78話
「こんな所で、ごめんなさい。私、もう帰らないと…」
「こんな時間ですもんね。送ります」
「ありがとう…」
サラは断らなかった。これは最後の我儘だ。
心の内でごめんなさい、許してね。と繰り返しながら、二人は視線を避けるように街の中を歩いた。そんな時、ロイド達の向かい側から一組の男女が歩いて来た。
男は柄の悪い、ともすれば下品で派手な男で、隣を歩く女もまた、それに似た姿をしていた。けれどロイドの目には、そんな女の姿に、不思議と彼女とは全く異なる一人の女性の姿が重なった。
(スヅハさん…?)
そんな自分の考えを疑問に思ったロイドが、二人が通り過ぎた背後を振り返ると、そこには二人の姿はおろか、人っ子一人居なかった。そして、隣を歩いていたサラもその事に気がついた。
そして、二人は違和感に気が付く。先程までの遣り取りは、中心街の人通りの多い往来で行われていた。
いくら夕暮れ時とはいえ、まだまだ数多くの人が行き交っている中、若い男女がまるで見せ物のような、恋人達の別れ現場のような会話を繰り広げている。
本来ならば、二人の周囲は野次馬や人々の喧騒、足音、気配や視線が数多く集まっていたに違いないのに。まるで、二人だけがあの場に存在しないかのように、足を止める者すら居なかった。
そして、向かいから歩いて来たスヅハらしき女性。彼女はまるでロイドのことなど見えていないかのように気付く事なく、ロイドの真横をすり抜けていった。もしかしたら、スヅハとは違うのかもしれない。けれど、ロイドの勘が、あれはスヅハだと告げている。
スヅハが腕を組んでいたのは、首元と腕に青海波と桜の墨を入れた男。今の現状とスヅハと謎の客の男、それらがぐるぐるとロイドの頭を駆け巡り、彼の思考は止まってしまっていた。
そんなロイドを思考の海から引き上げたのは、掠れた老人の声だった。
「おやおや、こんな所で…。お困りですかな?」
真っ赤に染まる夕暮れの、人々が存在しない街の中に、ぽつりと現れた黒塗りの馬車。馬を引く御者の姿も、その馬も真っ黒で、御者は全身を黒い服で身を包み、帽子を目深に被っているうえ、その姿も影のように真っ黒で、人であるかすら怪しい。
そんな黒い馬車に乗っているのは、あのヒダルであった。彼は妖である。きっと、ロイドとサラをこの世界に迷い込ませたのも彼だろう。ヒダルは驚きと恐怖に染まっている二人の顔を見て、ひっ、ひっ、と引き攣ったような笑いを溢した。
「何か御用事でもあったのですか?こんな所で…」
ロイドがサラを庇うようにして、自身の直ぐ真横に停まっている馬車と、その中にいるヒダルを睨みつける。
「おやおや…、随分と怖い顔をしていらっしゃる。なに…この老いぼれの話をすこーしばかり聞いてくれれば、直ぐにお返ししますぞ?」
まるでロイドの全身を舐め回すかのように、ヒダルの目がぎょろぎょろと動き回り、ロイドを見ている。ヒダルには、ロイドが花だということがバレている。更に、ロイドを金で売り渡せとすら言ってきた男だ。
そうでなくとも相手は妖。いくらアイーザの組紐があったとしても、このヒダル相手にどれほど通用するかは未知数で、ましてやロイドの背後にはサラがいる。
もう、アヅナエのように失いたくはない。自然とロイドの視線は足元のタイルへと移動し、どうすればこの状況を打開できるのか、ロイドの頭はその事でいっぱいになっていた。
「あぁ、それと…。あの若造の助けを持っているというのなら、それは何時まで経っても来やしませんぞ?」
その言葉に、ロイドはハッとして顔を上げる。すると、ロイドの眼前には馬車の窓からぬるりと身を乗り出したビダルの顔があり、にやりと不気味な笑みを浮かべ、白目を剥いたかのような目をぎょろぎょろと四方八方に動かしながら、薄気味悪い声でこう告げた。
「このヒダルの結界を、あんな蛇如きが破れるわけがないでしょう?その貴方を縛る組紐も、所詮はただの紐に過ぎないのですよ?」
ニィッ…と、ヒダルが生え揃う白い歯と歯茎を見せて笑う。ロイドが組紐が巻かれた腕を見れば、大切な組紐がまるで飴細工か何かのようにどろりと溶けて、夕日に染まるタイル張りの歩道の上に青紫と灰色、そして深紅の、組紐だったとろりとした液体が、まるで水溜りのようになって、それらが混じり合い、濁った色に染まっていく。
「これでもう、貴方を護るものは何も無い。さぁ、どうします?」
たっぷりと間を開けて、もうお前には何の手段も助けもないのだと、ヒダルが突き付けてくる。ロイドの絶望に染まる顔に、暗い影が落ちる程、ヒダルとロイドの間の距離は僅かなものなのに、更にヒダルは自らの腕と胴体を、歪なバネのようにぐにゃぐにゃと伸ばしてはロイドとの距離を詰めてくる。
ロイドの肌に、ヒダルのぎょろぎょろとした出目金のように張り出し、半透明の白いライチの果肉のような目が今にもくっつきそうな程、二人の間の距離は無くなっている。そんな状況でも、ロイドとサラは恐怖と驚き、そして絶望に染まった顔をしていて、その場から動く事が出来なかった。
そんな空気さえ凍りつき、重く伸し掛かる緊張感が張り詰めたその場に、今にも消え入りそうな微かな声が、ロイドの耳に届いた。
「ロイド…」
その声はサラのもので、震えながらも彼女は必死にロイドの着物の袖を掴み、血の気の失せた青白い顔をしながらも、彼女は必死にヒダルと対峙していた。
それに気が付いたロイドは、恐怖で地につかぬようだった足に、ぐっと力を込める。そして、サラの手をぎゅっと掴み、ヒダルを振り切るように走り出した。
「ロイド!?」
「今は兎に角逃げましょう!」
ロイドが必死に両足を動かし、サラが足をもつれさせながらも何とかついていく。ヒダルはとても楽しそうな背筋が凍る笑みで、そんな二人の背中を見送っていた。
「若い男女の逃避行ですか。そんな二人を追い掛ける老人の図とは、少々興奮しますなぁ…」
下卑た笑みを浮かべるヒダルが、ずるずると馬車の窓から這い出てくる。そして、先程までロイド達が立っていたタイル張りの歩道に、まるでどす黒いヘドロのように、ずしゃっ、べちゃっ…!と不快な音を立て、ヒダルが頭から落ちていき、地に落ちたヒダルの身がどろどろとした泥濘のような山に変わっていく。ぼたぼたと本体から溢れ落ちたものが地に落ちると、ぶよぶよと動いて山へと合流していく。
そうして馬車からヒダルの全身が這い出ると、ぐちゃぐちゃと音を立て、ぐにゃぐにゃと形を変化させるヘドロの山が人の形を取り、やがて杖をついたヒダルへと姿を変える。
「さてと、そろそろ追いかけねば…」
かつん…かつん…と木製の杖がタイルを叩く音が響く。まるで血化粧のような赤黒い色に染まった陽と空を背に、背を丸めたヒダルがゆっくりと、二人の後を追いはじめた。




