50話
扉を潜ると、びしょ濡れだった筈のアイーザがいつの間にか濡れる前の姿に戻っていた。しかし、あくまでも乾かしただけのようで着物の裾には所々に泥汚れが付着している。
店の外にはまだイオの気配があった。アイーザは直ぐに気が付き、ロイドに自分がいいと言うまで店の中に居るように伝える。ロイドは素直に頷き、一先ず店の中から二人の様子を見守ることになった。
アイーザが店の扉を開けると、イオが入り口の柵に体重を預けて待っており、イオはゆっくりとアイーザを見た。その仕草はやはり優雅で、アイーザやルネとは違う種類の美しさがある。
「おぉ、ようやく出てきたか…」
「居ないとわかったら、直ぐに帰れ」
「ははっ、お前達に用は無いさ。俺はそこの花に用事がある」
「首をへし折って差し上げましょうか?殺すと言った事をお忘れですか?」
「言われたなぁ…。だが、それでも俺には確かめなければならんことがある」
そう言ってイオは身を乗り出し、店の中に居るロイドにわざと大声で声を掛けた。
「ロイドと言ったな。お前、いつから花となった?」
イオに突然そう言われ、ロイドは何も言い返すことが出来なかった。いつから花になった?そんな事を言われてもロイドは何も言う事が出来ない。何故なら、ロイドの母は花街の女性であったから。その妖力を受け継いで、ロイドは花となったのかとずっと思い込んできた。
ロイドの母は花街の花娘であった。馴染みの客であったとある商家の若旦那と恋に落ち、そんな二人の間に生まれたのがロイドである。しかし、二人が結ばれることはなかった。
実のところロイドはその詳細をよく知らない。知っているのはその父となる筈だった男は死んだということだけ、母から聞いた。ある日の夜、二人で祭りに出掛けた際、夜道で何者かに襲われた。その頃既に母はロイドを身籠っていた。
それは、早く男の母親に二人の結婚を認めてもらおうと話し合っていた矢先のことだった。身重であったために母が逃げ遅れ、父となる男は母を庇って犠牲となった。母も襲われ重傷となったが、何とか母子ともに一命を取り留めたという。何故助かったのかは知らないし、母も分からないと言っていた。
襲ったのは賊か野盗の類か、それとも別の何かだったのかは分からない。その後、母は傷が癒えたが、もう花としては働けぬほどの傷痕が残っていた。それでも母は花街で、華夜楼の女中として働いていたが、ロイドが幼い頃に亡くなり、それから身寄りを亡くした幼いロイドを心配した華夜楼の女将が、一人でも生きていけるようにと、ロイドに花蕾見習いとならないかと声を掛けたのだった。
それからというもの、ロイドは妖に襲われた経験なども無く、いつから花となったのかと聞かれても、ロイド自身もわからぬので何も答えることができない。だからロイドは、ただイオから目を逸らす事しか出来なかった。
「自身が耄碌したという現実を受け入れられないんですか?何と蒙昧な…」
「失敬な。お前は知らんだろうが、本当にあの男は花では無かったのだ」
妖が花と花でない者の区別が出来ぬわけが無いだろうと、イオは言う。それは事実であった。花の蜜を好む妖達にとって、花という存在は特別だ。ましてや、花街の番人達であれば尚の事。
花を見れば、その者が宿す花がどの様なものであるのかさえ見抜く番人が、花とそうでない者を見間違える筈がないのだ。更に、この長い時の中にあって、一度も番人を交代したことのない妖はルネとアイーザ、そしてイオだけ。それほどに強い妖力を持つイオが蕾とはいえ、これほどまでに蜜を滴らせるロイドという花を見抜けないということは、本来であれば考えられない事である。
となれば、ロイドはいつから花となったのか…?アイーザと出会ったとき、既にロイドは花であった。まだ青く、若い蕾を宿していたものの、確かにロイドはアイーザの目に花として映ったのだ。
「お前、俺と出会った後、妖と接触などしたか?」
「いいえ…」
「記憶が無い…ということはないのか?そうでなければ、説明がつかん」
「そんな事を言われても、私はアイーザと出会うまで、妖なんて存在がいること自体知りませんでしたし…」
「ふむ…。不思議なものだな。本来、花の女から生まれた花は、生まれた時から既に花を宿しているというのに…」
「ただの偶然、そういった存在を我々が認知していなかったということだけでは?これ以上ロイドに接触を試みようとするのなら、本当にその首、飛ばしますよ?」
元々低いアイーザの温度が、更に低く冷気を帯びる。その声は鋭く、冷たく、表情には影があった。本当に不機嫌なのだと察したイオは、開いた両手を胸元まで上げて降参のポーズをした。
「本当に心の狭い男だな。余裕の無い男は嫌われるぞ?」
「性悪の古狸よりはマシですよ。それより…貴方、そろそろ逃げたほうが身のためですよ?」
「なに?」
僅かに驚き、ぴくりと片方の眉を動かしたイオが、僅かに身構えると、その背後からするりと白く細長い手がイオの首へと伸びてきた。
「お久しぶりですねぇ?こうしてお会いできる日を心待ちにしていましたよ?」
それは、イオですらゾッとする程に愉悦と殺意に満ちた声であった。イオの首筋を這う真っ赤な血で汚れた白い指先。その正体はやはりと言うべきか、元番人をあっさりと屠ってきたルネであった。
「なんだ、随分と怖い顔をしているな。俺は会いたくなどなかったが?」
「おやおや、そんなつれない事を言うなんて…。照れ屋さんですねぇ、此方は貴方に御礼をしたいことが山程あるというのに…」
「残念だが、俺はそんな心当たりは無いのでな」
返り血と先程まで降っていた雨に汚れ、濡れ鼠となっているルネの表情は一見すると穏やかな笑み浮かべているように見える。しかし、その糸のように細められた目を薄っすらと開き、そこから覗く二色の瞳は冷酷な色を湛え、はっきりと彼の怒りを表していた。
逃げようと藻掻くイオ。だが、彼の首を這っていたルネの手には、いつの間にか一本の飛刀が握られていて、その刃がイオの首筋に突き付けられる。
「人の好意は素直に受け取るべきですよ?」
「それが本当に好意ならば、俺も素直に受け取るんだがな…!」
「あははっ!酷いなぁ。じゃあ、こう言い換えましょうか?この刃に塗られているのは純粋な私の血液です。触れた瞬間に皮膚は焼け爛れ、そこから毒が回り、死にますよ?」
「お前は一度、好意と脅しの違いを調べるべきだな!」
「残念ですが、それに何を言っても無駄ですよ。とんでもない直情型なので、私より遥かにキレやすく、手に掛けるのも早いですから」
「お前達双子は…本当に碌でも無いな…」
「褒め言葉として受け取っておきますね」
「何を今更」
呆れて降参するイオと、笑顔で言葉を返すルネ、さも当然だと言わんばかりのアイーザと、妖三人をただ見ている事しか出来なかったロイド。何故なら、ロイドの頭の中はずっと、いつから花となったのか?という疑問に埋め尽くされていたからであった。




