…その…!」
言葉も満足に発する事も出来ず、アヤトキの圧に押し潰されていく。冷酷な目をしたアヤトキが、一度溜息を付いた。
「もういい、お前の事は全て聞いた。全ては俺の甘さが招いた事だ」
連れて行けと、アヤトキが男衆に命じる。アヤトキの圧に気圧された男衆は我に返り、再度カザミジを羽交い締めにして引き摺っていった。
「さて、あとはこっちの問題も片付けないとね」
そう言って歩み出てきたのはシライトであった。彼は羽交い締めにされたままのスヅハを通り過ぎて、店の前に立っていた藜楼の楼主へと歩み寄る。
「花街の掟はご存知ですよね?」
シライトがそう言うと、楼主の翁は黙したまま頷いた。
「それじゃあ、そこの女性も連れて行ってもらおうか。白い遊技場という花街の掟、信念を捻じ曲げた罪状は、軽くはないよ?」
そう言ったシライトの顔には、柔らかな笑みが浮かんでいるものの、その纏う空気が彼の怒り、花街を背負う者の気迫を滲ませる。
殿花、花姫、どちらの位も花街を背負う花の筆頭であるが、そんな殿花、花姫を束ねるのが、このシライトであった。彼は外見こそ若く、美しいが、全ての殿花、花姫の中でも最年長であり、齢も30を過ぎている。殿花の中ではアヤトキが最年少であり、彼とシライトを比べれば、その力はシライトには遠く及ばない。それ故に、自分の置屋の問題であっても、年齢のために無礼た態度をとられ、こうしてシライトが居らねば収まらなかった事も多々ある。今回のカザミジもまた、アヤトキを無礼ていたうちの一人であった。
「ちょっと!?なんであたしまで!?やめて!離して!おいこら!離せぇぇぇ!!」
叫び暴れるスヅハが男衆によって連れられていく。楼主の翁はシライトとアヤトキに静かに頭を下げた。
「さて、これで今日の見世物はおしまいだ。折角の夜のです。此処にいる皆様も、先の男女の縺れをつまみに、美味しい酒でも如何です?」
シライトがにっこりと笑って、残った野次馬達に声を掛ける。
「この度は、手前共の不手際で嫌な思いをした方もおられるでしょう。ささ、店にどうぞ。此処にいる皆様は特別にお安くしますぞ」
翁もシライトに倣い、先程までの事は酒で流して忘れてくだされと、暖簾を開けて普段の花街を取り戻す事に専念した。そう言われれば嫌な顔をする者達もおらず、彼等は藜楼へと足を運び消えていく。全ての野次馬が消え、ルネ、アイーザ、ロイドの三人とシライト、アヤトキだけがその場に残った。
翁は再度顔を出し、殿花の二人に頭を下げると店の奥へと消えてしまった。
「ロイド、そして御二人にも。此度の件は我々花街を治める者、全員の落ち度です。申し訳ありません」
三人に向き直ったシライトの顔は真面目そのもので、本来自分達が解決せねばならない事で、手を煩わせたことを謝罪し、頭を下げた。
「シライト!いえ、今回は私の落ち度です!私が至らぬばかりに此度の件、事が大きくなってしまいました…。本当に申し訳ありません!」
アヤトキもシライトに並び三人に頭を下げる。自分の不手際のせいでシライトに謝らせてしまったことで、アヤトキは自分が如何に甘い考えであったのかを痛感していたのだ。
というのも、今回の事件は、ただの男女の痴情の縺れではなかったのだ。




