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88話

 アイーザは突然の事に驚き、離れていったロイドの顔を見る。

「すみません…。少しでも早く治らないかな、と…」

 ロイドもアイーザの反応に驚いている様子で、僅かに翡翠の瞳を見開いている。溢れ落ちたのは心配の言葉。けれど、アイーザはその心配の裏に、隠しきれない嫉妬という欲がある事に気が付いていた。

 あの女の気配を、少しでも自分で掻き消したかったのだろう。何とも愛らしい愛しい人の行動に、アイーザはふっ…と笑った。

 アイーザの足が黒い夜空の中で止まる。そして、音も無く地面に降り立った。

 まだ花街は些か遠い。それなのに足を止めたアイーザにロイドが何故?と尋ねる。けれど、アイーザからの返事は無く、代わりに彼の唇がロイドの唇を塞いだ。重なっていた時間はほんの僅か。触れるだけの甘い口付け。花街に急がねばならないからこそ、アイーザは首をもたげる欲望を押し込めて、隠しきれなかった欲を唇に乗せ、ロイドの唇を奪ったのだ。

 あんなに可愛らしい事をするロイドが悪いのだと、アイーザは言った。ロイドは真っ赤に頬を染め、アイーザから目を逸らし、彼の肩口に顔を埋めた。

「仕方ないじゃないですか…」

「何故?」

「嫌だったんです…」

 ロイドが喉を震わせ、絞り出すように言葉にする。アイーザは静かに笑った。

「なるほど…」

 アイーザは、ロイドの言葉に笑みが深くなる。その笑みは妖しく、どこか狡猾で、先程ロイドに見せた優しげな笑みの面影は何処にもない、影のある笑みだった。




 それから二人は花街へと到着した。その頃にはアイーザは人の姿に戻っていて、二人並んで夜の花街を歩く。相変わらずの人の多さに、はぐれないようにと繋がれたアイーザの手を、ロイドどこか惚けたように、繋がれた二人の手をじっと見つめていた。

 アイーザはロイドの手を引いて、賑わいをみせる花街の中心部から離れ、更に奥へと進んでいく。

 表の賑わいとは違い、裏通りはしん…と、静まり返っている。明かりはほぼなく、月明かりと、周囲の店の木枠の窓から溢れる明かりだけが頼りとなる道ばかりだ。手に明かりがなければ、足元さえ見えない程に暗いその場所には、小さな酒楼や賭博場等、あまり人目につきたくない者達が集まる小さな隠れ家の群れのようだった。そんな入り組んだ薄暗い道を、アイーザは迷わず進んでいく。

 そこでロイドは、ようやくカザミジとスヅハの件を思い出した。ヒダルのせいですっかり忘れていたが、あの柄の悪い男と腕を組んでいたスヅハらしき女性の姿。確認しなければならないことが沢山あるが、そんな事も蚊帳の外にしてしまうほどに、普段は聞くことがない男女の言い争う声と野次馬達の喧騒が聞こえてきた。

 声の方へ向かうと、そこには小さな酒楼があった。藜楼と書かれた木製の大看板の下には人集りが出来ている。その少し離れた所にルネが藜楼の柱に凭れ掛かるように立っていて、その様子を欠伸をしながら見守っていた。

「どうなりましたか?」

 アイーザがルネに尋ねると、彼は視線だけを人集りへと寄越した。アイーザとロイドが近付いていくと、男女の声はどうやらカザミジとスヅハのもののようで、その言葉遣いは酷く荒れている。どういうことかとロイドは人混みに近付いていくが、人がひしめき合っていて、奥に行くことができない。

「ロイド」

 いつの間にか背後にはアイーザが立っていて、アイーザの片方の手がロイドの両目を覆う。もう片方の腕はロイドの身体に回され、まるで一人で離れた事を咎めるかのように、ロイドの身体と両腕を緩く拘束し、ロイドを動けなくしてしまう。けれど、その拘束と背後に香るアイーザの体温が、ロイドの意識を人混みの奥からアイーザに移してしまったのを、アイーザは気が付いていない。

「少しだけ、私の視界を貴方に見せます。どんな光景を見ても驚かないでくださいね」

「はい」

 ロイドは素直に返事をしたが、その実、彼の奥底には、今このアイーザと触れ合っている時間をどう引き延ばそうかという、邪な考えがぐるぐると渦巻いていた。

 真っ暗だった視界に、僅かな光が見えた。それが段々と広がって、何かを映し出す。

 そこは、藜楼の店の前だった。柿色の暖簾から店の明かりが漏れている。店からは女中達と店の長を務める老父が外に出て、呆れと心配の表情で事の成り行きを見守っている。

 老若男女様々な野次馬が店の入り口を取り囲み、その中心にいるのはやはり、カザミジとスヅハ、彼等を止めようとしている店の男衆であった。二人は男衆に取り押さえられ、羽交い締めとなっているにも関わらず、醜い形相で、互いを口汚く罵りあっている。

「この阿婆擦れが!くだらねぇ小細工しやがって!」

「はぁ!?あんたこそ、その歳で花青なんて恥ずかしくないの!?あたしの稼ぎ目当てなのは見え見えなんだよ!」

 結婚は諦めるしかないと肩を落としていた二人。だが今は、あの姿が嘘のように互いに向けた怒りと憎しみで目を血走らせ、歯茎まで剥き出しにして、恥も外聞も忘れ、罵詈雑言の言い争いを繰り広げている。

 本当にあの二人なのだろうか。そんな考えが一瞬過ぎるものの、アイーザの香の香りと体温だけがロイドの頭を占める現実であった。

 そんな間も、二人は互いの悪口を言い合い、その声が酷く耳障りだった。

「アンタの素行の悪さじゃ、此処を出たら働き口もないからね!その程度の顔じゃ、ヒモにもなれやしないだろうさ!」

「それで俺に嫌がらせか!?姑息な真似しやがって!ちょっと顔が良けりゃ、碌でも無い男とも寝るような売女が!」

「お前みたいな屑よかマシだよ!大した稼ぎもないくせに、えばり腐って!掃除に洗濯、なーんにも手伝いやしない!挙げ句に綺麗な客引っ掛けては浮気しやがって!」

「それも仕事の内だろうが!仕方ねぇだろ!?置屋の親父も、いけすかねぇアヤトキの野郎も、俺の仕事を認めずに開花にすら上げやがらねぇんだからな!そうでもしねぇと稼げねぇんだよ!」

 なんて汚い会話なのだろう。花という仕事を汚すカザミジも、不貞を働くスヅハも、揃いも揃って穢らわしい。

「アイーザ…」

「どうしました?」

「もう、見たくないです…」

「わかりました」

 アイーザの手がロイドの目元から離れていく。あの体温を手放すのは惜しい。けれど、それ以上にあの二人の醜悪さに、ロイドは耐えられなかった。ロイドの目からは一筋の涙が流れる。何の涙か、ロイド自身にもわからない。

 でも、とても悲しかった。




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