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56話

 それから数日、彼女はアイーザの前に姿を現すことはなかった。しかし、アイーザはその事を気にした様子もなく、彼は瞼を閉じては眩しい陽射しを呪い、住処に押し掛ける人間達を呪いながら、その日も草むらの中でただ寝転んでいた。

 陽が頂点に昇り、それが傾いていく。そうして空の色は移り変わり、風が冷たくなっていく。空が鬱陶しい夕暮れから、ようやく暗闇へ。遠くの空の端が暗紫色に染まっていく頃に、クスナは現れた。

「いた…」

 微かな声と暗い瞳がアイーザを捉える。彼女の姿は、昨日までの彼女とは違っていた。ふらふらと、地に足がついていないような、その目は虚ろで、普段は背中の中程までの髪を毛先の部分で結っていた筈なのに、その日は髪を纏めておらず、長い髪が夕闇の風に揺れていた。

「ねぇ、どうしたらいいと思う…?何も無くなっちゃった」

 アイーザはクスナを見ることは無く、声を発することも無い。それでもクスナは、完全に無気力な、涙の潮気を含んだ掠れ声で、彼女は一方的に話している。

「もう、無理だって…。本当、私の事…全然わかってなかったみたい…。どうしよう…全身が乾いて枯れ果てていくみたい…」

 彼女は自らの両手を見る。いつも通りの白くか細い両手だ。けれど、彼女の目には皺が目立ち、骨が浮き、枯れ枝のような両手が映る。

「愛するって辛いの…。欲しくて堪らなくなるの。そう望まないように、そうしないようにしてたのに、どうしても我慢出来なくなって、後悔して。それでも…って思ってたら…結末はこれ…」

 飢えていく。ただただ飢えていく。一緒にいるだけでは足りなくて、どこまでいっても満足しない。互いの身体すら邪魔に感じて、その奥を、互いの皮膚をぶち破って、その最奥に流れる赤と鉄臭い温もりを、彼の感情の全てを感じたい。

「ねぇ…、貴方も同じでしょう?だから、そうやって無気力を装うの…。愛したら、もう戻れないから…。何もかも自分のものにしたくなるから…」

 虚ろな泣き笑いのような、ただ只管に暗く、湿度があるのに乾いているような表情で、クスナは寝転がるアイーザを立ったまま見下ろしている。

「ねぇ…、違う?」

 アイーザは答えない。ずっとクスナに背を向けて、遠くの闇が迫る空の方を向いている。寝ているわけではない。

 クスナには、最初から全てわかっていた。

 この男は自分と似ている。この男は常に狂気を孕んでいるのだ。自分と同様に、自身が持つ愛に、その狂気は隠れている。クスナはそれに気が付いて、抗ってなお誰かを愛してしまったのに対して、アイーザは全てを遮断し、全てに興味を持たないことで、生まれ持った狂気から目を逸らしているのか、気付かないままでいるのか。それでも、アイーザと自分は似ているとクスナは確信していた。

 彼女はそっとアイーザに近付き、無理矢理アイーザを仰向けにして、彼の上に馬乗りになった。そのまま力任せにアイーザの胸倉の着物を掴み、持ち上げ、自身へと引き寄せる。

「ねぇ…、私達は同じでしょう…?乾くというのがどういうことか、貴方も知っているでしょう…?だから…」


 お願い、私を慰めて………。



 クスナがアイーザの唇を奪うように、自らの唇を重ねた。それは、口付けと言えるような甘さも、愛する者同士が持っている湿度も、恋人同士が発する熱も無い、ただ無味乾燥した行為でしかなかった。

 そのままなし崩しにクスナは、アイーザを暗く広がる自らの闇の中へと引きずり込んだ。アイーザは何の抵抗もせず、ただクスナを見ていた。二人の間には何も無い。けれど、クスナだけが、アイーザという同族のような、同志のような(よすが)に縋り付いていた。

 アイーザは本当に何もしなかった。ただクスナに使われていただけだ。しかし、クスナにとってはそれで良かったし、アイーザは何かをする気もなかった。それがクスナにはどこか心地良かった。

