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58話

 居住区では死者が増えていた。化け物となったクスナを止めるため、沢山の兵士達が集まって来る。しかし、彼等はクスナに指一本触れることは出来ぬまま、無残な死体となって転がるばかりだった。悲鳴は無い。人は、自身が想像しうる恐怖よりも凄まじい恐怖に直面した時、悲鳴すらでないのだと知った。喉がひりつき、呼吸をするだけで心臓が痛む。そんな微かな行為すら彼女に自らの存在を示す標となりそうで、誰も彼もが息を殺して逃げ出した。

 逃げ出した者達は皆、大切な恋人を失った彼女が狂ったのだと思った。けれど、そうではない。クスナは最初から狂っていた。彼女はまだ人であり、人の心を持っていたからこそ、狂った本性をひた隠しにしてきただけだった。けれど、彼女の枷はもう無い。自由に生きるということの、なんと心が軽く、楽しきことか…。はじめて彼女の視界は鮮やかな色を映していた。

 そんな、鼻を塞いでもまだ匂い立つ、怖気が走るほどの凄惨な赤い世界に、夜露の香りの風が吹いた。

 すると、途端にクスナの表情は色めき、その笑みはまるで花のように美しく咲き誇る。

「貴方のこと、待ってたわ…」

 ゆらりと血飛沫が彩る亜麻色の髪を翻し、クスナがくるりと回って舞を終えると、彼女はそう言った。

 彼女の視線の先、そこに居たのはアイーザだった。最後に会った時とは違い、今のアイーザはその身長に見合った丈の、仕立ての良い鈍色の着物を纏っている。

「ふぅん…、その色も似合うわね。あ、最初に着ていた襤褸も、そんなだったかしら?」

 くすくすと一人笑うクスナとは対照的に、アイーザは冷めた目をしたまま、静かに彼女の姿を見ていた。

「なぁに?私に見惚れた…?」

「醜悪な…」

「まぁ!失礼ね。赤に染まって、こんなにも匂い立つ美しい花に向かって醜悪だなんて…」

 アイーザが眉を顰め、不快感を露わにした顔でクスナに言い放ったその言葉に、クスナは着物の袖で目元を拭い、わざとらしい泣き真似をしてみせた。

 アイーザの目には、クスナの背後に一本の椿の木が見えている。その木は枯れかけながらも、数日前まではまだ、赤い、見事な花をつけていた。とはいえ、その木からは既に幾つかの花が落ちていて、それは日に日に増えていった。

 クスナという花は狂っている。そしてそれはアイーザに出会う前から既にそうであったのだろう。そして、それはもう手遅れなところまで来ていた。

 それを知りながら、アイーザは何もしなかった。ただ見ていた。なる様にしかならない。遅かれ早かれ、クスナは堕ちていた。それが偶々今になっただけのこと…。アイーザにとってはその程度のことだった。

「ねぇ…お願い。私と一緒に来て?私と、一つになって…?」

 クスナがアイーザに向けて手を差し出す。彼女の表情は余裕と自信に満ちていて、アイーザが自らの手を取ると確信しているようであった。

 だが、アイーザは動かない。ただ、クスナの紅が散る真白い手を見ている。

「手、取ってくれないの…?」

 首を傾げながら、クスナはアイーザを見る。取って?と、クスナは手をふらふらと振った。すると、途端にクスナの花の香りが周囲に広がった。その香りは、数多の男を虜にする落花の腐りかけた甘さに一匙の苦さを混ぜた香りで、それを嗅いだのか、ようやくアイーザは足を進めた。一歩一歩をゆっくりと、クスナとの距離は近付いていく。そんなアイーザの姿を見て、彼女は微笑んだ。

 少し、また少しと近付いてくるアイーザをクスナは蕩けた赤い瞳で見つめる。その目元はまさに妖艶というに相応しいものだった。更に彼女は匂い立つ、その度にクスナは美しく、妖しく、見る者全てを魅了した。それは、妖であろうと、男であれば同じ事。完全にアイーザは自身の虜となっている。そう確信していた。

