84話
床に叩き付けられた直刀の切っ先が折れた。その折れた刀の先が、叩き付けられた衝撃で舞い上がった水飛沫と共に宙を舞い、そのままアイーザの元へと飛んでいく。それは、ほんの一瞬の出来事であった。
しかし、その一連の物事全てが、ヒダルの目には時が止まりかけたかのようにゆっくりと映り、水飛沫の一つ一つ、折れた刀の欠片、翻るアイーザの着物と、どれもこれもがとてもゆっくりとした動きで見える。まるで非現実の中にいるかのような錯覚に陥った。
だが、そんな幻のような時間も、アイーザが飛んできた切っ先を素手で受け止めた事で動き出す。彼が人差し指と中指の二本の指であっさりと受け止めなければ、その刃はアイーザの顔を掠め、その髪と頬に僅かにでも傷を残すことができたものを…。
ヒダルは忌々しげに目の前の男を睨みつける。口惜しや…と、ヒダルが恨み言を漏らした。
攻撃を躱され、その勢いのまま床に崩れ落ちたヒダルが折れた刀を杖のように支えにし、ゆらりと立ち上がる。先程までの激しい攻撃は鳴りを潜め、はぁ…はぁ…と荒い息遣いだけがこの空間にある音であった。
アイーザは涼し気な澄まし顔で、そんなヒダルをただ見ている。ロイドもまた、その場から動く事なく二人の様子を見守っていた。
すると、息が僅かに整ったのか、ヒダルがふーっ…と、大きく息を吐いた。そして、ギリギリと奥歯を噛み砕いてしまいそうなほど、力を入れ過ぎて歯茎から血を流しながら歯を食いしばる。そして、額に血管と玉のような汗を浮かび上がらせながら、彼は場を威圧するかのように叫んだ。
「なんと野蛮な…なんと傲慢な…!敵となるなら殺す、我道を遮るなら殺す!その妖らしい考えそのものが大嫌いなのですよ!そして、そんな妖も、妖である自分も!この世はそんな殺伐としたものでない!」
それは、妖の世に絶望した妖の魂からの叫びだった。そのあまりの迫力にロイドは身動いだが、アイーザは微動だにしなかった。
「もう沢山なのですよ!何もかも!だから妖の道理を捨てた!人への希望を抱いた!それの何が悪い!わからずとも結構!そもそもお前のような青二才に理解できると思ってもおらん!」
はぁはぁ…と、洗い浚い思いの丈をぶち撒け終えたヒダルは、疲労困憊しているようだった。刀を持つ手は震え、酷く汗をかいている。元々丸くなっていた背中は更に曲がり、異様に背中が丸く、肩より下から大きく膨らんでいるように見える。
その姿は彼が妖であることすら霞むほど、ただの老人そのものであった。
「耳の悪い老人は声が大きくて困りますね。もう言う事はありませんか?」
攻撃を躱し続けて乱れた髪を、アイーザが長い爪を器用に用いて、そっと耳に掛ける。すると、彼の髪に隠れていた左目が見えた。常に温度がなく、冷ややかな印象を受ける青紫は、こんな状況の最中にあっても、ロイドにヒダルの存在を忘れさせ、その視線を奪った。
「おのれ…」
アイーザの余裕綽々な態度にヒダルの表情が怒りで歪む。しかし、刀は折れ、目的の花を連れ去る事も困難。更に予定外の男の乱入と、今の自身の現状。
そもそもヒダルは直接戦う事が得意ではない。彼が得意とするのは幻術、幻覚の類で、己の結界内に対象を誘い込み、まやかしを見せて相手の心を侵食し、恐怖や苦しみ、痛み、悲しみといった実体のない脅威で相手の心や脳を破壊し、心神喪失させるといった戦い方を得意としている。
だが、その幻覚は予め定めた対象にしか効力を発揮せず、アイーザのような外部からの侵入者には全く力を発揮しない。そのため、彼の結界はとても強固であり、並大抵のものではそれを破って侵食してくるなど到底無理なことであるのだが、アイーザは人化の術を解いたことで、それを可能にしたのだ。
