53話
郭の建設がはじまって、近くに隠れ住んでいた花達は、人間を警戒しつつも徐々に都に集まってきた。そんな中に居たのがクスナであった。彼女はとある小さな隠れ集落の者達を説得し、都に行くよう進言したうちの一人で行動力のある娘であった。
そうして彼女は都にやって来た。まだ郭は出来上がる前だったので、花達は仮設住宅が設置された特別区域で一時的に生活する事になった。そこで、彼女はその仮設区域を警備していた一人の兵士と恋に落ちたのだった。
クスナとアイーザが出会ったのは、そんな時である。まだその当時のアイーザは、まだ番人ではなかった。しかし、番人になってくれと住処には数多の人間が押し掛けて来ていた時期で、アイーザは人間という存在に明確な殺意を抱いていた。お陰で毎日まともな睡眠を取ることもままならず、彼の目の下からは真っ黒な濃い隈が取れず、常に目が据わっていた。
人間達から逃れるため外へ出ても、其処には陽の光がある。その光がまたアイーザの睡眠を妨げ、アイーザの隈で凶悪な表情が、苛立ちの歪みを増すことで更に恐ろしいものになっていた。そんな彼に近付く者など、人は当然のこと、妖すらも存在せず、ルネはルネで人間達から逃れるために住処に寄り付かなくなっていたので、アイーザの周囲には誰も居なかった。
そんなアイーザにも怖気づく事なく近付いてきたのが、クスナであった。
「また、そんなのところで寝ているの?」
まだ落花となる前の彼女は、穏やかな笑みを浮かべ、毎日のようにアイーザの前に姿を現した。当初はアイーザも鬱陶しいと逃げ回ったが、それでもクスナは毎日来るので逃げるのも面倒になり、アイーザは無言のまま彼女がそばにいる事に目を瞑った。
「ねぇ、貴方は妖なんでしょう?お腹空かない?私の蜜で良ければ分けてあげるわよ?」
「…。」
「もう…。妖だって死ぬこともあるんでしょう?あ、消滅って言った方がいいのかしら?とにかく、返事くらいしてよ!」
「………。」
彼女はずっと一人で一方的に話している。アイーザは人気の無い草原に寝転がったまま、そんな嵐のような彼女が早く去る事を常に願っていた。アイーザにはまだ、この世に存在していたいという意思は無く、ただ茫然とそこに居るだけであった。そのため身なりも今の様な華やかさとは程遠く、灰色の髪はボサボサで手入れもせず伸び放題。当然美しい容姿も、見る影も無い幽鬼のような状態であった。
また、完全な人の姿に化ける気も無く、その頃のアイーザはルネ同様に左右の瞳の色に違いがあり、右目こそ現在と同様の青紫色の目をしていたが、彼の左側の銀色の目の周囲には常に蛇の鱗のような黒い痣が浮かんでいた。当然彼を見た人は、やれ化け物だ、妖だと騒ぎ立て、ルネが居なかったらアイーザはとっくに都中の人間達を殺し回っていただろう。
だが、その後はルネも押し掛けてくる人間達に嫌気が差し、アイーザ以上に殺意を持っていたりしたので、その後は止めようとしなくなったが…。
そんな日々の中、やって来るクスナの話は脈略というものが無く、いつも唐突だった。そのため、アイーザは返事などしたことが殆ど無い。その日も、彼女の話の内容は突飛なものであった。
「ねぇ、貴方は本気で誰かを愛したことある?」
「………。」
何の前振りもなく飛んでくる彼女の質問に、当然アイーザは答えることは無い。けれど、クスナも慣れたもので、返事などなくとも一方的に彼女は話を続ける。
「私、おかしいのかもしれないの。誰かを好きになる度に、その人の全てを知りたくなるの」
「……………。」
「そして、何もかも自分のものにしたくなる。これは私個人の問題?それとも私の中の僅かな妖力がそうさせるのかしら…」
貴方はどう思う?と、クスナが尋ねても、アイーザはやはり返事をしない。というか、聞いているのかすらわからない。流石に毎度変わらぬアイーザの態度には彼女も苛立ったのか、将又痺れを切らしたのか、クスナはムスッと不機嫌な顔を隠しもせず、そのままずかずかと彼女に背を向けて寝転がるアイーザに近寄りしゃがみ込むと、彼の耳元で思いっきり叫んでやった。
「聞こえてますかー!?」
アイーザは当然反射的に飛び起きて、クスナの首を掴み地面に押し倒した。馬乗りとなったアイーザは、そのまま片手で軽く彼女の首を絞め、もう片方の手の爪を鋭く伸ばして容赦無く殺意を向けた。
陽の光を背に受け、アイーザの顔には影が落ち、彼の青紫色の瞳と銀色の瞳だけが怪しく光る。彼の表情は暗がりでもわかるほどの怒りに染まり、普通の人間であれば裸足で逃げ出したに違いない。けれど、クスナは違った。
「けほっ…!なんだ…聞こえてるんじゃない」
彼女は笑顔でそう言った。アイーザに殺されかけて尚、彼女は笑っていたのだ。まさかの発言にアイーザが手を止めると、クスナは首を絞めているアイーザの手を軽く叩き、言外に離せと伝える。アイーザは驚きを隠すことなく、目を見開いた表情で固まりながら、そっと彼女の首から手を離した。
「もう…。人の話はちゃんと聞く!あと返事はちゃんとしなさい!って、お母さんに習わなかったの?」
「………、いませんよ…。そんなもの…」
「貴方喋れたの!?呆れた…。そんなだから誰も寄り付かないのよ?身形も酷いし…」
草むらに寝転がったまま、クスナは馬乗りになっているアイーザの顔をじっと見た。
「貴方、身綺麗にしたら絶対に変わるわよ?ねぇ、取り敢えずその髪からどうにかしない?」
「黙れ…。…放っておけ」
アイーザの声は、酷く掠れてがさがさとしていて、含む空気が多いのかとても聞き取りにくい声だった。というのも、アイーザは今の今まで、ルネとすらまともな会話をしてこなかったがために、声を発するということが上手く出来ず、長い時の中でこれが、アイーザがまともに声を発して喋った瞬間でもあった。
「絶対綺麗になるのに!勿体ないわね…。あ、いい加減上から降りて!」
クスナにそう言われ、殺意も怒りも失せたアイーザが彼女の上から離れていく。間近で見た青紫色の瞳にゾクッとするような何かを感じたものの、それは恐怖の類ではなかった。そのため、クスナは己の心に鍵を掛け、見て見ぬ振りをした。
そして彼女はまたアイーザを追い掛け、再度原っぱに寝転がるアイーザの隣に腰を下ろし、声をかける。
「ねぇ、答えてくれたらもうしないから!だから教えて?貴方はそんな自分が恐ろしいと感じてしまうほど、誰かを愛したことはある?」
アイーザはクスナに振り返ることをしなかった。けれど、やはりがさがさとしたとても聞き取りにくい声で、ぼそぼそと僅かな、とてもぶっきらぼうな言葉を返した。
「知るか」
「あっ、そう!貴方淋しい人ね!あ、妖だったわ」
それじゃあ、またね。と言って、彼女は何処かへ走って行ってしまった。アイーザは何の返事もしないまま、ようやく静かになったと目を閉じた。




