83話
そんな姿が見えなくなったアイーザが、黒い霧の中からさぁ…っと姿を現し、ヒダルを頭から引き裂こうと鋭い爪が伸びた片腕を振り下ろした。
「おぉおっと…!?」
戯けた声でヒダルはその手を避け、危ないことをするものですなぁと、茶化すように奇襲を仕掛けたアイーザを片目で捉えたまま笑う。
黒い世界の中からするりと出てきたアイーザは、そんな様子も意に介してはいないようで、異様に冷めた目で様子を窺っていた。
「こんな分かりきった攻撃など、とんだ愚行ですぞ?この老いぼれが若い者にしっかりと…」
「それがなんだと言うんです?」
「小僧…。目上の人の話はちゃんと…」
「だから、年上だ目上だなどと、何の話かと聞いているんです」
「何ぃっ…?」
「妖に歳だ目上だなどといった概念はありませんよ?」
呆けた老人はこれだから困る…。と、アイーザはわざとらしい溜息をついた。
「我々妖は本来、力こそが全て。地位だの生まれだのの区別はありません。強いからこそ存在することを許され、弱ければ消える…それだけのことです。お忘れですか?」
「ふんっ!その考えが愚かだというのがわからんとは…。頭の足りぬ蛇めが!」
「哀れなものです。己の種の道理さえ忘れるとは…」
「お前にわかるものか!その種の者共から疎外され、嘲られ、違う道を選ばざるを得なかった者の気持ちが!最も妖らしい容姿のお前に!」
ヒダルが思いの丈を叫び、老人とは思えぬ俊敏さでアイーザに襲いかかる。地を突くだけであった杖を横にして両端を手に持ち、そのまま両手を広げた。すると杖の中からぬらりと艶めく一本の刀が現れた。それは殆ど反りが無く、身幅はやや細めの、彼には似つかわしくない華奢な刃長二尺ほど直刀であった。
ヒダルは杖の持ち手から下、刀の鞘となる部分を投げ捨て、抜き身の凶器を両手で振り翳し、狂気血走る目でヒダルはその刃をアイーザの頭上へと振り下ろす。
「それが何か?周囲が認めぬからなんだと言うんです?」
アイーザはヒダルを見下したような笑みを崩すことなく、ひらりと凶刃を躱す。
「わからんよ、お前さんには!醜いからと独り外へ追いやられ、後ろ指を差され、同じである筈なのに違うと言う!貴様はそんな横暴な者共の側に居るのだからな!」
ヒダルの太刀筋は酷く滅茶苦茶なものであった。剣術や型なども存在せず、まるで子供が木の枝を振り回しているかのようで、稚拙としか言い表せぬものであった。
「まさに児戯も同然ですね」
アイーザが肩に羽織る女物の着物の裾が、乱雑に振り回されている刀をもて遊び、翻弄する。その様はまるで目隠し鬼で遊ぶ童のように、ふわりふわりと音も無く、ただ水面が揺れるままにアイーザは水面を跳ね回り、ヒダルを誂い嘲り笑うようであった。
「黙れ!」
言葉と仕草、表情でまでも挑発するアイーザに、ヒダルは激昂し攻撃は苛烈さを増してゆく。ただ我武者羅に振るわれる刀は上から下へ繰り返し振り下ろされたかと思えば、今度は左右へ振り回してみたりと、剣術の分からぬロイドの目からでも分かってしまう程の粗しかない粗末なものだった。
そんな、彼の怒りのままに振るわれる刀を、アイーザは必要最低限の動きで躱し続け、時折自らの爪で弾いた。爪と刀がぶつかると、まるで刀と刀が刃を交わすかのような、ガキッ!ギィンっ!と金属がぶつかり合う音が響く。刀と爪がぶつかり合う際に生じる火花がその激しさを物語っていた。
「残念ながら、貴方の言い分は私には一生わからぬでしょうね。何故なら私は、あーだこーだと言われる前に、そいつらを纏めて葬っていたでしょうから」
「何!?」
天も地も、全てが闇のような黒で覆われた空間で、地面だけがまるで水鏡のように戦う二人が逆さまに映る。表面に薄っすらと張られた水が、二人が動く度に波紋を広げ、時に水飛沫を上げた。
ロイドはそんな二人をただ見ていることしかできない。自らの腕に戻ってきた組紐を握り締めながら、熱が籠もる。じんわりと汗が滲んで、組紐にも熱が伝わっていく。
戦いが苛烈を極めるにつれて、人の目ではもう視認する事は困難で、もう舞い散る火花しか追うことができなくなっていた。それでもロイドはアイーザを必死に追い掛けようと、二人の戦いから目を離すことはなかった。
ロイドが見守る中、アイーザは優雅に、飛び交う蝶のように着物を翻し、ヒダルの刃を躱す。その顔には余裕の笑みが浮かんでいるのに対して、ヒダルは勢い任せの行動が祟ったのか、僅かに息を切らせ、汗が浮かんでいる。
アイーザに反撃の意思は無いようで、ただひらひらと着物の袖を揺らし、彼の灰色の髪が舞う。刀はそんなアイーザの影を追い掛け、しかしその刃は髪の一本にすら触れることはない。どれもこれもが大振りで、後の隙が大きく、重心の移動もままならないのか刀を振る度にヒダルの身体が大きく揺れ、傾く。
だが、彼は気合と怒りで何とか倒れ込むのを堪え、大きな一歩を踏み出してアイーザを追い詰めようと躍起になっている。
「キェエアア!」
締められた喉を無理矢理抉じ開けたようなヒダルの叫びが響き渡った。
勢いのままヒダルが高く飛び上がり、アイーザ飛び掛かる。己の全体重を切っ先に乗せ、その重さに逆らわぬまま、彼の白刃がアイーザの頭上から襲い掛かった。だが、そんな渾身の一撃も虚しく、アイーザはひらりと身を翻して躱した。
ヒダルの視界にはアイーザが羽織っている白地に濃淡様々な藍色で描かれた花々が美しい着物と、水飛沫だけが広がる。それすらも難なく躱されてヒダルは大きく舌打ちすると共に、バキンッ!と硬質な声無き悲鳴が響いた。




