85話
アイーザの手から、ロイドがすり抜けていく。
そのことに、アイーザは酷く苛立ちを覚えた。ロイドの心が一人で立ち上がり、アイーザという支えから離れ、何処かへ歩き出そうとする。その行為が、アイーザを不安と恐怖に突き落とすのだと、ロイドは気付いているのだろうか。
今の彼の頭の中に、アイーザは居ない。今はきっと、姿の見えない、彼がお嬢様と呼ぶ一人の女の事でいっぱいになっている筈だ。その事が、アイーザにとっては不愉快で忌々しい。
アヅナエとかいう女は落花となったため、消す理由には困らなかった。だが、あのお嬢様と呼ばれる女は違う。
これが妖の世界の問題ならば、アイーザは女をさっさと始末すれば済む話だが、あの女は人間でロイドも人間だ。妖の道理は通らない。必死に彼女の姿を探すロイドの後ろ姿を、アイーザは冷え切った目で見つめている。何か理由があればいい。
そうすれば、さっさとロイドの周囲を彷徨く邪魔な影を消せるのに…。アイーザの心はどろどろした、この空間よりも色濃く、ヒダルのヘドロよりも粘りつき、こびり付き、しつこく糸を引くような、重苦しい感情が渦巻いていた。
そんな重々しい心を引き摺ったまま、アイーザは女を探すふりをして、ゆっくりとロイドの後を追う。
「あ!」
ロイドが翡翠の瞳を見開いた。彼の視界の先には、仰向けに倒れているサラの姿があった。ロイドは急いで駆け寄り、彼女の隣にしゃがみ込んで、彼女の呼吸を確かめる。
サラの口元に手を翳すと、まだ彼女が呼吸をしているのがわかり、ロイドは胸を撫で下ろした。
「アイーザ、お嬢様がいました!戻りましょう!」
自身の背後、少し離れた場所に立っているアイーザに声を掛ける。けれど、アイーザからの返事は無く、彼の青紫色の瞳が、どんよりと暗い色に染まっているように見えた。
「アイーザ?」
ロイドが心配そうな顔で彼女のそばを離れ、アイーザの元へと戻ってきた。やはりアイーザの顔には色濃い影が降りているようで、どこか仄暗く、沈んでいるように思えた。
ロイドはそっと、彼の白い頬へと片手を伸ばし、触れた。ぼんやりとした瞳が、ロイドを覗き込んでいる。だが、それは寝起きの際の蕩けたような瞳とは違う、暗く、冷たい何かに囚われているかのような瞳で、ロイドは心配でならなかった。
ロイドの手が、自分の頬に触れている。
アイーザの俯いた顔を支えるように、ロイドの温かな手の感触が心地良い。アイーザはそっと目を閉じた。
すこし、手の平が荒れているだろうか。僅かにアイーザの肌に、ささくれたようなロイドの硬い皮膚が擦れる。けれど、アイーザはそれすらも心地良いと感じていた。
「ロイド…」
「はい」
「戻ったら、手の保湿をしましょうか…」
「……保湿?」
ゆっくりと目を開ければ、なんの事だろうかと、ロイドが首を傾げている。そんな表情すらも愛おしい。このまま抱き寄せて、全てを閉じ込めてしまえたらいいのに。
そんな黒い考えが頭を過ぎる。しかし、アイーザの荒れ狂いかけていた心が落ち着きを取り戻しはじめているのも確かだった。完全落ち着きを取り戻せないのは、ロイドの背後。真っ黒な地面に倒れ込んでいる生死不明の女のせいだ。
ロイドの反応を見るに、あれはまだ息があるらしい。
死んでいればよかったのに…。
こんな考えを持っていると知ったら、ロイドは泣くのだろうか?だが、自分はきっと、ロイドの顔が恐怖と涙で染まったとしても、そんな顔も愛らしいと思うのだろう。
「アイーザ…」
ロイドが名を呼ぶ。アイーザは両手で僅かにロイドを抱き寄せて、小さく返事をした。
「なんですか?」
「帰りましょう?」
「そうですね…」
アイーザの肩に乗っている女物の着物が、するりと、自然と肩から溢れ落ち、黒い地面に落ちていく。着物は地面の上に広がる事は無く、黒い地面に届く前に溶けるように消えた。
そして、三人を包み込むように、地面から巨大な黒い牡丹が突如、花開いた状態で現れた。漆黒の牡丹の花弁が揺れる度に、花粉だろうか、黒い細かな粒が周囲を舞う。
アイーザとロイド、女との間には僅かだが、明確な距離という壁があった。その壁を明確に、如実に表すかのように幾重もの黒い花弁が遮り、女の姿を掻き消した。
このまま女を置き去りにしてしまいたい。そんな黒い考えを抱いたまま、アイーザが深く息を吐きだすと、花はゆっくりと閉じて、再度花を開くと、その中に三人の姿は無く、開いた花弁がそのまま宙に舞い散って、黒い空間に溶けるように消えていった。




