75話
人影が見えた長屋の角を曲がって、その道を抜けるとアイーザが直ぐに見つかった。彼の前には小柄な萌黄色の着物を着た女性が立っている。
「その人ですか?」
ルネが尋ねるとアイーザは静かに頷いた。そして、女性がルネとロイドを振り返る。その顔には驚きと怯えが混在しており、その身は僅かに震えていた。
焦げ茶色の髪を引っ詰めにし、その顔は誰しもを虜にする美人とは言えぬが、楚々とした小花のような女性であった。
「あの、どうしてあんな所からこそこそと覗いていたんですか?」
ロイドが彼女に尋ねる。犯人なのでは?という考えはロイドには無かったからだ。まるで小動物のように震える目の前の女性が、陰湿な付き纏いをしていたとは思えない。
確かに、状況は限りなく怪しく、不審な点が多いが、彼女がそんな行動をしていたのには理由があるのだろうと、何の確証もなくロイドは考えていた。
「あの…、その…」
彼女が何かを言おうとしたその時、別の人物の声が彼女の言葉を遮った。
「何をしているんですか?」
四人から少し離れた所に立っていたのは、所々跳ねた赤毛が目立つ壮年の男であった。男の声は硬く、彼の茶色の瞳がアイーザ、ルネ、ロイドの三人を睨みつけている。
端から見れば、三人の男が一人の女性を囲っているように見える光景に、彼が誤解し、そのような態度になるのも仕方のないことであった。
「あの…これは…!」
睨みつけて来る男にロイドが説明しようとした瞬間、怯えていた女性が男を見た。そして彼女は彼の名を叫んだ。
「カザミジさん…!」
「え!?」
まさかの名前に女性だけでなく、三人も一斉にカザミジと呼ばれた男を見た。まさか三人共此方を振り向くとは思っていなかったのかカザミジは一瞬たじろぐが、ぐっと堪え、三人の視線を受け止めた。
「彼女は俺の婚約者だ!彼女に何かするなら俺にやれ!」
これが本当に、悪漢達とそれに絡まれる女性の場面であったなら、なんとも男らしい台詞であったに違いない。しかしながら、今はそんな場面でもなく、アイーザもルネもロイドも悪漢などではない。
「あの…!一先ず私達の話を聞いてくださいっ!」
ロイドがそう叫び、女性をカザミジの元へ送り届け、ロイドは二人に此処に来た理由を説明した。
「え!?俺の付き纏いの件で…?」
「はい、カザミジさんが悪質な被害を受けていると聞いて、私達はその犯人を捕まえてほしいと頼まれたんです」
マシューコからの依頼だと説明すれば、カザミジはマシューコさんが…。と、申し訳なさそうな顔をした。
「誤解してすみませんでした」
「あの…わたしもすみません。見慣れぬ人達が集まっていて、まさか彼の家にまで何かされるんじゃないかと心配で…」
「気にしないでください!お二人の気持もわかりますから!」
頭を下げる二人に、ロイドが慌てて頭を上げるように言う。二人が顔を上げると、ルネが話を聞かせせてほしいと頼んだ。二人は快諾し、此処では目立つからと、カザミジの家へと通された。
カザミジの位は花青であるらしい。しかし、彼の年齢と婚約者のこともあり、特例として、開花とならなければ住むことのできない長屋の一部屋を使用しているらしい。この長屋は、殿花であるアヤトキの住まいと比べるとやはり狭いが、完全同居である本来の花青の住居と比べたら、とても住みやすいとのことだ。
カザミジの婚約者である女性はスヅハというらしく、彼女は三人にお茶を淹れてくれた。そうして、スヅハの淹れたお茶を頂いてから、カザミジから詳しい話を聞くことになった。
話の内容は、やはりマシューコから聞いたものと大体同じであったが、彼は更に詳細に教えてくれた。
「実は……俺は、今回の犯人は一人じゃないと思っていて…」