 アイーザはそんなクスナをただ下から見ていた。別にクスナに興味があったわけではない。ただ、底の無い、只管に無関心を湛えた青紫の空洞が、何かに必死になっている女の姿をした何かを、全ての行為が終わるまで、ただじっと見ていた。


 着崩れた着物を直して、クスナはその場を去っていった。二人の間に言葉は無い。しかし、それすらもクスナにとっては癒しと同じで、何も聞かないアイーザという存在がまさに、天から地獄に垂らされた蜘蛛の糸のように感じていた。

 彼女が去って、アイーザは一人その場に取り残される。終ぞ、その身体に熱が宿ることはなかった。適当に着物を直して、普段は感じることの無い汗と湿度を感じる今の居場所が気味悪く感じて、アイーザは場所を移して横になった。

 草むらを冷たい風が撫でていく。身体に染み付いた甘ったるい臭いが洗い流されていくかのようで、心地良かった。嵐が過ぎ去り、忌々しい陽が沈んで、ようやく眠れるかと思ったのに、どうやら嵐は過ぎ去ったわけでないようだった。

 鬱陶しい……。アイーザはただそう思った。


 ざくっ…さくっ…と、草を踏む足音が近付いてくる。その音はクスナのような軽やかさは無く、その音の重さと荒さから、男であろうとアイーザは予想をつけた。

「やはり、お前が…」

 その声はどこか聞き覚えがある声だった。向けられている明確な殺意と敵意。直ぐに殺しても良かったが、聞き覚えがあるということが気になって、アイーザは首だけを動かし、背後を見た。

 そこにいたのはトツカで、彼の瞳には怒りと絶望が渦巻いている。クスナは、もうトツカは自分を愛していないと、二人の関係は終わってしまったと思っていたようだが、トツカにもまだクスナに対する未練が残っていたらしい。

「こんな卑しい姿の男の、どこが良かったんだろうな…。どうしてお前は俺達の前に現れたんだ…?」

「………。」

 アイーザはただトツカを見ていた。彼はぼろぼろと大粒の涙を流し、悲しみに暮れていた。どうして…、なんで…を繰り返すだけのトツカ。しかし、アイーザの心を動かすことは無い。

「何か言えよ…。俺達をこんなにしておいて、謝罪の言葉も無いのか…。俺が不甲斐ないだけだって言うのか…!?」

 一人思いの丈を叫ぶトツカに、アイーザはもう興味が失せたらしく、アイーザは一度大きな欠伸をして首を戻した。そんなアイーザの姿にトツカは激昂する。腰に差していた剣を抜き、その勢いのままアイーザに近付いて、彼に剣を突き立てようとした。トツカがアイーザのそばまで来たその瞬間、寝ているアイーザの腕がトツカに伸びる。トツカの勢いが止まった。

 その腕は生白く、細い。しかし、白くほっそりとした僅かに節が目立つ、男にしては綺麗な手には、青い血管らししものが浮き出て、白い皮膚から透けている。その爪先は長く伸び、先端は研がれた刀の切っ先のようにも見えた。その爪がトツカの鎧と衣服を貫いて、僅かに彼の皮膚までもを傷つけ、血が出ているだろうことがわかる。

 もし、あのままトツカが突き進んでいれば、この手に自身を貫かれていたに違いない。トツカの頬に冷や汗が流れた。そのままトツカは剣を握る力をも失う。その手から剣が滑り落ちてしまった後も、トツカはただ地面に転がる落ちた剣をぼんやりと見つめていた。

 そうして、トツカはゆっくりとアイーザの手から離れていった。どうやら、まだあの男には、死に対する恐怖と理性は残っていたらしい。

 トツカが離れていく足音が響く。しかしアイーザは気にした様子もなく、自らの爪の先についた血汚れと、踏み付けられた事で匂い立つ青臭い草露の香りに不快感を覚えながら、無造作に血を草で拭い、また大きな欠伸をして目を閉じた。





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