7話
到着したのは、数多の枝垂れ桜の絵が美しい閉じられた襖の前。此処が、観桜の間であった。
幼い頃に見た姿と寸分違わず、朧気な薄桃色がロイドの視界いっぱいに広がる、圧巻の光景であった。
ロイドは廊下に膝をつき、中に声を掛ける。
すると、襖はするすると開き、その中から10代前半の愛らしい少女が顔を出した。
彼女はホシアメかカシノヤ付きの見習い、花蕾だろう。
花街の事を学ぶため、花姫や人気の高い開花達は皆、見習い兼お付となる花蕾を連れており、どんな仕事の場にもお供させるのが常であった。
「どちら様でしょう?」
表情と声に、僅かに緊張が見てとれる。突然、見ず知らずの男がお座敷にやって来たのだから、それもそうかとロイドは思い、穏やかな笑みを作り、彼女に声を掛けた。
「女将の使いの者で、ロイドと言います。この巾着を届けるようにと言われて来ました」
彼女は珊瑚朱色の巾着を一瞥すると、「少々お待ちください」と言って、部屋の奥へと入っていった。ロイドは巾着を持ったまま、ただ待つしかなかった。
その後、暫くして彼女が戻って来ると、ロイドに中へ入るよう促した。
「ホシアメ姐さんが呼んでます」
どうぞ、と彼女がせっつくので、ロイドはおずおずと中に入った。中にはもう一人、別の少女が居て、ロイドにぺこりと挨拶代わりの御辞儀をした。
ロイドも無言で御辞儀を返し、奥の間へと辿り着いた。
「姐さん、お連れしました」
「…どうぞ」
奥からしっとりとした女性の声が聞こえ、少女は襖を開ける。もう一人の少女はロイドの背後に控えていた。
襖を開けて最初に飛び込んできたのは、美しい反物が暖簾か簾のように垂れ下がる室内でも、開け放たれた障子から見える庭の見事さでも、花街の二人の花姫でもなく、そんな彼女達がしなだれ、凭れ掛かり、酌をしている一人の男。
これほどの美しいものに囲まれていながらも一人異彩を放ち、埋もれること無く、そんな数多の美を霞ませ淘汰する圧倒的な艶やかさ。
この街の花さえも背景として従える、ロイドが焦がれて止まない男が、そこに居た。
「アイーザ…」
「おや、どうしたんです?こんなところで」
ロイドは啞然とその光景を見ていた。アイーザは多少驚きはしたものの、平然としたまま、朱塗りの杯を傾けながら、花と酒を楽しんでいるように見えた。
「私が呼んだの。大事な巾着を届けて貰ったのよ」
「フフッ、アメちゃんはそそっかしいものね」
「シノちゃん…、もう、そうやって直ぐ意地悪言うんだから」
鈴を転がす声が二つ、カラカラチリチリと楽しげな音を鳴らして笑っている。色鮮やかな袖口で紅を飾った口元を隠し、アイーザに肌を寄せるかのように、彼の耳元でヒソヒソと何かを囁いている。
その三人の姿は、ロイドの胸を激しく締め付け、どうにか抑えていた黒くて暗い感情がロイドの内側で暴れ出し、縋っていた筈の何かに、小さな亀裂が入ったような音がした。
その後、ロイドは花街の中を走っていた。
それは、逃避という名の防衛本能が働いたのかもしれない。只々、あの部屋に居るのが辛かった。
これ以上壊れたくなくて、耳も目も全て塞ぎ、喉を締めてしまいたくなった。
花姫と戯れるアイーザの姿を見たロイドは、自身の口から溢れ出しそうになっている黒いものを全て堪えた。
一言でも何か漏らせば決壊しそうな唇を縫い付け、剥がれ落ちそうな笑顔を無理矢理貼り付けて、花蕾の少女に巾着を預けると、その場から逃げるように立ち去った。
廊下中に響き渡るような自身の足音が煩い。しかし、今のロイドに、その事を気にする余裕は無い。
従業員も、花も、客をも押し退けて、ロイドは転げるように華夜楼を飛び出し、人の波を掻き分け、門へと走った。
靴を忘れ、その足が裸足でも。最後の望みを絶たれ、視界が真っ暗になっても。全身の感覚が朧げで、今にも崩れ落ちそうでも、ロイドはただ走り抜けた。
ゼェゼェと息が上がる。
脚が何度も縺れて転びそうになる。
何もかもがぼやけて視界が滲む。
懐かしい匂いがロイドに纏わりつき、街へ戻っておいでと絡みつく。ロイドはそれをも振り切って、朱色の門の姿が歪んだ世界の中で見えた時、この街を出れば自身を縛る懐古の心と、この黒い醜悪な感情から少しだけ逃れられるかもしれないと、ロイドは僅かに安堵した。
美しい花の街。
“花”だと言われた自身と、本物の花である彼女達。瑞々しく花弁を綻ばせ、芳しい香りと共に咲き誇る本物の花と、造花にもなれない、腐り落ちて枯れた花。
そんな花に、美しいと言う人間が何処にいるというのか…。
そもそも、アイーザの言う“花”とこの街の花では意味が全く違うのに、何で自分は驕ってしまったのだろう。ロイドはそもそも、この街の花にはなれなかった。いや、お前は花ではないと言われ、この街を飛び出したというのに、未練がましい自分に心底呆れて、吐き気がした。