彼がそう思うのには理由があった。カザミジの話によると、マシューコから聞いていた嫌がらせが一日一つではなく、それらを一日にやられるのだというのだ。
「指名が入ったと思ったら当日に取り消され、店にはおかしな手紙が何通も届き、御座敷に上がれば私の草履だけ鼻緒が切られていたり…それらを全て一日でやられるんです…」
そんな悪質な嫌がらせが何日も続くうえ、置屋にあるカザミジの衣装部屋の着物が無残に切り刻まれていたり、持ち物を隠されたり、スヅハにまでカザミジのあらぬ噂が流れてくるという。
「わたしは藜楼という酒楼で働いているのですが、そこにまで酷い噂が流れて来るんです…」
藜楼は花街の中心部から離れた場所にある小さな酒楼である。そんな外れにある小さな店までも流れてくるということは、中心部ではもっと話が膨らんでいるに違いない。
「アヤトキ兄さんが中心となって話を揉み消したり、犯人捜しをしてくれているんですが、手掛かりすらも掴めず…」
「実は…この事件はわたしとの結婚話が出た途端に酷くなったので、一旦結婚を白紙に戻そうかとも相談していて…」
「そんな…!」
ロイドは止めたが、二人は深刻な顔で何度も話し合った結果だと話す。せっかく幸せを掴んだ二人があまりにも不憫だと、ロイドは俯いてしまった。
「話が立ち消えるなら、付き纏いも嫌がらせも収まりますかねぇ…」
「それなら我々の出る幕はありませんね。帰りますか」
「はい!?」
ルネとアイーザのまさかの発言にロイドは本気で驚いたが、どうやら二人は本気なようで、さっさと外へ出ようとしている。
「待ってください!マシューコさんから頼まれたのに!?」
「それならば二人の縁談は立ち消えました。付き纏いも落ち着くだろうと報告して終わりですよ」
「そもそも、本来は我々の仕事じゃありませんしねぇ…。その後も嫌がらせが落ち着かないというのなら…まぁ、話を聞いてやらないこともないですよ?」
そう言って、二人は本当に家を出ていった。ロイドは唖然とした顔で二人を見送り、カザミジとスヅハもまた呆然と二人の背中を見ていることしか出来ずにいた。
しかし、スヅハが一番に我に返ると、小さく息を吐き、全てを諦めた声色でぽつりと呟いた。
「やっぱり、一度白紙に戻したほうが良さそうね…」
「スヅハ…?」
「あの人達が言っていた通り、わたし達が諦めれば全て収まるかもしれない。このまま意地を貫いて周囲の人達を不幸にするより、一旦今回は白紙にして、また二人で話し合いましょう?」
「けど、それでまた嫌がらせが始まったらどうするんだ…。次は君まで巻き込まれてしまうかもしれない…」
「わたしなら平気よ。でも、そうなったらもう、わたしはこの思いを秘めて生きていくわ…。また、アヤトキさん達やお店の人達に迷惑がかかるもの…」
「スヅハ…」
「あの…!」
二人の会話をロイドが大声で遮る。
これ以上、幸せになる二人に悲しい会話をしてほしくなかった。今までは落花や妖に関わる事件ばかりで、ましてや戦いとなればロイドに出来ることは殆ど無い。だが、今回のような事件なら、ロイドにでも解決できそうな気がした。
普段はアイーザとルネの背に守られてばかりだったから、恩返しではないけれど。二人と、そしてお世話になっているマシューコのためにも何とかしたいと思ったのだ。
「結論を出すのは、少し待って貰えませんか?」
正座をしているロイドが、膝の上に置かれている自らの手をぎゅっと握り、覚悟を決める。
「私が犯人を捕まえますから!」
真っ直ぐな翡翠だった。二人はそんなロイドの気持ちに気圧され、一度顔を見合わせると、暫し話し合った後にお願いしますと頷き、頭を下げた。




