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67話

「あれは…?」

「ちっ…」

「また来た…。今月分は既にお渡ししたはずなんですがねぇ…」

 三人の言葉が届いたのだろうか。両者の間にはまだ、そこそこの距離があるというのに、老人は此方に気が付いたらしく、店から此方へと振り向いた。

「おぉ…、お出かけ中でしたか。お待ちしてましたぞ」

 ふぉっ…ふぉっ…と笑って、ルネとアイーザを待っていたという謎の老人。そんな彼の白眉に隠れた糸のような目が、鋭い目つきに変わりロイドを見た。

「んん…?その御仁は…。どなたでしたかな?」

「貴方には関係の無いことです」

 老人の疑問に、アイーザは答える気は無いと言葉を返した。すると、老人の目は更に鋭く射貫くような目に変わっていく。その事にアイーザもルネも気が付いていたが、二人はロイドを背後に庇うようにして、その視線と相対していた。

「どなたかは存じませぬが、今日来たのは大切な話ゆえ、お引き取り願えませんかな?」

「今月分は既にお渡しした筈ですが?」

「それとも、それ以外のことで?いずれにせよ、追加料金を頂くことになりますよ?」

 アイーザとルネが老人に問う。ロイドは二人の背後で必要なら席を外しますよと言おうとしたのだが、アイーザに言わなくていいと目配せされてしまえば、ロイドは黙って事の成り行きを見守るしか出来なくなってしまった。そして、この老人は何者なのだろうかという疑問だけが残る。

「此度は御上からではありませんのじゃ。中宮からの頼みで御座いましてなぁ…」

 その言葉で、ルネとアイーザの顔がほんの一瞬、瞬きの間も無い程…僅かに歪んだ。

「その件は既に、何度もお断りしている筈ですがねぇ…」

 ルネの纏う空気の温度が冷えていく。普段の穏やかな笑みは消え、今の彼の微笑みは氷のように凍てつき、射殺さんばかりの敵意を剥き出しにした笑みだった。

「老いぼれの最後の頼みとして聞いてくれんかのぉ。ほんの少しで構わんのです…。そうでなければ、わしも大目玉を食ろうてしまいましてのぉ」

 ルネとアイーザは頑なに首を縦に振ること無く、老人を睨みつけていた。

「我々があの女の頼みを聞くことはありません。お引き取り願いましょうか」

 アイーザにそう言われ、老人は数回自らの見事な髭を撫でると、仕方ありませんな…。と、諦めたかのような物言いをして、三人にゆっくりと杖をつきながら歩いて近付いてくる。背の高いロイドと、そんなロイドを遥かに上回る背丈のルネとアイーザと比べると、老人は本当に小柄であった。しかし、老人はか弱そうな雰囲気どころか、ロイドの背筋が凍る程に恐ろしいと感じる何かがある。その証拠に、ロイドの目には老人の背後に、黒く揺らめく底知れぬ巨大な影が映っていた。

 そんな老人がルネとアイーザの前で足を止め、俯いたままひっ…ひっ…と、引き攣ったような、不気味な笑い声を上げはじめた。

「そうそう、何も蜜でなくとも構わぬのですよ?例えば…そうさな…そこの花を一輪貰い受けるでも…」

 そう言いながらゆっくりと顔を上げる。その顔には笑みが浮かんでいたが、白眉の隙間から覗くその目は、先程までの糸のような細さとは違い、まるで飛び出た魚の目のようにぎょろりと眼球が半分程剥き出しになり、瞳孔が開き、爛々とギラつかせ、にぃ…と無理矢理笑いの形に歪められた口は、髭の隙間から彼の異様に白い歯と血色の良い歯茎が、覗いている。彼の老いぼれた姿とは似つかわしくない不気味な顔で、彼は遠くを見て笑っている。

 その視線はルネとアイーザに向けられたものではない。老人の目は、彼等の背後、その先にいる、一輪の白い芍薬(ロイド)だけを見ていた。

「無論、タダでなどとは申しません。言い値で買い受けますぞ?」

 その瞬間、老人の黒い影が更に肥大した。彼から伸びる影の闇に呑み込まれてしまうかのように感じたロイドは、必死にアイーザの着物の袖を掴む。まるで自分の背後に老人が立っていて、ずっと彼に監視されているように感じる。今直ぐにでも此処から連れ去られてしまうのではないかと不安が襲ってくる。ロイドの背に冷たいものが流れた。

「失せろ」

 突然、アイーザの一声が老人の影を切り裂いた。

 天を覆うかのように思えた黒い影が、散り散りに切り刻まれた紙のように宙を舞い、消えていく。アイーザの冷めきった青紫色の瞳が、研ぎ澄まされたような殺意を老人へと向けている。

 それなのに老人はふぉっ…ふぉっ…と、先程までのぎょろぎょろと蠢いていた不気味な目を穏やかに細め、のんびりと笑う爺の顔に戻り。飄々と喋りだした。

「残念ですなぁ…。じゃが、彼女がそう簡単に諦めるとは思わぬことです…」

 諦めのような言葉を残し、ようやく老人が三人から離れていく。こつこつと彼の杖の音だけが周囲に響く。すると、どこからかざぁ…、ざざ…と、波の音が聞こえてきた。音の根源を探すと、老人の足元には真っ黒な墨のような水が寄せては返すのを繰り返していた。それは段々と深く、彼の足を水の中へと沈めていく。そして、最後にはゴオォォ…という地響きのような音と揺れと共に、巨大な波が空を覆い迫ってくる。その波が老人を呑み込むと、そのまま黒い海が薄っすらと透け始め、何の痕跡も残さず、老人も共に消えてしまった。

「あの狸爺…」

「少々、面倒な事になりましたね」

「あの…あの人は一体…?」

 アイーザは苦々しい顔で舌打ちをし、ルネも珍しくその顔から笑みが消えている。ロイドはまだ恐怖が消えないのか、僅かに震える手でアイーザの袖を掴み、彼の背に隠れるようにしながら老人の事を尋ねた。

「あれは妖です。太古より異端と称され、妖でありながら、人間の理の中で生きると決めた者…」

「まだ妖と人間が表の世界で入り混じり、人間を敵視していた大昔から、あれだけは人間の中で生きる道を模索していた変わり者なんです」

「ルネに変わり者と言わせる時点で相当だと思ってください」

「貴方は…。本当に失礼ですねぇ」

 二人の普段のような会話を聞いて、ようやくロイドの震えも収まる。まだ不安は拭えないが、老人の姿も消えたことで、ロイドも普段の調子を取り戻してはじめていた。



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