現状のヒダルに打つ手は無い。既にロイドの幻術も解けている。今のヒダルでは、アイーザに勝つ事は不可能であった。
そんな、万策尽きて項垂れるヒダルの元へ、ギャアギャア!と荒々しく泣き喚く1羽の鴉が飛んできた。その鴉は結界などものともせず、その黒い翼をばさばさと忙しなく動かして、そのままヒダルの肩へと留まった。
「ア”ァ”!ア”ァ”!」
肩に乗る鴉が鳴き続ける。ロイドにはそれが、まるで鴉がヒダルに何か言伝をしているかのようにも見えた。アイーザも同様だったのだろう、目付きが鋭いものに変わり、鴉を睨んでいる。
それは数分にすら満たない僅かな時間であった。用が済んだらしい鴉はまた黒い空へと飛び立ち、けたたましい鳴き声と共に黒い羽を撒き散らしながら、結界の外へと飛び出していった。それと同時にヒダルからは、怪しく、不気味な笑いが漏れ出してくる。
ヒヒッ、ひっひっ!ヒィッ!と、彼独特の引き攣った笑い声が響き渡る。そして、先程までの縮こまった姿とは打って変わり、普段の薄気味悪い姿を取り戻していた。片目となった今の姿は、初めて出会った頃よりも恐ろしく、そして不穏な気配を纏っていた。
「この私としたことが…。大切なことを忘れておりましたなぁ…」
引き笑いを繰り返し、にやりとした笑みを浮かべ、そんな言葉を漏らす。アイーザは鋭い目付きを変えぬままにヒダルと対峙しており、ロイドも突然の変わりように警戒心を取り戻し、彼を見た。
「いやはや、最近の若者はか弱き老人に対して本当に容赦が無い。先行きが不安で仕方ありませんな。そんな世を変えるためにも、まだまだこの老いぼれが働かなくては…」
独り言のようにヒダルが呟いて、豊かな顎髭を手で整える。そのまま直刀を杖代わりにしながら、ゆっくりと彼は歩き出して、床に転がっていた鞘を手に取る。
「このまま少し、愚かな蛇めに現実の厳しさを教えてやろうと思ったのに…今はそんな時間も惜しい。あの方は時間に厳しいのですよ」
手にした鞘に折れた直刀を戻し、その杖をついてアイーザとロイドに背を向けたヒダルは真っ直ぐ歩き出した。
「今日は一旦、幕引きですな。次に会う日があるとすれば、その時は…この老いぼれも、おめおめとやられはしませんぞ?」
一度立ち止まったヒダルが、そう言って此方を振り向いた。身体は前を向いたまま、彼の頭だけが此方を向いている。捻れた首とその表情に、ロイドは息を詰まらせ、顔は青褪め小さな悲鳴を漏らした。アイーザはそんなヒダルを静かに睨みつけるだけで、特に反応は無く、首を前に戻した彼の後ろ姿が闇に紛れ、消えていくのをただ見ていた。
ヒダルの姿と気配が消え、ロイドはようやく息を吐いた。張り詰めていた空気が僅かに緩み、足が震えて、立っているのがやっとだった。
其れ程に、ヒダルの最後に見せた表情は恐ろしく、悍ましいものであった。
「ロイド」
そんなロイドにアイーザが声を掛け、駆け寄る。アイーザに身体を支えられ、彼の体温が伝わる。それと共にアイーザから香る香が恐怖を和らげ、ロイドの顔に僅かに笑みが戻った。
「ありがとうございます。大丈夫です」
支えるために至近距離に居たアイーザから僅かに距離を取り、ロイドは問題無いと笑顔を作ってみせる。
アイーザはまだ納得していない様子だったが、それ以上踏み込んでくることはしなかった。それは、この空間がもう長く保たない事も起因していた。そして、その事にロイドも気が付いていて、彼はアイーザから離れ、サラの姿を探した。




