5話
「おや?今日も来てくれたんですねぇ」
「あ!お邪魔してます」
すると、ルネが何処からか帰ってきた。ロイドは席を立とうとしたが、ルネにやんわりと止められ、おとなしく椅子に戻った。
「またアイーザは…。客を放ったらかしにして…」
ルネが呆れた顔で言う。ロイドが気にしないでと言おうとしたその時、奥からアイーザが戻って来た。
「今日は客ではないとのことなので。貴方にとやかく言われる筋合いはありませんよ」
そう言うアイーザの手には銀色のお盆、その上には華やかなアンティークのカップが二つ置かれていた。
御香とは違う、柔らかく豊かな甘い香りが、ふんわりと立ち上る湯気から香っている。
カップの中身はといえば、一つは透き通った赤い液体。もう一つは、その赤色にたっぷりのミルクを淹れたのだろう、乳白色が混ざった赤茶色の濁った液体が入っていた。
「これは…?」
ロイドが見たこともない、推定飲み物らしきものをジーッと凝視している。
「紅茶ですよ。存じませんか?」
「珈琲なら、屋敷で見たことはあるんですけど…」
「なるほど…。ですが、貴方の口には合わないと思いますよ。この紅茶も、ミルクティーの方が口に合う筈です」
「どうしてアイーザは私の好みが分かるんですか?」
「“花”は、甘い物を好む者が多いんです。反面、苦味や辛味などにはてんで弱いので、貴方もそうだろうなと思ったまでですよ」
「そうなんですか…」
ロイドがゆっくりと紅茶に口を付ける。
果実のような華やかな香りと、ミルクのまろやかな甘い香りがロイドを優しく包んでくれる。
予めアイーザは、既に角砂糖を少し多め程入れてくれていたようで、ミルクとお砂糖の蕩けるような甘さにロイドは、ほぅっ…と息をついた。
そんな穏やかな姿とは対照的に、ロイドの心は悲しみの影があった。
自分自身のことを理解してくれていると思ったのに、ただの“花”としての習性だったなんて…。そう思うと、ロイドの胸の奥が僅かに痛みを覚えた。
「で?アイーザ、私の分はどうなっているんです?」
「飲みたいのなら、ご自由にどうぞ」
そう言われたルネの顔は笑っていたが、あれは本心から笑っている顔ではなかった。不思議とロイドにはそれが分かった。
アイーザはしれっともう一つのカップに口を付けて、淹れる気は無いと意思表示をしている。
そんな二人が面白くて、ロイドは少し笑ってしまった。
ほんの少しだけ、胸の痛みが治まったような気がした。
その後、紅茶を御馳走になってから少ししてロイドは屋敷へと戻っていた。
その日の仕事も無事に終え、夕飯もお風呂も済ませ、後は休むだけ…。そんな時刻にも関わらず、お嬢様の悪癖が発動してしまった。
「ねぇ、香蝋燭が無くなっちゃったの!誰か買って来て頂戴!」
寝間着姿の彼女が、屋敷中に響き渡るような大声で叫び、歩き回っている。
折角疲れた身体を休める事が出来ると思ったのに…。
ロイドは落胆すると同時に、またアイーザに会える口実が出来たと喜ぶ心が確かに存在していて、ロイドは急いで着替え、自ら志願してしまった。
こんな遅い時間に動いている公共の乗り物は存在しない。あるとすれば個人で所有している自家用車か、個人用の馬車くらいである。
そのため、ロイドは暗い道を走っていた。
最近は幾らか街灯も増えたが、暗い夜道を照らすにはまだ足りない。
きっと、いや、確実にお店は閉まっているだろう。それでも、またアイーザに会えるかもしれない。そうでなくとも、お店の前まで行き、窓から溢れる明かりくらい、彼が其処に居る僅かな片鱗を見ることが出来たなら…。ロイドはそれだけで幸せだと思えた。
そう思いながら必死に走って来たものの、境の街は当然、都の中心部と比べると明らかに街灯が少ない。
それでなくとも暗く、入り組んでいる細い路地裏を灯りも無しに進むのは、どうしても躊躇われた。
「ある程度なら、もう店の場所を覚えている…はず…」
自らの意思を固めるかのように、ロイドは独り言を呟き、ぎゅっと自らの手を強く握る。
そして、路地を通る事を諦め、ある程度大きな道を通り、大回りすることを決めた。
すると、いつの間にかロイドは、花街の入り口であり、通称大門と呼ばれる朱色の大きな門の前までやって来てしまった。
「あれ…?」
無意識に足が、花街へと進んでいたのだろうか?
