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79話

 ロイドとサラは人気の無い、血のような赤に染まる街を走り抜ける。街の外観は中心街のそれと全く変わらないのに、人の姿が見えぬのと空の異様な赤が、この街を不気味で恐ろしいものに変えてしまう。

 見慣れた筈の煉瓦と、石造りと、木造の建物が入り混じる街。車道にある車は全て置物のように動かず固まり、路面を走っているはずの電車は等身大の模型のようであった。

 このまま日が落ちて、夜の帳が下りれば、周囲は霧と蒸気に包まれるのだろうか。だが、赤々と輝く夕陽は黒い山の影に隠れる事なく、じりじりと揺らめいてその場に留まっている。

 ヒダルの結界はどれほど続いているのだろう。ロイドとてただ走って逃げているだけはどうにもならない事を知っている。しかし、組紐も無い現状、二人にはそれ以外の選択肢が残されていない。

「ロイド…!待って…っ!」

「あ…」

 後ろから聞こえた息も絶え絶えの声に、ロイドは一度その足を止めた。掴んでいたサラの手首を離し、ロイドも一度息を整える。彼女は前屈みになりながら、ばくばくと痛いほどに暴れている心臓を抑え込むように、自らの胸元に手を当てて何度も呼吸を繰り返していた。

「ごめ、なさい…。でも…、少し…待って…」

「いえ、私もすみません…」

 普段、彼女はこんな長い距離を走る事など無い。ましてやこんな街の中を全力疾走することなんて皆無であろう。それでも二人の命の危機だと察してか、無理をしてでも此処まで走ってくれたらしい。

 だが、いくら動きやすい服装と靴とはいえ、所詮は良家の息女の装いである。靴もヒールや装飾がないというだけで、その形は走り回るのに適しいているとは到底思えない。

 更に、ロイドも草履だ。普段が短靴であったことと、おろしたばかりの硬い鼻緒で、ロイドの足の指の間も擦り切れている。逃げ続ける事など不可能だ。そして、アイーザの助けは望めない。

(どうしよう…)

 ロイドの背に冷たいものが流れる。それはロイドの背骨を伝うように撫で、ぞわぞわとする不快感をロイドに残した。でも彼女だけは、サラだけは逃さなくてはならない。

 全て捨てたロイドに、家族だと言ってくれた優しい女性。幾ら我儘であろうと、時に無理難題を押し付けられようと、彼女は笑ってロイドを待ってくれていた人。彼女だけは助けたい。

 そうこうしている内に遠くから、かつん…かつん…と硬いものがぶつかり合う音が一定の間隔を保って聞こえてくる。ヒダルだ…。

「行きましょう…」

 ロイドがサラに僅かな声量で声を掛ける。サラも無言で頷き、ロイドに手を引かれるまま、その場を離れた。

 

 それから二人は遮るものが少ない大通りを避け、細く入り組んだ裏通りを駆け抜けていた。このままでは時間の問題だ。いずれ二人はヒダルに捕まるだろう。

(どうにかしないと…)

 そう思い、サラの手を掴んでいる手とは反対側の手首を見る。そこにはもう、アイーザとロイドを繋いでいてくれた組紐は無い。ただそれだけ、たったそれだけのことが、ロイドをこれ程にまで不安にさせる。

 恐怖が背後まで迫っている。後ろを振り返る勇気は無い。もし振り返って、ロイドが掴んでいるはずのサラの手がヒダルのものになっていたら?既にヒダルの姿がそこまで迫っていたら?もしかすると、今のこの現状すらも、彼の掌の上であったとしたら?

 ばくばくと心臓が煩い。息が上がり、嫌な汗が流れ、視野が狭まっていく。段々と黒い靄に包まれていくかのようで、ロイドはこの逃げるという行為が怖くて怖くて堪らなかった。

 気持ばかりが焦り、周囲が見えなくなる。あるのは背後に迫っている脅威だけ。不安に足元をすくわれ、段々と地面の感覚さえも失っていく。何処を走っているのだろうか?それすらも定かではない。気を抜いたらあの何処を見ているのかわからない動き回るあの白い眼球が、もう直ぐそこまで迫って来ているように感じられて、姿の見えぬまま追われる恐怖というものが、これほどまでに自身を追い立て、まるで底なし沼のように恐怖を掻き立てるとは思わなかった。

(アイーザ…)

 ロイドが助けを求める相手は唯一人。けれど、その声はもう、届かない。あの灰色の髪が、低い体温が、何より…あの青紫色の瞳が恋しくて堪らない。

 路地の角を曲がる度に、そこにアイーザが立っていやしないかと探している弱い自分。そして、いるわけがないと分かっていながら、その曲がった先を見る度に絶望する愚かな自分に、ロイドはほとほと嫌気が差した。

 鼻緒が擦れる部分が痛い。先程までは皮が剥けている程度であったが、とうとう擦り切れて血が出てきた。アイーザが買ってくれた物なのに、もう汚してしまった。血で汚してしまったから、もう落ちないかもしれない。

 早く帰ればよかった…?そもそもカザミジとスヅハの問題に一人で首を突っ込んだ事が間違いだった?ただ与えられるがままなのが嫌で、何か少しでもアイーザの役に立ちたかった。きっとこの現状は、そんな甘い考えで後先考えず突っ走った馬鹿な自分への罰なのだろう。

 ロイドはもう、走るのをやめた。サラが息を切らしながらも、突然止まったロイドに、どうしたの?と声を掛ける。

「お嬢様、お願いです。貴女だけでも逃げてください」

「何を言ってるの…?」

 サラへと振り返ったロイドが発した言葉は、彼女が一番聞きたくなかった言葉であった。ロイドの顔は、全てを一人で決めてしまった者の顔だった。

 暗くて、冷たくて、けれど頑なな、何かを諦めてしまったような顔。

「此処はヒダル…あの老人の結界の中なんです。闇雲に逃げた所で、周囲の景色が変わろうと私達は彼の手の平の上を走り回っているのと同じなんです…」

「だからって、このまま此処に居ても仕方がないじゃない!何か手立てがあるかも…」

「無いんです!」

「え…?」

「ありません…。私達に出来ることなんて、何も…」

 ロイドはアイーザと共にあって、その間に妖や落花の力というものを間近で目にしてきた。人の手には負えない力を持つ者達。その力も、人知の及ばぬものだ。超越した力に、何も持たぬ自分達が抗える術は無い。サラもロイドも、体力が底をつきはじめている。逃げる意味はもう無い。

 恐怖が無いわけではないけれど、ヒダルと対峙しないことには何も進展しないのだ。だからこそ、竦む足を叱咤して、ロイドはその場に留まる事に決めたのだ。




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