 アイーザがそっと、彼女の手に手を伸ばす。

「そう…。早く、その手を伸ばして。私を求めて…?」

 後もう少しで二人の手が触れ合う…。ところがその瞬間は訪れる事なく、直前にアイーザの手がクスナの視界から音も無く消え、代わりに彼女の白い手が、手首を離れて宙を舞った。

「……は?」

 彼女が声を発した途端に、手首と離れていった手から血が噴き出す。他人の血で染まっていた筈の彼女は、今度は自らの血で赤に染まったのだ。

「い"や"あ"ぁぁぁぁぁ"!」

 クスナは大きな悲鳴をあげる。その痛みに、自らの手を失ったその事実に彼女は驚愕し、そして、憎しみと怒りに染まりきった真っ赤な瞳で目の前の男を睨んだ。

「どういうつもり!?貴方、私の匂いを嗅いでないの!?」

「こんな悪臭を振り撒いておきながら、私を魅力した気になっているなどと、勘違いも甚だしい」

「は?なんで?どうして?私の事、受け入れてくれたでしょう?」

「毎日飽きもせず、本当に鬱陶しい…。寝言は寝て言え」

「私の事、わかってくれてたじゃない…。貴方は絶対…私と同じよ…。誰かに愛されたい…愛を欲する化け物…」

「私を知ったふうに言うのはやめろ。お前のような醜悪な化け物と一緒に扱われるなど…」

 アイーザはそう言って一度、咳をした。普段、これほどまでに喋った経験など無く、慣れぬ喉が何度もひりつき、噎せたように咳が出る。けれど、そんな姿になってもなお、この女に全てを言わねば気が収まらない。

 はぁ…はぁ…と、荒い呼吸を整え、口の端から流れた唾液を拳で拭う。そんな彼の瞳に映るのは、明確な殺意だけだった。

「反吐が出るんですよ…。糞野郎」

「貴方…そんな顔も出来たのね…」

 クスナの頬が引き攣った。今までの美しい笑みとは裏腹に、今の彼女はその片鱗すら見えぬほどに歪み、醜い姿を晒している。紅のようだった彼女を彩っていた血が、乾いて錆のようになっている。まるで、彼女自身が錆びついて塗装が剥げたかのような、朽ちかけている彼女の本性を露わにするような、そんな汚い彼女の姿をアイーザは冷たく嘲笑って見ていた。

「無様ですね、ごほっ…!本当に」

「酷い人…。でも、私は貴方を望んでるの」

「私が、必要としているのは…お前じゃない…」

「そう…。交渉決裂ね、残念だわ…」

 醜い表情を隠さず、クスナは笑みを濃く、深めていく。目尻を起点に彼女の血管だろうか、地面に植物が根を張るかのように複雑に広がり、クスナの白い肌を隆起させる。今の彼女にはもう、美しかった頃の…人間の面影はなかった。

「じゃあ、もういいわ…。力尽くで手に入れるから…!」

「出来るものなら、ご自由に…」

 クスナが鉈を振り翳し、アイーザへと襲い掛かる。しかしアイーザは微動だにせず、飛び掛かってくる彼女の姿をただ真っ直ぐに見据えていた。そして、自らの頭目掛けて振り下ろされる鉈を、アイーザは素手で刃の部分を掴み、受け止めた。

「…なっ!?」

 クスナが驚き鉈を抜き取ろうと力を込めるも、アイーザに掴まれた鉈はびくともしない。

「たかが花如きが…私を殺せる筈がないでしょう?」

 アイーザの手に段々と力を込める。すると彼の手には骨と血管が浮き出て、その指先部分から、鉈がみしみしと不穏な音をあげる。クスナが思わず鉈から手を離すと、ぴき…っ、ばきぃっ…!と金属が砕ける音がして、アイーザは鉈の分厚い刃の部分を自らの力のみで砕き、折ってしまった。

「ひっ…!?」

 クスナが思わず小さな悲鳴を漏らした。




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