お店の場所は曖昧でも、ロイドは花街の場所だけはしっかりと頭に入っている。それなのに、ロイドは此処まで来てしまった。
門の入り口では、花娘と呼ばれる、まだ完全に花開いていない女達と、花青と呼ばれる、まだ誘う色香の足りない男達が、街に来た客達を出迎えている。
門の前にある篝火には明かりにつられて蛾が飛び交い、火に巻かれて、黒く焼かれて、灰となり消えていく。
ロイドは、本当に自分が“花”なのだろうか…と、疑問に思っていた。寧ろロイドは、アイーザという花に誘われる此処に居る客達と同じであり、彼という明かりに魅入られている蛾と同じなのではないか。そう思えてならない。
花とは本来、誘うはずのものだろう…。
けれどロイドは、アイーザという存在に誘われ、これ程に惹かれ、魅入られている。そんな者が、花である筈が無い。
きっと、何かの間違いだと内心悶々と悩んでいると、門の中から声を掛けられた。
「あら?ロイちゃん?」
「え…?」
声を掛けていたのは、ロイドと同い年くらいの若い花娘であった。明るい色の花柄の着物を着て、簪や櫛をさして着飾り、笑顔で此方に手を振っている。
「街を出てから、ずっと心配してたのよ?元気そうで良かった!」
彼女はロイドを知っている様子なのに、ロイドは彼女に全く面識が無かった。花街にいた頃の知り合いなのだろうが、こんなに美しく、可憐な女の知り合いはいない。
「あっきれた!アンタまさか、アヅ姉ちゃんの顔も忘れたのかい!?」
「アヅ姉ちゃん…、え!?もしかして…、アヅナエ…?」
「そうだよ?本当に薄情だねぇ、面倒見てやった姉の顔も忘れるなんて!」
「だって…、そんなに綺麗になってるなんて思わないじゃないですか…」
ロイドの言葉に、アヅナエは吊り上げていた眉を下ろし、フフッと綺麗に笑う。
彼女はロイドの実の姉ではない。けれど、ロイドがまだ幼く、この街で暮らしていた頃、彼女も同じところに住んでいて、ロイドより一つ歳上の気の強い少女だった。
その顔には、いつもロイドの手を引いていたお転婆だった頃の面影は無い。けれど、まさに、花のように美しい笑みであった。
「ありがと。あんたが“花”でなかったら、少しはくらっと来たかもね」
アヅナエが、悪戯を仕掛ける子供のように笑う。
「…え?」
「花が花に惚れるわけないだろ?花が焦がれるのは、自らを見て、手を掛け、咲かせてくれる人だけさ」
アヅナエは、確かにそう言った。つまり、ロイドが“花”であることを知り、自らも“花”だと彼女は知っているのだろうか?
尋ねたくても、ロイドが声を掛ける前に、アヅナエは他の男に声を掛けられてしまった。「はーい、直ぐ行くよ」と返事をして、アヅナエは踵を返してしまう。
「あっ…」
「あ!そう言えば、ロイちゃんは何で此処に?」
「えっ!?あ…、えっとぉ…煙草屋の人を探してて…」
ロイドが呼び止めようとすると、アヅナエは自らロイドを振り返った。
そして、ロイドが煙草屋の人を探していると言うと、どうやら心当たりがあるらしい。
何故かロイドは、素直にアイーザと名前を出すことができなかった。
「煙草屋…?あぁ!香房の人だね?それなら今日は、アイーザさんが店に来てるよ!」
「え…?」
「華夜楼の場所は覚えてるだろ?そこにいるよ!」
じゃあね!と、そう言って、とうとうアヅナエは街の奥へと男を伴い行ってしまった。
ロイドは一人、ただ立ち尽くしていた。