6話
華夜楼とは、この街にある最も大きな建物で花街のどこからでも見える六角形の特徴的な屋根が目印だ。この花街が出来た頃から建っている一番古い店で、今も変わらず繁盛している由緒ある酒楼である。
ロイドの母もアヅナエの母も、良く其処にはお世話になっていた。ロイドやアヅナエも遊びに行った事があり、食事を取らせてもらった事も一度や二度ではない。
しかしそれは、幼かった頃の話。
今のロイドが店に入れるとは、到底思っていない。
けれど、それでもロイドは、アイーザのそばへと行きたかった。
アヅナエは、アイーザの名前を知っていた。
そのことを知ったロイドの心の中には、はっきりと、嫉妬という感情が生まれていた。
何で?狡い。いつから?羨ましい。
自分だけだと思っていたかった。そんなこと、あるはずもないのに…。
どろどろとした黒く醜い感情が、ロイドの中を渦巻き、暴れ、溢れ出す。まるで、重油のようだ。こんなに粘度があって重そうなのに、実際は水よりも軽いから、いとも簡単に溢れ出してしまう。
アヅナエは、ロイドも“花”だと言った。
アイーザは、ロイドは固い蕾の“花”だと言った。
こんなに醜く汚れているから、ロイドは咲かないのではなかろうか。汚れきっていて、きっと、その根は嫉みと僻み、羨望と憎悪で腐り落ち、花は蕾のまま、萎れて枯れ果てたのではなかろうか。
ロイドには、そう思えてならない。
だって、花がこれほどに醜悪でいいわけがない…。
崩れ落ちそうな足取りで、ロイドは人も花も掻き分け、無我夢中で華夜楼までの道程を駆け抜けた。
どうしてかわからない。けれどロイドは、アイーザに否定して欲しかったのかもしれない。
何故か、アイーザなら、そんなぐちゃぐちゃなロイドの姿も笑って、貴方は綺麗な花だと…、そう言ってくれる気がしたのだ。
華夜楼は相変わらずの存在感で、煌々と明かりが灯り、雄花や雌花を連れ歩く数多の客達が、その暖簾を潜って行く。
そんな客達に紛れ一人、その暖簾を潜るロイドは、どこか異質であった。
中も、ロイドが幼い頃と変わらない。
相変わらず立派で、石畳の玄関と小上がりの艶々とした板張りの床が美しく、色とりどりの鮮やかな花が描かれた大きな衝立てが客達を出迎える。
他の者達が靴を脱ぎ、奥へと消えていく中、ロイドだけがその場で立ち竦んでいた。
「あれまぁ、ロイちゃんやないの」
「女将さん…」
奥から出てきた白髪をまとめた女性。
昔の姿から随分と年を取ったが、ロイドの記憶の中にある華夜楼の女将そのままの姿であった。
上品な着物を身に纏い、独特な話し方をする彼女は、幼い頃のロイドとアヅナエに、食事を出してくれていた張本人である。
「元気そうやねぇ、どうしたんよ。街を出たんじゃなかったん?」
「お久しぶりです。その…人を探していて…」
「ん?アヅナエかい?」
暗い顔のロイドを見ても、彼女は努めて明るく振る舞い、無用な詮索をしないでいてくれる。
周囲とは違うアヅナエの抑揚も、表には出さない静かな心遣いも昔のままで、今の不安定なロイドには優しすぎて、少し泣きそうになった。
「違います。アイーザって人、来てませんか」
「あぁ!香房の人やね。知り合いかい?」
「あ…、いえ、その…」
「訳ありのようやけど、ごめんね。私の口からは言えんのよ…」
「いえ!わかってたのに押し掛けてしまって…、すみません」
ロイドの顔がどんどん暗く、曇っていく。
「あ、ロイちゃん。ちょーっとお手伝いしてくれんかな?」
「え…?…はい、大丈夫です…けど…」
「じゃあ、取り敢えず上がろか。此処やと目立つしねぇ」
そうして連れてこられたのは店の奥。
一面畳の部屋の真ん中には、貫禄のある木製の机と座椅子が置かれている。何十年もの時間を女将と共にしてきたそれらは、彼女の大切な相棒なのだと、ロイドは知っている。
背後の硝子戸の戸棚には帳簿やら書類やらが積まれ、きっちりと区分けし、整理されていた。
そんな重厚感のある暗いニス塗りの机の上には似つかわしくない、明るく華やかな珊瑚朱色の巾着が、ちょこんと置かれていた。
「これをね、観桜の間に届けて欲しいんよ」
「観桜って…、あの?」
「そう、ホシアメとカシノヤが使ってるんよ。これはその、ホシアメの忘れもんさ」
観桜の間は、この華夜楼の特別な部屋である。
どれほどの金子を積もうと、どれほど身分が高かろうと、その部屋を使うことは出来ない。
昔、幼いロイドが女将に尋ねると、女将は笑って、「此処は花を慈しむ者しか、使う事を許されないんよ。この店だけの、特別な部屋さね」とカラカラと笑っていたのを思い出す。
ロイドは女将と共に奥の部屋を出て、観桜の間へと続く廊下を歩いていた。
「にしても、何でホシアメさんとカシノヤさんが…?」
「ロイちゃんは知らなんね?今や二人も花姫さね」
「二人が花姫!?」
花姫とは、この花街の女性の最上位だ。
花蕾、花娘、開花、花姫が女性の位。花蕾、花青、開花、殿花が男性の位だ。そして、そんな彼、彼女達は総じて、『花』と呼ばれている。
此処は、花街と呼ばれているが、美しい女や男が身を売り、客が一夜を買うような場所ではない。
此処は、花を売るのではなく、花が夜を彩る街だ。
花街の花と呼ばれる者達の仕事とは、あくまでも人を楽しませ、場を彩り、華やかにするために存在する。
故に、美しさだけでなく、舞や楽器などの芸事、詩や俳句、政治や時事等の様々な知識と巧みな話術が求められるという、とても大変な仕事だ。
その全てを兼ね備え、数多の指名を貰う、この街の大輪の花。
それが、花姫と花殿であった。
「さぁ、話は此処まで。巾着、ちゃんと渡しなね?」
そう言って女将は、もと来た廊下を戻っていった。これより先は、ロイド一人だ。
この辺りで、いつもアヅナエと追い掛けっこをしては、女将に叱られていた事を思い出す。
真っ直ぐで広く長い廊下は、庭に面しているのもあって、遊び場には丁度良かったのだ。流石に今のロイドは走り回ったりなどしないが、廊下を見る度に、在りし日の幼い二人の面影が、ちらりちらりと顔を出し、ロイドを奥へと誘っているかのようだった。