55話
それは、二人が出会って数日経ったある日の事だった。クスナはいつも唐突だが、その日もやはり唐突にやって来てはアイーザの隣の草むらに座り、唐突なことを彼女はアイーザに尋ねるのだった。
「ねぇ、貴方の名前は?」
「……。」
「名前よ。無いの?」
「…………。」
「ふーん、じゃあ適当に付けてあげましょうか?黙り男だからダマオとか…」
「やめろ」
「じゃあ名前は?言わないならダマオって呼ぶわよ」
ちっ、とアイーザが舌打ちするも、クスナは引かない。むしろ身を乗り出して迫って来るので、アイーザは爪を伸ばして威嚇するも、彼女は恐怖することなく、早く名前を教えろと催促する始末だった。
ざあ…と、大きく風が吹いた。木々が揺れ、草がざわめくその僅かな間に、アイーザは簡単に風に攫われるほどの微かな声で、唇を動かした。
ゆっくりと、アイーザの唇が動く。僅かな動きでありながら薄っすらと覗く白い歯と赤い舌、形の綺麗な唇が動くのをクスナの目はただ静かに、その仕草に釘付けになっていた。
風の音が消え、それと同時にアイーザも口を閉ざす。かぜに遊ばれていた灰色の髪の隙間から覗いていた青紫色の瞳が、また灰色の奥に消える。こんなに見窄らしく、目元には痣があるというのに、クスナは人生ではじめて、男の人を美しいと思った。
「…言った。帰れ」
アイーザのその言葉でクスナはハッ、と我に返る。
「え!?聞こえなかったわよ!?」
「言った。帰れ」
もう一度言葉にしてと騒ぐクスナと、彼女に背を向けて寝転がり無言を貫くアイーザ。此処に居るのはいつも二人だけ、その筈だった。
「クスナ!何をしているんだ?」
「あ…」
そんな二人の場所に、はじめて他人が割り込んで来た。その格好を見るに、彼はどうやら花が一時的に生活している区画を警備している兵士のようで、クスナとは顔見知りのようであった。
「此奴は…貧民か?とにかく、こんな得体のしれない奴とは関わってはいけない!」
兵士の男はクスナのか弱い手首を強引に掴んで、無理矢理アイーザから引き剥がす。当然、クスナは抵抗したが、それも虚しく彼女とアイーザの距離は開いていく。
「待って!この人はそんなんじゃ…」
「いいから!早く居住区へ戻ろう。君のような美しい女性が、こんな所まで無闇に出歩いてはいけないよ」
そう言って兵士はクスナの腕を掴み強引に連れて行く。クスナは何度もアイーザを振り返ったが、アイーザは寝転がり背を向けたまま、一言も言葉を発することは無く、クスナを見ることもなかった。
「ねぇ、あの人は違うのよ!そんな人じゃないの…!」
「君の知り合いなのかい?じゃあ名前は?住んでいるところは?あんな人気の無い場所で二人で会っていた理由は!?」
二人は、所謂恋人同士であった。クスナがこの都にやって来て直ぐ、互いに惹かれ合い、いつしか将来を誓い合うまでになっていた。けれど、そんな二人は最近、すれ違いが生じていた。
その理由はクスナにあり、彼女は何かと男を避けるようになったのだ。そんな中で見てしまった見知らぬ、身形の良いとは言えぬ男との二人きりの逢瀬。兵士の男が怒りを露わにするのも当然であった。
「名前は…知らない…。けど、トツカが心配するような事は何も無いわ!」
「名前も知らない男と、あんな場所で親しげにしていた君を見て、そんな楽観視できると思うのか?」
「本当に何も無いの!だって、あの男は妖だもの!」
「妖…!?」
クスナの発言にトツカと呼ばれた男は目を丸くした。花という存在は人間も忌避するが、妖もまた忌避するのが当然だったからだ。その証拠に、クスナが住んでいる居住区の花達は、人間も妖も嫌っている者ばかりであった。
妖のせいで花となり、人の営みからは外れて生活せねばならなくなった存在、それが花だ。その原因である妖を嫌うのは道理であった。だからこそ、クスナも当然妖を嫌っていると思っていたのに…。どうやら、彼女は違ったらしい。
「妖となんて、君達をそんなふうにしたのは彼奴等なのに…。それなのに何故…」
「確かに花になった原因は妖にあるわ。でも、私達が人里を離れたのは人間達のせいでもあるの。それを許して私達はまた人里に来た。だから、妖のことも私は許すのよ」
「それで、あの男に心が揺らいだのか…?」
「だから、そうじゃないの!あの人は…たぶん、私ととても近い場所に居るのよ」
「近い場所…?それは、心の距離がってことか?俺よりも?」
「違う!きっと、貴方にも…誰にも理解されないわ…。この暗い重石のような心を理解できるのはきっと、あの人だけ…」
「将来を誓いあった男には何の相談も出来なくて、見ず知らずの男には理解出来るって…それはどんな心なんだよ!」
「あの人の事は何も知らないけど、それでもわかるのよ!きっとあの男は自分の重さを知ってる。だから、誰も心に踏み入れさせない。愛さない。でも私は…そんなに強くはなれない…」
「ごめん、俺は君の言葉が理解出来ないよ…」
「大丈夫、わかってるから。あんなふうに何事にも無関心でいられたら、きっと私は悩まなかった…。けど、それは無理…」
「それはつまり、俺と恋仲になった事を後悔しているってこと?」
「違う…」
「そう…」
その後、二人は一言も言葉を交わす事なく歩いた。確かに固く結ばれた筈なのに、二人の間に入った大きな亀裂。それは確実に深く、大きく広がって、確かな影を残していた。




