8話
門を飛び出し、花の香りを振り切り、境の街へと帰ってきた。
息が上がり、肺が痛い。全身が熱く、呼吸が整わない。足元が覚束ず、物や壁に体重を預けながら歩き、少しでも門から遠ざかる。
きっと、あれほど絶世の男に花だと褒めそやされ、昔の未練を断ち切れていなかった愚かな自分の弱い心が有頂天になっていたのだと、自らの慢心を恥じた。
そして、中心街まで戻ろうとしていた筈が、ふらふらと白昼夢を彷徨うかのように歩いていたからか、いつの間にか香堂の前へと辿り着いてしまった。
「私は…、どこまでも懲りない大馬鹿者ですね…」
ロイドは呆れた声色で、泣き笑いのような複雑な表情を浮かべたまま立ち止まり、漠然と香堂の入り口を見つめていた。
まだ、心のどこかで、アイーザを求めているのだろうか。
なぜ?どうして自身は、昨日今日出会ったばかりの男に、これほどまでに心を寄せ、縋り付いているのだろう…?
わからない。わからないが、あの男が良いのだと、あの男でなければ駄目なのだど、ロイドの心は悲痛な叫び声をあげている。
でも、それはあの男には関係無い。寧ろ、二人の花姫をも虜にするような男に、美貌も何も優れた点が一つもない男から思われたところで、迷惑であり、恐怖でしかないだろう。
ロイドとアイーザは、あくまでも客と店主というだけの関係性だ。恋人はおろか友人ですらない。良くて知人と言える程度の男が、出会った瞬間に一目惚れしてくるなどと…。
「冷静になれば分かることなのに…」
それなのに、自分はあろうことか花街の奥まで追いかけて、彼の私的な時間を邪魔して、醜態まで晒して…。
「…帰ろう」
香堂はやはり閉店時間だった。翌日また出直すことにしよう。お嬢様には閉店だったと伝えよう。そして、女中の誰かに代わりに行ってもらおう。
ロイドにはもう、店の扉を叩く勇気は無い。境の街にも、当然花街にも、当分は寄り付かないようにしよう。そもそも、普段の用事は中心街で事足りるのだから、本来なら此処に来ることは殆ど無いのだから。
そう思い、店から離れようとしたその時だった。突然、ぞくりとロイドの背筋を冷たい何かが這い上がる感覚が襲った。
「!?」
慌ててロイドが周囲を見回すも、街は静かで、人影一つ見えはしない。気の所為か…とロイドが屋敷へ帰ろうとした瞬間、自身の目の前に、恐ろしく巨大な何かがいる…。そんな気配を、ロイドは感じ取っていた。
「なんなんですか、一体…」
姿は見えない。だが、確実に何かが、そこに居る。そして、それに近づいたらロイドは死ぬのだと、本能が察知していた。ロイドがゆっくりと一歩引き下がると、気配は一歩追いかけてくる。
もう一歩逃げると、更に一歩追いかけてくる。
きっと、ロイドの脚では、この何かから逃れる事は出来ない。それでも、ロイドは生を諦めたくはなくて、じりじりと後退る。
首元に、常に刃を当てられているような気がする。空気がひりつき、明確な殺意がロイドの薄い皮膚を切り裂いていくような感覚。姿の見えぬ存在の、ぬらりと大きな影だけが確かにそこにある。そして、その距離は確実に、ゆっくりと詰められている。
きっと、今立っているこの場さえも、影は簡単にロイドを追い詰める。そして、ロイドはその凶刃に殺められるのだろう。逃げ場など無い。
けれど、そうだと分かっていても、ロイドには逃げる以外の選択肢は残っていなかった。
竦む脚を叱咤して、ロイドは踵を返し走り出す。背後の気配が、楽しげに笑ったような気がした。
ロイドは恐ろしくなり振り向くが、其処にはいつもの通りが有るだけ。暗く、僅かな月明かりと遠くに見える街灯だけが、僅かに闇を照らしているが、其処に影は映らない。
それでも、ロイドの背後には何かが居るのだ。狂気に染まった笑みを浮かべ、自らの巨大な腕を振り上げて、その手にある凶器を振り下ろす、恐ろしい“何か”が。
「そのまま走ってください!」
声が聞こえた。その声の持ち主をロイドは知っている。会いたくない、もう会えないと思いながら、それでも諦めきれず、心の奥底でずっと名前を呼んでいた。
艶やかな着物が、音もなくロイドの視界を過ぎる。ロイドの恐怖に染まり強張った表情がほんの少しだけ綻んだ。
「アイーザ…」
いつの間にやって来たのだろう。彼の姿は普段と変わらずゆったりと美しく、しかし隙がない。
ロイドと同じ道程を来たというのなら確実に息を切らし、体力を消耗しているか、少なくとも大きく肩で呼吸をしていないとおかしい距離だ。しかし、アイーザはそのどれも当てはまらず、汗一つかくことなく、涼し気な顔でロイドを後ろに庇うようにして影と対峙している。
「ロイド、怪我は?」
「ありません。…え?名前…」
「ホシアメとカシノヤに聞きました。それより、今は此方に集中しましょうか」
アイーザがそう言って見据える先。その何も無い筈の空間に、ほんの僅かに黒い影が見えた。
それは本当に一瞬で、直ぐに形を失い、揺らめいて、消えた。
「今のは…?」
「引く気はありませんか…。ロイド、来ますよ」
アイーザはそう言うと、ロイドを抱えて飛び上がり、その場から大きく離れた。
ロイドが達がいた場所は、地面が大きく抉れ、何か巨大で鋭利な物が地面に振り下ろされたのだと分かる。
「なんなんですか、あれ…」
ロイドが想像していた以上の出来事に、彼は酷く驚愕し、恐怖した。アイーザから地面に降ろされてもなお、アイーザの黒い着物を必死に掴み離さず、目を見開き、その身体は震えていた。
「見えないと不便でしょうから、今だけ貴方の目を開きますよ」
そう言って、アイーザの右手がロイドの目を覆う。視界は真っ暗だ。だからだろうか、アイーザの手のひらの感覚が、彼の心臓の音がロイドにはっきりと伝わる。
少しだけ落ち着きを取り戻したロイドは、アイーザに言われるままに、一度大きく深呼吸をした。しかし、その間の僅かな一瞬。アイーザの体温の低い手のひらが、更に冷たくなったような気がした。
「最初に謝罪します。きっと、これから見るものは、貴方が想像しうる以上に悍ましく、醜悪なものでしょうから…」
アイーザがそう言って手を離すと、ロイドはゆっくりと目を開けた。