69話
ロイドは久しぶりに夢を見た。
それは忘れてしまいたかった過去の記憶。まだロイドが幼く、母が生きていた頃のことだった。
ロイドと母は、父となる予定であった男を亡くし、二人で花街で生活していた。花であった母は、男と結婚する運びとなったために、既に引退していた。父となる予定だった男はとある夜、何者かに襲われた。共にいた母も襲われ、母と既にお腹にいたロイドだけが、命からがら生き残った。だが、その時の傷で、もう花として働く事ができなくなり、そのことを不憫に思った華夜楼の女将が母を雇ってくれたのだ。
そこで母は働き、一方のロイドはまだ乳飲み子であったために、女将の計らいで、母の仕事が終わるまでの間、従業員達が使用する休憩室でお世話をされて育った。夜になればそこに布団を敷き寝かせてくれていた。
そんな生活が数年続き、ロイドが一人で歩けるようになると、母の仕事が終わると同時にロイドは目を覚まし、眠たい目を擦り、時にぐずりながらも、母と二人、必ず手を繋ぎ、家へと帰る。それが、幼いロイドの毎日だった。帰宅すると母が布団を敷いてくれて、再度ロイドは母と共に眠る。その際に母は、毎夜一人で泣いていた。
「ごめんね…。ロイド、本当にごめんなさいね…」
幼い自分を抱きしめて、何度も謝罪の言葉を繰り返し涙を流す母の姿を、ロイドは薄らぼんやりとだが覚えている。ただ、幼い自分は睡魔に勝てず、母の温もりに包まれていたことと、母の謝罪は夜遅くまで自分を一人にしてしまう負い目の言葉だと思っていたためか、ロイドは母のその言葉の真意を聞く事は無かった。
いつか理由を聞こうと思っていたのだがその後、母が早くに亡くなったことで、その謝罪の意味は永遠に分からぬままだ。
もし、あの時に幼いロイドが、どうしたの…?と寝ぼけた掠れ声であったとしても尋ねていたら、何か違っていたのだろうか。もう、確かめることはできないけれど、母は一体自分に対して何の謝罪をしていたのだろうかと、夢の中のロイドは考えた。
一方のアイーザは、真っ暗な寝室を僅かな月明かりだけが照らす時刻に目が覚めた。普段の寝穢い彼の姿は何処にもなく、静かに視線を窓の外へ向ける。このままロイドと二人、穏やかな時間を過ごそうとしていたのに、何かと最近は騒がしい事が増えた。
今近付いている問題の原因がクスナなのか、それとも別の何かなのかは定かではないが、夜香堂に複数の妖の気配が迫っている。ルネに任せても問題ない数ではあるが、ここでアイーザが何の手助けもしなければ、翌朝にはまた厭味ったらしい言葉を投げ掛けられるだけでなく、更に面倒な事になるのは目に見えていた。
「はぁ…」
アイーザは一つ大きな溜息をついて、ぐっすりと寝入っているロイドを見た。気持ち良さそうに眠っているロイドの睡眠を妨げるのは忍びなく、絶対に起こさぬよう、そっとベッドを抜け出した。ベッドから離れる前にロイドの額に口付けを落とし、アイーザは念の為にと寝室を出る前にベッドの周囲と寝室に結界を張り、更に屋敷中の結界を強化して、アイーザは扉を括り夜香堂へと向かった。
「おや、わざわざ来てくださったんですか?」
「来なければ来なかったで面倒ですからね。貴方の場合」
「酷いなぁ。今回だけはロイドに免じて、来なくても文句を言わないでやろうと思っていたというのに…」
「どうだか…」
店内でそんな会話をしていた二人が、真っ黒な闇の霧に紛れるかのように溶けて消えた。
二人が辿り着いたのは裏世界の境の街の端。黒い靄のようなものが縦長に二つ、道の真ん中に集まり、風が流れるとともに黒い靄が風に流される。それが黒い紗のように棚引き、そんな幾度もの薄絹の中から、ルネとアイーザが現れた。
二人の目には既に迫り来る妖どもの影が見えていた。そこそこの数がおり、どれもが異形な姿をした堕ちた者達であった。
「あちゃー、酷い光景ですねぇ…」
「目が腐る。さっさと片付けますか」
そう言ってアイーザは袖の袂に手を入れるも、そこには目当ての物が無い。
「研ぎに出していたでしょう?」
「ちっ…」
こんな時に…。と、忌々しげに言うアイーザ。裏世界は廃墟ばかりなので、夜香堂以外の建物がどうなろうと知ったことではない。檜扇など無くとも、アイーザはあの程度の者達など相手にならない。だが、それでも檜扇を用いるのは、爪を用いれば手が汚れるし、何よりその戦い方が美しくないからだ。
着物は着崩れるし、乱れるし、返り血で汚れるし、素手で戦う利点が何も無い。嫌気が差したらしいアイーザは早く済ませて帰ろうと心に決めた。
アイーザが寝室に戻ってきたのは、それから暫く経っての事だった。遠くの空は薄っすらと明るくなり始めている。
別に戦闘が長引いたわけではない。寧ろそちらは早く終わった。しかし、ロイドとの時間を邪魔され、睡眠時間を邪魔され、アイーザはその怒りの矛先をやって来た妖どもに向けた。
そうして大立ち回りしたせいで、着物はおろか、全身が真っ赤に染まる程の返り血を浴びてしまった。そのため湯で汚れを落とし、汚れた着物は捨てたりと、色々していたらこの時間になったのだ。
部屋に入ってからもアイーザは不機嫌だったのだが、その表情が一瞬で融解した。
「アイーザ…?」
まだ夢現な蕩けた声、それでもロイドは眠りから覚めて、居なくなったアイーザを探していたらしい。その証拠にアイーザが眠っていた場所はシーツが乱れ、布団がくしゃくしゃになっている。
ベッドの中に居ながら上体を起こし、ずっとアイーザが扉を開けるのを待っていたのだろう。アイーザが戻ってきて安心したのか、またうつらうつらと船を漕ぎ始めている。けれど、ロイドはアイーザを待っているのか布団に入ろうとはしない。
アイーザがベッドの近くへやって来て、ロイドが居る反対側からベッドに入ると、ロイドはぽすんっ!と枕に頭を預けた。更にそのまま横を向き、もぞもぞと布団の中を移動して、アイーザにぴったりと寄り添うようにして、ようやくロイドは寝息を立てはじめた。ぎゅっとアイーザの着物を握りしめ、何処にも離れていかないようにと、寝苦しいだろうにアイーザから離れようとはしない。寧ろロイドは安心した顔をして眠っている。
困った子だ…。そう思うも、アイーザの顔には笑みが浮かんでいる。先程までの苛立ちも鳴りを潜め、アイーザはロイドを抱きしめた。きっと、明日もまたアイーザは寝過ごすのだろう。そして、昼頃に起きてきてルネに厭味を言われるに違いない。
だが、そんなものは些事だと、アイーザはゆっくりと瞼を閉じ、ロイドと共に眠りの海へと沈んでいった。




